大正から昭和にかけて「民藝運動」というムーブメントがあった。「名も無い職人達が作る、日常生活で使われる民具にこそ美がある」との考えのもと、そうした作品を蒐集したり自ら創作したりして、展覧会や会誌などで新しい芸術思潮として広めようとした。
「民藝運動」を創始した中心メンバーは柳宗悦、浜田庄司、そして河井寛次郎であった。
島根県の大工の家に生まれた寛次郎は、東京高等工業学校(現東京工業大学)で窯業を学び、京都市立陶磁器試験場に入所し釉薬の研究に従事する。ほどなく時の陶匠清水六兵衛に請われて陶磁器試験場を辞し、六兵衛の釉薬顧問となり、3年後には京都清水にあった六兵衛の登り窯を譲り受け、以後膨大な量の作陶を精力的に行い、「釉薬の寛次郎」としての名声を確固たるものとして行く。
しかし、陶磁器作家として高まる名声とは裏腹に、自身の作陶に対する漠然とした疑問が膨らんでいく。そんな折、東京高等工業学校から陶磁器試験場を通しての後輩浜田庄司を通じて柳宗悦と知り合う。3人で木喰上人の足跡を追う旅の途中、「民衆の暮らしと遊離した“芸術”よりもむしろ、生活に根ざした、永く使われる民具の中にこそ“美”がある」と意気投合、そうした芸術思潮を象徴するものとして「民藝」という言葉を作り出す。以後、3人を中心に産業界などからも賛同者を得て「民藝運動」として推進され、「日本民藝美術館」創設など、一大芸術運動として発展することになる。
この頃から寛次郎自身の作風も、初期の時代がかった作風から簡素で実用面を重視した作風、民衆の日々の暮らしに身を寄せた作風へと変化していく。晩年には作陶だけでは飽き足らず、木彫、石彫、ブロンズ造形までもものするようになっていく。
彼の言葉を借りれば、「(芸術のための芸術は)美を追いかけて美に到達し得ないのに対し、民藝では美が後から追いかけてくる」、すなわち、永く使われ続けてきたものにこそ美が宿るようになってくる、ということになる。こうした思想は、欧州などのいわゆる“アンティーク”作品や、先日紹介した“フォークアート”にも通ずるものがあるだろう。さらには、良いものを永く大切に使い続けること、またそうした作品、製品を作ることは、いわゆる“エコ”の面からも今最も求められている大切なことではないだろうか。
私は、寛次郎の陶芸よりむしろ木彫に衝撃と感動を受けた。
以下の作品はその一部。京都東山の「河井寛次郎記念館」で見ることができる。
ダースベイダーを思わせる女の子像。
自身の娘をモデルにしたこの女の子像は、実は裏表二面像になっていて、
反対側はこうなっている。
さらにこの像は四面。
こんな像も。
猫。同じモチーフの石像もある。
独特の“面”もたくさん製作している。
ブロンズ。 舞妓?、七色仮面?、??(同じ物の木彫もある)
どこかで見たような?。トモダチ(「21世紀少年」)?
手のモチーフも好きだったようだ。
自宅の真ん中は吹き抜けになっていて、大きな荷物の搬入出用の滑車まである。
自宅自体が「民藝作品」となっている。
清水六兵衛から譲り受けた巨大な登り窯。市街地の家にこんなものが!
民藝の範疇に含めていいのかどうかわかりませんが、砂沢ビッキの作品など、果たしてこれが具象か抽象か判然としないところがあるように感じます。 まあ、自分で勝手に線引きをすること自体、結構傲慢なことなのかも知れません。
チェンソーアートはこうした民藝や、宮澤賢治の農民芸術(?でしたっけ??)へのハードルをかなり低くしてくれるような気がします。 そのぶん、自分がむき出しになるような所もありそうですが(汗)
前にも書きましたが、一昨年、高取で初めてチェンソーカービングを見て大変な衝撃を受けました。しかし、その後あちこちのデモや大会を見て回っているうちに、フクロウ、イーグル、クマ、などなど、ほんの30分~数時間で彫り上げるテクニックは確かに凄いのですけど...、なんか定型的といいますか、物足りなさといいますか、端的に言ってしまえば「飽き」を感じてきたのです。自分では彫れもしないのに生意気なようですが。
そんな時、安曇野で、早くからこの技術を彫刻に取り入れ、長年芸術にまで高める努力を続けてこられた伴さんや、同じような努力を続けておられるhiro2号さん、宮澤五郎さんのような方に出会えたのは嬉しい出来事でした。月光仮面さんもそのお一人だと思っております。みなさんご本人が、そんなことを意識してチェンソーカービングに取り組んでおられるのかどうかは分かりませんが。
砂澤ビッキについてはご指摘で初めて知りました。情報ありがとうございます。ネットで作品の一部を見ていつかぜひ北海道の現地を訪れてみたくなりました。