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「鎌倉幕府の成立年次」を探る2

2021年10月01日 | 歴史
🌸「鎌倉幕府の成立年次」を探る2

⛳「征夷大将軍」の名前は、縁起のよさで選ばれた
 ☆鎌倉幕府の成立年次、1192年説が、急に人気を失ったい理由
 *征夷大将軍という官職の過程を記した新たな史料、書物が出てきたから
 *「征夷大将軍」官職は、内実を伴わない肩書と記されていた
 ☆後白河上皇は、関東で力を増していた頼朝の存在を警戒
 *頼朝が特別な官職を欲しても、朝廷は許可しなかった
 ☆後白河上皇が亡くなったのを見計らつた頼朝
 *「私を大将軍に任命してください」と朝廷に訴えた
 ☆後白河上皇がいなくなった朝廷
 *頼朝の願いを受け入れ新たな役職を考 えた
 *頼朝は東を拠点にする武士なので「征東大将軍」が候補になった
 *坂上田村麻呂に使われた名前「征夷大将軍」も候補になった
 *坂上田村麻呂は、朝廷の支えとして活躍した人物で縁起がいい
 *頼朝の肩書は征夷大将軍となる
 ☆征夷大将軍とは、「夷を討伐する大将軍」を意味する
 *京都からすれば関東の「夷」は、東国に住んでいる野蛮人
 *頼朝が彼らを統括し、税金を集め、税金を京都に送ってくる
 *征夷大将軍という官職は、具合がいい
 ☆征夷大将軍は、縁起が良いだけで与えられた名前

源頼朝自身も「征夷大将軍とは名ばかりの官職」と理解していた
 ☆頼朝にとって一番大切な仕事は、武士の本領を安堵すること
 *自分の部下である御家人たちに向けて土地の権利を保証すること
 ☆頼朝は、征夷大将軍として任命された後
 *頼朝は、幕府の役所である政所を設置する
 *将軍家政所下文という文書を発行武士たちの土地を保証した
 ☆2年後、頼朝は征夷大将軍をやめている
 *頼朝自身は征夷大将軍という地位
 *武家や幕府のトップを意味すると厳密に考えてはいなかった
 ☆二代鎌倉将軍となった源頼家
 *征夷大将軍になったのは、幕府のトップになった三年後
 *「征夷大将軍になること=幕府のトップ」だとは考えていなかった
 ☆幕府のトップは征夷大将軍だと考えたのは、後世のこと
 ☆結果、鎌倉幕府1192年成立説は成り立たない理由
 *天皇・上皇が頼朝に征夷大将軍という官職を与え幕府が開かれた
 *「天皇」を中心に据えた歴史認識に基づいているから
 ☆江戸幕府の成立年度、いまだに教科書に記述されている
 *徳川家康が征夷大将軍1603年成立年
 *家康も、征夷大将軍に就任した二年後に将軍職を辞めている
 ☆なぜ、こんな不思議な事態が起こるのか
 *山川出版社の教科書を担当する、中世の先生と近世の先生間で
 (意見の統一が図られていないから)

鎌倉幕府の成立年は、武士たちが自分たちの力で立ち上がったとき
 ☆現在「定説」とされる1185年説
 *中世を通して存在する荘園制システムが重視されている
   *地頭を全国の荘園に頼朝が置き公認されたという点より
 *鎌倉幕府の成立年次、1185年は妥当な説
 ☆1185年説も1192年説も「朝廷が認めた」という意味では同じ
 ☆鎌倉幕府の成立年はいつかを考える場合
 *鎌倉幕府は、武士たちが立ち上がり、作り上げた武士による政権
 *天皇や朝廷の第三者が認めたから、幕府が生まれたわけではない
 ☆本来の意味で考えると、鎌倉幕府の成立は1180年成立説が妥当
 *天皇の権威とは関係なく
 *武士たちが立ち上がったからこそ幕府ができた
                        (敬称略)
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⛳出典、『日本史の論点』





「鎌倉幕府の成立年次」を探る2
(ネットより画像引用)

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