アイドルの価値について秋元真夏は理論武装できていなかった(ナッキー)
朝日新聞の見出しが「アイドルの本質をえぐる怪作」により、映画を見に行く気になった。
映画評論家が生々しい演技ができない秋元真夏に対し、山下の指示で不良役の女優2人が罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかける場面である。「アイドルって何?」など容赦ない言葉の責めに、半泣きになりながら応戦する秋元。そこでは「演じる」ことと「本当の私」が複雑に反転し、アイドルというペルソナをかぶった女の子の素顔が顕(あら)わになっていくと論じた場面は、たいしたことがなかった。ペルソナなペルソナのままだった。というか、素顔の秋元真夏が最後まで素顔だったというべきか。
この後で生田絵梨花にインタビューする男性に、「スーパーの(秋元真夏ケンカの)場面がOKになった時に、生田さんは納得いかない顔をしていました」と言わせたのを聞いて、作り手もあのシーンは不十分と判断していたのだなと。
不良二人が秋元真夏に、「歌が下手」「踊りが下手」「ただ可愛いだけで(アイドルは)誰でもできる」「中途半端で何もできない」「演技ができないで女優を目指すなどと言うな」と罵倒。
これに対して秋元真夏は、「歌が下手かもしれない」「踊りが下手かもしれない」「だけどがんばっている」と反論。
「アイドルって何」との罵倒には、「人を笑顔にする存在」と。
理論武装が甘い。まあ、理論武装などできない役を演じているのだから、やむをえないのである。
「歌が下手だけど」輝いている存在、その輝きにファンがお金と時間を費やす。
つきつめると、アイドルの価値は、技能ではなく、存在そのものがお金になること。これをストレートに言うと、はしたないので、
どんなに「歌が下手でも」「踊りができなくても」ファンをときめかせる存在と反論して欲しかった。
歌が上手で、躍りが上手でも、つまらないシンガー・ダンサーは世の中にはアイドルの数以上にいる、と長年思っていたが、
これだけアイドルの数が増えると、数では逆転しているかもしれない。
ナッキー
朝日新聞の見出しが「アイドルの本質をえぐる怪作」により、映画を見に行く気になった。
映画評論家が生々しい演技ができない秋元真夏に対し、山下の指示で不良役の女優2人が罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかける場面である。「アイドルって何?」など容赦ない言葉の責めに、半泣きになりながら応戦する秋元。そこでは「演じる」ことと「本当の私」が複雑に反転し、アイドルというペルソナをかぶった女の子の素顔が顕(あら)わになっていくと論じた場面は、たいしたことがなかった。ペルソナなペルソナのままだった。というか、素顔の秋元真夏が最後まで素顔だったというべきか。
この後で生田絵梨花にインタビューする男性に、「スーパーの(秋元真夏ケンカの)場面がOKになった時に、生田さんは納得いかない顔をしていました」と言わせたのを聞いて、作り手もあのシーンは不十分と判断していたのだなと。
不良二人が秋元真夏に、「歌が下手」「踊りが下手」「ただ可愛いだけで(アイドルは)誰でもできる」「中途半端で何もできない」「演技ができないで女優を目指すなどと言うな」と罵倒。
これに対して秋元真夏は、「歌が下手かもしれない」「踊りが下手かもしれない」「だけどがんばっている」と反論。
「アイドルって何」との罵倒には、「人を笑顔にする存在」と。
理論武装が甘い。まあ、理論武装などできない役を演じているのだから、やむをえないのである。
「歌が下手だけど」輝いている存在、その輝きにファンがお金と時間を費やす。
つきつめると、アイドルの価値は、技能ではなく、存在そのものがお金になること。これをストレートに言うと、はしたないので、
どんなに「歌が下手でも」「踊りができなくても」ファンをときめかせる存在と反論して欲しかった。
歌が上手で、躍りが上手でも、つまらないシンガー・ダンサーは世の中にはアイドルの数以上にいる、と長年思っていたが、
これだけアイドルの数が増えると、数では逆転しているかもしれない。
ナッキー