犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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知ってるよ

2023年01月21日 | 椰子の実の中
大学の教員もしていた両親には、蔵書や書類がものすごく沢山在る。
当人たちの書いたものも多いが、読んでくださいと送られてきた本や原稿も多い。

「蔵書と書類の処分がたいへん。」と、ある人に言ったら、
「分かるぅぅ」と言われた。
いや、分かってない。
2万冊の蔵書や数々の原稿の束など、おたくには無いじゃないか。
内心そう思った。



ある人が、一人で子育てする中の苦心を語った時、
「うんうん、」とうなづいて聞いた。
すると、
「何が分かる!」とぶっ飛ばされた。
三十台前半の頃だったか。

その頃の私は子育ての経験も無かったし、
ぶっ飛ばされてもっともである。
後に私は、二人の子を持つ母の人と同居することになるが、
その生活とて、数年で手離してしまう。
親たることのなんたるか分かっちゃいないので、
やっぱりぶっ飛ばされてもっともだった。



こういう「分かる」が「知る」であって、
本当の意味での「知識」だと思う。



インド哲学論争の中で、
「何によって解脱に至ることができるのか。
知によってだ。行為によってだ。いやその両方だ。」
ということを延々と論じ合う。

ここで行為と言っているのが何か、ということも議論の対象になる。
やれやれ。
それは、バラモン教における祭祀のことを指していたりもする。
毎日のお供えとかお祓いみたいな、善い行いのことだ。
あるいはまた、自分の生まれついての身分的な役割を粛々と行うことを意味していたりもする。

そして、「知」と言っていることは何か。

「知」とか「知識」とか言うと、
どうも頭でっかちな意味と思える。
机に向かってとか、本から得るとか、師匠から教わるとか。

しかし、「知」にはもう一つの側面が有る。
自分で身をもって体験して知る、ということだ。

これ以上の知は無い。
なんせ経験して知っているので、忘れないし、
質感のようなものも伴っている。

言葉の羅列のようなものではない。
むしろ言葉では説明できないような感触も含めて「知」っている。
それが、本当の知なのだ。



「知」と言った時に、
学問のことを意味しているのではなく、
実体験のことを指しているのだ、とは
なかなか思いにくいのではないだろうか。

「知」か「行為」かと言ったら、
なんだか「行為」という言葉のほうが「実体験」の意味に近い気がする。



こういう、単語の含んでいる意味合いといった部分は、
個人的に文献を読んでいても、分からない。分かりゃしない。
分かるわけないわ。分かりにくく書いてあるんだから。
実体験のことを指しているんなら「実体験」って書けよ!
「知」じゃ他の意味に取れるじゃないか!

と、古代インド人に対して文句を言いたくなってくる。

わざと分かりにくい言葉で言ってやしないか?
と勘繰りたくもなってくる。
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