慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

飛鳥の石造物・道教・斉明天皇

2017年12月03日 | 歴史上の人物
謎に満ちた石の都 奈良 飛鳥地方

石で作られた遺物・遺構の総称で花崗岩でつくられた物が多い
 ☆人物像などは日本の文化から見て明らかに異形なもので、用途がはっきりしない
斉明天皇(1,300年前)が、唐の攻撃に備え、道教の関係で都を作ったのでは?
 ☆日本を、唐からの攻撃に備えて道教(石造り&水「風水」)で都で守るため
 ☆この地方に花開き、消えていった石造りの都の跡(日本にもあった巨石文化)
 ☆重い石の運搬、石像作成、それを可能にしたのは、ペルシア人? 
皇極天皇、重祚して斉明天皇(日本の第35代・第37代天皇)
斉明天皇(孝徳天皇の崩御)再び皇位に就いた(史上初の重祚)
 ☆天皇が工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々は、天皇を批判した
 ☆天皇の3つの失政と人々の不満で有間皇子の変が起きた
  ①大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが
  ➁長く溝を掘って公糧を損費したのが
  ③船に石を載せて運び積んで丘にした
斉明天皇朝鮮半島への軍事介入
 ☆百済が唐と新羅によって滅ぼされた
 ☆百済を援けるため、武器と船舶を作らせ、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた
 ☆斉明天皇は、遠征の軍が発する前に、当地にて崩御
 ☆斉明天皇崩御したが日本軍は朝鮮半島南部に上陸
 ☆白村江の戦いを戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、BS11『尾上松也の謎解き歴史ミステリー』、WIKIPEDIA












飛鳥の石造物と道教(『尾上松也の謎解き歴史ミステリー』テレビ画面より画像引用)

皇極天皇、重祚して斉明天皇(日本の第35代・第37代天皇)
舒明天皇の皇后で、中大兄皇子(天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(天武天皇)を産んだ
舒明天皇が崩御するし、推古天皇から一代おいて即位した女帝
皇極天皇としての即位
 ☆舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位した
 ☆在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。
蘇我入鹿が山背大兄王を攻め王は自害

乙巳の変
皇極天皇中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する
皇極天皇は同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に皇位を譲った
日本史上初の譲位とされる


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モロッコの食事

2017年12月03日 | 観光
日本でも人気のモロッコ料理

 ☆フォルムのタジンや、世界―小さなパスタといわれるクスクス
 ☆スパイスがほどよく効いたモロッコの料理は、日本人の味覚にもよく合う

出典、地球の歩き方(モロッコ)

タジン(モロッコ人が毎日食べている煮込み料理)
タジン鍋と呼ばれる厚い陶製の鍋に具材を入れ、ふたをして弱火にかける
基本的には鶏肉、羊肉、牛肉、ウサギ肉、魚、ケフタ(ひき肉)がメインで野菜と煮込む

クスクス(羊肉、鶏肉、魚などを野菜と煮る)
中身とスープを分けて取り出し、スムールという粗粒状の小麦を蒸したものにかけて食べる
うま味の決め手は各家庭で異なるスパイスの調合

ハリラ(羊肉か魚のだしでヒヨコマメ、タマネギ、トマトなどを煮込む)
小麦粉でとろみをつけたスープ
栄養満点で、モロツコではハリラを飲めば医者はいらないなどといわれている

パステイラ(ハト肉か鶏肉を玉ねぎ、アーモンド、スパイスと炒める)
パイ皮で包んで焼いた料理

モロカンサラダ(トマト、ピーマン、キユウリ、タマネギをクミン風味のドレッシングであえたもの)
卵やオリーブなどがトッピングされる
野菜に火をとおしてだされることも多い

ミントティー(アラブで盛んに飲まれているミントティー)
ポットに中国茶、ミントの葉、棒砂糖を入れ、高い位置から泡立てながら注ぐ

ケバブ(アラブ圏全域で食べられる肉の串焼き)
スパイスで臭みを消した羊、牛、チキン、ケフタを串に刺し炭火でじつくりと焼く












食事(モロッコ)(地球の歩き方(モロッコ)記事より画像引用)



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横暴者・狼藉を行つた者( 梶原景時)

2017年12月03日 | 歴史上の人物
梶原景時(源義経と対立し義経を失脚させた)

梶原景時(源頼朝から厚い信頼を寄せられた武将)
 ☆石橋山の戦いで、頼朝に対峙したが、頼朝に情けをかけ助ける
 ☆再起した頼朝に仕えることになると頼朝から信頼を得た
景時と源義経は不仲で対立が絶えなかった
 ☆壇ノ浦の合戦前にも口論になり、刀を交える寸前だった
 ☆壇ノ浦の戦いが終息した後に、景時は頼朝に宛て、報告の書状を出す
 (壇ノ浦の戦いに勝利できたのは神明の加護がの結果)
 ☆この書状が、義経を失脚させる引き金のひとつに在つたといわれている
頼朝の命により義経が殺される
 ☆景時の報告などで義経が失脚したゆえの結果である
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本史”悪役”100人(世界文化社)』


横暴者・狼藉を行つた者( 梶原景時)(『日本史”悪役”100人』記事より画像引用)



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