スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡二十一&創造

2025-01-12 12:08:31 | 哲学
 スピノザがスヒーダムSchiedamから出した書簡は2通残されていて,そのうちのひとつが書簡二十一です。ブレイエンベルフWillem van Blyenburgからの書簡二十の返信として送られたものであって,1665年1月28日付になっています。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 スピノザとブレイエンベルフとの間のやり取りは,スピノザの思想にブレイエンベルフが反論を繰り返すというもので,スピノザの思想を理解するためには有益な面がありますが,そうした思想というのはほかのものからも理解できるものがすべてです。ブレイエンベルフは反論のためにとても長い書簡を書いていて,スピノザはその反論に答えるためにやはり長文の返信を送っています。したがってそれぞれがとても長いものとなっているので,スピノザの考え方を知ろうという場合にも,時間的な労は多いのに得られる益はそれほどでもありません。ですから書簡の内容についてここで詳しく触れることはしません。そもそも最終的にはスピノザ自身がブレイエンベルフと議論をしても仕方がないと結論したので,文通の終了を提案したくらいですから,返信をするということ自体がスピノザにとっても時間の無駄にほかならなかったのだと思われます。
 ブレイエンベルフからの最初の書簡は書簡十八で,この書簡を読んだとき,スピノザはブレイエンベルフと自身の思想が一致していると思いました。だから書簡十九をこれもスヒーダムから送ったのです。ところがそれに対するブレイエンベルフからの書簡二十を読んで,そうではないことを悟りました。なのでその時点で文通が双方にとって無益であると理解したということがこの書簡の冒頭にすでに書かれています。
 両者の間にある相違について,根本的原理から導出される結論にあるのではなく,根本的原理そのものにあるとスピノザはいっています。たとえ証明Demonstratioの法則に照合して最も確実な証明であったとしても,それがブレイエンベルフやブレイエンベルフの知り合いの神学者が聖書に与えている見解opinioと異なれば,それはブレイエンベルフには通用しないからです。つまり神学者による聖書の解釈が真理veritasと思い込んでいる人には,哲学者がどんなに確実な真理を示しても受け入れられないということを,スピノザはよく心得ていたのです。

 スピノザの哲学では,第一部定理一四でいわれているように,Deusのほかには実体substantiaは存在しません。まずこの時点で,物体的実体substantia corporeaを想定しているデカルトRené Descartesの哲学とは異なることになります。次に,第一部定義六から分かるように,神は無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性essentiamを構成されます。属性は第一部定義四にあるように,実体の本性を構成するわけですから,神のほかには実体が存在しない以上,すべての属性は神の本性を構成することになります。
 そして第一部定理二一と第一部定理二二がいっていることは,直接無限様態および間接無限様態は,永遠aeternumでありかつ無限infinitumであるということです。したがって,神が存在するならば,神の本性を構成する無限に多くの属性の直接無限様態と間接無限様態が,やはり神が存在するのと同じように,永遠かつ無限なものとして存在することになるのです。
 神およびその属性が無限にして永遠であるといわれるのと,直接無限様態および間接無限様態が永遠にして無限であるといわれることの間には,厳密には相違があります。神や属性が永遠で無限といわれるのは,その本性によって無限であり永遠であるといわれるのです。これに対して直接無限様態と間接無限様態は,その本性によって無限であったり永遠であったりするのではありません。その原因causaによって永遠であるといわれまた無限であるといわれるのです。したがって,本性の上では,神およびその属性が先行し,直接無限様態と間接無限様態が後発するということになります。原因は結果effectusに対して本性の上で先立っていなければならないといえるからです。したがって,直接無限様態と間接無限様態も,同じように永遠かつ無限ですが,間接無限様態は直接無限様態を原因とすることになっていますから,直接無限様態は間接無限様態に対して,本性の上で先行しているといわれなければなりません。
 神が世界を創造するcreareというとき,神が原因であって世界が結果であるということを否定するnegareことはだれにもできないと僕は考えます。なので神は世界に対して本性の上で先行することになります。しかし僕の考えでいえば,この場合はこれだけでは十分とはいえないのです。

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