犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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入門しない

2021年12月18日 | 椰子の実の中
教わってもまーるで身に付かない。

いわゆるツボというものが有る。
経絡の上に点々と配置されている、経穴と呼ばれるものだ。
位置がちゃんと決められている。
しかし、常にそこに在るというものでもない。
必要の有る時に、反応が出る。
ただ、出がちな位置が有るから、経穴として定められている。

その位置を探り当てるのが、鍼灸の技術の一つ大事な点だろう。

鍼灸の専門学校、3年生の時だったか。
ある経穴の位置が、すごく良く分かった。
見付けるための指標が分かった。
嬉しかったので、先生に報告した。
すると、「授業で言ったじゃないですか。」という返事だった。

先生の説明を聞いていなかったわけではない。
けれど、頭に入っていない。
身体で、自分の力で実感できていないので、
先生が「言った」のを聞いただけでは、
知識として身に付いていなかったのだ。



どうも自分には、自分の頭で考えないと自分の脳みそに定着しない、
という傾向が強く有るように思う。



生きていく中で、あれこれ考えて、
自分として、ある時点でのある結論めいたものを持つことが有る。

後々、仏教がらみの本で同じような内容を目にすることが
何度も有った。

ということは、自分でゼエゼエ言いながら考えなくっても、
仏教の教えに耳を傾ければ、手っ取り早く答えが得られるじゃないか。
とも思う。
けれど、そう思って仏教の本を読んでみても、
ピンと来ない。

そのうち、
どうせ似たような結論に至るんだったら、
わざわざ仏教を学ばなくても、自分でしっかり生きていりゃ
それでオッケーじゃん
と考えるようになった。

なんだろう、それって教祖様になるってことだろうか。
それはそれで傲慢なんじゃなかろうか。
などと省みる気持ちも少し持ちつつも、
自分の頭で考えなきゃ身にならん、
という構造のほうが強く働く。



サンスクリットを学ぶ場として、
東京大学仏教青年会を利用している。
きちんと文法や文献を学ぶことができる
一般の参加できる貴重な機会だと思う。
ここ2年くらいはZOOM講座という形になっていて、便利だ。

勢いあまって、他の講義も受講してみる。
チベット仏教入門。

河口慧海の『チベット旅行記』を読んでいる。
日本の僧侶が鎖国時代のチベットに山の経路から潜入した記録である。
『旅行記』なんて軽い表現だが、すさまじい旅だ。
これを読んで、チベットにちょびっと興味を惹かれた。

サンスクリットで書かれた仏典が漢訳されたものが
日本に伝わってきている。
日本では、それを漢語のまま読んでいるわけだ。
一方、チベット語訳もされている。
これが、正確性において漢訳より優れていると聞く。
なぜそういうことになるのか、という興味がちょびっと有る。

その程度の興味で、「チベット仏教入門」という講座を取ってみた。
話を聞いてりゃいいや、くらいの気持ちだった。
すんません。

仏教初心者も多いようだから、ということで、
丁寧な講義内容を準備してくださっていた。

チベットに仏教が入った歴史の話。
それから、チベット仏教ということに入る前に、
仏教の基礎の話。

そこで講師は、色々な質問を投げかけてきた。
「仏教信者ってどういう人のことを指すんですか?」
おお。知らないな。
キリスト教なら洗礼を受けた人と言って良いかもしれない。
けれど、仏教の場合、得度を受けたらそれは出家者だが、
在家の信者という立場だって有る。

「仏教信者ってどういう人のことを指すんですか?」
ある受講者が答える。
「さとりを目指して修行する人」
講師が問い返す。
「じゃあ修行していない人は仏教信者じゃないんですか?」
「・・・」

他の受講者が答える。
「仏法僧に帰依する人です。」
「ははは。それは何かそう聞いたんですか?」
まあ、今、そういうことになっていて、そう教えられるから
それが正解ということのようだ。

「では」と問いは続く。
「ブッダとはなんのことだと思いますか?」
「ダルマとはなんですか?」
「サンガとはなんですか?」

仏教に知識が無いので、
自分の知っていることから考えるしかない。
ブッダもダルマもサンガも、サンスクリットの単語だ。
そもそもの原義なら、私も考えることができる。

ブッダは動詞budh「知る」の過去分詞形buddhaで、
さとった、という意味になる。
ダルマは動詞dhR「保つ」からできていて、
様々な意味を持っているが、
この世界をこの形に保つもの=真理、法
という意味だろう。
サンガは集団のことだ。
僧侶が集まって生活する集団のことだろう。

他の受講者たちの答えを聞いていると、
どうも、どれもこれも教わった言葉をそのまま反復しているように聞こえた。
自分で考えて答えている感じがしないのだ。

ちゃんと勉強している人たちはすごいなあ、と感心する。
けれど自分は勉強しても身に付かないので、
自力で考えるしか無いな、と
立ち返る。



これでいいのかいな、
と思う。
仏教を学ぶ気持ちが、無い。
無いながらに「仏教入門」を受講している。
受講しても、やっぱり仏教を学ぼうという気持ちは生まれない育たない。



講師がまた問いかける。
「ではこの’仏法僧’の、どれが重要でしょうか?」

問答はつづく。
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