書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

中村 聡一

2021年06月08日 13時34分35秒 | 意識論関連

中村 聡一は東洋経済の記事でこう述べている

『旧約聖書』の「創世記」によれば、神は7日で世界を創造したことになっています。1日目に光と闇を、2日目に空を、3日目に大地と海と植物を、4日目に太陽と月と星を、5日目に魚と鳥を、そして6日目に獣と家畜を作り、神に似たヒトを作りました。7日目は休みです。

ダーウィンはこれを、7日ではなく無限の時間の流れの中で行われた生存競争と自然選択の描写であると説明します。生物は、同じ種であっても変異によって無数の個体差があります。その変異の一部は親から子へ遺伝しますが、それが環境に適合する場合としない場合があります。結局、前者だけが生存・繁殖し、後者は淘汰される。地球上の生物は、それを繰り返して今日に至っているというわけです。

たとえば、同書には以下のような記述があります。

「私の想像では、カッコウのひなが義理のきょうだいを巣からおしのけるのも、アリが奴隷をつくるのも、ヒメバチ科の幼虫が生きた毛虫の体内でその体を食うのも、これらをすべて個々に付与された、あるいは本能であるとみなすのではなくて、あらゆる生物を増殖させ、変異させ、強者を生かし弱者を死なしめてその進歩にみちびく一般法則の小さな結果であるとみなすほうが、はるかに満足できるものである」(『種の起原』八杉龍一訳、岩波文庫)

だとすれば、人間も無数の生存競争と自然選択の末に今日に至っているにすぎません。ポイントは「自ら正しい選択をしてきた」ということではなく、「多様な選択をする種の中から、たまたま時々の環境に適合する種が残り、人間に進化した」ということです。

これを有史以降の人類の歴史になぞらえるなら、まさに戦争や階級闘争という生存競争の繰り返しでした。おそらく無数の人々がそれを教訓として、適合するための道を模索し、よりよく生きるための知恵を記録してきました。それが「哲学」「宗教」「芸術」「サイエンス」などでしょう。

これらも多くは淘汰されましたが、中には時々の社会に適合し、どうやら真理を突いているらしいとして後世に残されたものがある。それが、ここまで述べてきたリベラルアーツです。だからこそ「人類の叡智の結晶」と呼ばれるわけです。

プラトンやアリストテレスをはじめ、それぞれの書き手・作り手が大賢人であることは間違いありません。しかしその背景には、淘汰された無数の書き手・作り手がいたはずです。その多様性の中より選択されたからこそ、リベラルアーツには価値がある。

リベラルアーツを学ぶとは、人類の歴史と共に進化し磨かれた「知のDNA」あるいは「人間性の魂」を継承することにほかならないでしょう。ダーウィンの「進化論」からそういうメッセージを受け取ることができるのです。

 出典:
東洋経済

 

⇨多くのヒトは この話に何の疑問も持たずに「プラトンは大賢人だ」と鵜呑みにして疑わないだろう

少なくとも東洋経済の編集者は何の疑問も持たずに掲載しているのは確かである

 

先ず最初に言っておかなければならないのは 遺伝的進化というものには目的もなければ 必ず全部が成功(生存や種の保存に適)するわけではないということである

遺伝的進化というものは無数の失敗の上に成り立つ偶発的な結果に過ぎず 進化の大半は「進化の袋小路」に迷い込んで生存や種の保存にすら適さず絶滅しているのである

現在の生物相というものは あくまで死なずに生き残った個体種だけをみているため あたかも進化さえすれば全ての生物は生き残れるかのような錯覚を抱きがちなようだが これはとんでもない大間違いである

人類の叡智の結晶」などと称して 淘汰圧力さえかかっていれば残ったものが常に正しいものである保証があるかのように言うのは そもそもが間違いである

遺伝的進化のメカニズムを「有史以降の人類の歴史になぞらえるなら」などと称して 古典的論説でありさえすれば常に正しい話になっているかのように説明しているが

これは単なる「こじつけ」であって アナロジー(類似)ですらない

 

ヒトの多くは 論理的根拠を伴う客観的真実が何なのかを検証し 考えるということをせず 主観的に気分が良くなる「信じたい話」だけを信じようとする習性(先天的欠陥)がある

こうした欠陥のために 「イデア界」だの「叡智界」だの「悟性」だの「優生学」だのといった 論理客観的に何の根拠もない話を鵜呑みにし その主観的満足によって永い間信じ込まれてきた

これら実証不能の観念が ヒトの先天的欠陥によって「生き残った」からといって 論理客観的に「正しい真実」であることの論証には一切ならない

平たく言えば 100万人のバカが「人類の叡智の結晶」だと信じて疑わなかった話でありさえすれば 論理客観的な真実であることの論証にはならないということである

科学哲学者カール:ライムンド:ポパーは「白いスワン」の喩えを用いて 「科学は多数決ではない」ことを述べている

科学に限らず 哲学においても 「真理(本当のこと)」というのは多数決でどうにかなるようなものではなく 論理客観的な証拠や根拠に基づいて見極められなくてはならない

長い歴史の中で淘汰を免れてきたからといって それが短絡的に「正しい話」であることの論理客観的根拠には全くならない

「それほどまでに真理は重要か」と 聞いてくるバカがいるのだが 何が真理で 何が嘘や錯覚なのかが見分けられなければ 実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけたり 問題の根源的原因を見落として意味のない対策ばかりに無駄に執着することに陥ることになる

人間社会にとって最も重要なのは 安全性と持続可能性である

これらは論理客観的根拠に基づかなければ何の保証もないのである

 

「なぞらえる」という喩え方を 読書猿も用いていたが 読書猿の場合は「知識のエコシステム」などという応用性も何もない訳のわからぬ勝手な観念のでっち上げに用いていた

どうも勝手な観念のでっち上げをするのに「なぞらえる」という手口が使われることが多いのかもしれない

 

「知のDNA」とは一体何であろうか 「遺伝的進化は万能だとみなして残った論説の全てには意味がある」とでも証明したつもりであろうか

「人間性の魂」を継承するなどと称して 先天的欠陥によって見落としてきた誤謬までをも正当化できるとでも思っているのであろうか

 

学生の多くは 受験競争を勝ち抜いて大学に入りさえすれば 大学では正しいことしか教えられることはないと「思う」ことで どんなに論理客観的根拠の伴わない話であっても鵜呑みにできるのであろう

教えられたことを 教えられた通りに答えられれば それで「自分は頭が良くなった」と満足し 教えられた内容が本当に論理客観的根拠を伴った真実なのかどうかを主体的に検証することは誰もしない

本当に「誰もしない」からこそ プラトンだのフリードリヒ:ニーチェだのイマヌエル:カントを「哲学」だと誰も疑わないのである

そんなことだから養老孟司だのマルクス:ガブリエルだのといったオカルトに人気が集まり 誰も異論すら唱えることはない

そしてマイケル:サンデルの講義で「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いして満足する

そういう「残念な生き物」であることにも 誰も気づくことはない

 

 

Ende;

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