慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

キリストの登場と受難(2)

2018年05月07日 | 宗教
キリスト教は、ローマの支配下でユダヤ教の異端としてスタートした

旧約と新約の意味
 ☆ユダヤ教の信仰の拠り所は、神(ヤハウェ)との「契約」
 (契約を守って神に祝福された預言者(ノアやアブラハム)の「行動」)
 ☆預言者・モーセに授けられた神との契約=モーセ五書を中心とする聖書です
 ☆ユダヤ教徒にとり「神との約束」とは、聖書で神との契約を遵守することです
 ☆キリスト教では、ユダヤ教の聖書は神との旧い契約=旧約としています
 ☆救世主としての神の子、イエスと神が新たに契約を結び、新しい契約=新約とします
 ☆信仰の拠り所はイエスの教え、新約聖書に記載されているものになります
 ☆ユダヤ教では、新約聖書なるものは、神の子を勝手に名乗る偽りの預言者としています
 ☆新約聖書は(イエスの弟子)たちが著した偽りの聖書としており認めません
大きく異なる旧約と新約
 ☆キリスト教徒が「旧約」と呼ぶユダヤ人と神との契約
 (人間の生活全般にわたる行動規範)
 ☆新約聖書におけるイエスの指導
 (「心の持ち方」で、行動規範ではない)
キリスト教とユダヤ教の共通点、相違点
 ☆ユダヤ教とキリスト教の基本精神を大きく隔てている要素
 (入信資格や戒律の寛容度)
 ☆キリスト教では、洗礼を受け、信仰を守ることを神に約束すれば人信でき、戒律も厳格ではい
 (信仰は基本的に心の持ち方の問題とされています)
 (信仰心さえあれば、何を食べても何をしてもよいのです)
 ☆ユダヤ教では、人間の生活全般にわたる行動規範を定めています
キリスト教の聖典
 ☆キリスト教の聖典は、旧約聖書と新約聖書
 ☆新約聖書は、「福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)」の4つの福音書が基本
 (「福音」は「良い知らせ」のこと、具体的にはイエスの生涯や言行録)
 ☆罪の意味やイエスの行動を解釈し、信者はどうあるべきかを解説した「パウロの手紙」
 ☆「使徒行伝」にはペテロとパウロの布教のようすなどが書きつづられています
 ☆「ヨハネの黙示録」は、最後の審判のハルマゲドンを描いて謎の多い文書です
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『手にとるように宗教がわかる本』


キリストの登場と受難(2)(『手にとるように宗教がわかる本』記事より画像引用)

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宗教なき日本、いかに生きるべきか(1)

2018年05月07日 | 宗教
有名社寺への参拝は、日本人の娯楽だった

 ☆伊勢参り、他神社等を参拝する場合「講」という集団を組み行った
 ☆昔は、楽しみは少なく、村人たちは大いに楽しみにして出かけて行った
 (参拝に行くのは、仲間の村人で子供のころからの旧知の仲)
 ☆「講」とは、共通の信仰を確認する行事や会合の事
 (本来の「講」とは、法華経の内容を講義する法華八講等)
 (信仰集団として、地域の神仏を祀るもので、庚申講・念仏講等)
 (信仰集団として、遠隔地の参拝する場合、伊勢講、熊野講、金毘羅講等)
 ☆「講」に参加し、遠隔地の神社に参拝する人々多く、参拝先の社寺も経済的に潤った
 ☆現在では、農村部では過疎化が進み「講」組織も衰退していく
 ☆村から団体客を組んで有名社寺を参拝するという従来のスタイルはなくなった

仏教寺院への明治の「上知令」
 ☆寺は、土地も奪われ、維持費をねん出するのに苦労するようになった
 (廃仏毀釈年で大きな打撃を受けたところもある)
 ☆法隆寺は、明治に入り、経済的な苦境から文化財を皇室に献納している
 (法隆寺には、皇室より現在のお金で数億円下賜された)
修学旅行でもうかった寺
 ☆戦後は、交通機関も発達して遠方の社寺への参拝することは容易なった
 ☆高度成長時代には、旅行に費用をかけることに可能にし、社寺への参拝も活況を帯びた
 (修学旅行が盛ん上になり、奈良の寺院には参拝者が押し寄せ寺院の経営を活性化させた)
 ☆法隆寺は、拝観料値上げ(修学旅行生の減少)
 ☆修学旅行も多様化し奈良や京都は必ず選ばれるという時代ではなくなった
身延山久遠寺に参拝する人はいなくなる
 ☆身延山久遠寺は、明治の大火で伽藍は消失し文化財も失われた
 ☆文化財を目当てに身延山を訪れる人は少ない
 ☆身延講ような団体での参拝者がいなくなった
 ☆現在身延山を支えているのは、立正佼成会や霊友会という日蓮系新宗教の信者の参拝
 (新宗教の教団自体も最近衰退している)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『宗教消滅』




宗教なき日本、いかに生きるべきか(1)(ネットより画像引用)

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徳川家のタブー(長男・信康の切腹)

2018年05月07日 | 歴史上の人物
松平信康(戦国・安土桃山時代の武将)

 ☆信康がいれば!信康とは家康が切腹させた長男
 (家康は関ヶ原の合戦で三男秀忠率いる別働隊が遅れた時口にした)
 ☆二人の意見対立した外交路線(浜松の家康と岡崎の信康)
 (織田も武田も領土を広げ、徳川家では生き残りをめぐり意見が割れる)
 (二人の意見対立は、家臣団を巻き込み、父が子を殺す悲劇に)
 ☆信康の切腹は、徳川家臣団の分裂を避けるための家康の選択
 ☆家康は武田との敵対関係を示すため信康を切腹させた

徳川家康が松平信康を切腹させた原因
 ☆家康は、信康側近で岡崎町奉行の大岡弥四郎を処刑している
 (大岡が武田をバックに、信康を立てて反家康のクーデターを企てた)
 ☆家康は、信康と岡崎家臣団が、武田側へになるのを警戒していた
 (武田氏は、北条との断交を受け、信康に近づいていた)
 ☆家康へは、北条氏が織田との和睦を求めて接近
 ☆家康は、岡崎の信康・家臣団が家康への反旗を翻すことを恐れていた
松平信康の切腹
 ☆家康が岡崎城を訪れ、信康は岡崎城を出で大浜城に移された
 ☆その後家康の命により切腹させられた
 ☆信康の首は、一度信長の元に送られ、若宮八幡宮に葬られた
松平信康プロフィール
 ☆徳川家康の長男、母は今川義元の姪・築山殿
 ☆今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごした
 ☆桶狭間の戦いの後、徳川軍の捕虜との人質交換で岡崎城に移る
 ☆家康と織田信長による清洲同盟が成立
 ☆信康は、織田信長の娘徳姫と結婚し岡崎城で暮らす
 ☆家康は、岡崎城を信康に譲り浜松城に移る
 (元服し信長の「信」、家康の「康」の字を与えられて信康と名乗る)
 ☆長篠の戦いでは、徳川軍の一手の大将として参加し軍功を挙げた
築山殿(家康の妻・信康の母)
 ☆家康が今川方を裏切り織田方に付いたため、家康をひどく憎んでいた
 ☆唐人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、武田氏に通じていた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHK『英雄たちの選択』
















徳川家のタブー(長男・信康の切腹)(『英雄たちの選択』テレビ画面より画像引用)



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