29日に指された第37期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は広瀬章人八段が4勝,佐々木勇気八段が3勝。
振駒で佐々木八段の先手となり角換わり相腰掛銀。先手が9筋の位を取って後手から仕掛ける将棋になりました。
ここでは☖同王と取る方が普通だと思えますが後手は☖同角と取りました。これは8筋からの突破だけを目論んだ手といえそうです。
対して先手はそれを防ぐために☗9七金と打ちました。
こんなところに金を打つのは思い浮かびにくいのですが,先手は研究があって,ここではこの手がベストという知識があったそうです。どうも先手の研究の方が後手を上回っていたようで,それがこの手に如実に表れたといえそうです。
佐々木八段が先勝。第二局は来月13日に指される予定です。
第一部定義七については事実を確認するだけですので,これ以上の探求は必要ではありません。スピノザの哲学における自由libertasとはどういうことであり,それが人間に適用されるとき,たとえば自由の人homo liberといわれるときにはどういうことになるかといったようなことは,別の機会を設けて僕自身の考え方をまとめて説明しますので,そのときまでお待ちください。
同じ第6章3節の終わりの方で,國分は第五部定理四二に言及しています。これについて説明を付しておきましょう。
國分がいうには,この定理Propositioは言語の構造として奇妙な側面をもっています。スピノザがこの定理では否定しているように,もしも至福beatitudoが徳virtusの報酬であるならば,至福は徳の外側にあることになるでしょう。よってこの場合には,徳という概念notioとは別に至福という概念について考えることができます。あるいは同じことですが,徳を実践する前の段階で,これから実践しようとする徳とは別に,至福の何たるかを知ることが可能です。もちろん何らかの別の原理を立てると,徳の実践よりも前に至福を知ることはできないというようにすることはできますが,単に至福が徳の報酬であるというだけならば,原理的には徳を実践する以前の人間が,至福の何たるかを知ることが可能であるということになります。
ところがスピノザは,至福は徳の報酬すなわち徳の実践によって入手するようなあるものではなく,徳そのものであるといっています。この場合には現実的に存在する人間は,徳を実践する以前に至福の何たるかを知ることはできません。徳を実践することによって至福の何たるかを知ることができるというように原理的になっているからです。したがってこの定理は,至福が何であるのかということを教えているわけではないのです。むしろある種の実践をしなければ,至福の何たるかを知ることはできないということを教えていることになります。この定理は命題としてみれば,至福と徳を確かに説明しているのであって,とくに徳と至福の関係を肯定的な命題という形で示しています。しかし一方でこの命題は,記述された言語がその内容には届かないことを自ら示してしまっているのです。
振駒で佐々木八段の先手となり角換わり相腰掛銀。先手が9筋の位を取って後手から仕掛ける将棋になりました。
ここでは☖同王と取る方が普通だと思えますが後手は☖同角と取りました。これは8筋からの突破だけを目論んだ手といえそうです。
対して先手はそれを防ぐために☗9七金と打ちました。
こんなところに金を打つのは思い浮かびにくいのですが,先手は研究があって,ここではこの手がベストという知識があったそうです。どうも先手の研究の方が後手を上回っていたようで,それがこの手に如実に表れたといえそうです。
佐々木八段が先勝。第二局は来月13日に指される予定です。
第一部定義七については事実を確認するだけですので,これ以上の探求は必要ではありません。スピノザの哲学における自由libertasとはどういうことであり,それが人間に適用されるとき,たとえば自由の人homo liberといわれるときにはどういうことになるかといったようなことは,別の機会を設けて僕自身の考え方をまとめて説明しますので,そのときまでお待ちください。
同じ第6章3節の終わりの方で,國分は第五部定理四二に言及しています。これについて説明を付しておきましょう。
國分がいうには,この定理Propositioは言語の構造として奇妙な側面をもっています。スピノザがこの定理では否定しているように,もしも至福beatitudoが徳virtusの報酬であるならば,至福は徳の外側にあることになるでしょう。よってこの場合には,徳という概念notioとは別に至福という概念について考えることができます。あるいは同じことですが,徳を実践する前の段階で,これから実践しようとする徳とは別に,至福の何たるかを知ることが可能です。もちろん何らかの別の原理を立てると,徳の実践よりも前に至福を知ることはできないというようにすることはできますが,単に至福が徳の報酬であるというだけならば,原理的には徳を実践する以前の人間が,至福の何たるかを知ることが可能であるということになります。
ところがスピノザは,至福は徳の報酬すなわち徳の実践によって入手するようなあるものではなく,徳そのものであるといっています。この場合には現実的に存在する人間は,徳を実践する以前に至福の何たるかを知ることはできません。徳を実践することによって至福の何たるかを知ることができるというように原理的になっているからです。したがってこの定理は,至福が何であるのかということを教えているわけではないのです。むしろある種の実践をしなければ,至福の何たるかを知ることはできないということを教えていることになります。この定理は命題としてみれば,至福と徳を確かに説明しているのであって,とくに徳と至福の関係を肯定的な命題という形で示しています。しかし一方でこの命題は,記述された言語がその内容には届かないことを自ら示してしまっているのです。