旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

近づいてきた「西馬音内盆踊り」の旅

2012-08-12 14:49:40 | 

 

 今夏最後の大行事は、西馬音内盆踊りを見学する秋田への旅だ。「白馬Alps花三昧」と「オペラ“秘密の結婚”」、それにこの秋田旅行を“夏の三大行事”と位置付けていたが、いよいよその 初日(17日)、最後の取り組みが近づいてきた。“夏の…”とはいえすでに立秋を過ぎたので秋であるが、この残暑では立派な夏である。

 どうせ秋田に行くのなら…、という思いもあって、二泊三日のこの旅を何とか有意義に過ごしたいと、「秋田についてはいささかウルサイ」と自負している私は「盆踊り前後の計画」につき相談を受けていた。前2行事の合間を縫って準備してきた骨格はやっと次のようにまとまった。
 題して『西馬音内盆踊りに惹かれて“秋田文化の旅”』…、スケジュールは以下の通り。

 初日(17日) 
朝6時調布発、バスで東北道を北上、朝食、昼食休憩をはさん
で14時、秋田県羽後町役場着。踊り参加の手続きなどを終え
て、「地元の人の打つ蕎麦を囲んで交流会」、そのあと宿「わ
か杉」へ。20時30分から23時15分まで盆踊りに参加(私
は飲みながら見学)

 2日目(18日)  
宿を9時出発して「角館」へ。東北の小京都と佐竹氏の歴史
をたどる。12時「たざわ湖芸術村」で昼食、地ビールと「わ
らび座」文化を味わう。その後、田沢湖を回り、「たつ子伝
説」、「くにます伝説」に触れる(希望者は芸術村に残り、ゆ
っくり温泉に入ることもできる。19時までに宿に着、準備を
整えて昨夜通り盆踊りに参加(私も同前)、23時30分に宿
に帰着、「反省会」と称して「最後の夜の大宴会」

 3日目(19日) 
9時出発、浅舞酒造の杜氏(とうじ)森谷康市氏の案内で酒蔵
見学。開花期を迎えた「亀の尾」など酒米の田圃、湧水場、ソ
バ畑などを見て酒蔵へ。酒造りの説明と試飲をさせていただ
き、そば屋「彦三」へ。店主は自らそばを育てる「羽後町蕎麦
栽培研究会」の会長さん。珍品「そばの刺身」など食べなが
ら、もしかして店主の話が聞けるかも。13時過ぎには「彦
三」を出発、一路東京は調布市へ。バスの中では言うまでも
なく「総反省会」と称する大宴会……

 もっと欲張った計画もあったが、まあ、このくらいが良いとこだろう。本来この旅の目的は、「西馬音内盆踊りを踊る」というところにあるのだから。
         


オペラは広まるか?

2012-08-10 15:24:55 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 オペラ評論家のS氏の言によると、日本のクラシック音楽ファンは総人口の1%に過ぎず、オペラファンはそのクラシック音楽ファンの1%だということだ。日本の人口は約1億2千万人であるから、クラシックファンは120万人、オペラファンに至っては1万2千人ということになる。
 既にたびたび書いてきたように、娘は「ミャゴラトーリ」というオペラ制作集団を起こして何とかこの素晴らしいオペラを多くの人に聞いてほしいと活動をつづけているが、全国民の中から探し出すのにも困難なほどの1万2千人相手では、ドン・キホーテが風車に挑みかかるようなものではないか?

 しかし、今回公演した『秘密の結婚』(7月28日、29日)には、猛暑の中を延2百3,40人の人が来てくれた。私の銀行時代からの先輩、友人、後輩たちは数十人規模で毎回参加してくれる。あるいは山の会の人々、あるいは読書会の人たちで、その中にはオペラは初めて見るという人もたくさんいたが、その人たちも毎回来てくれる。
  たまたま旅行先(シチリヤ)で一緒だった人たちで、6、7名の方々が毎年参加してくれる。そして「とても良い企画だから次も楽しみです」と言ってくれる。

    

 先月「白馬Alps 花三昧」に一緒に行った『山びこの会』の人たちは、毎回何十名規模で来てくれるのだが、その中のMさんは、今回ご子息夫妻とお子さん二人(つまりお孫さん二人)とともに来てくれた。そして次のようなメールをくれた。
 「息子夫婦とは離れて暮らしているので話すことも少ないが、今回は嫁も喜んでくれた。2歳の子は外に出たり寝たりしていたが、4歳の子はかなり興味深く見ていた。嫁からは次の公演はいつかと尋ねられている。私も親の面目を少しは果たすことができた…」

 何よりもうれしかったのは、4歳のお孫さんが興味深く聞いてくれたということだ。おそらく初めて目前で聞く歌手たちの声量に驚いたかもしれない。4歳ごろからよい音楽に触れることは、その子の将来にとって決して無駄ではないだろう。そのことをお嫁さんが重視してくれたとすれば、公演を企画した娘も冥利に尽きるものがあろう。

 もしかして、ここ数年の「ミャゴラトーリ」の公演で数十名ぐらいはオペラファンが増えて、1万2千とんで50人ぐらいにはなっているかもしれない。

     


結婚披露の新しいかたち

2012-08-06 19:56:17 | 時局雑感

 

 わが社の中堅社員二人が結婚した。いわゆる職場結婚であるが、いつどのように結ばれてきたのか、結婚ということで何がどう変わるのか、常にまわっている時計の針のように自然な変化を披露されたような結婚披露宴であった。

  
      幸せそうな二人

 実は二人は約10年前にほとんど同時にわが社に入社した。私は総務部長として採用の任に当たったのであるが、思えばこの10年、よく成長して正にわが社を背負う二人になったが、気がつけばこの間、二人は愛を紡いでもきたのだ。
 披露宴も肩の凝らない、実に気持ちのいい進行であった。いくつか書き残しておくと…、

 
・席に着くと、ナプキンを乗せたお皿の上に小さい紙で二人から私に宛てたメッセージが乗せてあった。その字はまぎれもない新婦の直筆で、私に対する思いを書いてくれてあった。隣に座る人にも、それぞれに宛てたメッセージが置かれてあった。数十人の参加者それぞれに書いたのであろうが、これには何かグッと来るものがあった。

    
     二人からのメッセージ

・仲人という制度はかなり前からなくなっているが、主賓挨拶と乾杯の音頭というのは従来通り会社の社長連中がやっていたのであまり変わりないが、参加者からの祝辞となると、あらかじめ予定された人からではなく、新郎新婦の二人からの指名であった。私は新郎から、「これまでお世話になりましたK部長に何かお言葉を賜りたい」と突如指名され驚いた。
 結婚式の祝辞などは一般には事前予告されるものと思っていたが…。

・最後の、二人から家族親戚に対するお礼の言葉で、両親だけでなく参加した小さい子供(おそらく甥や姪であろう)たちにまで、一人ひとり名指しで思い出と感謝の気持ちを語ったのは印象的であった。何も形式ばることなく、心の赴くところをそのまま語ったのであろう。
 実にすがすがしい結婚披露宴であった。


    

 

 


歌いつがれた日本の心・美しい言葉⑩ … 『われは海の子』

2012-08-05 14:23:07 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 日本列島は猛暑に包まれている。しかし明後日の7日は早くも立秋。それにつれてか、暑さも若干和らぐと報じられている。もっとも、最高気温の35度が33度か32度になるという程度だが…。
 子供のころから、夏の一番暑い時期は8月上旬と思っていた。太陽が最も輝き、夏が最後の暑さを誇る時期がこの8月上旬ではないか。そしてその思い出は、ギラギラと照りつける太陽に輝く海とともにある。その海の歌の極めつけは『われは海の子』であろう。

 
 我は海の子白波の さわぐいそべの松原に、
 煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ。

  生まれて潮に浴(ゆあみ)して 浪を子守の歌と聞き、
 千里寄せくる海の気を 吸いてわらべとなりにけり。

 高く鼻つくいその香に 不断の花のかおりあり。
 なぎさの松に吹く風を いみじき楽と我は聞く。

      (講談社文庫『日本の唱歌(上)』281頁より)

 この歌ほど多く歌った歌があろうか? 海洋国日本の子供は、みんなこの歌を歌って育ったのではないか。
 煙たなびくとまや……。とまや(苫家)とは、苫(スゲやカヤを編んだもの)で屋根を葺いた家であろうから、決して立派な家ではなく、むしろ粗末な家を指すのだろうが、それこそ「我がなつかしき住家」と言っているところに実感がある。二番の歌詞も、私が生まれ育った情景そのままだ。
 この歌は三番が好きだ。ただ、歌詞は難しい。不断の花とは、文字通り「絶えることなく咲き続ける花」とすれば、不断草(アカザ科の野菜で、一年中その葉が食べられる一年草)とか不断桜(10月ごろから4月ごろまで咲き続ける)などをイメージしているのだろうか? 子供心にはもちろん正確な理解はできなかったが、歌いながらいつも何とも格調の高さを感じ、海に生きる誇りを感じていた。

 この歌は七番まであるが、四番以降は何となく海外に対する覇権主義的なにおいがする。作られたのが明治43(1910)年(文部省唱歌)であれば、日露戦争後の意気高き時代でその影響があるのかもしれない。私にとっては三番までで十分である。
 作詞・作曲者とも諸説はあるが不明とされている。

 


白馬紀行④ … 美味しかった対岳館の料理、地酒『白馬錦』

2012-08-03 14:19:48 | 

 

 旅の楽しみは、その地の風光とともに美味しい食べ物にありつくことである。私にとってはそれにその地の地酒が加わる。
 この旅で特筆すべきは、宿泊した『ホテル対岳館』の料理が美味しかったことだ。特に地元料理というわけではなく夜の料理はイタリアンであったが、ホテルというより山の宿と呼びたくなるようなレトロな部屋の雰囲気と、わが山びこの会の雰囲気に何ともよく合う料理であった。
 朝の料理もおいしかったが、驚いたのは昼食用の弁当が付いたことである。普通の宿泊は「一泊二食」というものであるが、考えてみれば山登りの旅だ。当然弁当が必要だがその準備に怠りない幹事に頭が下がる。しかもこの弁当、並みの弁当ではなかった。せいぜいおにぎりにおしんこ(野沢菜?)程度と思っていたら、大きなおにぎりのほかに数種類の豪華なおかずがついていた。「小遠見山トレッキング」を止した私たち四人は、白馬五竜高山植物園の中腹でこの弁当を食べたが、その内容は立派なランチと呼べるものであった。
 これら食べ物に対する配慮は、女性幹事の周到な事前準備によるものに相違ない。Wさんはじめ女性幹事の皆さんは事前の現地調査を重ね、食事も選び抜いてきたと聞いている。驚いたのは、初日の栂池植物園から降りてホテルへ向かう途中、Mさんが『白馬錦』の一升瓶を下げている。「貴女はどうしてそれを?」と問うと、「今晩の懇親会で飲む酒です。この酒でいいんでしょうか?」と言う。
 実は私は、今度の旅で白馬錦だけは飲もうと思っていたのだ。地元大町市の酒で、大町にはこのほかに『北安大國』と『金蘭黒部』という酒があるが、中でも白馬錦にガンをつけていたのであった。夜の懇親会から翌日まで飲んだが、普通酒でありながら中々しっかりした酒で、アルプスの山男たちに愛されてきたのであろうなあ、と思いつつ飲んだ。
 夜の懇親会前に、宿の前の酒屋さんから同じく白馬錦の純米吟醸(四合瓶)を一本仕入れてきて懇親会に差し入れた。これはまた立派な酒で、吟醸香を抑え、キリッとした味でいくらでも飲める酒という感じであった。一升瓶と四合瓶を並べて写真に収めるつもりでいたが、懇親会の楽しさで忘れてしまった。しかし「白馬Alpsの旅」の『白馬錦』を忘れることはないだろう。



 初日、栂池自然園トレッキングから帰ってきた第一陣


「無気力」な中国や韓国などに、オリンピックに参加する資格はあるか?

2012-08-02 21:57:06 | スポーツ

 

 昨夜からの報道によれば、バドミントン競技最終予選において、決勝トーナメントでの有利な組み合わせを狙って「故意に負けようとする無気力試合」が演じられ、それらを演じた中国、韓国などの4チームが失格を宣告された模様だ。
 サッカーなども同じであるが、予選リーグの一位チームと二位チームが決勝に進むが、それぞれ決勝トーナメントでどこの国(あるいはどこの国のグループ)と当るか組み合わせが分かる仕組みになっている。「一位になって強い国と当るのなら二位になって弱い相手と当る方がいい」というわけで故意に負けようとしたらしい。
 人類最高のスポーツ競技オリンピックであってはならない話で、唾棄すべき事態だ。無気力試合といえば聞こえはいいが、その裏には「あわよくばメダルをかすめ取ってやろう」という悪意に満ちた「やる気満々」の気力が見える。そのような気力は、人類最高の栄誉を競う競技の場には全く無用である。そのようなチームを抱える国は、オリンピックに参加する資格などない。恐らくコーチや監督の指示でやったに違いないので、役員を含めた全員オリンピックから永久追放したい。

 それにつけても、開会式におけるジャック・ロゲ会長の挨拶が今更ながら輝きを増す。私はすでに7月28日付ブログで、その強烈な印象について書いたが、「…評価さるべきは勝ったか負けたかではなく 、いかに戦ったかということである。メダルの価値より人格の方がはるかに尊い」 というあの演説は、この醜悪な事件を見越しての発言ではなかったのか?
 中国や韓国の選手たち、いや役員や監督、コーチたちはこの挨拶を聞いていなかったのであろうか? また、連日報道されている感動のドラマ――惜しくもメダルに手が届かなくても、あるいは病を克服し、あるいは怪我に苦しみながらも全力を尽くして最後まで戦いを挑んでいる姿を、彼らは何と思っているのだろうか?
 まさに「メダルよりも人格の方がはるかに尊い」のである。


白馬紀行③ … 素晴らしい「山びこの会」のとり組み

2012-08-01 12:10:35 | 

 

 「山びこの会」は十数年の歴史を持ち、当初数名で発足したが年ごとに会員が増えて、いまや70数名のメンバーを誇る今時珍しいサークルである。(このことは既に09年12月13日付で触れた) メンバーは多彩な顔ぶれで心豊かな人たちばかり、それぞれが互いの自由な参加意思、自主性を尊び、かつ創意工夫を惜しみなく発揮し合う…。

 初日大宮駅から新幹線に乗り込むと、幹事から「首などに巻いてください」ときれいなスカーフが配られた。多くの人はそれを折りたたみネッカチーフにして首に巻いた。中には帽子に巻く人、腕に巻く人いろいろいたが、これは、混雑する夏の白馬一帯で、35名に及ぶ我がメンバーを識別する絶妙なマークとなった。

 
 
 第一班のメンバー(みんなスカーフを巻いている)

 旅行会社のツアーでもメンバーを識別するためにリボンなどをつけさせられる。しかしそのようなものに比べればこのスカーフははるかにしゃれている。このような発想を生み出す豊かな心がうれしい。しかもこのスカーフ(ネッカチーフ?)はいつまでもこの旅を思い起こさせる記念となる。
 記念といえば、白馬五竜高山植物園がくれた「日光キスゲのブローチ」もうれしかった。たくさん咲いていた日光キスゲは、私の知っていた数少ない花の一つであっただけに印象深く、さっそく帽子に着けて毎日愛用させてもらっている。

 
   配られた日光キスゲのブローチ

 旅はその場の楽しみだけではない。いつまでも思い出の中に生き続ける。それは関わる人たちの心遣いや、ふとした触れ合いが生み出してくれるのだ。

  
  
岩陰にひっそりと咲く、白と紫のコマクサ


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