[あらすじ] 亡父と老母の蔵書を整理する。
本棚からは、本の他に、古いアルバムだの古いノートだのが出てくる。
亡父は日記を重視していた。
ある時、電車に日記帳を忘れてきてしまった。
まるで自分の半身を失ったかのように慌てふためいていた。
母は、日記を続けられないことを負い目に感じていたようだ。
私には、日記をつけろ日記をつけろとうるさく言った。
自分ができないことを子どもに言う母親の典型であった。
私はだから、日記を書くことが良い事だと刷り込まれた。
※
自分というものにこだわることが心を縛り、
心が縛られて動きにくいことが元になって身体に症状が表れる。
私たちが「自分」だと意識しているモノは、過去のものだ。
今までどういうふるまいをしてきたか、今までどういう考えを持ってきたか、
今までのところどういう性格でどんな好みが有るか、
今までどういう経験をしてきたか。
それが「自分」を作っている。と、思っている。
それは今までの自分である。
全て、過去である。
「私は5年後には〇〇をするんだよねー。私らしいよねー。」
などと言うと、何かひっくり返ったような感じがして気味が悪い。
気味が悪いけれど、こういった発想で生きるほうが、
心身は健康でいられるようだ。
どこかに留まったり、ある状態を長く続けたりすると、
病む。
出入りが有ったり、周囲の影響を受けたり、流れたりするものは
生きる。
澱んだ水が腐り、川は自浄作用を持つのに似ている。
過去のものによって自分はこういうものであると規定するのは、
自分の流れを止めてしまうことになる。
※
だから、
何が有ったとかどう思ったとかそういうことを「記録」する
日記というものは、体に良くないと私は思う。
体イコール心という意味である。
そんなもんを習慣化させる教育には疑問も持つ。
悪いことばかりでもなさそうだけれど、
それは何か他の意味だろう。
※
ある芸能人が、緻密な記録ノートを何種類も付けているという。
17歳の時から、30年以上。
中には、食べたものの記録ノートも有る。
目的を持って記録するなら有意義だろう。
しかしこの場合、記録すること自体が目的になってしまっているようだ。
https://tver.jp/episodes/ep849p2fo2
番組の主人である漫才コンビ海原やすよともこのやすよも、
日記をつけていたという。
ただ書くだけで、別に読み返すことも無い。
あるとき、「振り返って何になんねん」と思い、やめたと言う。
※
振り返ってばかりいる人生より、
「振り返って何になんねん」と言って前を向いているほうが
生きやすい気がする。
こと振り返るというのは、出口の無い堂々巡りの物思いの入り口となりがちだ。
おもいわずらい、という言葉の通り、思いから患う。
過去に思いを持ちながら前に進むから、重い。
それに、過去は増え続ける。
ただし、保管した場合だ。
記録したりして保管したら過去は増え続けるけれど、
整理して適宜捨てたりすれば、増えたりしない。
※
故人が大切にしていたノートを捨てるには忍びない
という気持ちが有る。
しかしこれこそがまた、私自身が過去へのこだわりを持っている証拠じゃないか。
※
自分はこういう人間だ。と思っている像は、過去に在る。
次の一歩を踏み出すとか、新しい作品に取り掛かろうとかいう時に、
自分らしさのようなものにこだわると、手足が出にくくなる。
※
自分が前進するために、亡父の日記帳やアルバムを捨てる。
って、おかしくない?
自分の物を捨てろよ。
へいへい。そうなのだ。
物置や2階の部屋など、私の過去の物は、今、使っていない範囲に在る。
ひとまず、現在の生活範囲に在る過去の物を捨てるのはいいじゃないの。
死んだ兄を産んだ死んだ父の死んだ前妻の物など、ずいぶん重ね重ね死んでるじゃないの。
※
世田谷区では、古い写真を区民から募っているという。
100年前後のちょいムカシの人々の暮らしや、
町並みの様子などが見られて、良い資料となる。
自治体として面白い取り組みだと思う。
写真展を見に行ったことが有る。
私は道や地形に興味が有るので、景色の変化として楽しんだ。
喜んで貰ってくれる所が有るなら寄せたいものだが。
行き場が無いなら、薪ストーブで荼毘に付すことになる。
※
古いアルバムには当時の風俗が写っていて面白いので、
紹介したい写真も有る。
だが、古いアルバムをめくる時間を惜しんで、
色々な作業を優先したい。
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