🌸北条時宗は「救国」の英雄でない
⛳「文永の役」は、モンゴル軍の「様子見」だった
☆文永の役、中国からきたモンゴル軍が対馬に上陸
⛳「文永の役」は、モンゴル軍の「様子見」だった
☆文永の役、中国からきたモンゴル軍が対馬に上陸
☆暴れた後、日本の九州地方に攻め込む
☆文永の役は進軍ではない
*現在では「威力偵察」だったのが定説
☆文永の役のときは、約3万人のモンゴルの軍勢が来た
☆文永の役の後、フビライは、新たに使者を日本に送る
*北条時宗は、使者団一行を斬首する
*野蛮すぎる日本側の行動にモンゴルあきれる
*モンゴル交渉の余地なしと判断した
☆「弘安の役」が起こる
*フビライは、12万人もの大軍で日本を襲う
*うまい具合に台風が起きて、モンゴル軍は敗退した
⛳日本が、モンゴル軍を排したのは、幸運の結果である
☆「北条時宗は英雄だった」という定説は誤っている
☆時宗は、モンゴル勢が攻めてぐることは、想定できたはずです
*時宗は、何も手を打たず
*文永の役のあと、福岡の博多の海岸に防塁を築いたが
*人間の背の高さほどに石が積まれただけのお粗末な代物
☆「これでモンゴル軍と戦おうとしていたの?」と呆れてしまう
☆自分の対応が原因で戦争に発展した
*対策にしても、少し石を積んでみただけ
☆弘安の役、12万人の軍勢が博多沖に集結した
*大半はモンゴル兵ではなく、高麗の兵と南宋の兵
*彼らには「モンゴルのために戦おう」というやる気はない
*ケガをせずに帰りたいと想うのが自然
☆時宗がきちんと挨拶の使者を派遣しいれば
*フビライは満足して日本遠征などしなかった
⛳北条時宗は救国の英雄でない
☆時宗は、日本国を危険な目に遭わせた張本人
☆北条氏は歴代名君揃いで、優秀な人が次々とトップになる
☆北条時宗の代から、幕府の屋台骨が傾いた要因
*元寇時、日本全国から武士たちが駆り出された
*一応はモンゴルに勝利したが
*武士に土地と言う恩賞が与えられなかった
*それが、北条氏政権の終焉の引き金にもなった
(敬称略)
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⛳出典、『日本史の論点』
北条時宗は「救国」の英雄か?(4)
(ネットより画像引用)
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