書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

怠慢。

2013年12月12日 13時47分46秒 | 意識論関連
○茂木健一郎。

 ヒトの多くは「思い込み」によって意識を奪われ、思考が停止することで特定の観念に囚われてしまう。

 感情というのは意識そのものではなく、あくまで大脳辺縁系が促すバイアスに過ぎない。

 それを茂木健一郎は 「理屈で考えてしまうから良くない。」などと言い出し、これは余りに無責任で非科学的な観念である。

 普通のヒトの「気分が変わる。」のは、それが単なる環境依存的な結果に過ぎないからであって、論理的に選択した目的ではない証拠でもある。

 ヒトの多くは「長く続くことは、永遠に続くと錯覚しがち。」な傾向があり、これは先天的思考バイアス(習性)でもある。

 鬱病などの精神疾患の治療で有効な「認知行動療法」では、思考を拘束している思い込みを、客観的視点から考えるように問い掛けることで、自己論理検証性によって固定観念的思い込みを外すのであって。むしろ理屈によって観念的思い込みを排除するのであり。「思い込みによって理屈で考えられない。」からこそ抑鬱状態に陥っているのである。

 心的外傷(トラウマ)というのは、むしろ不安や恐怖の原因は思い出すことは出来ず、「正しい認識」が出来ないことによって改善を妨げられるのであり。気分的不安や恐怖の原因を「正しく認識」する自己分析によって治療となるのである。

 「理屈が良くない。」などというのは文科系大衆観念であって、素人の観念に過ぎず。茂木が言っていることはむしろ大衆迎合的な健常者の気休めに他ならない。

 鬱状態の人の気分というのは、その気分が鬱状態のまま固定されてしまっているからこそ鬱なのであり。簡単に気分が変われば患者も医師も苦労はしない。

 鬱などの精神疾患というのは、実際には論理的根拠を持たない固定観念的思い込みや、強迫観念によって論理思考が停止してしまうことによって意識狭窄状態に陥っているのであり。これを解消するためには論理性や客観性こそが有効なのである。

 茂木は脳神経生理学者ではあるが、臨床心理については何の考えも持ってはおらず、出演料欲しさにその場限りに無責任なことを言っているだけである。そもそも脳トレ類が実質的には何の効果もないことを、茂木もマスコミ全体も一切訂正しておらず、TBSも「脳科学の第一人者。」などと持ち上げており、ペテンも甚だしい。

 ◇

 単に世間的に成功したというだけで「魂の言葉」などと称して崇めたがるというのは、あまりに大衆迎合的でバカげている。本気で自殺志願者対策をするつもりは全くなく、その場限りに大衆のご機嫌取りをして視聴率を稼ぐことだけが目的であり、無責任極まりない。

 林修の「今でしょ。」というのは、言い換えれば「難しいことは考えずに、お前らは受験勉強だけやっときゃ良いんだ。」という意識狭窄を促すためのものであり。そもそも受験や就職で成功してなをギャンブルにハマっていたバカの言っていることには論理整合性が全くない。

 TBSの編成局というのは、放送内容の論理検証よりも視聴率が優先されており、大衆をバカにしたペテンに他ならない。



○哲学の怠慢。

 秋葉原の通り魔にカルトな人気があっても意味がないのと同様、ドストエフスキーの人気にも意味はない。

 気分的に重大犯罪者と共感しても、犯罪自体が正当化出来るわけでも、人間性の論証にも全くならない。

 論理的根拠もないのに多数大衆人気を得ても、具体的に犯罪の論理的原因究明にも再発防止対策にもならない。

 亀山郁夫のようなバカが哲学権威者として認められている現状に対して、おいらがどんなに憤慨していようがバカな大衆の多くからは共感は得られないし。そもそも共感自体をおいらは目的とはしておらず、バカをバカだと認識してもらうことが目的である。

 亀山郁夫がどんなに気分的な感動をしても、それは主観的な感覚「感じ」以上の意味はなく、論理的には不毛な結果論の陳列に過ぎない。

 しかし、ヒトの多くは不毛な感覚「感じ」という結果論を多数共感しさえすれば哲学として優れていると勝手に妄想する習性がある。この妄想こそがヒトから論理検証性を喪失させ、バカげた実証不能の観念の世界へと引きずり込むのである。

 妄想というのは想像力の一形態であり、「人類の救済」と称してテロリズムを行われたことも想像力が作り出した「人災」である。

 想像力が身勝手な妄想として暴走しないためには、そこに自律的論理検証による社会的責任判断力が必要である。

 にも関わらず、未だに「理性=利益追求」などというバカげた観念が温存されているのは、黒崎政男がバカでカントの純粋理性批判を論理的に検証せず、漫然と感覚的な「感じ」だけを基準に判断している怠慢の結果である。

 現状哲学界というのは、哲学としての社会的役割としての論理検証を全くしておらず、ひたすら大衆人気が得られそうな感覚的観念ばかりを基準にしており、極めて怠慢である。

 弁証法的議論による淘汰ではなく、単なる大衆人気だけを評価基準にしている現在の哲学界というのは、哲学としての社会的役割を完全に逸脱しており、哲学として全く機能していない。

 ドストエフスキーの著作が人気があっても、それは気分的な納得感に過ぎず、論理的に犯罪というものの原因究明にも対策にもならない。感覚的なリアリティなどというのは、あくまで現実風味という雰囲気物であって、実際の犯罪者を検証したわけでもなんでもなく。どんなに感情的にリアリティを「感じ」ても、具体的な論理分析にも対策にもならない。実際の殺人犯が三日間熱でうなされるわけではなく、ドストエフスキーの妄想以上の意味はない。何も知らない子供からキスされたからといって罪が無くなるわけでもなく、犯罪者が気分的に何を妄想しても糞の役にも立たないばかりか、犯罪者の身勝手な妄想に共感なんぞしているからこそ、論理的分析や対策にならないのである。犯罪者が気分的に救われても、犯罪そのものの論理検証には全くならない。

 プラトンもニーチェもドストエフスキーも、実際には単なる芸術文学でこそあれ、論理的弁証性を持った科学的な「哲学」ではない。

 科学というのは知見の進歩によって古い考え方を根底から覆すことは珍しくはない。地動説然り、相対性理論然り、ビッグバン理論然りと、天動説や宇宙不変説が覆されることで進歩するのが科学であるが。こうした進歩が哲学界からは抜け落ちており、未だにプラトンのようなアナクロニズムが引用され続けているというのは異常である。

 それは例えば航空機事故対策や原発事故対策に錬金術や呪術を用いるようなものであり、あまりに不毛で無責任なものである。

 現状の哲学界においては、多数人気が得られるかどうかという大衆迎合性を短絡的に評価基準にしているが、これは芸術としての文学にはなっても、哲学としての評価基準にはすべきではない。

 どんなに芸術として優れているとしても、科学や哲学といった普遍性や論理的真理を取り扱う領域の評価基準と混同すべきものではない。

 黒崎政男が人工知能を「感じ」で論じたりするのも、哲学でも何でもなく、単なる大衆的「感じ」以上の何の価値もない。知能というのは大衆的な「感じ」などで論証出来るようなものではないからである。

 アナログオーディオに対する「感じ」というのは主観的好き嫌いの範疇を出ておらず、こうした「感じ」で人工知能を語るというのは客観性や論理性に欠けており、哲学でも何でもない。

 哲学や科学というのは普遍的真理を追求することが社会持続可能性や安全性に寄与するからこその価値であって、大衆がその場限りに気分的安心満足するためのものではない。



○スミスの本棚。

 特攻崩れが太宰治と共感しても、主観的な気分の問題にしかならず。人間というものの論理検証にはならない。芸術としての文学で気分的に安心満足するのは勝手だが、それは主観的感覚以上の意味はない。

 主観的感覚というのは無意識であって、本質的意識としての客観的な論理検証性とは無関係である。

 自分の感覚を絶対だと思うことこそが文科系大衆観念の妄想であって、それこそが論理検証性をヒトから奪い、思考を停止させ気分的安心満足のまどろみへと誘うのである。

 現在の文学界というのは、科学的論証としての哲学と芸術としての文学を混同しており、分別区別が出来ていない。これこそがヒトの頭の悪さの大きな原因の一つである。

 こうした分別の欠落というのは、気分的安心満足と論理的安全性の論証を混同する錯覚が促すのである。


○自由。

 近年では離婚後の調停や審判が増えており、DVやストーカー問題もあるのに、「恋愛の自由」もすったくれもないもんだ。

 「恋愛の自由」なんぞ、事実上「繁殖の野放し」にしかならない。

 「人間」としての分別が出来ないヒトに「自由意志」なんぞ存在しないのであり。「人間としての自由意志」なくして「恋愛の自由」など妄想に過ぎない。

 子供の人格形成というのは、社会的責任であり、無責任に精神不安定なヒトの頭数だけ増やしても本質的には少子化対策にはならない。

 そもそも恋愛などというのは繁殖行動バイアスによる妄想錯覚に過ぎず、妄想錯覚を野放しにしておいて社会的責任にはならない。配偶者の選定には子供の幸せを優先するのが親としての社会的義務であり、目先の性欲を満たすだけの行動を恋愛などと称して正当化すべきではない。

 客観的に現実を直視出来ないヒトが多過ぎるから、社会が崩壊に向かうのであって。特定権威や責任者だけに責任をなすりつけておけば社会問題の全てが解決するというような短絡的観念こそが、ヒトという種の生物の問題点なのである。



Ende;