
この本を買いました。老いの整理学。200万部を突破した「思考の生理学」と同じ外山滋比古氏の本です。
昨夕届いたばかりで、全部を読んだわけではありませんが、筆者に賛同する表現に出遭いました。
年をとった人は哀れである。家にいても家族から相手にしてもらえない。しかたがないからネコと会話したりする。ネコでも相手があればいいほうで、ひとり放っておかれる老人が多い。そういうお年寄りは、ストレスによって、元気を失い、健康を失うのである。
それをなんとかしないと、おもしろい加齢はのぞめない。
家族に相手をしてほしいなどと頼めるものではない。思い切って、茶のみ友だちをつくるのである。(中略)お茶を飲んで、とりとめのない話をしているだけで、どれだけ元気が出るかしれない。ハラをかかえて笑うようなことがあれば最高である。

タカ長はこのころ「最後は茶飲み友だちになろう」と仲間たちに話しています。
その意味は、脚力が落ちらら山を歩けなくなるので、そのときは仲間たちの家に行ったり、来てもらったりしながら、お茶など飲みながら昔話をしよう、というような意味です。
ここで外山滋比古氏がいう理由とは違うようですが、、、、いずれにしても「最後は茶飲み友だち」というところに、わが意を得た思いがしたのです。

筆者は歳をとってから茶飲み友だちをつくることを提案されているようですが、私たちにはしっかりとした友だち関係ができており、その歳になれば友だち付き合いも何十年にもなるはずですから、心おきなくいろいろな話ができます。
ハラをかかえて笑うようなことは普通に行われるはずです。その歳になって、とってつけたような友だちをつくる必要もなく、長い間一緒に山を歩いた経験を共有出来ているのですから、これほどいい「茶飲み友だち」はいません。

このようないい関係は終生つづけてゆき、、、、、
最後の最後は、三途の川の河原で飲み会をするのも悪くないなぁ、、、、と考えているのです。
そこへ行くまでに、いい仲間に恵まれて老後を送れる人は幸せです。
その幸せを共有する仲間は多いほうが良いので、最近は山グループを辞めないよう仲間に頼んでいます。
ここで筆者がいうような「哀れな」老人にならないために、友だち関係を大切にしてゆきたいですね。