🌸聖徳太子″不在説”の真偽
☆日本の古代史で欠かせない人物聖徳太子
*父親は用明天皇、息子は蘇我氏との権力争いで不遇の死を遂げる
*父親は用明天皇、息子は蘇我氏との権力争いで不遇の死を遂げる
*女帝であった推古天皇の摂政を務めた.
*大陸の文化を多く取り入れてた
*大陸の文化を多く取り入れてた
*仏教を厚く信仰し寺の建立を推進
*豪族の力に頼っていた政治を、天皇中心の政治に改めた
☆聖徳太子「冠位十二階」や「十七条憲法」を定めた
☆「聖徳太子」という名称は、彼の死後につけられたもの
*お札の肖像、聖徳太子を描いた最古の絵とされていた「唐本御影」
*まったく違う人物のものである可能性が出てきた
*現在は、この絵を肖像として使うこともない
*まったく違う人物のものである可能性が出てきた
*現在は、この絵を肖像として使うこともない
*かっての”聖徳太子像”は根底から覆されている
⛳聖徳太子は想像上の人物で、実在しなかった
☆聡明だった厩戸皇子、数々の超人的な伝説が残されている
☆聡明だった厩戸皇子、数々の超人的な伝説が残されている
*未来を見通す力も持っており予言書を残した
*死んだ人を生き返らせた
*神か超能力者ではないかの様な伝説も残されている
☆聖徳太子作成と言われている「十七条憲法」
*神か超能力者ではないかの様な伝説も残されている
☆聖徳太子作成と言われている「十七条憲法」
*官名や内容に飛鳥時代より下った後世の概念が含まれている
*聖徳太子一人で作り上げたものではない
*当時の学者数人により作られたと考えられている
☆これらが、「聖徳太子がいなかった」といわれる理由
☆これらが、「聖徳太子がいなかった」といわれる理由
⛳厩戸皇子の”神性・天才性”が喧伝された理由
☆聖徳太子というキャラクターを作り上げたのが
☆聖徳太子というキャラクターを作り上げたのが
*『日本書紀』を編纂した、藤原不比等である
☆『日本書記』編集者・藤原不比等が目論んだこと
☆『日本書記』編集者・藤原不比等が目論んだこと
*藤原家はのちに天皇家と深い結びつきを持っていく貴族
*『日本書紀」の編纂を任された不比等
*『日本書紀」の編纂を任された不比等
*藤原家と天皇家の関係を色濃く描き出すため
*聖徳太子をねつ造したのだ
☆聖徳太子は、物部氏と蘇我氏の争いの際に蘇我氏側についた
☆聖徳太子は、物部氏と蘇我氏の争いの際に蘇我氏側についた
*本彫りの四天王の像を作り、戦勝祈願したという
⛳「聖徳太子」といわれている人物
☆実際に存在した「皇族だった厩戸皇子」と言われている
☆「聖徳太子」は、藤原不比等が『日本書紀』の中で作り上げた
*「厩戸皇子のキャラクター」+「歴史に功績を残した人物」を
*ミックスされてできあがったもの
☆聖徳太子の墓所は大阪府南河内郡の「叡福寺北古墳」とされている
(敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本史・意外な話』
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本史・意外な話』
聖徳太子″不在説”の真偽
(『日本史・意外な話』記事、ネットより画像引用)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます