前回のブログで、台北基督長老教会の中で日本語が国境を越えて飛び交う日台親睦について書いたが、その根底には、まさに国境のない音楽の巣晴らしがあったのであろう。
長老教会側は、松年詩班、男声詩班、婦女詩班の三つのコーラス隊が宗教歌を中心に歌い、わが登戸混声合唱団がそれぞれの間に三つのステージを歌った。私は当初、本番の7時半前に4時から行うリハーサルの間を抜け出して、かねてから行きたいと思っていた「永康街」をでも歩きたいと計画していたが、結局、2時間半のリハーサルと本番2時間をすべて聴いた。そして、後期高齢者を多く含む高齢者合唱団の美しいハーモニーに感動した。
第一に、私と同年輩もしくは年上の人たちが、熱心な根気強い発声練習を重ね、女性の声に美しいテノールとバスの響きが重なり、重厚なハーモニーを生み出す登戸混声合唱団の面々に言い知れぬ劣等感を抱いた。
「・・・俺には歌えない歌を、この人たちは歌っている。今から始めても、俺はもう間に合わないだろう・・・。」
翌日その面々にこのことを告げると、一斉に返ってきたのは、
「とんでもない。十分に間に合う。明日からでも一緒に始めないか」
という言葉であった。その中には私より年上の後期高齢者が何人もいた。中でも次の言葉は心に残った。
「私たちの指導者片野先生の口癖は、『歌にもその人の人生経験が表れる。豊富な人生経験の蓄積が、いい音を生み出すのだ』ということです。年を重ねるほど歌えるし、また歌わなければいけない。」
私は、この人たちをいっそううらやましく思った。
第二に私が告げたことは、「私はただ劣等感にさいなまれただけではなかった。ひとつ誇りに思ったことがある。それは『日本には何ときれいな音楽があることか・・・』ということでした。異国で聞く日本の曲はこんなに素晴らしいものかと思いました。」ということであった。(第二ステージの「ふるさと」「見上げてごらん夜の星を」「ほたる」「箱根八里」「富士山」など)
私は楽しみにしていた永康街を見ることができなかったが、もっと大切な経験をしたと思っている。これが単なる観光旅行にない「目的を持った旅」のよさであろう。