🌸「鎌倉幕府の成立年次」を探る2
⛳「征夷大将軍」の名前は、縁起のよさで選ばれた
☆鎌倉幕府の成立年次、1192年説が、急に人気を失ったい理由
*征夷大将軍という官職の過程を記した新たな史料、書物が出てきたから
*「征夷大将軍」官職は、内実を伴わない肩書と記されていた
☆後白河上皇は、関東で力を増していた頼朝の存在を警戒
*「征夷大将軍」官職は、内実を伴わない肩書と記されていた
☆後白河上皇は、関東で力を増していた頼朝の存在を警戒
*頼朝が特別な官職を欲しても、朝廷は許可しなかった
☆後白河上皇が亡くなったのを見計らつた頼朝
☆後白河上皇が亡くなったのを見計らつた頼朝
*「私を大将軍に任命してください」と朝廷に訴えた
☆後白河上皇がいなくなった朝廷
*頼朝の願いを受け入れ新たな役職を考 えた
*頼朝は東を拠点にする武士なので「征東大将軍」が候補になった
*坂上田村麻呂に使われた名前「征夷大将軍」も候補になった
*坂上田村麻呂は、朝廷の支えとして活躍した人物で縁起がいい
*頼朝の肩書は征夷大将軍となる
☆征夷大将軍とは、「夷を討伐する大将軍」を意味する
*京都からすれば関東の「夷」は、東国に住んでいる野蛮人
*頼朝が彼らを統括し、税金を集め、税金を京都に送ってくる
*頼朝が彼らを統括し、税金を集め、税金を京都に送ってくる
*征夷大将軍という官職は、具合がいい
☆征夷大将軍は、縁起が良いだけで与えられた名前
⛳源頼朝自身も「征夷大将軍とは名ばかりの官職」と理解していた
☆頼朝にとって一番大切な仕事は、武士の本領を安堵すること
⛳源頼朝自身も「征夷大将軍とは名ばかりの官職」と理解していた
☆頼朝にとって一番大切な仕事は、武士の本領を安堵すること
*自分の部下である御家人たちに向けて土地の権利を保証すること
☆頼朝は、征夷大将軍として任命された後
☆頼朝は、征夷大将軍として任命された後
*頼朝は、幕府の役所である政所を設置する
*将軍家政所下文という文書を発行武士たちの土地を保証した
☆2年後、頼朝は征夷大将軍をやめている
*頼朝自身は征夷大将軍という地位
*武家や幕府のトップを意味すると厳密に考えてはいなかった
☆二代鎌倉将軍となった源頼家
☆二代鎌倉将軍となった源頼家
*征夷大将軍になったのは、幕府のトップになった三年後
*「征夷大将軍になること=幕府のトップ」だとは考えていなかった
☆幕府のトップは征夷大将軍だと考えたのは、後世のこと
☆結果、鎌倉幕府1192年成立説は成り立たない理由
*天皇・上皇が頼朝に征夷大将軍という官職を与え幕府が開かれた
*「天皇」を中心に据えた歴史認識に基づいているから
☆江戸幕府の成立年度、いまだに教科書に記述されている
*徳川家康が征夷大将軍1603年成立年
*家康も、征夷大将軍に就任した二年後に将軍職を辞めている
☆なぜ、こんな不思議な事態が起こるのか
*山川出版社の教科書を担当する、中世の先生と近世の先生間で
(意見の統一が図られていないから)
⛳鎌倉幕府の成立年は、武士たちが自分たちの力で立ち上がったとき
☆現在「定説」とされる1185年説
⛳鎌倉幕府の成立年は、武士たちが自分たちの力で立ち上がったとき
☆現在「定説」とされる1185年説
*中世を通して存在する荘園制システムが重視されている
*地頭を全国の荘園に頼朝が置き公認されたという点より
*鎌倉幕府の成立年次、1185年は妥当な説
☆1185年説も1192年説も「朝廷が認めた」という意味では同じ
☆1185年説も1192年説も「朝廷が認めた」という意味では同じ
☆鎌倉幕府の成立年はいつかを考える場合
*鎌倉幕府は、武士たちが立ち上がり、作り上げた武士による政権
*天皇や朝廷の第三者が認めたから、幕府が生まれたわけではない
☆本来の意味で考えると、鎌倉幕府の成立は1180年成立説が妥当
*天皇の権威とは関係なく
*天皇の権威とは関係なく
*武士たちが立ち上がったからこそ幕府ができた
(敬称略)
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⛳出典、『日本史の論点』
「鎌倉幕府の成立年次」を探る2
(ネットより画像引用)
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