[あらすじ] 同居母86歳パーキンソン病要介護2認知症状少々、
ショートステイの七夕イベントで短冊に願い事を書いた。
【私にとって最も大切なことを、いま、すぐ教えて下さい。】
残りの時間が少ないのです。
私に今すぐ教えてください。
いやいや、パーキンソン病は毎日思い知らされる病気ではあるけれど、
命に関わる病気ではない。
癌で余命宣告されている人にとっての残りの時間と、
まったく意味が違う。
※
自分が、残りの時間というものについてどう考えてきたか、思う。
私が8歳の時に、兄が20歳で自動車の単独事故で死んでいる。
若くたって人は死ぬ。
自ら命を断った友人もいる。未遂に終わった友人もいる。
年を取ってから自死した身近な人もいる。
20歳の頃に出会った40歳の人が、
「今、人生のちょうど真ん中。言わば山頂にいて、あとは下り坂なんだ。」
と言うのを聞いて、アホかいなと思ったのを憶えている。
一歩先は断崖かもしれない。
断崖かもしれないと思っていないから断崖に気付かずに踏み外して転落する。
新しい自分の家族と思えた人たちと一緒に暮らしていた頃にも、
私は自分の寿命を60歳と設定していた。
当時私は鍼灸の学校に通っていた。
何かの授業で治療モデルとして取り上げて年配の先生が言った。
「平均寿命85歳という時代に、60歳という設定は何か問題が有りそうですね。」
※
平均寿命が85歳だから自分もきっと85歳くらいまで生きるのだ。
というふうに私は考えられない。
そんなふうに人生設計できない。
いつ何で死ぬか分からない。
そう思いながら、しかし、かなり健康な身体をもって、
何週間か、何ヶ月か、何年後かにまでは実現したい事など、
いくつか計画を持ちながら生きている。
※
年寄りから見て、若い中年の者に年寄りの気持ちなぞ分からない、
というふうに思うのは、当たり前に有ることだと思う。
ただ、私の生きる時間への思いは、
そういう見方をする人には分かりにくいだろう、とも同時に思う。
それは世代の問題ではなく、個人の問題だ。
世代のギャップで分からないのではなく、個人的な感覚やものの捉え方考え方の違いでしかない。
※
ちょいとずらして例えば、
中年の自分の気持ちなど三十代や十代の人に分かるわけがない、
と自分は思うか。
私は、そんなふうに他人を否定してもなんも自分にとって気分の良いことは無い、と思う。
自分より年下の人から学ぶ姿勢も捨てることになる。
「若い者に年上の気持ちは分からない。」と言うのは、
自分の気持ちを分かって欲しい、ということを
世代の違いにかこつけて言っているだけだろう。
そんなことで自分より若い人との関係に壁を作るくらいなら、
同世代と愚痴を言い合っているほうがずっと平穏だ。
※
明日死ぬとしたら今日何をする?
という質問が有る。
そこで、その質問に対する答えをあれこれ考えるわけだ。
考えていくうちにしかし、その「明日死ぬとしたら」っていう前提は必要無い
と気付く。
生きている間にやっておきたいことなら、今やればいいじゃないか。
いつ死ぬかなんて、いつまで生きているのかなんて、分からないのだから。
いつ死ぬかなんて、分からない。
健康でも、若くても、治安が良くても、平和でも。
※
あ、ちょっと待てよ、五十代から
もうだめだ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ
と言っていた父も、85歳まで生きた。
自分の期待よりも生き永らえちゃうっていう問題も、
表裏一体。
ああ、これが有るから私は、自分の願いとして
「寿命は60歳」という設定をしていたのだろうな。
ショートステイの七夕イベントで短冊に願い事を書いた。
【私にとって最も大切なことを、いま、すぐ教えて下さい。】
残りの時間が少ないのです。
私に今すぐ教えてください。
いやいや、パーキンソン病は毎日思い知らされる病気ではあるけれど、
命に関わる病気ではない。
癌で余命宣告されている人にとっての残りの時間と、
まったく意味が違う。
※
自分が、残りの時間というものについてどう考えてきたか、思う。
私が8歳の時に、兄が20歳で自動車の単独事故で死んでいる。
若くたって人は死ぬ。
自ら命を断った友人もいる。未遂に終わった友人もいる。
年を取ってから自死した身近な人もいる。
20歳の頃に出会った40歳の人が、
「今、人生のちょうど真ん中。言わば山頂にいて、あとは下り坂なんだ。」
と言うのを聞いて、アホかいなと思ったのを憶えている。
一歩先は断崖かもしれない。
断崖かもしれないと思っていないから断崖に気付かずに踏み外して転落する。
新しい自分の家族と思えた人たちと一緒に暮らしていた頃にも、
私は自分の寿命を60歳と設定していた。
当時私は鍼灸の学校に通っていた。
何かの授業で治療モデルとして取り上げて年配の先生が言った。
「平均寿命85歳という時代に、60歳という設定は何か問題が有りそうですね。」
※
平均寿命が85歳だから自分もきっと85歳くらいまで生きるのだ。
というふうに私は考えられない。
そんなふうに人生設計できない。
いつ何で死ぬか分からない。
そう思いながら、しかし、かなり健康な身体をもって、
何週間か、何ヶ月か、何年後かにまでは実現したい事など、
いくつか計画を持ちながら生きている。
※
年寄りから見て、若い中年の者に年寄りの気持ちなぞ分からない、
というふうに思うのは、当たり前に有ることだと思う。
ただ、私の生きる時間への思いは、
そういう見方をする人には分かりにくいだろう、とも同時に思う。
それは世代の問題ではなく、個人の問題だ。
世代のギャップで分からないのではなく、個人的な感覚やものの捉え方考え方の違いでしかない。
※
ちょいとずらして例えば、
中年の自分の気持ちなど三十代や十代の人に分かるわけがない、
と自分は思うか。
私は、そんなふうに他人を否定してもなんも自分にとって気分の良いことは無い、と思う。
自分より年下の人から学ぶ姿勢も捨てることになる。
「若い者に年上の気持ちは分からない。」と言うのは、
自分の気持ちを分かって欲しい、ということを
世代の違いにかこつけて言っているだけだろう。
そんなことで自分より若い人との関係に壁を作るくらいなら、
同世代と愚痴を言い合っているほうがずっと平穏だ。
※
明日死ぬとしたら今日何をする?
という質問が有る。
そこで、その質問に対する答えをあれこれ考えるわけだ。
考えていくうちにしかし、その「明日死ぬとしたら」っていう前提は必要無い
と気付く。
生きている間にやっておきたいことなら、今やればいいじゃないか。
いつ死ぬかなんて、いつまで生きているのかなんて、分からないのだから。
いつ死ぬかなんて、分からない。
健康でも、若くても、治安が良くても、平和でも。
※
あ、ちょっと待てよ、五十代から
もうだめだ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ
と言っていた父も、85歳まで生きた。
自分の期待よりも生き永らえちゃうっていう問題も、
表裏一体。
ああ、これが有るから私は、自分の願いとして
「寿命は60歳」という設定をしていたのだろうな。
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