昨日歩いた熊城山からは山陰の名峰三瓶山や、今春きつい思いをして登った石見冠山がよく見えました。
そのほかの山もたくさん見えましたが、2009年から行っていない山ですから、、、、
つまりたびたび行く山ではないので、頭の中に山の地図を描くことができなくて、それ以外の山の同定はしませんでした。
無責任ですが、要するに「たくさんの山が見えた」ということだけです。
家でのんびりしているときは読書をします、と言いたいのですが、最近は読書量が激減しています。
「悲しみの上に人は輝く」(青山俊童著・PHP研究所)を買ったの少し前のことですが、まだ読了していません。
このような本は小説みたいに一気に読む必要はないと思いますが、それにしても時間がかかっています。
正法寺住職というその肩書を見て買っただけですから、この著者のファンとは言えないようです。
それでも示唆に富むことばが満載、ゆっくりと味わいながら読むのが良さそうな本だとタカ長は感じています。
不信人なタカ長でも「和顔施」とか「愛語施」という言葉くらいは知っています。
しかし、この本では「捨身施」とも言えることが書かれています。
たとえば、いま頂いたさくらんぼは体ごと供養、つまり捨身(わが身を捨ての)供養をしております、と語られ、、、、
そのものがそのものとしての役をつとめあげた時、布施をすることができたといえるのであり、私たちは朝から晩まで布施のただなかに生かされていることを忘れたくないと思います。
と言われるこの概念はタカ長には新鮮で、その内容には妙に納得した気分がしました。
不勉強なタカ長は「布施のただなかで生かされている」という認識までは持っていませんでしたが、、、、言われてみればその通り、、、、
私たちが生きるために欠かせない食べ物はすべて、その身をしててくれているからこそ私たちの口に入るわけですから、この説明には説得力があり、タカ長のような凡人にもよくわかるのです。
タカ長が好きなタカは人を喜ばせるために飛んでいるのではないのでしょうが、、、、
その姿を見たものは幸せな気分になるのですから、「和顔施」とか「愛語施」と言えるような布施をしてくれていることになりそうですね。
同じようなことは花についても言えることで、、、、
このように考えたら、見るもの聞くもの食べるもの、そのすべてが布施といえそうです。
そのような心境で生きていくためには、すべてのことに感謝しながら生きる心がまえが必要なようですが、、、
まだまだその心境にはほど遠いタカ長、、、、いろいろな機会ととらえて勉強しないといけないようです。