一昨日と昨日,伏見稲荷大社で指された第74期王将戦七番勝負第二局。
藤井聡太王将の先手で永瀬拓矢九段の横歩取り。実戦的には後手の方が指しやすい将棋であったように僕には思えました。
ここで先手が☗2四歩と打ったのですが,この手は後手の予想になかったようです。
☖同歩と取るのは当然で,☗同飛。そこで☖2二歩と下から受けたのですが,この手が問題だったようです。
これはいずれ☗2三歩と打たれたら☗2二歩成を放置するわけにはいかないので☖同歩と取ることになるでしょう。ただ☖2二歩の局面ですぐに打つ必要は先手にはなく,いずれ好機に打てばよく,実戦はそのように進みました。
☖2二歩でなく☖2三歩だとそのようにはいかず,先手は☗同角成を決行するか,☗9二歩成☖同飛☗8四飛のように進めるかすぐに決めなくてはなりません。その分だけ後手に得があるので,ここは☖2三歩の方が優っていたことになりそうです。
藤井王将が連勝。第三局は来月5日と6日に指される予定です。
第一部定理一四系一では,神Deusは唯一であるといわれています。これを理解するときに重要なことは,この唯一というのは数を示すわけではないということです。つまりこれはふたつでもみっつでもなくてひとつであると解するのは危険なのであって,むしろ神は数によっては示すことはできないと解する方が安全なのです。なぜなら,これは『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』でドゥルーズGille Deleuzeが強調していることですが,もしもあるものを数によって区別することができるのであれば,その区別distinguereは様態的区別であって実在的区別ではないからです。他面からいえば,実在的にrealiter区別されるものは,本来的には数によっては区別することができないのです。
ある属性attributumとそれと別の属性は実在的に区別されます。なので本来的にはこのある属性と別の属性はふたつの属性であるというのは,あまり好ましくないいい方なのです。むしろある属性は唯一の属性であり,別の属性もまた唯一の属性であると解する方が適切です。僕たちはことばの上ではこのようにある属性と別の属性を示すことはできますが,第一部公理五によって,これらの属性の認識cognitioにそれらの属性は関連しません。ある属性を認識するcognoscereことによって別の属性を認識することができるわけではありませんし,別の属性の方を認識することによってある属性の方を認識することができるようになるわけではないからです。
このことから理解できるのは,第一部定義六により,神の本性essentiamは無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されるわけですが,この無限に多くのというのは数を示すわけではないということです。むしろ無限に多くの唯一の属性がある,あるいは同じことかもしれませんが,唯一の属性が無限に多くあると解する方が適切なのです。僕たちは延長の属性Extensionis attributumとその延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumだけを認識するので,その延長の属性と思惟の属性によって本性を構成される実体substantiaとして神を認識することになります。このことは延長の属性にだけ妥当するわけではなく,一般にXの属性の様態はXの属性とそれに対応する思惟の属性によって神を認識するのであって,そのような仕方で神は唯一であるという認識に最終的に至るのです。
藤井聡太王将の先手で永瀬拓矢九段の横歩取り。実戦的には後手の方が指しやすい将棋であったように僕には思えました。
ここで先手が☗2四歩と打ったのですが,この手は後手の予想になかったようです。
☖同歩と取るのは当然で,☗同飛。そこで☖2二歩と下から受けたのですが,この手が問題だったようです。
これはいずれ☗2三歩と打たれたら☗2二歩成を放置するわけにはいかないので☖同歩と取ることになるでしょう。ただ☖2二歩の局面ですぐに打つ必要は先手にはなく,いずれ好機に打てばよく,実戦はそのように進みました。
☖2二歩でなく☖2三歩だとそのようにはいかず,先手は☗同角成を決行するか,☗9二歩成☖同飛☗8四飛のように進めるかすぐに決めなくてはなりません。その分だけ後手に得があるので,ここは☖2三歩の方が優っていたことになりそうです。
藤井王将が連勝。第三局は来月5日と6日に指される予定です。
第一部定理一四系一では,神Deusは唯一であるといわれています。これを理解するときに重要なことは,この唯一というのは数を示すわけではないということです。つまりこれはふたつでもみっつでもなくてひとつであると解するのは危険なのであって,むしろ神は数によっては示すことはできないと解する方が安全なのです。なぜなら,これは『スピノザと表現の問題Spinoza et le problème de l'expression』でドゥルーズGille Deleuzeが強調していることですが,もしもあるものを数によって区別することができるのであれば,その区別distinguereは様態的区別であって実在的区別ではないからです。他面からいえば,実在的にrealiter区別されるものは,本来的には数によっては区別することができないのです。
ある属性attributumとそれと別の属性は実在的に区別されます。なので本来的にはこのある属性と別の属性はふたつの属性であるというのは,あまり好ましくないいい方なのです。むしろある属性は唯一の属性であり,別の属性もまた唯一の属性であると解する方が適切です。僕たちはことばの上ではこのようにある属性と別の属性を示すことはできますが,第一部公理五によって,これらの属性の認識cognitioにそれらの属性は関連しません。ある属性を認識するcognoscereことによって別の属性を認識することができるわけではありませんし,別の属性の方を認識することによってある属性の方を認識することができるようになるわけではないからです。
このことから理解できるのは,第一部定義六により,神の本性essentiamは無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されるわけですが,この無限に多くのというのは数を示すわけではないということです。むしろ無限に多くの唯一の属性がある,あるいは同じことかもしれませんが,唯一の属性が無限に多くあると解する方が適切なのです。僕たちは延長の属性Extensionis attributumとその延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumだけを認識するので,その延長の属性と思惟の属性によって本性を構成される実体substantiaとして神を認識することになります。このことは延長の属性にだけ妥当するわけではなく,一般にXの属性の様態はXの属性とそれに対応する思惟の属性によって神を認識するのであって,そのような仕方で神は唯一であるという認識に最終的に至るのです。
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