書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

何だか痛そうだな。

2013年04月25日 16時04分46秒 | 意識論関連
○事故。

 エスカレーターの金属部分にカバンか何かが引っ掛かってめくれ上がり、動く手すりとの間に指が挟まれ怪我をするという事故があった。

 社会安全性の観点からは、実際にどういった荷物が、どうような形でエスカレーターの金属部分を破損したのかを明らかにし、情報を周知共有することで再発防止につながるのであって。刑事懲罰はこれに対して当事者を萎縮させるだけで意味がない。

 こういった一般的には予測が困難な事故については、超法規的に原因究明を優先して国が損害を補償してあげて、当事者には罰を一切与えないなどの措置を採るべきなのである。

 原発事故の時に当時の管直人首相の悪口をWeb上に書き込むことで集中攻撃し、同じ観念を共有して安心満足したように。文科系大衆観念的には悪者探しだの悪者特定規定によって、気分的満足を得ることばかりに終始してしまう性質がある。こうした文科系大衆観念、すなはち気分的安心満足の追求によって、論理的な原因究明とか具体的再発防止策といったものが蔑ろにされてしまうのである。


 特定個人を攻撃すると、あたかも自分や自分達集団が正義であるかのような錯覚をもたらす性質がヒトにはある。特定個人を悪者と規定することで自分達の正当性を勝手に妄想しているのである。

 むしろ、こうした気分感情のメカニズムこそが学校でのイジメや差別といったものを醸成するのであって、ヒトの気分感情といったものを短絡的に「心」だとか形容するのは無責任極まりないペテンである。

 エスカレーターにカバンを引っ掛けちゃった当人は、たまたま運悪く引っ掛けちゃっただけであって。こんなもの誰が引っ掛けてもおかしくはなく、当人に懲罰を与えることに何の意味も社会的価値もないのである。

 どういった荷物が、どのような形で引っ掛かったのか。その再現実験をすることで事故の起きにくい改造改良も可能であり、既存の施設においてもどこに注意すれば良いのかも解明される。それによって具体的対策といったものが施されるのであって、司法刑事罰というのは社会的には「バカをシツケる。」程度の価値しかないのである。

 司法刑事訴訟とったものが絶対的な完全無欠の対策であると錯覚している頭の悪さを放置していること自体が社会的罪であると言える。

 平たく言えば、バカがバカをシツケて満足しているだけであって。具体性のある対策に全くなっていないのである。

 だから刑法廃止論なのである。少なくとも意図的ではない偶発事故については些細な事故であっても政府直属で事故調査委員会をこさえて、原発や航空機の事故同様工学的分析によって。具体性のある再発防止策を立てることを優先すべきであって、刑法というのはこれに対して害しかもたらさない。

 更にこうした考えを進めれば、個人が自律的に社会的責任を負わなくなる心理的メカニズムについても言及可能なのであって。事故以外の犯罪についても具体的対策を立てることは不可能ではない。

 原発事故における最も根源的原因というのは、東電社員や幹部達による無責任さであり。これを「組織の体質の処為。」などと文系観念で薄めるべきではない。

 エスカレーター事故についても、事故を起こした当人に予測が絶対に不可能であったとは言い切れない。しかし、ヒトというのはそんなに四六時中あらゆる危険性について注意を払える程完全無欠な存在ではないのである。

 ヒトの多くは「自分だけは大丈夫。」などと勝手に妄想しているからこそ、懲罰によって他人に完全無欠を強要することだけで満足したがるのである。

 「ヒトは間違えるものである。」ことを前提にしていないからこそ、自分の判断の全て常に絶対であると錯覚するのであって。だからこそヒトの多くは刑法懲罰さえ実行しておけば全ては解決したものであると妄想するのである。


 通り魔を極刑にしてしておけば、気分的には安心で満足であろうが。それでは「ヒトが通り魔になる原因。」を全く解明しておらず、再発防止に全くつながらない。だからといって、動機だの背景を明らかにすることでどうにかなるという短絡的なものでもないのである。

 動機だの背景といったものは、犯罪者が犯罪を犯す一つのきっかけにはなっているとしても、同じ動機や背景を持つ者の全てが短絡的に犯罪者になるわけではなく。あくまで個人に主体的「自律」が欠落していることが本当の原因なのである。

 自律というのは他者から与えられる懲罰によって醸成されるものではなく、あくまで当人の自発性によって養われるものであって。規範意識だの法令遵守といった手続き依存体質こそが、個人から自発性を喪失させる最も根源的原因なのである。


 個人が自律的に社会的責任判断を行うためには、どうすれば良いのか。それは簡単ではないかも知れない。それを「難しいからやりたくない。」などと拒絶することこそが社会的「甘え」というものである。

 学生には難解な入試問題を強要しておきながら、大人になった途端に簡単なことばかり要求するのは。当人に本質的主体性がないからである。

 ほとんどの学生が解けないような難解な入試問題を解くことが出来ても、それは入試脳を「鍛え」ているだけであって、そんなものは「ゲーム脳」とさしたる違いはない。進学ビジネスに関わる者にとっては入試脳を「鍛え」ることを短絡的に「頭が良くなる。」ことだと錯覚させておく必要性があろうが、これこそがペテンというものである。

 脳は「鍛え」ても、特定の条件反射的能力しか養われることはなく。言うなれば脳というのは「鍛えると、バカになる。」のである。脳を「鍛える」ことで特定のクイズやスポーツなどの能力が向上して世間的に評価されるとしても、そんなものは個人的利益に過ぎず、社会的価値利益にはならない。そんなものは「占いペテンで金儲けをしている。」のとほとんど一緒なのである。

 なぜ、その学校に進学するのか。その主体的目的意識もないまま、漫然と他者との比較競争意識に流され他者との比較優位性を錯覚して満足しているからこそ、高学力なバカが大量生産されることに陥るのである。

 司法なんていうのは学力が高いだけで自発的には何も考えていないバカが就く仕事である。「法律さえ守らせておけば全ては上手くゆく。」という「常識」に基づく身勝手な妄想だけで司法システム組織というのは維持されているのである。

 「法律さえ守らせておけば、社会持続可能性も安全性も担保される。」という短絡的で夢みたいな話は要らない。個人が主体的に社会安全性や持続可能性を追求していれば、むしろ法律なんていうのは最低限で構わないのである。

 既存の社会システムが絶対で完璧なものであると「思う。」のは簡単である。

 完全完璧であると錯覚しているからこそ、既存の社会システムに混入している間違いを認識出来ないのである。

 誰かが構築した社会システムを鵜呑みにしておけば気分的には安心で満足であろう。誰かが作ったマニュアルに則っておけば自律的に何も判断しなくても責任を負う必要性はないと「思う。」であろう。

 そういう多数の東電社員達によって原発の危険性は放置され続けたのである。

 こうした無意識性こそが、あらゆる「人災」の根源に潜んでいるのであって。論理的根拠のない「普通」だの「常識」に意識を奪われずに、論理検証性に基づいた批判精神や疑いを持つことが重要である。

 東大学長が入学式の際に述べた、「全てを疑え。」というのは。観念的猜疑心によって他人のやること為すこと全てを疑うことではなく。むしろ自分自身の内部に刷り込み学習された常識的「思い込み。」こそを疑うことの重要性を述べたのである。

 社会心理学者達が提唱するような、「信頼さえしておけば全ては上手くゆく。」などというバカみたいな話というのは。結局大衆への気分的安心満足感しか提供しておらず、全くの大衆迎合に他ならない。

 気分的安心満足感に溺れているからこそ、「考え」というものが成り立たなくなるのであって。「考え」が失われるからこそあらゆる危険性が放置されることに陥るのである。

 暴走破綻といったものの全ては、無意識の所産である。気分感情という無意識に溺れて何も検証しないから暴走破綻に陥るのである。

 自然界が暴走破綻して大絶滅を引き起こしても仕方はない。しかし、ヒトが検証可能な暴走性に歯止めがかからないから「人災」というのである。

 「人災」というのは「迷惑」のことである。ヒトが実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけることに陥るのは。「自分の常識は絶対だ。」という身勝手な妄想から引き起こされるのである。

 自分の常識を疑うのは純粋な好奇心であり、これこそが科学的検証の最もプリミティブな姿である。

 「あれ?。いままで疑ったことはないけれど、もしかしてこれって間違っているんじゃないのかな。」という素朴な疑問を捨てないことが重要である。

 ヒトは多数の他人や権威が疑わないことを自分で自律的に疑うことを恐れる性質がある。多数派迎合性や権威服従性といった本能的「社会形成習性」こそが、ヒトから自発的自律判断を奪い、集団組織的に暴走破綻や組織腐敗を招くのである。

 検証予測や想定不可能な事象で事故が起きても、これは天災であって人災ではない。想定範囲を意図的に小さく見積もるからこそ人災になるのであって、「自分の想定が絶対だ。」と妄想するから想定範囲を小さく見積もるようになる。




 他人や社会に猜疑心を持つ前に、まず自分の常識に論理的根拠があるのかを疑うことが先であり。多数派や権威といったものを鵜呑みにしない自律判断こそが社会の安全性に貢献するのである。

 それを「人間性」と言うのである。





Ende;
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戦略。

2013年04月25日 16時03分30秒 | 意識論関連
○戦略。

 「生存戦略。」などというのは頭の悪い生物学者の妄想に過ぎない。

 生物が結果的に生存に適した種に淘汰されているとしても、淘汰されなかったというのは偶発的「結果」に過ぎず。そこに意図的「目的」意識による戦略などというものが介在する余地などない。

 多剤耐性菌の淘汰過程において、菌自体が意識的に耐性を獲得「しよう。」として変異するわけではなく。あくまで結果的に耐性を獲得「してしまっている。」だけであって、菌自体に選択の余地などどこにも存在しないのである。

 そもそも「生存」自体が生物の「目的」であるとは言えず、結果的に「生存」していたものを生物と分類しているに過ぎないことを、多くの生物学者達は忘れているのである。



 ヒトは分類が好きである。

 「あの人は、こういう人だ。」などというレッテルを貼ることで気分的に安心満足することからも、ヒトという種の生物学は断定的規定による分類自体を目的と錯覚する習性があるのだ。

 分類は本来思考を整理するための手段であって、手段自体を目的と錯覚するのは思考の過剰整理に他ならない。

 ドーパミンは思考や行動を整理するが、その快楽というのは機械行動学習的に簡単に過剰整理に陥る性質がある。

 ニューラルネットワークによる人口知能/機械学習というのは、特定の能力を高速にこなすことには長けているが、あくまで機械的条件反射であることに変わりはないのである。

 どんなに言語能力が高く口達者なコミュニケーション能力の高い者であったとしても、それが短絡的に「自律的な社会的責任判断能力。」の論証にならないことと同じである。

 「知能」というものを文科系大衆マスコミが短絡的に学力だのコミュニケーション能力といった断片的な基準だけで測ろうとするのも、「知能とは、こういうものである。」という短絡的機械学習の結果であると言える。

 短絡的機械学習による多数派観念に意識を奪われているからこそ、文科系特有の大衆迎合というペテンが簡単に成立してしまうのである。

 現在の生物学者が「生存戦略」などと称して、あたかも生物の全ては生存のために知能を働かせているかのように形容したがるのも、従来のレッテルを鵜呑みにしている大衆の頭の悪さを利用して現状の組織体制維持のために利用しているのであって。これはいわば詐欺集団と構造的には同じである。

 「自然界は素晴らしい。」だの「生物は賢い」ことにしておけば、バカな文科系大衆の多くは気分的に安心満足して何も論理検証することはない。

 「全てを知り尽くしたような錯覚。」に陥っているからこそ、「自然界は絶対的。」などという観念に囚われているのであって、現在の生物学者の論理検証性の欠落というのは「結果」に対する事後正当化のための断片的論証によって、あたかも「結果」の全てが何者かの「目的」意識によってもたらされているかのようなオカルト観念によって、自分の考えが絶対であると勘違いして満足したいだけなのである。

 科学というのは本来「わかること。」と「わからないこと。」を明確に分別するものでなければならない。それこそ養老孟司のように「わからないなら、わからないなりに、わかったとする。そういうわかり方もあるのかと思って頂ければ幸いである。」などと支離滅裂な話を鵜呑みにするのを文科系大衆観念というのである。

 現在の生物学というのは、「生物は絶対的に最適化されている。」などと言い張るが。絶対的に最適化された生物とは一体なんであろうか。

 常に絶対に環境調和して種の存続や個体の生存に有利な行動を採る生物など実存するであろうか。

 ある特定環境に適応して、その環境において個体の生存だの種の存続だの環境調和に適しているとしても、それは特定環境に依存した「結果」以上の何も論証していないのである。

 「生物の目的は生存。」などと勝手に規定していること自体が現在の生物学のオカルト性なのであり。そこに何ら疑問を持たない時点で科学者としては出来損ないであり、論理検証性の欠如を意味するのである。

 自然は神が意図意識的に作り出したものなどではなく、あくまで自然という偶発性の「結果」に過ぎない。

 どんなに高度な生存のためのメカニズムを獲得しているとしても、それは結果的に生存していたという偶発性の産物に過ぎないのであって。如何なる意図目的も、それに伴う「戦略」も介在しえないのである。

 これを理解出来ない時点で科学者としてはポンコツである。どんなに学力偏差値が高くても、至極当然の理論を理解出来ないというのは科学者としての素養が全く出来ていないとしか言いようがない。




 竹が花をつけて交配し種子を作ったとして、親となる竹林が日差しを遮っている限り種子は成長出来ずに意味を為さない。その結果、種子を作った後に竹林全体が枯れるメカニズムを偶発的に持った種の竹だけが結果的に遺されただけであって。竹自体が目的意識をもって「戦略」として枯れるようになったわけではない。

 数十億年の生物進化の「結果」である現在の高等な生物相だけを観察していれば、あたかもそこに何らかの意図目的が存在するかのような錯覚を抱きかねないのかも知れないが。あくまで生物というのは結果的に生存していた「結果」以上の何も介在する余地は原理的にない。

 「結果」に対して正当化の屁理屈を並べ立てることは科学的論証には一切ならない。それが圧倒多数の文科系大衆やマスコミのご機嫌取りにはなっても大衆迎合以外の何物でもないのである。そして、こうした大衆迎合こそが社会的な科学としての役割の無責任な放棄でもある。




Ende;
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