このシリーズの第1回目(5月8日付)で、前回訪問時以上に対日親善の強さを感じて「改めて日本統治時代の児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造らの事業を思い起こした」と書いた。この3人に加え八田興一や井沢修二などはあまりにも有名である。
児玉源太郎は、台湾総督の傍ら日露戦争の現地指揮にも当たるなど、並外れた逸材であったようだ。その児玉総督の下で、後藤新平は水道や道路など台湾のインフラの基礎を築き、新渡戸稲造は砂糖を中心にした産業を興す。八田興一は南部の大ダム工事により不毛の地を農地に変え、井沢修二は教育の基礎を築く・・・。
今回の訪問に際していろいろ読むと、そのほかに西郷菊次郎(西郷隆盛と沖縄の愛加那との間の子)の治水工事や、明石元二郎総督の台湾帝国大学創設の路をひらくなど善政がたくさんあり、森川という巡査は村民に慕われて神様として祭られているという話まである。八田興一にいたっては、夫妻の墓が作られ命日には今でも現地の人による供養が行われているという。(『地球史探訪「台湾につくした日本人列伝」』より)
祀られている言えば、大御所児玉源太郎について、その『地球史探訪』に次のような記述がある。
「児玉の死後、江ノ島に神社を作ろうという議がおこったが、予算11万円に対し、集まったのはわずか3千円であった。このことが台湾に伝わると、残りの金額はわずか2週間で集まった。」
要するに、日本人より台湾の人々に彼らは慕われていたのだ。
誰をとっても、明治から大正にかけての日本人の中で最も傑出した人物ばかりに思える。それがみんな台湾に出かけ、理想と全人智を傾けて「新しい国つくり」をやったのではないか?
その間日本には、あえて名前は挙げないが小物ばかりが残り、日本を変な国にしてしまったのではないか?
とはいえ植民地支配をよいとはいえない。しかし彼らであれば、当時の人にはもちろん後世の人々にも喜ばれた政治をやったであろうとも思う。
要するに為政者の人物が、いかに重要であるかという証左ではあろう。
それに引き換え、現国政に携わっている人物の、なんと貧弱なことか。