書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

危険な排水溝。

2013年04月05日 17時14分43秒 | 日記


 秋月電子通商三郷店に行く途中で発見。

 場所は以下に。

http://map.ultra-zone.net/g/35.801558/139.829086/201.5_-16.9_1.0
 StreetView上ではちゃんと蓋があるように見える。

http://map.ultra-zone.net/g/35.801479/139.829127/16

 昼間はまだしも、夜はこわいね。
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神様?。

2013年04月05日 17時01分49秒 | 意識論関連


 「お客様は神様です。」と言ったのは誰だったか忘れたが、金を支払う方が一方的に偉いという観念には根拠がない。

 顧客に対する異常なまでの卑屈さというものは、逆に自分が顧客の立場になった途端に異常なまでの横柄な態度を採るようにもなる。

 自分が顧客に対して卑屈な態度を採った対価として、自分に対しても卑屈な態度を採らせようとする条件反射行動であろう。

 相手に金を支払わせる立場としての最低限のマナーはあるとしても、客は絶対神ではなく同じ人であり。社会の中で相互関係性を持つ平等な関係である。

 雇用に関しても、違法な背任行為などがなければ決して雇用者の方が「偉い」ことにはならない。

 金に限らず特定の事柄に対する過剰で無意識な価値観がヒト社会には蔓延しており、これが人の「心」を喪失させているのである。

 ヒトという種の生物には、本能習性的な社会形成習性があり。他者と自己との関係性において上下関係を規定しておかないと不安に陥る性質がある。

 こうした習性を生物学的に説明すれば、「集団統率的協調行動を採ることが出来た集団程生存に適していた結果。」と言うことが出来る。

 だが生存してさえいれば人間として正しいことにはならず。「残虐なゲリラが生存に適していた。」結果だけを正当化するのはキチガイの論理に過ぎない。その意味において「個体の生存自体に意義はない。」のである。

 生物が生存していたのは目的のためではなく、あくまで偶発的「結果」として生存していたものを「生物」と分類しているいるに過ぎない。これが理解出来ないバカは科学者を辞めるべきである。

 金に対する異常な価値観同様、生存というものへの異常なまでの価値観というものが、科学的論理検証性を喪失させているのである。

 生存だけが絶対的価値であるならば、詐欺や暴力を用いてでも生存に有利な行動を採ることは正当化されてしまう。それを現在の生物学は「賢い」と形容するのである。

 結果的に生存していたゲリラは「賢く」て、結果的にゲリラ達に殺害された人達は「愚か」である論理的根拠はあるであろうか。無論そんなものは一切なく、単に結果的に生存していたという結果の事後正当化のための文科系大衆観念的こじつけに過ぎない。




 現在の生物学では、本能習性的な行動バイアスの結果論だけを抽出して、あたかも本能習性的行動バイアスが絶対的に正しくて優秀であると言い張る。

 津波被害の際に問題となった正常性バイアスや多数派同調バイアスといったものも、先天的本能習性による行動バイアスであり、これらはあくまで機械的条件反射行動、すなはち無意識に過ぎない。

 たまたま偶発的に生存に有利な行動を促した結果だけを論じて本能習性の存在価値を絶対的意義の論証であると言い張るのは、科学的論理証明を目的としたものではなくヒトという種の生物の優位性を事後正当化しているだけの観念に過ぎない。

 「自分が生存し続けるのは、生存に適した種であるからだ。」と「思う」ことで気分的に安心満足したいだけなのである。ナチズムの素となったフランシス:ゴルトンの優生学も、民族の優位性を立証することによる気分的安心満足を目的としたものであって、何ら科学的論理証明として全く成立していないのである。

 先天的疾患によって遺伝的に「生存に不利」であることが、生存に値しないことの論証にはならないし、人間としての存在価値をおとしめる論証には全くならない。

 優生学のような観念を科学的論証であるかの如く一切反論してこなかった従来の生物学というのは、科学としての社会的役割を全く果たしておらず、怠惰怠慢による「未失の故意。」的犯罪行為であると言える。




 金は本来道具である。経済を便利で円滑にするための道具であって、道具という手段自体を目的だと勘違いしてしまうのは、そこに論理検証的「考え」が伴っていないからである。

 論理検証的「考え」という「人間としての社会性」が伴わないからこそ、人間としての「心」が失われることに陥るのである。

 その場限りの本能的感情を「心」と称するのは、通り魔の動機や感情までをも正当化する戯言に過ぎない。人間としての「心」というものを厳密に検証せず安易に「感情=心」として取り扱うのは、無責任な犯罪的行為であることを文科系マスコミは認識すべきである。

 哲学界においては論外である、怠慢にも程がある。論理検証的に「考える」ことが嫌なら哲学など辞めればいいのである。



 貨幣を一切用いなくても経済を成立させることは可能である。労働に対する正当で公平な対価さえ成立すれば、経済というものは成立可能なものであって。対価の公平性を社会から乖離させ個人の絶対所有物であるかのような錯覚を促すのが貨幣というものである。

 労働も対価も循環することで経済は円滑に働くものであって、個人所有私財として停滞させてしまう貨幣の性質こそが経済を崩壊させてしまう一つの要因ともなるのである。

 「貨幣は道具であり、相互協力社会のための手段に過ぎない。」ことを認識していれば、異常なまでの報酬への執着も働かないはずである。





Ende;
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意見。

2013年04月05日 17時00分16秒 | 意識論関連
○意見。

 孫正義の弟で、孫泰蔵って人が言ってたんだけど、「大きな会社や組織に5年以上勤めてしまうと起業は難しくなる。」んだそうだ。

 「仕事を覚えてはいけない。」とも言っていた。

 「仕事を覚える。」というのは、要するに大きな組織体制の内部における役割分担された「仕事」というのは、その組織内部における限定的な能力に過ぎず。これを「覚えて」も起業にとっては害はあっても役には立たないということであろう。

 大きな会社組織内部における「仕事」というものは、大きな会社内部における有利な能力を要求されるのであって、社会全体にとって有益な能力であるとは限らない。東電原発の「仕事」と同様、組織の利益を優先して社会的責任を果たさないようになるのは象徴的出来事。そりゃ、東電内部においては原発の危険性をほったらかしにしておいた方が会社には「居やすい」でしょうけど、社会全体にとっては「要らないヒト」ってことになるわけです。

 一つの企業を起業するということは、社会にとって必要性がなければ企業として存続出来ないのは当然であって、特定組織内部だけにとって有益な能力であっても社会にとっての必要性になるとは限らないですから、そういった意味での「仕事を覚えてはいけない。」んだと思います。

 企業によっては社員の自発性を尊重して、企業を応援してくれる会社というのもありますから、全ての大企業に当てはまる話ではないんでしょうけど、そういった会社組織っていうのは稀です。

 アメリカでは優秀な学生ほど起業を目指す傾向があるそうで、この辺りは日本人特有の「良い大学に入って、大きな企業に就職する。」といった観念とは正反対ですね。

 「3年間は会社に勤めろ。」などというのは、ぶっちゃけ企業側の論理(都合)であって、東電のように原発の危険性を放置するような反社会的企業に3年間迎合し続けなければならない論理的根拠なんぞありません。

 そもそも日本の学生が企業を目指さないのは、「何をしたいのか、わからない。」のが根本にあって、そりゃ起業を考えないのは当然の帰結ですよね。

 現状日本の教育制度というのは、有名大学に進学させることや、大企業に就職させることだけが目的であって、個人が主体的に何をしたいのか、社会とどう関わってゆくべきなのかといった自発的で主体的な自分の考えというものを全く育ててこなかったと言えるでしょう。

 「社会性を身につける。」ことで、個体の生存にとって有利な行動を動物的行動「学習」してしまえば、東電社員のように組織に迎合することにしかならないわけです。

 組織集団に対して迎合的で従順な者に対する観念的安心感というものを、社会的存在価値と錯覚しているのが日本人なのではないでしょうか。

 日本人の多数派は、有名大学に進学して大企業に就職することを目的にしているからといって。それが論理的に安全確実なものであることの論理的根拠にはならないんです。日本人の多くは気分的安心満足感に基づいた文科系大衆観念ばかりを根拠に物事を判断する傾向があります。有名大学を卒業したことを、それだけで「自慢」だと思い込む性質があるのは、要するに現状の教育制度における観念に何ら疑問を持たなかっただけの、単なる従順なバカの観念に過ぎないわけです。

 ヒトは他者と自分との順位を規定したがる習性があります。そのため、多くの学生は偏差値順位という極めて限定的特定能力を絶対な価値であると勝手に錯覚し、有名大学に進学しさえすれば全てが解決するものであると勝手に思い込むことに陥るわけです。だからクイズの正解率なんぞで「自分は頭が良い。」と勘違い出来るんでしょう。クイズの正解率が高いことと自律的な社会的責任判断能力とは無関係なのは言うまでありません。

 本当に社会にとって必要な人っていうのは、自律的に社会的責任判断を行い自発的に問題解決に取り組む人なんです。

 それは、すなはち現状世間における無意識な「思い込み」や錯覚といったものに疑問を持ち、何が間違っていて何が正しいのかを自律的に判断する能力が必要なのです。

 本能習性というものを断片的論証によって正当化することばかりに意識を奪われている現在の生物学界において、自律的に論理検証するという科学的思考が全く働いていないのは。生物学界という組織に迎合することしか「学習」していない研究者しかいないからでしょう。

 それを鵜呑みにしているマスコミも同罪です。

 日本の学生というのは、いわば強制的に5年以上教育システムの内部での「勉強の仕方を覚えて。」しまっているわけであって。それだけが「勉強の仕方。」であると、それだけが「知能」であると動物的に行動「学習」してしまっているわけです。

 だから、そこそこ偏差値が高くてもバカなんですね。


 そもそも、「3年間は会社勤めをしろと言われたけど、孫泰蔵さんはどのような意見なのかお聞きしたい。」などと他人の意見をたくさん集めることばかりに意識を奪われている時点で、自律的判断能力が全くないわけです。

 「なぜ、3年間は企業に勤めなければならないのか。」それは一体誰にとって有利な話なのか、「3年という年数に一体何の根拠があるのか。」それを自発的に論理検証する能力というものが全くないから、他人に意見を求めることばかりに頼ってしまうわけですな。

 そういうヒトというのは、気分的安心満足感さえ得られれば、占い師やペテン師の意見であろうと受け入れてしまうことに陥ることになります。

 ぶっちゃけ、学生個人が「どう選択したら安定した生活が送れるようになるのか。」なんぞ、天才ノーベル賞受賞者であってもわかるものではありません。

 量子物理学でノーベル賞を受賞した小柴さんが言う、「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。」というのも、それが必ずしも社会的評価になる保障なんぞ一切ないわけです。

 重要なのは世間多数派のその場限りの意見に流されず、自発的に問題解決に挑む本質的主体性であって、それこそが自律的な社会的責任判断能力をも育むことになるわけです。

 従順で多数派に迎合的であることは、「ヒト」という種の生物としては平均的で「普通」の行動習性ではあるでしょう。しかし、これが短絡的に代替不能な「人間」個人であることの論証には全くなりません。

 東電に限らず、大王製紙でもオリンパスでも西武グループでも組織に迎合的な社員というのは極めて普遍的なヒトの習性として見られるものです。こういったヒト達というのは個人の尊厳を持った代替不能な「人間」個人であると言えるでしょうか。

 言えませんよね。

 そういうバカなら掃いて棄てる程いますけど、そいつらが社会を崩壊へと導いているんですよ。

 皆で社会を崩壊させていれば安心でしょう。多数で崩壊させているなら責任も分散されると錯覚することも簡単でしょう。

 そういう簡単で安易な行動に流されているから、社会が崩壊してゆくんですよ。









Ende;
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