ウチの母親が軽い認知症なのだが、喋ることがとにかく反射的で無意識な取り繕いが多い。
取り繕いというのは事後正当化である。既に喋ってしまったこととか、行ってしまったことを事後正当化することによって、意識から外して「なかったこと。」にしてしまうので、間違いというものが一切改善されない。
「間違えただけよ。!」と怒る。
何で間違えたことで怒るのか、あたかも間違えたことが自分自身に由来するものではないかのように主張するのである。
このことを説明しても、最後には「あたしは、もう60年もそうして生きてきた。」とか。「もう先が短いから、どうでもいい。」などと、徹底的に取り繕うのである。
取り繕うこと、事後正当化することに関しては、異常なまでに意識が働くのであるが。この意識の根源は「自分は絶対である。」という固定観念に由来するものであり。極めて機械手続き的な条件反射によるものであり、むしろ本質的意識というものを働かせたくないからこそ無意識的条件反射で取り繕うのである。
年寄り特有の頑固さというものは、こうして作り出されるのである。
たとえ外見上素直そうに見えるとしても、実際には全く理解しておらず、その場限りに話を丸めているだけである。
私の母親に対する認知症治療は、かなり荒療治である。徹底的に理詰めで理解させることを要求するので、母親からは嫌われる。
徹底して理詰めで説明すると。今度は「あたしはバカだ。」と凹む。
だが、これが曲者で、気分的に凹むだけで理解はしていない。そのため間違いは全く改善されないのである。だから気分的に凹むことに意味はなく、間違わないようにすれば良いだけだと説明しても、結局は「できない。」とか「今更治らない。」などと、行動を改める意思というものを全く発揮したがらない。
こうした自己自身の行動を改める意思というものが、ウチの母親には欠落しているのである。
これこそが自律の欠落というものである。
「自分では自分がどうにもならない。」という理屈は、犯罪者の多くにも見られるものであり。社会の犯罪の根源というのは、こうした自己自身の自律の欠落の蔓延に由来するものなのである。
「自分の行動は、自分で責任を持つ。」という、社会的に極めて基本的な行動規範というものが欠落しているからこそ犯罪や戦争が生じたり、或は人為的事故の論理的原因究明というものが行われず、単なる刑事罰にすりかえられてしまうのである。
刑事罰というものが、受刑者の人格を形成する論理的根拠など全くない。だからこそ再犯というものがなくならないのであり。刑事罰というものは受刑者の再犯に関して全く責任を取るつもりも、構造も存在しないのである。
ウチの母親が凹んでいるのと一緒で、その場限りに従順に従うだけであって。根源的な部分は全く改善しないのである。
そんな無益な刑事罰などというものに、いくら公費を注ぎ込んでも社会的には何の利益にもならない。
裁判における刑事罰の妥当性というものには、何ら論理的根拠が存在しないという事実を、多くのヒトは忘れているのである。
これは日記か?。
取り繕いというのは事後正当化である。既に喋ってしまったこととか、行ってしまったことを事後正当化することによって、意識から外して「なかったこと。」にしてしまうので、間違いというものが一切改善されない。
「間違えただけよ。!」と怒る。
何で間違えたことで怒るのか、あたかも間違えたことが自分自身に由来するものではないかのように主張するのである。
このことを説明しても、最後には「あたしは、もう60年もそうして生きてきた。」とか。「もう先が短いから、どうでもいい。」などと、徹底的に取り繕うのである。
取り繕うこと、事後正当化することに関しては、異常なまでに意識が働くのであるが。この意識の根源は「自分は絶対である。」という固定観念に由来するものであり。極めて機械手続き的な条件反射によるものであり、むしろ本質的意識というものを働かせたくないからこそ無意識的条件反射で取り繕うのである。
年寄り特有の頑固さというものは、こうして作り出されるのである。
たとえ外見上素直そうに見えるとしても、実際には全く理解しておらず、その場限りに話を丸めているだけである。
私の母親に対する認知症治療は、かなり荒療治である。徹底的に理詰めで理解させることを要求するので、母親からは嫌われる。
徹底して理詰めで説明すると。今度は「あたしはバカだ。」と凹む。
だが、これが曲者で、気分的に凹むだけで理解はしていない。そのため間違いは全く改善されないのである。だから気分的に凹むことに意味はなく、間違わないようにすれば良いだけだと説明しても、結局は「できない。」とか「今更治らない。」などと、行動を改める意思というものを全く発揮したがらない。
こうした自己自身の行動を改める意思というものが、ウチの母親には欠落しているのである。
これこそが自律の欠落というものである。
「自分では自分がどうにもならない。」という理屈は、犯罪者の多くにも見られるものであり。社会の犯罪の根源というのは、こうした自己自身の自律の欠落の蔓延に由来するものなのである。
「自分の行動は、自分で責任を持つ。」という、社会的に極めて基本的な行動規範というものが欠落しているからこそ犯罪や戦争が生じたり、或は人為的事故の論理的原因究明というものが行われず、単なる刑事罰にすりかえられてしまうのである。
刑事罰というものが、受刑者の人格を形成する論理的根拠など全くない。だからこそ再犯というものがなくならないのであり。刑事罰というものは受刑者の再犯に関して全く責任を取るつもりも、構造も存在しないのである。
ウチの母親が凹んでいるのと一緒で、その場限りに従順に従うだけであって。根源的な部分は全く改善しないのである。
そんな無益な刑事罰などというものに、いくら公費を注ぎ込んでも社会的には何の利益にもならない。
裁判における刑事罰の妥当性というものには、何ら論理的根拠が存在しないという事実を、多くのヒトは忘れているのである。
これは日記か?。