ヒトや動物のご機嫌取りを「人間性」だとか「心」だなどと勘違いしている大衆観念に溺れているからこそ、本当の人間性や心というものが何なのかを認識出来ず、結果的に社会安全性が蔑ろにされてしまうのである。
伊勢崎賢治のようにゲリラのボスを副大統領にするといったご機嫌取りによって、その場限りに紛争を終結させることも可能ではあろうが。それはその場しのぎの対応でしかなく、紛争そのものの原因究明や再発防止策には全くつながらないのである。
京大学長がゴリラを仲良くなっても、ヒトの危険性の原因究明や再発防止には全くつながらないのだが。論理的理解の出来ない大衆マスコミは、安易に霊長類の研究からヒトの安全性が立証されれば人間性というものが発揮出来るようにでもなるという、ほとんど意味不明な妄想に安心満足しているに過ぎない。
ウマのご機嫌取りをすることで、ウマにとって何の得にもならない行動をさせても、それは人間性の論証には一切ならない。
ヒトのご機嫌取りによって、アカの他人に大金を振り込ませる詐欺が出来ても、そんなものは人間性の論証にはならないのと一緒である。
メンタリズムなどの意識誘導を、金儲けなどのその場限りの利己的利益に結び付けることは可能であっても。それは「ゲリラを副大統領にする。」といった、その場しのぎな対策にしか利用することは出来ない。
ヒトの多くは自分の気分が良くなるような短絡的で安易な話をする相手を好む傾向があるが、個人の主観的好き嫌いが人間性の論証には全くならない。
東電経営者にしてみれば、目先の金儲けを優先して原発の危険性を放置してくれる相手を好むのであろうが、そんな主観的好みがどうして人間性の論証になると言うのであろうか。
詐欺師にとって主観的に好まれることが人間性の論証だとでも言うのであろうか。
それは、どんなヒトにとっても同じことであって。個人の主観的好き嫌いは人間性の論証には全くならないのである。
大衆迎合的なご機嫌取りやメンタリズムというのは、ヒトの先天的本能習性を利用した詐欺にも用いられる「手口」、「手法」、「コツ」の類でしかなく、それは徹頭徹尾「結果」しか導き出されるだけであり。 どんなに主観的に好きになっても、人間性の論証にはならない。
先天的本能習性の「結果」だけからは、人間としても「目的」は導き出されないのである。
むしろ、「結果」に過ぎない個人の主観的好き嫌いを短絡的に人間性や心だと思い込むことこそが、自己の主観を絶対的な価値観か何かと錯覚妄想している傲慢さである。
それはあたかも自分を神か何かの絶対的存在と勘違いしているようなものであり。その傲慢さこそが論理的思考を停止させ、社会安全性や持続可能性といったものへの配慮(意識)を喪失させるのである。
ヒトの多くは目先の多数派に迎合して人気取りさえ出来ていれば、人間としての優秀さか何かと錯覚妄想するのであろうが。そうした妄想錯覚こそがナチズムや帝国主義の傍観放置の原因となるのである。
その頭の悪さこそが、ヒトという種の生物の危険性であり。その頭の悪さというのは先天的な本能習性の「結果」に他ならない。
◇追加::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
先天的な本能習性といったものは結果でしかないわけですよ。 しかし人間としての社会性とか倫理といったものは、自律的に論理検証するという本質的な意識のみが導き出せるものであって、先天的な本能習性からは構造原理的に立証することは不可能なんですよ。
結果と目的を厳密に区別しないということは、人間としての社会的責任の放棄に該当するわけです。
大衆観念的には、その場限りのご機嫌取りを人間性か何かと勘違いしているようですが。その実証不能の観念こそが社会的な責任を放棄する原因であり、ヒトの危険性の一端なのです。
Ende;
伊勢崎賢治のようにゲリラのボスを副大統領にするといったご機嫌取りによって、その場限りに紛争を終結させることも可能ではあろうが。それはその場しのぎの対応でしかなく、紛争そのものの原因究明や再発防止策には全くつながらないのである。
京大学長がゴリラを仲良くなっても、ヒトの危険性の原因究明や再発防止には全くつながらないのだが。論理的理解の出来ない大衆マスコミは、安易に霊長類の研究からヒトの安全性が立証されれば人間性というものが発揮出来るようにでもなるという、ほとんど意味不明な妄想に安心満足しているに過ぎない。
ウマのご機嫌取りをすることで、ウマにとって何の得にもならない行動をさせても、それは人間性の論証には一切ならない。
ヒトのご機嫌取りによって、アカの他人に大金を振り込ませる詐欺が出来ても、そんなものは人間性の論証にはならないのと一緒である。
メンタリズムなどの意識誘導を、金儲けなどのその場限りの利己的利益に結び付けることは可能であっても。それは「ゲリラを副大統領にする。」といった、その場しのぎな対策にしか利用することは出来ない。
ヒトの多くは自分の気分が良くなるような短絡的で安易な話をする相手を好む傾向があるが、個人の主観的好き嫌いが人間性の論証には全くならない。
東電経営者にしてみれば、目先の金儲けを優先して原発の危険性を放置してくれる相手を好むのであろうが、そんな主観的好みがどうして人間性の論証になると言うのであろうか。
詐欺師にとって主観的に好まれることが人間性の論証だとでも言うのであろうか。
それは、どんなヒトにとっても同じことであって。個人の主観的好き嫌いは人間性の論証には全くならないのである。
大衆迎合的なご機嫌取りやメンタリズムというのは、ヒトの先天的本能習性を利用した詐欺にも用いられる「手口」、「手法」、「コツ」の類でしかなく、それは徹頭徹尾「結果」しか導き出されるだけであり。 どんなに主観的に好きになっても、人間性の論証にはならない。
先天的本能習性の「結果」だけからは、人間としても「目的」は導き出されないのである。
むしろ、「結果」に過ぎない個人の主観的好き嫌いを短絡的に人間性や心だと思い込むことこそが、自己の主観を絶対的な価値観か何かと錯覚妄想している傲慢さである。
それはあたかも自分を神か何かの絶対的存在と勘違いしているようなものであり。その傲慢さこそが論理的思考を停止させ、社会安全性や持続可能性といったものへの配慮(意識)を喪失させるのである。
ヒトの多くは目先の多数派に迎合して人気取りさえ出来ていれば、人間としての優秀さか何かと錯覚妄想するのであろうが。そうした妄想錯覚こそがナチズムや帝国主義の傍観放置の原因となるのである。
その頭の悪さこそが、ヒトという種の生物の危険性であり。その頭の悪さというのは先天的な本能習性の「結果」に他ならない。
◇追加::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
先天的な本能習性といったものは結果でしかないわけですよ。 しかし人間としての社会性とか倫理といったものは、自律的に論理検証するという本質的な意識のみが導き出せるものであって、先天的な本能習性からは構造原理的に立証することは不可能なんですよ。
結果と目的を厳密に区別しないということは、人間としての社会的責任の放棄に該当するわけです。
大衆観念的には、その場限りのご機嫌取りを人間性か何かと勘違いしているようですが。その実証不能の観念こそが社会的な責任を放棄する原因であり、ヒトの危険性の一端なのです。
Ende;