第四部定理六五をスピノザがどのように証明しているのかをみておきます。
スピノザが最初に訴求しているのは第四部序言です。ここから,僕たちがより大なる善bonumを享受することを妨害するようなそれより小なる善があるとすれば,この小なる善は悪malumといわれなければなりません。このことは第四部定義二からも明らかだといえます。これと同様に,大なる悪を妨害するような小なる悪は善であることになります。
次にスピノザが訴求するのは第四部定理六三系です。この系Corollariumでは,僕たちは理性ratioから生じる欲望cupiditasによって直接的に善に赴き,間接的に悪を逃れることになっています。したがって,僕たちは理性の導きに従う限りでは,より小なる善よりはより大なる善に就くことになりますし,より大なる悪よりはより小なる悪に就くことになるのです。
この証明Demonstratioから理解できるのは,理性の導きに従うということが,第四部定理六三系でいわれている,理性から生じる欲望に従うということに等置されているという点です。このとき,この系でいわれている何に注目しなければいけないのかというと,理性から生じる欲望は僕たちを直接的に善に赴かせるのに対して,間接的に悪を逃れさせるといっている点です。この直接的ということと間接的ということとの間にどのような相違があるのかということが,第四部定理六五が,また第四部定理六五から帰結するといえる第四部定理六六が,なぜ第四部定理六四と矛盾しないのかということを解決する鍵になると思われます。というのも,第四部定理六五はその文言自体もまたこの証明の内容も,それ自体でみるならば,理性が悪を十全に認識するcognoscereということを前提していると解することができるからです。
道義心pietasというのは理性ratioから生じる欲望cupiditasの一種です。そしてこの欲望から生じる行動は敬虔pietasであるといわれます。ところがスピノザは,この行動自体は,理性から生じようと受動感情から生じようと,同じように敬虔というのです。したがって,もし殴打という行為が理性から生じる欲望によって齎されるのであれば,それは道義心による殴打であって,この殴打は善bonumというほかありません。一方,たとえば憎しみによって同じ殴打が齎されるということがあるなら,これはあくまでも仮定であって,第四部定理四五によってそういうことは実際にはないのですが,もしそれがあるとしたら,憎しみから生じるその殴打も敬虔であり,善であるということになるのです。第四部定理五九備考では憎しみという,絶対に善ではあり得ない感情に起因する殴打を例示しているので分かりにくいのですが,受動感情から発生する行動のすべてが悪malumといわれるわけではないのです。いい換えれば,受動感情から生じる行為は受動感情から生じるがゆえに徳とはいわれ得ないのですが,有徳的でないからといってそれがすべからく悪といわれなければならないというものではありません。あくまでも自己の利益suum utilisという観点からみられるときに,ある所作は善といわれたり悪といわれたり,あるいは善でも悪でもないといわれることになるのであって,有徳的でないからといって必ず自己の利益に反することになるというわけではありません。
それでは國分の探求をさらに追っていくことにします。
なぜ他者を殴打してはいけないのかということを,『エチカ』の下に求めるとすれば,ここまでに探求してきたことがそのすべてです。たとえば憎しみodiumによって他者を殴打するとき,それは殴打する人間にとっての好ましくない状態を意味します。すなわち殴打する人間の自己の利益に反する状態を表示します。だからそれは悪であって,悪であるから他者を殴打してはいけないということが帰結するのです。これは,他者を殴打するなということに対して十分な根拠を与えているとはいえないかもしれません。というか,他者を殴打するなという道徳的命令自体を発令していないとさえいえるでしょう。
スピノザが最初に訴求しているのは第四部序言です。ここから,僕たちがより大なる善bonumを享受することを妨害するようなそれより小なる善があるとすれば,この小なる善は悪malumといわれなければなりません。このことは第四部定義二からも明らかだといえます。これと同様に,大なる悪を妨害するような小なる悪は善であることになります。
次にスピノザが訴求するのは第四部定理六三系です。この系Corollariumでは,僕たちは理性ratioから生じる欲望cupiditasによって直接的に善に赴き,間接的に悪を逃れることになっています。したがって,僕たちは理性の導きに従う限りでは,より小なる善よりはより大なる善に就くことになりますし,より大なる悪よりはより小なる悪に就くことになるのです。
この証明Demonstratioから理解できるのは,理性の導きに従うということが,第四部定理六三系でいわれている,理性から生じる欲望に従うということに等置されているという点です。このとき,この系でいわれている何に注目しなければいけないのかというと,理性から生じる欲望は僕たちを直接的に善に赴かせるのに対して,間接的に悪を逃れさせるといっている点です。この直接的ということと間接的ということとの間にどのような相違があるのかということが,第四部定理六五が,また第四部定理六五から帰結するといえる第四部定理六六が,なぜ第四部定理六四と矛盾しないのかということを解決する鍵になると思われます。というのも,第四部定理六五はその文言自体もまたこの証明の内容も,それ自体でみるならば,理性が悪を十全に認識するcognoscereということを前提していると解することができるからです。
道義心pietasというのは理性ratioから生じる欲望cupiditasの一種です。そしてこの欲望から生じる行動は敬虔pietasであるといわれます。ところがスピノザは,この行動自体は,理性から生じようと受動感情から生じようと,同じように敬虔というのです。したがって,もし殴打という行為が理性から生じる欲望によって齎されるのであれば,それは道義心による殴打であって,この殴打は善bonumというほかありません。一方,たとえば憎しみによって同じ殴打が齎されるということがあるなら,これはあくまでも仮定であって,第四部定理四五によってそういうことは実際にはないのですが,もしそれがあるとしたら,憎しみから生じるその殴打も敬虔であり,善であるということになるのです。第四部定理五九備考では憎しみという,絶対に善ではあり得ない感情に起因する殴打を例示しているので分かりにくいのですが,受動感情から発生する行動のすべてが悪malumといわれるわけではないのです。いい換えれば,受動感情から生じる行為は受動感情から生じるがゆえに徳とはいわれ得ないのですが,有徳的でないからといってそれがすべからく悪といわれなければならないというものではありません。あくまでも自己の利益suum utilisという観点からみられるときに,ある所作は善といわれたり悪といわれたり,あるいは善でも悪でもないといわれることになるのであって,有徳的でないからといって必ず自己の利益に反することになるというわけではありません。
それでは國分の探求をさらに追っていくことにします。
なぜ他者を殴打してはいけないのかということを,『エチカ』の下に求めるとすれば,ここまでに探求してきたことがそのすべてです。たとえば憎しみodiumによって他者を殴打するとき,それは殴打する人間にとっての好ましくない状態を意味します。すなわち殴打する人間の自己の利益に反する状態を表示します。だからそれは悪であって,悪であるから他者を殴打してはいけないということが帰結するのです。これは,他者を殴打するなということに対して十分な根拠を与えているとはいえないかもしれません。というか,他者を殴打するなという道徳的命令自体を発令していないとさえいえるでしょう。
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