戸口の雑感①の続きです。
ジャンボ・鶴田との初対面があった翌年,戸口は6月からAWAで仕事をするようになりました。8月にネバダ州でNWAの総会があり,戸口はAWA総帥のバーン・ガニアの許可を得てそこに参加しました。これは大木金太郎がNWAのメンバーに選出されることが議事の内容に含まれていて,戸口は大木の通訳として参加したのだそうです。そして大木は9月から全日本プロレスで仕事をすることになっていて,そのパートナーとなることを戸口に依頼。戸口も大木の依頼は断ることができなかったので,全日本プロレスで仕事をすることになったそうです。戸口はAWAではだいぶ稼いでいたようで,本音をいえば安価なギャラで日本に戻るのは本意ではなかったという意味のことを言っています。
この前後の戸口の話から類推すると,戸口を日本に呼びたかったのは馬場であったと思われます。馬場はそもそも全日本プロレスを旗揚げしたときに,当時は日本プロレスで仕事をしていた戸口を欲しがったらしく,このことは戸口自身もうすうすは気付いていたようです。しかし,日本プロレスには大木がいましたから,おそらく馬場は大木の手前があって遠慮したのだろうと戸口は言っています。その後,1973年2月にロサンゼルスで戸口は馬場に挨拶する機会があったそうですが,そのときは冷たくあしらわれたとしています。これは戸口の感じ方なので何ともいえませんが,戸口が馬場よりも大木を選んだようにみえることと,この時点ではおそらく鶴田の入団が内定していたであろうことを考慮すれば,このような対応が実際にあったとしてもおかしくはないと思われます。
大木が全日本でのパートナーを戸口に依頼したのも馬場に頼まれたからだろうと戸口は推測しています。この推測が正しいのなら,この時点での馬場は,日本陣営の大型選手としての戸口ではなく,鶴田のライバルとしての戸口を欲しがったということになるでしょう。大木をNWAの会員に推薦したのは馬場だったので,大木が馬場からの依頼を断りにくい状況にあったのも確かです。
実際にアルチュセールLouis Pierre AlthusserがゲルーMartial Gueroultに対して抱いていた不満がどのようなものであったかは,これで明瞭になったと思います。アルチュセールはゲルーのスピノザ論が非政治的である,ノンポリであるから不満を感じたのではありません。それが,僕がいうプロレタリアートの哲学となっていなかったから不満を感じたのです。そしてこれを裏返せば,アルチュセールはスピノザの哲学はプロレタリアートの哲学である,あるいはプロレタリアートの哲学として解釈されなければならないという認識cognitioを有していたということになるでしょう。

近藤がいうには,アルチュセールは自身の政治的立場をスピノザによって基礎づけたのでした。しかしそれは,アルチュセールがスピノザ主義者であったがゆえにその政治的立場が選択されることになったというのとは異なります。すでに示したように,何が政治的であるかということおよび,政治的立場を哲学や思想によって基礎づけるということがいかなる行為を意味するかという点で,僕と近藤の間には明確な相違があるからです。このことは,カヴァイエスJean Cavaillèsは政治的立場をスピノザの哲学によって基礎づけるということはしなかったということと,レジスタンス運動に参加したカヴァイエスはスピノザ主義者であったということを,近藤が同時に認めていることから明白です。僕は近藤が分けているふたつの事柄を,分けることはできないと考えているからです。
したがって,アルチュセールが自身の政治的立場をスピノザの哲学によって基礎づけたというのは,ある政治的立場が選択され,それを意図的にスピノザの哲学によって基礎づけたとか,選択されたある政治的立場がスピノザの哲学によって基礎づけられ得るとアルチュセールは認識したというようなことを意味することになります。この政治的立場を,ブルジョアジーの立場と対立的な意味でプロレタリアートの立場と規定すれば,アルチュセールはスピノザの哲学はプロレタリアートの立場を基礎づける哲学であると認識していた,他面からいえばそのことに自覚的であったということになるでしょう。そしてこの認識が,ゲルーに対して感じた不満の原因causaだったと思います。
ジャンボ・鶴田との初対面があった翌年,戸口は6月からAWAで仕事をするようになりました。8月にネバダ州でNWAの総会があり,戸口はAWA総帥のバーン・ガニアの許可を得てそこに参加しました。これは大木金太郎がNWAのメンバーに選出されることが議事の内容に含まれていて,戸口は大木の通訳として参加したのだそうです。そして大木は9月から全日本プロレスで仕事をすることになっていて,そのパートナーとなることを戸口に依頼。戸口も大木の依頼は断ることができなかったので,全日本プロレスで仕事をすることになったそうです。戸口はAWAではだいぶ稼いでいたようで,本音をいえば安価なギャラで日本に戻るのは本意ではなかったという意味のことを言っています。
この前後の戸口の話から類推すると,戸口を日本に呼びたかったのは馬場であったと思われます。馬場はそもそも全日本プロレスを旗揚げしたときに,当時は日本プロレスで仕事をしていた戸口を欲しがったらしく,このことは戸口自身もうすうすは気付いていたようです。しかし,日本プロレスには大木がいましたから,おそらく馬場は大木の手前があって遠慮したのだろうと戸口は言っています。その後,1973年2月にロサンゼルスで戸口は馬場に挨拶する機会があったそうですが,そのときは冷たくあしらわれたとしています。これは戸口の感じ方なので何ともいえませんが,戸口が馬場よりも大木を選んだようにみえることと,この時点ではおそらく鶴田の入団が内定していたであろうことを考慮すれば,このような対応が実際にあったとしてもおかしくはないと思われます。
大木が全日本でのパートナーを戸口に依頼したのも馬場に頼まれたからだろうと戸口は推測しています。この推測が正しいのなら,この時点での馬場は,日本陣営の大型選手としての戸口ではなく,鶴田のライバルとしての戸口を欲しがったということになるでしょう。大木をNWAの会員に推薦したのは馬場だったので,大木が馬場からの依頼を断りにくい状況にあったのも確かです。
実際にアルチュセールLouis Pierre AlthusserがゲルーMartial Gueroultに対して抱いていた不満がどのようなものであったかは,これで明瞭になったと思います。アルチュセールはゲルーのスピノザ論が非政治的である,ノンポリであるから不満を感じたのではありません。それが,僕がいうプロレタリアートの哲学となっていなかったから不満を感じたのです。そしてこれを裏返せば,アルチュセールはスピノザの哲学はプロレタリアートの哲学である,あるいはプロレタリアートの哲学として解釈されなければならないという認識cognitioを有していたということになるでしょう。

近藤がいうには,アルチュセールは自身の政治的立場をスピノザによって基礎づけたのでした。しかしそれは,アルチュセールがスピノザ主義者であったがゆえにその政治的立場が選択されることになったというのとは異なります。すでに示したように,何が政治的であるかということおよび,政治的立場を哲学や思想によって基礎づけるということがいかなる行為を意味するかという点で,僕と近藤の間には明確な相違があるからです。このことは,カヴァイエスJean Cavaillèsは政治的立場をスピノザの哲学によって基礎づけるということはしなかったということと,レジスタンス運動に参加したカヴァイエスはスピノザ主義者であったということを,近藤が同時に認めていることから明白です。僕は近藤が分けているふたつの事柄を,分けることはできないと考えているからです。
したがって,アルチュセールが自身の政治的立場をスピノザの哲学によって基礎づけたというのは,ある政治的立場が選択され,それを意図的にスピノザの哲学によって基礎づけたとか,選択されたある政治的立場がスピノザの哲学によって基礎づけられ得るとアルチュセールは認識したというようなことを意味することになります。この政治的立場を,ブルジョアジーの立場と対立的な意味でプロレタリアートの立場と規定すれば,アルチュセールはスピノザの哲学はプロレタリアートの立場を基礎づける哲学であると認識していた,他面からいえばそのことに自覚的であったということになるでしょう。そしてこの認識が,ゲルーに対して感じた不満の原因causaだったと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます