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犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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国と宗教と私

2016年06月19日 | LGB&T
[あらすじ] 米国のゲイクラブで銃乱射事件があった。
日本のコミュニティもショックを受けている。
私も、自分が撃たれていたかもしれない、という気持ちがある。


犯人は警察の銃撃戦で、死んでしまった。
だからその心中は推し量るしか無い。
周囲の証言によると、犯人は自身がゲイであるが、
イスラム教徒でもあったということのようだ。

先般、米国では全州で同性婚が認められたように、
現今の社会価値観として、ゲイとして生きることはかなり受け入れられている。
一方で同性愛を禁じる宗教は千年単位で続いている。

厳格なイスラム教への信仰と、自分の性指向と、それを取り巻く社会情勢の中で、
犯人個人の中で混乱が起きていたのではないか、という見方がある。



日本の宗教はあんまり厳格じゃない。
日本には古来、神があふれていた。
水は神であり、陽は神であり、土は神であった。
それは神道という形に整えられていったが、そこにも教祖や教義は無い。

そういう地盤に、仏教が入ってきた。
土着の神観と、ゆるく混ざった。
神道は、ゆるいがゆえに政治的に利用されてしまった。

外国の宗教的なお祭りの慣習もゆるゆる取り入れた。
仏教とともに漢字を取り入れ、そこからさらにカタカナを作って
外国語を表記する方法を発明し、どんどんゆるゆる外のものを取り入れた。



亡父の前妻がキリスト教徒だったことから、
私の育った家はなんとなくキリスト教寄りであった。
5歳で引っ越した家から一番近い、カトリックの学校に入った。
幼稚園から高校までそこで過ごした。
中高は女子高だったが、中学へあがる以前から、
私は自分の恋愛対象が女性であることを自覚していた。

小学5年生の時に、母のオマケで洗礼を受けた。
同じ頃に思春期が訪れたので、混乱した。
キリスト教も、同性愛を禁じていた。

信徒は、祈りという形で、神と対話する。
私の疑問も、神へ向けられた。
私が誰かを好きになって大事に思うこの気持ちは間違っているというのですか?



神には問いかけられたが、神からは答えが無かったように思う。
牧師などに質問する気にはなれなかった。

中学のうちに、教会へは通わなくなったように記憶している。
自分はどうしてもこうであって、それを認めない教会や、
その教会を信じる善男善女が集まる教会の場は自分の居場所とは思えなかった。

ロック雑誌で、イギリス国教会に女性の同性愛者の牧師が認められたことを知ったのは、
もう少し後だったと思う。
同じ記事で、1969年の米国のストーンウォール事件と、
その後のゲイ・パレードのムーヴメントのことを知った。



日本は同性愛に寛容だ、と言われる。
たしかに、江戸時代に陰間茶屋なるものがあったり、
寺にも稚児なる習慣があったことも事実だ。
だからって、日常生活の中でオープンに認められているなんてことは無い。
笑われたり、眉をひそめられたり、気持ち悪がられたりする。

ただ、宗教的に厳格に禁止されていない、ということは
キリスト教やイスラム教の社会とまったく条件が違う。

そんなゆるゆる日本の中ではあったけれど、
私はキリスト教の中で育った。
現在の米国で、イスラム教徒であって、男性の性欲を持って同性愛者である、
というかなり激しい極性の強さに比べたら
私なんぞの葛藤はゆるんゆるんだった。

とはいえ、社会通念と、宗教的規範と、自己という三極のせめぎ合いを、
少しは経験している。
それぞれがもっと強いものであったら、どうなっていたか。



昨日は、自分が現場にいて撃たれていたかもしれない、
という思いについて書いた。
しかし、日本で、伝統ないキリスト教徒で、女性の身体、という三極でなく、
もっと激しく厳しい条件の中にいたら、
押しつぶされ、引き裂かれ、
私も犯人の側であったかもしれない。

そんなふうにも思えるのだ。


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