[あらすじ] 以前の自分らしい音がやっとちょっと出た。
リハビリというのはなかなか進まないのが世の常のようだ。
私のトロンボーンリハビリも、何度か挫折してきた。
なぜリハビリは進まないか。
それは、なかなかにしんどいからだ。
なぜリハビリはしんどいか。
以前はできていたことをわざわざ訓練するからだ。
何も意識せずにできていたことを、大人になってから訓練するのはしんどい。
なぜそれがしんどいか。
当たり前のことができない、ということで自己評価がぐんと下がるからだ。
こんなこともできないなんて、なんて自分はダメなんだ、と落ち込みがちなのだ。
※
老母は、以前はせかせかと歩く人だった。
子どもも夫も置いて先へ行ってしまえ、という様子だった。
一方で散歩を楽しむことも好きで、深大寺へ引っ越してからは
周辺を一緒に歩きまわったものだ。
しかし、70代になって、パーキンソン病と変形性股関節症から、歩きにくくなった。
カートを押して、毎日少しずつ歩くのがリハビリの一環だが、
歩きにくいし、歩けば疲れるし、どこか痛むし、歩きたくない。
あんなに歩いていた人が、
「あるくのきらい」
とこぼしたりした。
またある時は、
「ふつうにあるけるようになりたい」とか、
犬たちに向かって
「もうすぐいっしょにおさんぽについていくからね」と
言ったりもする。
元気に歩きたい気持ちと、実際はしんどいという現実との間で、
気持ちはいつも揺らいでいる。
※
でもどうしても吹きたい。
もっと(以前のように)広い音域を使いこなしたい、
もっと(以前のように)いろんな音色を使い分けたい、
もっと(以前のように)キレの良いリズムを出したい。
しかし、どれを取っても以前の私に敵うわけが無い。
毎日楽器中心の生活をして、年に40本のライブをやって。
と、どうしても全盛期と比較してしまう。
これがいけない。
一番吹けていた頃の自分の音と比較するからつらい。
ずっと吹いていなかった後なのだから、ほぼ初心者のようなものだ。
しかし、初心者扱いすることが難しい。
そこが我慢のしどころだ。
初心者なんだから、一個音が出ただけでもしめたものだ。
次の音に移動できただけでもしめたものだ。
音が頭からはっきり出たらずいぶん上達した方だ。
と、評価基準をぐっと下げる。
すると、ほめどころがある。
気が遠くなる。
一体いつになったらマトモに吹けるようになるのか。
いつステージに立てるのだ。
しかし、考えてみれば最初はそうだったのだ。
ひとつひとつの段階を進んできたのだ。
以前できていたところまでは、その段階と道筋を知っている。
それだけでもずいぶん得をしている。
あの時は教えてくれる先輩がいた。
何かができれば、ほめてくれた。
今は、その役割も自分がするのだ。
※
ヒトとして、赤ん坊の頃から成長していく中で体得してきたことがらだと、
評価基準を下げるという作業も難しいだろう。
歩けるようになった時のことを憶えているかい?
たぶん、楽に歩けたわけじゃない。
ずっと何かにつかまっていたけれど、その手を放すのは怖かったはずだ。
つかまる物の何も無いところを、なぜ歩いた?
触ってみたい何かが有ったからか、
おいしそうな物が置いてあったからか、
お母ちゃんが手を広げて待っていてくれたからか。
※
リハビリには、そういった具体的な嬉しい目標を設定すると良いのだと思う。
リハビリというのはなかなか進まないのが世の常のようだ。
私のトロンボーンリハビリも、何度か挫折してきた。
なぜリハビリは進まないか。
それは、なかなかにしんどいからだ。
なぜリハビリはしんどいか。
以前はできていたことをわざわざ訓練するからだ。
何も意識せずにできていたことを、大人になってから訓練するのはしんどい。
なぜそれがしんどいか。
当たり前のことができない、ということで自己評価がぐんと下がるからだ。
こんなこともできないなんて、なんて自分はダメなんだ、と落ち込みがちなのだ。
※
老母は、以前はせかせかと歩く人だった。
子どもも夫も置いて先へ行ってしまえ、という様子だった。
一方で散歩を楽しむことも好きで、深大寺へ引っ越してからは
周辺を一緒に歩きまわったものだ。
しかし、70代になって、パーキンソン病と変形性股関節症から、歩きにくくなった。
カートを押して、毎日少しずつ歩くのがリハビリの一環だが、
歩きにくいし、歩けば疲れるし、どこか痛むし、歩きたくない。
あんなに歩いていた人が、
「あるくのきらい」
とこぼしたりした。
またある時は、
「ふつうにあるけるようになりたい」とか、
犬たちに向かって
「もうすぐいっしょにおさんぽについていくからね」と
言ったりもする。
元気に歩きたい気持ちと、実際はしんどいという現実との間で、
気持ちはいつも揺らいでいる。
※
でもどうしても吹きたい。
もっと(以前のように)広い音域を使いこなしたい、
もっと(以前のように)いろんな音色を使い分けたい、
もっと(以前のように)キレの良いリズムを出したい。
しかし、どれを取っても以前の私に敵うわけが無い。
毎日楽器中心の生活をして、年に40本のライブをやって。
と、どうしても全盛期と比較してしまう。
これがいけない。
一番吹けていた頃の自分の音と比較するからつらい。
ずっと吹いていなかった後なのだから、ほぼ初心者のようなものだ。
しかし、初心者扱いすることが難しい。
そこが我慢のしどころだ。
初心者なんだから、一個音が出ただけでもしめたものだ。
次の音に移動できただけでもしめたものだ。
音が頭からはっきり出たらずいぶん上達した方だ。
と、評価基準をぐっと下げる。
すると、ほめどころがある。
気が遠くなる。
一体いつになったらマトモに吹けるようになるのか。
いつステージに立てるのだ。
しかし、考えてみれば最初はそうだったのだ。
ひとつひとつの段階を進んできたのだ。
以前できていたところまでは、その段階と道筋を知っている。
それだけでもずいぶん得をしている。
あの時は教えてくれる先輩がいた。
何かができれば、ほめてくれた。
今は、その役割も自分がするのだ。
※
ヒトとして、赤ん坊の頃から成長していく中で体得してきたことがらだと、
評価基準を下げるという作業も難しいだろう。
歩けるようになった時のことを憶えているかい?
たぶん、楽に歩けたわけじゃない。
ずっと何かにつかまっていたけれど、その手を放すのは怖かったはずだ。
つかまる物の何も無いところを、なぜ歩いた?
触ってみたい何かが有ったからか、
おいしそうな物が置いてあったからか、
お母ちゃんが手を広げて待っていてくれたからか。
※
リハビリには、そういった具体的な嬉しい目標を設定すると良いのだと思う。
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