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旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

台湾紀行(4)--酒文化の未成熟な国(つづき)

2008-05-13 16:37:56 | 

 

 スピリッツ系の酒はいざしらず、醸造酒は一般的には食べながら飲まれるものが多い。ワイン、日本清酒、紹興酒などはもちろん、ビールものどの渇きを潤すためもあるが、食べ物とともにあるといえよう(特にベルギービール)。だから醸造酒を生み出した国々では食文化が発達する。ワインの国のフランス・イタリア・スペイン料理、紹興酒の国の中華料理、清酒の国の日本料理(特に懐石料理)など。
 ところが台湾では、料理こそ美味しい料理がたくさん生み出されているが、酒の種類は極めて乏しい。前回書いたように、そもそも料理とともに酒を飲むという風習があまりない。私が行った「青葉」という台湾料理屋のメニューには、少なくとも80種類の料理が写真入で載っており、選ぶのに迷うほどであった。ところが酒はビール一種類(台湾ビール)と紹興酒だけであった。ビールはそもそもドイツなど西欧で育った酒だ。紹興酒は台湾でも造られているが中国大陸の紹興市で生まれた酒である。
 つまり台湾には自ら生み出した酒がないのではないか? 一つ私の知っている酒は「小米酒」という台湾原住民の酒だ。名前の通り米で造られたどぶろくのような酒である(前回訪問時に『漂流木』という店で飲んだ)。しかし前述の「青葉」など置いてもいない。この酒を、搾って清酒にするなど、造り方や米の種類などを工夫していけば、日本の地酒が多様に花咲いたように、多種多様な酒が出来て、同じく多種多様な台湾料理とさまざまなマッチングを生み出すはずだ。
 
なぜそのようにならないのか?
 
いろいろと理由はあるだろうが、最大の理由は、台湾では酒は国の専売事業であることに起因していると思う。日本統治時代の1922(大正11)年、日本の帝国議会は台湾での酒の専売を可決し(つまり民営を国有化した)、以来80年、2002年まで台湾は酒の専売を続けて来た。
 つまり民営化されて日が浅い。民営化されてないと多種多様な酒は生まれにくい。ましてや競争がないので、より美味しい酒を造ることも求めることも起こりにくい。
 私は多種類の、美味しい台湾料理を食べながら「何ともったいないことか・・・」と嘆いた。もっとも台湾の人は「要らぬお節介」と言うかもしれないが・・・(再び続く)
                                                       


台北紀行(3)--酒文化の未成熟な国

2008-05-11 13:53:49 | 

 

 紀行では冒頭から日台親善や音楽のことを書いているが、3日間、いつもそのようなことばかりを考えて過ごしたわけではない。観光もし、大いに食べ、当然のことながら酒を飲んだ。
 初日の夜、レストランでの台湾料理夕食会の後、明日の演奏会に備えるワイフをホテルに残して、ある人と台湾料理の店に出かけた。ある人とは、出発前に知人に紹介された方で、日本でかなりのチェーン店を持つ飲食店の台湾地区責任者である。(さしさわりがあると悪いのでA氏とする)
 私はホテルに着くやA氏に電話した。「台湾の人々の酒の飲み方や風習を知りたい。ついては、日本で言う『居酒屋』に行きたい」と。ところが氏の返事は、
 「紹介者からそのようなご要望を聞いていた。しかし台湾には、いわゆる日本の居酒屋はない。というよりも、台湾には食べながら、酒を飲みながら、いつまでも話し合う、というような風習はない。最初に乾杯で飲み交わすが、一気に飲み干して後はひたすら食べ、食べ終わったらさっさと帰る・・・」
というのが返事であった。私はやや驚いたが、「それはそれとして、折角だから台湾料理の店に出かけ、そのような台湾食文化について話し合いましょう」というA氏のお誘いを受けて出かけた次第。

  中山北路の「青葉」という店。かなり大きく雰囲気は居酒屋風。しかしそういえば、丸テーブルを囲んだ何組かの客はせっせと食べている雰囲気。いくつかのテーブルで酒を飲み気勢を上げているので、「けっこう飲んで騒いでいるではないですか」と聞くと、A氏の答えは「あれはみな日本人です」・・・・・・なるほど、なるほど。
 「青葉」のメニューは百種類ぐらいの料理が並んでいた。しかし酒は「台湾ビ-ル」と「紹興酒」しかない。A氏と二人で紹興酒のボトル一本を開けながら、台湾の酒文化についていろいろと考えた。(長くなったので続きは次回)
                            


台北紀行(2)--音楽(特に合唱)の素晴らしさ

2008-05-10 12:05:30 | 

 

 前回のブログで、台北基督長老教会の中で日本語が国境を越えて飛び交う日台親睦について書いたが、その根底には、まさに国境のない音楽の巣晴らしがあったのであろう。
 長老教会側は、松年詩班、男声詩班、婦女詩班の三つのコーラス隊が宗教歌を中心に歌い、わが登戸混声合唱団がそれぞれの間に三つのステージを歌った。私は当初、本番の7時半前に4時から行うリハーサルの間を抜け出して、かねてから行きたいと思っていた「永康街」をでも歩きたいと計画していたが、結局、2時間半のリハーサルと本番2時間をすべて聴いた。そして、後期高齢者を多く含む高齢者合唱団の美しいハーモニーに感動した。
 第一に、私と同年輩もしくは年上の人たちが、熱心な根気強い発声練習を重ね、女性の声に美しいテノールとバスの響きが重なり、重厚なハーモニーを生み出す登戸混声合唱団の面々に言い知れぬ劣等感を抱いた。
 「・・・俺には歌えない歌を、この人たちは歌っている。今から始めても、俺はもう間に合わないだろう・・・。」
 翌日その面々にこのことを告げると、一斉に返ってきたのは、
 「とんでもない。十分に間に合う。明日からでも一緒に始めないか」
という言葉であった。その中には私より年上の後期高齢者が何人もいた。中でも次の言葉は心に残った。
 「私たちの指導者片野先生の口癖は、『歌にもその人の人生経験が表れる。豊富な人生経験の蓄積が、いい音を生み出すのだ』ということです。年を重ねるほど歌えるし、また歌わなければいけない。」
 私は、この人たちをいっそううらやましく思った。
 第二に私が告げたことは、「私はただ劣等感にさいなまれただけではなかった。ひとつ誇りに思ったことがある。それは『日本には何ときれいな音楽があることか・・・』ということでした。異国で聞く日本の曲はこんなに素晴らしいものかと思いました。」ということであった。(第二ステージの「ふるさと」「見上げてごらん夜の星を」「ほたる」「箱根八里」「富士山」など)

 私は楽しみにしていた永康街を見ることができなかったが、もっと大切な経験をしたと思っている。これが単なる観光旅行にない「目的を持った旅」のよさであろう。
                            
                                             


台北紀行(1)ーー親日感に包まれた日台合唱公演

2008-05-08 14:52:33 | 

 

 私の二度目の台湾旅行は、登戸混声合唱団の交流ツアーに参加するワイフのご相伴の旅となったが、この旅で台湾の人々の、特に年配の方々の深く強い親日感情を改めて感じた。二年前の台北訪問のとき、冒頭から、ガイドの呂さんに「現在の台湾の繁栄は日本のお陰だ。中国のお陰でも蒋介石のお陰でもなく、日本の統治時代にその基礎が築かれた」と褒め上げられ、聞いてはいたが「本当に日本の植民地支配は台湾に善政を施したのか?」と、大きな疑問を抱えながらその挨拶を聞いたのであった。
 人の国を植民地支配して喜ばれるというのは、どうもむずがゆく、まゆつばものだ。ところが今度の交流会で、いっそうその親日感を見せ付けられた。

 そもそも交流した合唱団が、どちらもご年配の合唱団であったことに「親しい日台」の原因があったのかもしれない。こちらの『登戸混声合唱団』の平均年齢は、私の見た目では60台後半であろう。迎える台湾側は『大安長老教会』に属する三つの合唱団で、その名も示すとおり長老連中である。その中の「松年(しょうねん)合唱団」(台湾の「しょうねん」は年寄りのこと。少年ではなく松年、つまり松は長寿の植物)の平均年齢は登戸より上であろう。
 この長老たちの大半は日本語を話す。顔かたちから体つきも含め外国に来た感じはほとんどなかった。観客の人たちも、互いに日本語で話す人が多かった。私たちのそばによってきて、登戸混声合唱団の出し物の中の「箱根の山を聞きたくて来ました」とか「富士山の歌が好きです。聞けるのが楽しみです」という調子である。
 最も早く来場した老人が私たちのところに来て、「日本の方ですか? 私は大正6年生まれ、数えで92歳です」と名乗られたのには驚いた。背筋は伸び、色艶もよく、日本人と全く変わらない流暢な日本語を話した。

 この親密感は、表面的なとり繕いでは生まれない。決してへりくだった態度ではないが、日本に対する全幅の信頼が根底にあるような気がした。
 日本の植民地支配は本当に善政であったのか? 改めて、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造などの名前が頭によみがえってきた。
                              


めぐり来る菖蒲の季節

2008-05-04 12:42:08 | 時局雑感

 

 昨夜風呂に入ると菖蒲の束が浮いていた。
 「ああ・・・、端午の季節がやってきたのだ」と、あらためて湯舟に四肢を伸ばした。菖蒲は「邪気をはらう」とされており、男児の節句に菖蒲湯を沸かして子供の健康と成長を祈るのが日本の習慣だ。
 だから、
この菖蒲湯は明日、つまり5月5日とすべきであろうが、昨日のブログで書いたように、明日は早朝から台湾に出かける。そのためにワイフは二日早めてこの古来の行事を済ませたのであろう。いまや子供もいない家族であるが、このような行事を忘れることなく行ってくれるワイフの配慮がうれしい。私などはまったく忘れているのであるが、夏の土用に鰻の蒲焼が出たり、冬至の湯舟に柚子が浮いていたりする度に、ワイフの細かい心遣いに感謝する。

 「何かこのようなことを書いたなあ・・・?」と思い出して、昨年のブログをめくると、昨年もそのことを書いてあった。(07年5月6日「菖蒲湯に浸かって」ご参照)
 一年はあっという間にめぐってきたのだ。この間、なんとか健康を保ってきたのは、昨年の菖蒲湯のお陰かもしれない。二日早めてくれた今年の菖蒲湯で邪気をはらい、元気を取り戻して、明日から二泊三日の台湾旅行に出かけよう。新たな見聞が、また新たな活力を養ってくれるだろうから。
                             


再び台湾に行くことになった

2008-05-03 13:08:38 | 

 

 ひょんなことから再び台湾に行くことになった。明後日(5月5日)からワイフの合唱ツアーにお供することになったのだ。もちろん私は歌わないが、指揮者の先生が大変な酒好きらしく、その酒の相手をしてくれというのだ。当然のことながらその大先生には酒の相手など不要であろうが、2年前に初めて行った台湾に、機会があればもう一度行きたいという思いがあったので、渡りに船と行くことにしたのだ。
 先の短い命だ。機会があればすべて乗っかるというということにしている。
 そういえば、2年前の台湾行もひょんなことから行くことになったのだ。毎年正月に七福神めぐりをしている酒飲み会が、都内近郊の七福神コースを回りつくしたので、「台湾に七福神コースがあるかもしれないから行ってみよう」と、2006年正月に戯れまじりに行ったのだ。
 行ってみると、日本七福神の原型と称する「八仙人」に出くわすなど驚いたのであるが、それよりも、スマートに変身しつつある台湾にいろいろと魅力を感じた。
 「俺はもっと早くこのお隣の国に来るべきだった」という思いも重なり、再訪の機会を狙っていたのである。

 「二泊三日の台北旅行」は、同じJTBさんの企画ということもあり、ホテルから訪問先までほとんど前回と同じである。しかし私にはコーラスのリハーサルの必要がない。その合間を縫って、前回歩く時間の無かった先々を回ろうと計画している。
 歩きたい町の一つは「永康街」・・・、前回は西門町が面白かったが。
 もう一つは「台湾らしい居酒屋」・・・、これを探すのがむつかしい。そもそも台湾には「酒文化」が花咲いていない。その原因は酒の専売制度にあると思っている。そこらあたりを現場の中で勉強したいのだ。
 もう一つは、前回から引き継ぐ大きな課題で、「台湾人は、本当に日本の植民地支配を『善政』と思っているのか?」ということの解明である。もちろん、そのようなことが、わずか3日で判るはずはないが。

 その前に、今日は45回目の結婚記念日なので、ワイフと娘と日本の食事をしてきます
                             
                                               


デンマークに学ぶ

2008-05-01 14:15:19 | 政治経済

 

 『なぜ、デンマークは幸福な国をつくることに成功したか どうして、日本では人が大切にされるシステムを作れないのか』(ケンジ・ステファン・スズキ著、合同出版)という長い長い題名の本がある。今まで接した一番長い題の本のようだ。しかしそれだけに、本の趣旨は言い尽くされているとも言える。
 著者はれっきとした日本人だが、今やデンマークの国籍を取得して当地に住んでいる。自分を元日本人と書いたりしているが、元日本人として日本の現状を見るにしのびず、この本を書いたようだ。あらゆる面で素晴らしい本だ。

 デンマークの歴史を見ると、バイキングの国であったように自ら略奪もし、またドイツなどに絶えず苦しめられてきたようだ。しかし今は「全世界で民主主義が最も進んでいる国」(世界銀行発行の『全世界の当地指数』)であり、万人の認める高福祉国家である。医療費も教育費も全て無料、しかも国の収支は黒字。(その裏には国民の高負担があるのだが)
 その他、この本について書きたいことが山ほどあるが、一番強調したいのは、著者が「戦争しない決め手は、食料とエネルギーの完全自給にある」として、デンマークの取り組みを強調している点だ。
 デンマークは氷の下にあった国で、元来不毛の土地であった。それを耕し育て続けて、今や食料自給率300%、酪農製品では世界有数の輸出国である。また石油も石炭もないこの国は第一次オイルショック時代のエネルギー自給率は1.8%であったが、国民の総意で風力電力などを生み出し、今やエネルギーの自給率も156%に達し電力を輸出している。そして著者は、「食料とエネルギーの自給率を高める課題は当面の安全・安心だけでなく、国際社会の共生を含めた世界を平和な構造に変革していく上で不可欠な政策」(163頁)と書いている。
 加えて、日本がこの二つの自給率を確保していたら、アメリカの尻馬に乗ってイラクに自衛隊を派遣することはなかったのではないかと、ドキリとするような指摘をしている。
 医療問題なども含め、日本の現状を考え直す材料に満ち満ちた本である。
                             


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