昨晩の第2回若武者賞。
好発はヤギリケハヤとベアバッキューンでしたが,あっさりとベアバッキューンの逃げに。ファイアトーチが2番手に上がり3番手にヤギリケハヤとルナフォルトゥーナ。5番手にゴールドモーニンとミヤギエンペラー。4馬身差でプレミアムハンド。7馬身差の最後尾にレッドサラマンダー。向正面に入ってベアバッキューンのリードが4馬身くらいに。2番手と3番手も2馬身くらいの差がつき,ミヤギエンペラーは3番手の2頭に追いついてきました。2馬身差でゴールドモーニン。2馬身差でプレミアムハンド。レッドサラマンダーは10馬身くらい離されました。ミドルペース。
3コーナーを回ると2番手のファイアトーチが苦しくなり,内からミヤギエンペラー,外からゴールドモーニン。直線の入口でもベアバッキューンのリードは5馬身くらい。直線に入るとさらにリードが広がり,楽に逃げ切って優勝。外から2番手に上がったゴールドモーニンが9馬身差で2着。ミヤギエンペラーと内から追い上げてきたヤギリケハヤが競るところ,大外から伸びたプレミアムハンドが差して半馬身差の3着。ヤギリケハヤが半馬身差の4着でミヤギエンペラーが半馬身差で5着。
優勝したベアバッキューンは7月に900mでデビューし8馬身差の圧勝。8月にこのレースのトライアルの1400メートル戦を7馬身差で勝ってここに出走。このレースも9馬身の差をつけましたので,現状のスピード能力で圧倒したという結果。スピードが持ち味ですから,本質的には距離は短い方がいい馬だと思います。父は2018年に安田記念,2020年に根岸ステークスとフェブラリーステークスを勝ったモズアスコット。母の父はネオユニヴァース。
騎乗した川崎の町田直希騎手は一昨年のしらさぎ賞以来の南関東重賞14勝目。若武者賞は初勝利。管理している川崎の鈴木義久調教師は開業から12年11ヶ月で南関東重賞初勝利。
スペイクがマイエルLodewijk MeyerともシュラーGeorg Hermann Schullerとも面識がなかった場合は,スペイクがアムステルダムAmsterdamから来たシュラーを,マイエルと誤認してしまうということがあり得ます。たとえばスピノザがマイエルが来るとスペイクに伝えておいたものの,それはスピノザの勘違いで実際に来ることになっていたのはシュラーであったとか,マイエルが来る予定であったけれど都合が悪くなったので代理としてシュラーが来たというような場合は,スペイクはアムステルダムから来たシュラーのことをマイエルであると思い込むということがあり得るからです。そして現にその可能性を否定する十分な要素はないので,この医師はマイエルでなくシュラーであったかもしれません。このことについては現時点での資料では確定することができないというほかないでしょう。
これは前にも架空の物語としていったことではありますが,この医師がシュラーであったとするときには,ごくわずかな利点が生じると僕は考えています。ここでそのことを改めて説明しておくことも徒労ではないでしょう。
スピノザの死後,編集者たちは協力して遺稿集Opera Posthumaの発刊にこぎつけました。ただその発刊にあたって,配慮しなければならないことがありました。『エチカ』が代表するようなスピノザの著作については,そのまま原稿を掲載すればよいのですが,『スピノザ往復書簡集Epistolae』については,相手もあることなので,そのままの掲載が憚られるケースがあったからです。というのは,スピノザと書簡のやり取りをしていた人物の中には,まだ存命中で,社会的に高名な人物が何人か含まれていたからです。そうした人の中には,スピノザと書簡上の,あるいは実際上の交際があったということが世間に知られることがマイナスに働くというケースがありましたから,一定の配慮をすることが編集者たちには要求されたのです。
そうした高名な人物のひとりに,その時点でアムステルダムで市長をしていたフッデJohann Huddeがいました。岩波文庫版では編集者たちが一方的にフッデに配慮したという説明になっていますが,たぶんフッデは編集者たちとも面識があったので,直接的に希望が伝えられたのではないかと推測します。
好発はヤギリケハヤとベアバッキューンでしたが,あっさりとベアバッキューンの逃げに。ファイアトーチが2番手に上がり3番手にヤギリケハヤとルナフォルトゥーナ。5番手にゴールドモーニンとミヤギエンペラー。4馬身差でプレミアムハンド。7馬身差の最後尾にレッドサラマンダー。向正面に入ってベアバッキューンのリードが4馬身くらいに。2番手と3番手も2馬身くらいの差がつき,ミヤギエンペラーは3番手の2頭に追いついてきました。2馬身差でゴールドモーニン。2馬身差でプレミアムハンド。レッドサラマンダーは10馬身くらい離されました。ミドルペース。
3コーナーを回ると2番手のファイアトーチが苦しくなり,内からミヤギエンペラー,外からゴールドモーニン。直線の入口でもベアバッキューンのリードは5馬身くらい。直線に入るとさらにリードが広がり,楽に逃げ切って優勝。外から2番手に上がったゴールドモーニンが9馬身差で2着。ミヤギエンペラーと内から追い上げてきたヤギリケハヤが競るところ,大外から伸びたプレミアムハンドが差して半馬身差の3着。ヤギリケハヤが半馬身差の4着でミヤギエンペラーが半馬身差で5着。
優勝したベアバッキューンは7月に900mでデビューし8馬身差の圧勝。8月にこのレースのトライアルの1400メートル戦を7馬身差で勝ってここに出走。このレースも9馬身の差をつけましたので,現状のスピード能力で圧倒したという結果。スピードが持ち味ですから,本質的には距離は短い方がいい馬だと思います。父は2018年に安田記念,2020年に根岸ステークスとフェブラリーステークスを勝ったモズアスコット。母の父はネオユニヴァース。
騎乗した川崎の町田直希騎手は一昨年のしらさぎ賞以来の南関東重賞14勝目。若武者賞は初勝利。管理している川崎の鈴木義久調教師は開業から12年11ヶ月で南関東重賞初勝利。
スペイクがマイエルLodewijk MeyerともシュラーGeorg Hermann Schullerとも面識がなかった場合は,スペイクがアムステルダムAmsterdamから来たシュラーを,マイエルと誤認してしまうということがあり得ます。たとえばスピノザがマイエルが来るとスペイクに伝えておいたものの,それはスピノザの勘違いで実際に来ることになっていたのはシュラーであったとか,マイエルが来る予定であったけれど都合が悪くなったので代理としてシュラーが来たというような場合は,スペイクはアムステルダムから来たシュラーのことをマイエルであると思い込むということがあり得るからです。そして現にその可能性を否定する十分な要素はないので,この医師はマイエルでなくシュラーであったかもしれません。このことについては現時点での資料では確定することができないというほかないでしょう。
これは前にも架空の物語としていったことではありますが,この医師がシュラーであったとするときには,ごくわずかな利点が生じると僕は考えています。ここでそのことを改めて説明しておくことも徒労ではないでしょう。
スピノザの死後,編集者たちは協力して遺稿集Opera Posthumaの発刊にこぎつけました。ただその発刊にあたって,配慮しなければならないことがありました。『エチカ』が代表するようなスピノザの著作については,そのまま原稿を掲載すればよいのですが,『スピノザ往復書簡集Epistolae』については,相手もあることなので,そのままの掲載が憚られるケースがあったからです。というのは,スピノザと書簡のやり取りをしていた人物の中には,まだ存命中で,社会的に高名な人物が何人か含まれていたからです。そうした人の中には,スピノザと書簡上の,あるいは実際上の交際があったということが世間に知られることがマイナスに働くというケースがありましたから,一定の配慮をすることが編集者たちには要求されたのです。
そうした高名な人物のひとりに,その時点でアムステルダムで市長をしていたフッデJohann Huddeがいました。岩波文庫版では編集者たちが一方的にフッデに配慮したという説明になっていますが,たぶんフッデは編集者たちとも面識があったので,直接的に希望が伝えられたのではないかと推測します。
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