14日の午前に鶴林寺で指された第14回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
上野裕寿四段の先手で矢倉。後手の岡部怜央四段は中住い。この将棋は後手の攻めが決まって優勢になりました。
第1図は後手にとって岐路の局面。☖3八角成と飛車を取って☗8一角成に☖4三銀と受けに回るのが手堅く,それが最善だったようです。
実戦は☖6七同角成と取りました。これでも後手の優勢なのですが,先手玉が一気に寄るわけではないので局面が複雑化することに。
☗6七同玉☖8七飛成は一本道。先手はそこで☗3六飛と成銀を取りました。
後手は☖5四角成から攻め合ってくると読んでいたようで,この手は読みになかったとのこと。☖7八銀から攻めていきましたが,これが王手は追う手の格言通りで先手玉を逃がすことになり逆転しました。第2図では☖4三金右と受けに回らなければいけませんでした。
連勝で上野四段の優勝。昨年の新人王戦以来の2度目の棋戦優勝となりました。
『スピノザ往復書簡集Epistolae』では,書簡四十一が1669年9月5日付になっていて,これはフォールブルフVoorburgから出されています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死ぬ少し前のものです。次の書簡四十二はフェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の要約をオーステンスJacob Ostensに送ったもので,これは1671年1月24日付です。スピノザはオーステンスを介してこの手紙を読み,フェルトホイゼンに対する反論をオーステンスに送ったのですが,この書簡四十三には日付がありません。書簡四十四は1671年2月17日付でハーグDen Haagから送られています。現行の『スピノザ往復書簡集』は時系列で番号が付せられていますので,書簡四十三は書簡四十四より前で,書簡四十二への返信ですからそれより後です。なので1671年1月後半から2月中旬までに送られていたとみるべきでしょう。
これでみると分かるように,船旅が実施されたと考えられる1670年の書簡というのはありません。これは単に掲載するほどの書簡が存在しなかったからかもしれませんが,別の事情が考えられないわけでもありません。というのは書簡四十二と書簡四十三が『神学・政治論』に関係しているように,『神学・政治論』が発行されたのが1670年だったのです。スピノザが執筆していたのはフォールブルフに滞在していた頃です。というのも1670年の初めには発行されていますので,実際に執筆していたのはそれより前の筈だからです。スピノザはこの発行のタイミングでフォールブルフからハーグへ移ったのですが,この移住が出版と何らかの関係を有していたかもしれません。いずれにせよ匿名で発行されたわけですが,執筆者がスピノザであるということはすぐに噂として流布しましたので,スピノザが思想信条を明らかにするような書簡を書くことを控えていたという可能性があるのです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,『神学・政治論』と直接的に関係させているわけではありませんが,1667年3月から1671年1月までのスピノザが少ないことについて,当局の圧迫や監視を理由のひとつとして挙げています。そしてもうひとつの理由が,『神学・政治論』の執筆による多忙となっています。
上野裕寿四段の先手で矢倉。後手の岡部怜央四段は中住い。この将棋は後手の攻めが決まって優勢になりました。
第1図は後手にとって岐路の局面。☖3八角成と飛車を取って☗8一角成に☖4三銀と受けに回るのが手堅く,それが最善だったようです。
実戦は☖6七同角成と取りました。これでも後手の優勢なのですが,先手玉が一気に寄るわけではないので局面が複雑化することに。
☗6七同玉☖8七飛成は一本道。先手はそこで☗3六飛と成銀を取りました。
後手は☖5四角成から攻め合ってくると読んでいたようで,この手は読みになかったとのこと。☖7八銀から攻めていきましたが,これが王手は追う手の格言通りで先手玉を逃がすことになり逆転しました。第2図では☖4三金右と受けに回らなければいけませんでした。
連勝で上野四段の優勝。昨年の新人王戦以来の2度目の棋戦優勝となりました。
『スピノザ往復書簡集Epistolae』では,書簡四十一が1669年9月5日付になっていて,これはフォールブルフVoorburgから出されています。レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが死ぬ少し前のものです。次の書簡四十二はフェルトホイゼンLambert van Velthuysenが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の要約をオーステンスJacob Ostensに送ったもので,これは1671年1月24日付です。スピノザはオーステンスを介してこの手紙を読み,フェルトホイゼンに対する反論をオーステンスに送ったのですが,この書簡四十三には日付がありません。書簡四十四は1671年2月17日付でハーグDen Haagから送られています。現行の『スピノザ往復書簡集』は時系列で番号が付せられていますので,書簡四十三は書簡四十四より前で,書簡四十二への返信ですからそれより後です。なので1671年1月後半から2月中旬までに送られていたとみるべきでしょう。
これでみると分かるように,船旅が実施されたと考えられる1670年の書簡というのはありません。これは単に掲載するほどの書簡が存在しなかったからかもしれませんが,別の事情が考えられないわけでもありません。というのは書簡四十二と書簡四十三が『神学・政治論』に関係しているように,『神学・政治論』が発行されたのが1670年だったのです。スピノザが執筆していたのはフォールブルフに滞在していた頃です。というのも1670年の初めには発行されていますので,実際に執筆していたのはそれより前の筈だからです。スピノザはこの発行のタイミングでフォールブルフからハーグへ移ったのですが,この移住が出版と何らかの関係を有していたかもしれません。いずれにせよ匿名で発行されたわけですが,執筆者がスピノザであるということはすぐに噂として流布しましたので,スピノザが思想信条を明らかにするような書簡を書くことを控えていたという可能性があるのです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,『神学・政治論』と直接的に関係させているわけではありませんが,1667年3月から1671年1月までのスピノザが少ないことについて,当局の圧迫や監視を理由のひとつとして挙げています。そしてもうひとつの理由が,『神学・政治論』の執筆による多忙となっています。
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