書簡十九は1665年1月5日付でスピノザからブレイエンベルフWillem van Blyenburgに出されたもので,ランゲ・ボーハールトという地名が記されています。これはおそらくシモン・ド・フリースの兄弟姉妹の家の地をより詳しく記したもので,書簡二十一と同様に,スヒーダムSchiedamから出されたものと考えて差し支えありません。スピノザはここにこれから3~4週間は滞在すると書いていますからこれは確実です。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
ブレイエンベルフがスピノザに送った最初の書簡が書簡十八で,これはそれへの返信になります。前にもいったように,僕はスピノザとブレイエンベルフの間の書簡を詳しく分析するのは労が多いわりに益が少ないとみていますので,ここでもこの書簡の内容については触れません。ただ重要なのは,この書簡を書いたときにはスピノザがブレイエンベルフは自身と概ね意見opinioが一致しているとみていました。この書簡はそういう前提で書かれているのであって,スピノザがこの書簡で自身の思想の意を尽くそうと努力しているのは,そういう理由に依拠しています。
ここでいう意見の一致というのは,後にスピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で示した,聖書は必ずしも真理veritasを明らかにするものではないということと関連します。つまりスピノザは,ブレイエンベルフと自身の間で,哲学上の結論の相違はあるかもしれないけれども,聖書に従えば真理を確実に知り得るというわけではないという点では一致しているとみていたわけです。
『神学・政治論』では懐疑論者scepticiだけでなく独断論者dogmaticiも非難されています。スピノザがその考えをこの時点でも有していたかどうかははっきりとは分かりませんが,仮にこの時点でそう考えていたとすれば,スピノザはブレイエンベルフが独断論者であるかどうかは分からないけれども,少なくとも懐疑論者ではないと評価していたことになります。実際にはそれはスピノザの思い込みで,ブレイエンベルフは強硬な懐疑論者であったのですが,そのことにスピノザが気付いたのは,書簡二十を受け取ってからだったのです。
吉田の議論が錯綜しているように僕にみえるのは,吉田がこのふたつを地続きで議論しているからです。吉田が地続きで議論することができたことには理由があることを僕は認めます。なぜなら吉田は,デカルトRené Descartesが「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」という結論を出したときに,思うということはあるということだという暗黙の前提があって,その前提に基づく三段論法として結論したのに対して,スピノザがそれを読み替えて,これは単一命題であると解釈し直したと解しているからです。しかし,たとえその吉田の説が正しいものであったとしても,「我思うゆえに我あり」というときの思うということについては,デカルトに対して施した解釈と,スピノザに対して施すべき解釈の間に差異があるので,本来は別個に議論されるべき事柄であると解釈しておくのが安全であると僕は思います。よって僕は,吉田の講義は明らかに地続きになっていますが,実際はデカルトに関連する部分とスピノザに関連する部分は個別に考察されているという解釈を採用します。
一方で,吉田がスピノザもデカルトと同じように,私は考えているということについては肯定しているというときに,第二部公理二に訴求しているという点はとても重要で,これは大いに参考になると思います。というのはこの公理Axiomaは,単に現実的に存在する人間は思惟するということだけをいっているのではなく,現実的に存在する人間が思惟するということを僕たちは知っているという意味も同時に含んでいるからです。これは取りも直さず,僕たちは僕たち自身が思惟していることを知っているという意味なのであって,このことが定理Propositioとして証明されているのではなく,公理として示されているということは,このことがそれ自体で明らかであるとスピノザが認めていたということを意味することになるのです。つまりデカルトは確実な事柄を追い求めてついに疑っている自分の精神mensが存在するということは疑い得ないという結論を出したのですが,スピノザも思惟している自分自身が存在することは疑い得ないといっているのであり,これは思惟している自分の精神が存在することは疑い得ないと読み替えられるでしょう。
ブレイエンベルフがスピノザに送った最初の書簡が書簡十八で,これはそれへの返信になります。前にもいったように,僕はスピノザとブレイエンベルフの間の書簡を詳しく分析するのは労が多いわりに益が少ないとみていますので,ここでもこの書簡の内容については触れません。ただ重要なのは,この書簡を書いたときにはスピノザがブレイエンベルフは自身と概ね意見opinioが一致しているとみていました。この書簡はそういう前提で書かれているのであって,スピノザがこの書簡で自身の思想の意を尽くそうと努力しているのは,そういう理由に依拠しています。
ここでいう意見の一致というのは,後にスピノザが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』で示した,聖書は必ずしも真理veritasを明らかにするものではないということと関連します。つまりスピノザは,ブレイエンベルフと自身の間で,哲学上の結論の相違はあるかもしれないけれども,聖書に従えば真理を確実に知り得るというわけではないという点では一致しているとみていたわけです。
『神学・政治論』では懐疑論者scepticiだけでなく独断論者dogmaticiも非難されています。スピノザがその考えをこの時点でも有していたかどうかははっきりとは分かりませんが,仮にこの時点でそう考えていたとすれば,スピノザはブレイエンベルフが独断論者であるかどうかは分からないけれども,少なくとも懐疑論者ではないと評価していたことになります。実際にはそれはスピノザの思い込みで,ブレイエンベルフは強硬な懐疑論者であったのですが,そのことにスピノザが気付いたのは,書簡二十を受け取ってからだったのです。
吉田の議論が錯綜しているように僕にみえるのは,吉田がこのふたつを地続きで議論しているからです。吉田が地続きで議論することができたことには理由があることを僕は認めます。なぜなら吉田は,デカルトRené Descartesが「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」という結論を出したときに,思うということはあるということだという暗黙の前提があって,その前提に基づく三段論法として結論したのに対して,スピノザがそれを読み替えて,これは単一命題であると解釈し直したと解しているからです。しかし,たとえその吉田の説が正しいものであったとしても,「我思うゆえに我あり」というときの思うということについては,デカルトに対して施した解釈と,スピノザに対して施すべき解釈の間に差異があるので,本来は別個に議論されるべき事柄であると解釈しておくのが安全であると僕は思います。よって僕は,吉田の講義は明らかに地続きになっていますが,実際はデカルトに関連する部分とスピノザに関連する部分は個別に考察されているという解釈を採用します。
一方で,吉田がスピノザもデカルトと同じように,私は考えているということについては肯定しているというときに,第二部公理二に訴求しているという点はとても重要で,これは大いに参考になると思います。というのはこの公理Axiomaは,単に現実的に存在する人間は思惟するということだけをいっているのではなく,現実的に存在する人間が思惟するということを僕たちは知っているという意味も同時に含んでいるからです。これは取りも直さず,僕たちは僕たち自身が思惟していることを知っているという意味なのであって,このことが定理Propositioとして証明されているのではなく,公理として示されているということは,このことがそれ自体で明らかであるとスピノザが認めていたということを意味することになるのです。つまりデカルトは確実な事柄を追い求めてついに疑っている自分の精神mensが存在するということは疑い得ないという結論を出したのですが,スピノザも思惟している自分自身が存在することは疑い得ないといっているのであり,これは思惟している自分の精神が存在することは疑い得ないと読み替えられるでしょう。
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