リチャード:ドーキンスのお伽話が刊行されて40年になるとか ならないとか
で この40年でドーキンスのお伽話が何かの役に立ったことがあるんですかね
先天的に利他的行動を採る習性が組み込まれる可能性あるといって それが社会の持続可能性や安全性にとって何の役に立つのか誰か説明出来る奴はいるんですかね
そもそも先天的本能習性というのは特定環境下においてのみ発現する行動バイアスに過ぎないので その時点で人間性の根源である自律的責任判断の論証には一切ならないんですよ
国会原発事故調査委員会において最も根源的原因として「組織の利益を優先し、個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと。」と記されていますが
これは いわば 組織内部において「分け与える」本能習性によって「組織の利益を優先」することが原発事故の根源的原因となっているのであり
振り込め詐欺師が 集団内部において食事をおごることで組織の結束を固めることも同様です
自分が所属する集団組織の内部で公平分配することによって 所属する集団組織内部での評価を上げるために利他的行動を採ることは人間性とは無関係なものであるばかりか むしろその先天的社会形成習性こそが原発事故のような「人災」を引き起こす原因となっているのです
「ヒトという種の生物には、先天的に人間性が組み込まれている。」だとか 「ヒトは他人に分け与える本性がある。」とでも生物学者が述べておけば 文科系大衆やマスコミの大多数は「自分は先天的に優秀な生物なので、自動的に人間性を発揮出来る。」かのように勝手な解釈をすることで 気分的に安心満足するわけです
ヒトという種の生物の脳は 気分的に安心したり満足したりすると それを短絡的に安全性や頭の良さか何かと錯覚する習性があり それによって論理検証を行う思考能力を大幅に欠損する
マイケル:サンデルの講義を聴くと 頭の悪い学生達は気分が良くなることで「自分は頭が良くなった」かのように錯覚し
本当はトロッコ問題の内部には倫理の本質が存在しないことにも気付かなくなり むしろサンデルを主観的に「好き」になって盲目的信頼をすることで更に疑問を持たなくなる
それと同じでドーキンスのお伽話を読んだり聴いたりしたバカのほとんど全ては 主観的に気分が良くなることによって陶酔し あたかも科学的に意味のある話か何かだと勝手に錯覚勘違い妄想するようになるわけです
既に何がしかの残虐行為を行った集団組織の構成員を鋼鉄とポリカーボネートの檻の中に閉じ込め 彼らがどのような行動を採れば既に行われた残虐行為の反証になると言うのでしょうか
わざわざ説明するのも面倒臭いが 既に行われた残虐行為を論理反証することは構造原理的に不可能であり ドーキンスのお伽話よろしく特定環境下で他人に分け与える行為を実証しても そんなものは人間性の論理証明には一切ならない
むしろ ヤクザやマフィアといった組織犯罪においては 組織を守るために都合よく口裏合わせや共謀を行うが故に警察の取り調べの可視化(ビデオ記録など)を行わない理由である
特定集団内部においての仲間内での利他的行動というものこそが 様々な「人災」の最も根源的原因となっているのである
ここで放送大学の「錯覚の科学」から一部を引用しておこう
○ポジティブ幻想 Positive illusion
ヒトは平均的に自己評価を高く錯覚する習性がある
一般的に少数派である抑鬱傾向があった方が、自己評価を正確に自覚認識する傾向が見られる
「意欲」という観点においては、ポジティブ思考は有効で世間的に成功しやすかったり、精神的に健康(大多数)であることが。認知的には錯覚している場合が多い
世間的に成功しやすいのは 単に多数派であるが故に現状世間との親和性が高いだけであり 間違った話や行為であっても 多数派であればカネ儲けや人気取りには有効だからである
進化生物学における理論的には糞の役にも立たない屁理屈によって大多数の大衆マスコミは満足し その発行部数だの人気だのを論拠に科学的に正しい内容であるかのように錯覚しているのである
ピュリッツア賞だの文化功労賞はこうした錯覚を助長し悪質である
ドーキンスのお伽話というのは 単に「発行部数が多い」とか「人気がある」だけであって 科学的には何の役にも立たないお伽話に過ぎないことを 大多数の大衆マスコミは認識すらしていないし
たとえ認識しているとしても売れる本を否定するのを出版業界が忌避するのは 利益追求が目的であって 社会安全性や持続可能性などどうでも良いからである
ヒトという種の生物は 自分の頭の悪さを認識しないほうが精神的(気分的)には「健康」なわけだが この「健康」の基準とは「現状世間において生活に困窮しないかどうか」であって 多数派でありさえすれば困窮しないだけのことである
もう少し平たく言えば「バカの集団の中ではバカの方が生活が楽」なだけを「精神的健康」と呼んでいるに過ぎない
錯覚というものは 個体の生存価において有利に働く場合や、有利に働く副作用として発現するのだが それはあくまで個体の生存価において有利なだけであって 社会持続可能性や安全性にまで有利に働くような淘汰圧力には一切つながらない
放送大学「錯覚の科学」においても最終回では「錯覚も生存にとって有利に働くことがある」と締め括っているのだが これは社会持続可能性や安全性を担保するための個人の人間性や倫理の本質にまで配慮がされていない主張である
ヒトの多くは現状世間においてのカネ儲け人気取りなどの「社会的成功」を最優先しがちであるが これはヒトの脳が先天的に優先してしまう無意識な思考バイアスによる利己性であって 「生存にとって有利」などと言われれば短絡的に最優先事項だと勘違いしてしまう
東電社内においては原発の津波に対する危険性を主張していれば会社に居づらくなるであろう
ヤクザやマフィアの構成員がコンプライアンスを主張したらコンクリ詰めにされて東京湾に沈められるのがオチであろう
先天的に組み込まれた社会形成習性というのは あくまで「集団組織を守ること=自分が集団組織に守って貰えること」を前提とした行動に過ぎず こうした「社会性」は特定集団内部における個体の生存価において有利に働くことはあっても 社会全体の公共の利益にとっては不利に働くことの方が圧倒的に多い
先天的本能習性というものは あくまで無意識な「結果」であって 自律的な論理的検証に基づいた目的行動選択(本質的意識)とは異なるものなのである
目先の気分が促す行動バイアス(無意識)に流されているからこそ 個人の主体的自律判断を喪失してしまうのであって
どんなに気分的に嫌なことや怖いことであっても 理性に基づいて自分の感情を抑制し 行動選択を行うことが人間性である
個人の人間性なくして社会安全性も持続可能性も向上することはなく それなくして個人の安全性も成立しない
宮沢賢治はこう述べた「世界全体が幸福にならないう内は個人の幸福はあり得ない」と
どんなに高価な食材を用いて手間隙かけて作った料理であっても パレスチナで丸焦げにされた赤ん坊の映像を見たら味なんぞ一切わからないだろう
わかったらむしろ異常である
ここで若干福音じみたことも述べておこう その方が大衆にとっては気分的に受け入れ易いからである
ヒトは子供が大好きである
赤ん坊のほっぺたを見ると大抵のヒトはそれだけで幸福な気分になり
それは子犬でも子猫でも 鰐でも蛸でもシャクトリムシでも発現する先天的習性である
虫嫌いの人であればシャクトリムシなど気持ち悪い上位に入るのかもしれないが
卵から孵ったばかりの3㎜程の黄色い半透明なシャクトリムシが律儀にミリを刻んで歩いているのを見れば 大抵のヒトは顔が緩むものである
それはヒトが哺乳類であり 子供を育てるという習性が先天的に組み込まれているからである
環境に依ってはイヌやネコが他の動物の子供に母乳を与えて育ててしまうこともある
ヒトという種の生物には 様々な「本性」があり これは理性によって選択可能性を持っている
子供達にどのような社会を遺せるのか
それを最優先に考えれば 自ずから答は導き出せる
「いいね」よりも大切なもの
国際競争力よりも重要なもの
神に媚びへつらって死後の快楽だの約束の地を保証してもらうよりも大事なこと
Ende;
で この40年でドーキンスのお伽話が何かの役に立ったことがあるんですかね
先天的に利他的行動を採る習性が組み込まれる可能性あるといって それが社会の持続可能性や安全性にとって何の役に立つのか誰か説明出来る奴はいるんですかね
そもそも先天的本能習性というのは特定環境下においてのみ発現する行動バイアスに過ぎないので その時点で人間性の根源である自律的責任判断の論証には一切ならないんですよ
国会原発事故調査委員会において最も根源的原因として「組織の利益を優先し、個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと。」と記されていますが
これは いわば 組織内部において「分け与える」本能習性によって「組織の利益を優先」することが原発事故の根源的原因となっているのであり
振り込め詐欺師が 集団内部において食事をおごることで組織の結束を固めることも同様です
自分が所属する集団組織の内部で公平分配することによって 所属する集団組織内部での評価を上げるために利他的行動を採ることは人間性とは無関係なものであるばかりか むしろその先天的社会形成習性こそが原発事故のような「人災」を引き起こす原因となっているのです
「ヒトという種の生物には、先天的に人間性が組み込まれている。」だとか 「ヒトは他人に分け与える本性がある。」とでも生物学者が述べておけば 文科系大衆やマスコミの大多数は「自分は先天的に優秀な生物なので、自動的に人間性を発揮出来る。」かのように勝手な解釈をすることで 気分的に安心満足するわけです
ヒトという種の生物の脳は 気分的に安心したり満足したりすると それを短絡的に安全性や頭の良さか何かと錯覚する習性があり それによって論理検証を行う思考能力を大幅に欠損する
マイケル:サンデルの講義を聴くと 頭の悪い学生達は気分が良くなることで「自分は頭が良くなった」かのように錯覚し
本当はトロッコ問題の内部には倫理の本質が存在しないことにも気付かなくなり むしろサンデルを主観的に「好き」になって盲目的信頼をすることで更に疑問を持たなくなる
それと同じでドーキンスのお伽話を読んだり聴いたりしたバカのほとんど全ては 主観的に気分が良くなることによって陶酔し あたかも科学的に意味のある話か何かだと勝手に錯覚勘違い妄想するようになるわけです
既に何がしかの残虐行為を行った集団組織の構成員を鋼鉄とポリカーボネートの檻の中に閉じ込め 彼らがどのような行動を採れば既に行われた残虐行為の反証になると言うのでしょうか
わざわざ説明するのも面倒臭いが 既に行われた残虐行為を論理反証することは構造原理的に不可能であり ドーキンスのお伽話よろしく特定環境下で他人に分け与える行為を実証しても そんなものは人間性の論理証明には一切ならない
むしろ ヤクザやマフィアといった組織犯罪においては 組織を守るために都合よく口裏合わせや共謀を行うが故に警察の取り調べの可視化(ビデオ記録など)を行わない理由である
特定集団内部においての仲間内での利他的行動というものこそが 様々な「人災」の最も根源的原因となっているのである
ここで放送大学の「錯覚の科学」から一部を引用しておこう
○ポジティブ幻想 Positive illusion
ヒトは平均的に自己評価を高く錯覚する習性がある
一般的に少数派である抑鬱傾向があった方が、自己評価を正確に自覚認識する傾向が見られる
「意欲」という観点においては、ポジティブ思考は有効で世間的に成功しやすかったり、精神的に健康(大多数)であることが。認知的には錯覚している場合が多い
世間的に成功しやすいのは 単に多数派であるが故に現状世間との親和性が高いだけであり 間違った話や行為であっても 多数派であればカネ儲けや人気取りには有効だからである
進化生物学における理論的には糞の役にも立たない屁理屈によって大多数の大衆マスコミは満足し その発行部数だの人気だのを論拠に科学的に正しい内容であるかのように錯覚しているのである
ピュリッツア賞だの文化功労賞はこうした錯覚を助長し悪質である
ドーキンスのお伽話というのは 単に「発行部数が多い」とか「人気がある」だけであって 科学的には何の役にも立たないお伽話に過ぎないことを 大多数の大衆マスコミは認識すらしていないし
たとえ認識しているとしても売れる本を否定するのを出版業界が忌避するのは 利益追求が目的であって 社会安全性や持続可能性などどうでも良いからである
ヒトという種の生物は 自分の頭の悪さを認識しないほうが精神的(気分的)には「健康」なわけだが この「健康」の基準とは「現状世間において生活に困窮しないかどうか」であって 多数派でありさえすれば困窮しないだけのことである
もう少し平たく言えば「バカの集団の中ではバカの方が生活が楽」なだけを「精神的健康」と呼んでいるに過ぎない
錯覚というものは 個体の生存価において有利に働く場合や、有利に働く副作用として発現するのだが それはあくまで個体の生存価において有利なだけであって 社会持続可能性や安全性にまで有利に働くような淘汰圧力には一切つながらない
放送大学「錯覚の科学」においても最終回では「錯覚も生存にとって有利に働くことがある」と締め括っているのだが これは社会持続可能性や安全性を担保するための個人の人間性や倫理の本質にまで配慮がされていない主張である
ヒトの多くは現状世間においてのカネ儲け人気取りなどの「社会的成功」を最優先しがちであるが これはヒトの脳が先天的に優先してしまう無意識な思考バイアスによる利己性であって 「生存にとって有利」などと言われれば短絡的に最優先事項だと勘違いしてしまう
東電社内においては原発の津波に対する危険性を主張していれば会社に居づらくなるであろう
ヤクザやマフィアの構成員がコンプライアンスを主張したらコンクリ詰めにされて東京湾に沈められるのがオチであろう
先天的に組み込まれた社会形成習性というのは あくまで「集団組織を守ること=自分が集団組織に守って貰えること」を前提とした行動に過ぎず こうした「社会性」は特定集団内部における個体の生存価において有利に働くことはあっても 社会全体の公共の利益にとっては不利に働くことの方が圧倒的に多い
先天的本能習性というものは あくまで無意識な「結果」であって 自律的な論理的検証に基づいた目的行動選択(本質的意識)とは異なるものなのである
目先の気分が促す行動バイアス(無意識)に流されているからこそ 個人の主体的自律判断を喪失してしまうのであって
どんなに気分的に嫌なことや怖いことであっても 理性に基づいて自分の感情を抑制し 行動選択を行うことが人間性である
個人の人間性なくして社会安全性も持続可能性も向上することはなく それなくして個人の安全性も成立しない
宮沢賢治はこう述べた「世界全体が幸福にならないう内は個人の幸福はあり得ない」と
どんなに高価な食材を用いて手間隙かけて作った料理であっても パレスチナで丸焦げにされた赤ん坊の映像を見たら味なんぞ一切わからないだろう
わかったらむしろ異常である
ここで若干福音じみたことも述べておこう その方が大衆にとっては気分的に受け入れ易いからである
ヒトは子供が大好きである
赤ん坊のほっぺたを見ると大抵のヒトはそれだけで幸福な気分になり
それは子犬でも子猫でも 鰐でも蛸でもシャクトリムシでも発現する先天的習性である
虫嫌いの人であればシャクトリムシなど気持ち悪い上位に入るのかもしれないが
卵から孵ったばかりの3㎜程の黄色い半透明なシャクトリムシが律儀にミリを刻んで歩いているのを見れば 大抵のヒトは顔が緩むものである
それはヒトが哺乳類であり 子供を育てるという習性が先天的に組み込まれているからである
環境に依ってはイヌやネコが他の動物の子供に母乳を与えて育ててしまうこともある
ヒトという種の生物には 様々な「本性」があり これは理性によって選択可能性を持っている
子供達にどのような社会を遺せるのか
それを最優先に考えれば 自ずから答は導き出せる
「いいね」よりも大切なもの
国際競争力よりも重要なもの
神に媚びへつらって死後の快楽だの約束の地を保証してもらうよりも大事なこと
Ende;