歴歩

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糸島市・御床松原遺跡 国内最古級の「硯(すずり)」と判断

2020年12月20日 | Weblog
 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で、福岡県糸島市の御床松原(みとこまつばら)遺跡で出土していた「石鍬(いしくわ)」とされた石製品(長さ18.6cm、幅6.8cm、厚さ1.2cm)を鑑定した結果、弥生時代中期前半(紀元前150年ごろ)の国内最古級の硯(すずり)とみられることが分かった。
 2017年に完形品の硯と発表した薬師ノ上遺跡(同県筑前町)の石製品と同じ形状と分かり、本遺跡出土の石製品は製作途中の硯と判断した。
[参考:2020.11.28共同通信、2020.12.19毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 薬師ノ上遺跡 弥生の硯文字 使用か
 弥生硯
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奈良市・ウワナベ古墳 墳丘裾部を確認 全長が20mほど大きくなり280m規模

2020年11月21日 | Weblog
 奈良市・ウワナベ古墳 墳丘裾部を確認 全長が20mほど大きくなる
 奈良県立橿原考古学研究所と奈良市は20日、周濠調査をしていた奈良市法華寺町の「ウワナベ古墳」(5世紀前半、前方後円墳、墳丘長255m)の後円部北東側から築造当初の墳丘裾部を見つけたと発表した。
 これまで考えられていた墳丘裾部より約10m外側で、この結果、後円部の直径が約20m大きくなり、全長が270~280m規模になる。
 今回、宮内庁も同時に調査を実施し、土を盛った墳丘部分を調べたところ、広範囲で石を敷き詰めた葺石が見つかった。また直径約40cmの円筒状の埴輪列が、直線上に並べられているのも見つかった。
 同古墳はこれまでの発掘調査より、被葬者は仁徳天皇の皇后・八田(やた)皇女という説もある。
 八田皇女は、応神天皇と和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ)の女・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に生まれた皇女。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、NHK]

関連ニュース・情報
 2017.5.11 奈良市の大和6号墳(直径約30mの円墳、5世紀築造)から出土した鉄鋌(てってい)を宮内庁が調査したところ、国内で製作された可能性があるとの結果を発表した。同古墳は、ウワナベ古墳の北側に位置する陪冢(現在は消滅)。
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福島県川俣町・前田遺跡 縄文期の「屈葬」人骨40体以上が出土

2020年11月17日 | Weblog
 福島県伊達郡川俣町小綱木地区の前田遺跡の今年度の調査で、縄文時代の40体以上の人骨を伴う墓や、木柱を伴う柱穴約140基などが多数確認された。14日、一般向けの現地説明会が開かれた。
 川俣町は、阿武隈山地西斜面の丘陵地帯にあり、現在NHK連続テレビ小説「エール」のモデルとなった古関裕而が、福島商業学校(現:福島県立商業高等学校)を卒業した後、川俣銀行(現:東邦銀行川俣支店)へ勤務していた所である。前田遺跡は町中心部から南東に約3キロの段丘上に位置する。

 縄文中期(約4500年前)の複式炉と呼ばれる大型の石組みを持つ住居跡が見つかった。
 縄文後期(約3500年前)の土坑墓から、「屈葬」による40体以上の人骨や、土器に遺体を納めた「埋甕(うめがめ)」が見つかった。
 縄文晩期(約2700年前)の木柱を伴う柱穴約300基が出土した。木柱は直径約30~40cmが多く、直径約60cmと大型のものもある。穴は浅く、木柱の周りに石が詰められていた。柱群は、掘立柱建物や柱を建ててお祭りをする祭祀の場などが推測されるという。
[参考:2020.11 福島中央テレビ、毎日新聞、2020.10福島民友新聞、福島新報、川俣町HP]
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古賀市・船原古墳 6世紀末~7世紀初頭 玉虫装飾の馬具が国内初出土

2020年11月16日 | Weblog
 古賀市教育委員会は13日、同市の船原古墳(ふなばるこふん、6世紀末~7世紀初頭)側の1号土坑から平成25年に出土した金銅製馬具「二連三葉文心葉形杏葉(にれんさんようもんしんようけいぎょうよう)」(ハート形で、縦横約およそ10cm、厚さ0・7cm)に約20枚の玉虫の羽を使った装飾が用いられていたことが分かったと発表した。
 市によると、古代の玉虫装飾品が見つかっているのは日本と朝鮮半島で11カ所。朝鮮半島では、馬具では、5~6世紀代の新羅の首都だった慶州の王陵級古墳など5カ所で発見されている。国内では初めての出土となる。
 国内では奈良県・法隆寺の玉虫厨子(国宝)、福岡県・沖ノ島の金銅製帯金具(国宝)、奈良県・正倉院中倉(ちゅうそう)の刀子の装飾に用いられていることが確認されている。
 デザインなどから朝鮮半島・新羅で制作され、伝来したとみられる。
 馬具は今月14日~12月20日に古賀市立歴史資料館で公開される。
[参考:共同通信、時事通信、西日本新聞、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、NHKニュース、古賀市HP]

過去の関連ニュース・情報
船原古墳
2010年09月29日 慶州・鶏林路14号墳、玉虫装飾矢筒初公開
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城陽市・小樋尻遺跡 3世紀後半の導水施設が出土 日本書紀の記述を裏付け?

2020年11月13日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが12日、城陽市富野久保田の小樋尻遺跡(こひじりいせき)から3世紀後半に浄化した水を使って祭祀を行ったとみられる国内最古級の遺構や大規模な溝跡が見つかったと発表した。
 古墳時代後期に掘られた人工的な溝(幅11m、深さ1.8m)が見つかり、その下層から前期の自然流路(幅25m、深さ2.7m)が出土した。南東から北西向きに流れ、水流調整用に一部木材などを使った水路跡が出土。この西岸からは祭祀遺構も見つかった。
 出土した木材などから、木板(堰板、幅1.7m、高さ0.6m)で水路を仕切り、水を溜めた上で、上澄みを木板上部の切れ込みから、祭祀遺構側に木樋を通して浄化水を流していたとみられる。周辺から祭祀に使われた漆塗りの木琴や盾、勾玉や桃の種も出土した。
 いずれも一緒に出土した土器から4世紀前半に設けられ、同様の施設としては最古とされる纏向遺跡(桜井市)とほぼ同時期の遺構とみられるという。
 また、古い水路が洪水で埋まってしまったものの、古墳時代後期の6世紀代に再び掘られ、新しい水路が規模を縮小しながら設けられ、改修をしながら約200年にわたり奈良時代まで使われていたということも判明した。敷葉(しきば)工法という土木技術が用いられていた。
 調査地周辺は古くは「栗隈(くりくま)」と呼ばれ、木津川から離れているために古墳時代中期と飛鳥時代に灌漑用の導水施設が設けられ、田畑が潤ったとする記述が、日本書紀に見られる。

 仁徳天皇12年 冬十月、掘大溝於山背栗隈縣以潤田。 是以、其百姓毎年豐之。
 推古天皇15年(607) 是歳冬、於倭国、作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池。 山背国、堀大溝於栗隈。

[参考:時事通信社、産経新聞、NHKニュース、ALCO]
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南相馬市・泉官衙遺跡 格式の高い玉石敷きが出土

2020年11月06日 | Weblog
 南相馬市教委は10月29日、泉官衙遺跡(いずみかんがいせき、原町区泉寺家前地区)の郡庁院跡で河原石を地面の舗装のために敷いた玉石敷を確認したと発表した。
また、郡庁院の建物を支える木製の柱の一部が保存状態の非常に良い状態で確認された。
 泉官衙遺跡は、河岸段丘上に立地する奈良・平安時代(7世紀末~10世紀前半)の陸奥国行方郡(むつのくになめかたぐん)の役所跡。玉石敷が確認されたのは同遺跡と上野国新田郡家跡(群馬県)の2カ所のみ。
 これまでの調査から遺跡は陸奥国行方郡家だったとされている。政庁(政務や儀礼の場となる中枢施設)のほか、租税の米を納めた正倉院、宿泊施設の館院(たちいん)などが見つかっている。
 説明会は7日午前10時~正午と午後1~3時に開かれる予定。
[参考:福島民友新聞、毎日新聞]
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倉吉市・中尾遺跡 弥生時代中期の建物跡から鉄矛1点と鉄斧2点が出土 

2020年11月06日 | Weblog
 倉吉市教委は2日、中尾遺跡(同市大谷)の弥生時代中期後葉(紀元前1世紀)の竪穴建物跡から弥生時代では国内最大となる長さ54・3cmの鉄矛と、長さ27・5cmの板状鉄斧、長さ11・0cmの鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土したと発表した。鉄矛と板状鉄斧が朝鮮半島製、鋳造鉄斧が中国製とみられるという。
 住居跡は、標高約25mの丘陵にある。鉄矛と板状鉄斧が住居内の地面に突き立てられ、住居ごと燃やされた形跡があった。副葬品としてではなく、何らかの祭祀で使われたとみられる。
 中尾遺跡は県中部に位置し、日本海と中国山地、瀬戸内海を結ぶ交易拠点として鉄器がもたらされたとも考えられるという。
 現地説明会は14日午前10時から計4回開かれる。
[参考:中国新聞、共同通信、毎日新聞、朝日新聞、NHKニュース]


過去の関連ニュース・情報
 小松市・八日市地方遺跡
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羽曳野市、藤井寺市・陵東遺跡 溝から5世紀後半~6世紀初めの人物埴輪3体が出土

2020年09月24日 | Weblog
 大阪府文化財保護課が24日、羽曳野市と藤井寺市にまたがる陵東遺跡(みささぎひがしいせき)の溝から盾持ち人、力士、男子像の人物埴輪3体(5世紀後半~6世紀初め)が出土したと発表した。
 盾持ち人埴輪は、頭部(長さ60cm、幅25cm)だけが出土したが、盾部分も含めると、人と同じぐらいの大きさだったらしい。立体的な顔立ちで、目の周辺には線刻がある。
 力士埴輪は裸で「まげ」の跡があり、百舌鳥・古市古墳群でははじめての出土となる、
 3体が付近の古墳から持ち出されて捨てられた可能性があるとしている。
[参考:共同通信、毎日新聞、ABCテレビ、テレビ朝日]
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京都市中京区・平安京右京三条一坊六町跡(藤原良相邸跡) 西池の州浜が出土

2020年06月28日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所が23日、平安時代の貴族藤原良相(ふじわらのよしみ、813~867年)の邸宅「西三条第」跡(今回、邸内の北西部約2850㎡)を調査した結果、大規模な池の遺構や建物などの跡が出土したと発表した。
 小石を敷き詰めた西池の州浜が約15mにわたり出土し、過去の調査結果から西池の東西幅は43m、南北約27m以上、州浜の延長は75m以上とわかった。
 邸宅の広さは1町分(120m四方)で、邸内には長さ約48mの溝(幅1.2m、深さ40cm)でつながれた2つの池が東西にあったとみられる。当時は、寝殿造が出る直前期とされる。
 一緒に出た土器から9世紀中頃に完成し、良相の死後も補修を繰り返しながら10世紀中頃まで存続したとみられる。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、NHK京都、KBS京都]

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 藤原良相
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日本橋の麒麟像と靖国神社青銅燈籠の麒麟像レリーフ

2020年04月14日 | Weblog
今朝(4月14日)のグッドモーニング「ことば検定」の今日の問題は
日本橋の麒麟像、オリジナルの特徴とは?
で、答えは「翼がある」であった。
東野圭吾の推理小説『麒麟の翼』(きりんのつばさ)のイメージが強いのであろう。
実は「翼」ではなく「鰭(ひれ)」だそうである。
 
日本橋の「麒麟像」の製作経緯等が東京都公文書館ホームページに記載されている。
それによると、装飾の設計を建築家・妻木頼黄(つまきよりなか、1859-1916)、製作を東京美術学校に委嘱(製作主任は同学校の助教授の津田信夫(1875-1946))、獅子と麒麟の原型製作を渡辺長男(わたなべおさお、1874-1952)、鋳造を岡崎雪聲(おかざきせっせい、1854-1921)が担当したとある。
「日本橋記念誌 / 安藤安編」(日本橋記念誌発行所  1911)の「獅子と麒麟/岡崎雪馨著」では、麒麟像のモチーフについて参考にする作品が乏しかったが、彫刻物では九段の靖国神社にある鈴木長吉氏作、青銅燈籠の腰に造られた麒麟像が、最も参考品として有力であったことが記されている。
また、「翼」と「鰭」とを検討した結果、羽が生えたような形の背びれを採用したとしている。(「妻木頼黄と日本橋の意匠 金山弘昌著」(慶応大学日吉紀要-人文科学 2012 )にも同様なことが記載されている。)
左:靖国神社「青銅燈籠」の麒麟像レリーフ、 右:日本橋「青銅製麒麟像」 
    
靖国神社の青銅製金燈籠の麒麟像レリーフ
西南戦争に派遣されて、犠牲となった警察官を慰霊するため、明治12年(1879)に竣工、翌年5 月17 日に警視局(警視庁の前身)から青銅製金燈籠 2基が奉納された。
・銅工の鈴木長吉(1848 -1919)作
・腰部周囲の文様:龍、鳳凰、麒麟、玄武
この靖国神社の金燈籠について得られる情報は、インターネットでも上記の内容だけであるが、「小倉惣次郎と大隈重信伯像」(沓沢耕介著 早稲田大学會津八一記念博物館研究紀要第4号2002年度)に、この金灯篭の装飾、麒麟の原型を作ったのが、小倉惣次郎(1845-1913)であるという。灯篭には8面/基のレリーフがあり、この全てあるいは一部を小倉が製作に関与している。」 実は、早稲田大学の大隈重信像第1号は小倉惣次郎が制作し、鈴木長吉が鋳造している。1903年に完成し、1907年早稲田大学中央広場に設置された。現在は大隈講堂の回廊に移されている。
 
小倉惣次郎は富岡村下郡(現在、木更津市)に生まれた。幼くして久留里町大和田の宮大工興三郎の従弟となり、宮造りと彫刻を勉強したという。 波の伊八こと、武志伊八郎信由(1751-1824)の彫刻作品を時折見て、心に刻んでいたのだろう。 
 
左:靖国神社青銅製金燈籠 右:早稲田大学大隈講堂回廊の大隈重信像
 
追記:2020.5.14 早稲田學報 早稲田記念號(第百五十三號、明治四十年十一月一日)に「大隈伯銅像製作談」の中に、「鑄物師鈴木長吉氏談」があり、その中で (小倉惣次郎)氏が其の後の金工作品中、処女作ともいふべきは、靖国神社における金燈籠の装飾「麒麟」なり。 と記載されている。さらに、小倉惣次郎が明治15年頃より金工物に興味があったらしいことが書かれている。すなわち、鈴木長吉氏自らが、靖国神社金燈籠の装飾「麒麟」像は小倉惣次郎氏の作であることを語っているわけである。
 
追記:2022.1.18 日本橋の上に架かる首都高速道路が地下化されることになり、日本橋と麒麟像などが話題となっている。 1月15日(土)「新美の巨人たち」で、この日本橋麒麟像が採り上げられた。制作の参考にした靖国神社の灯籠に刻まれた麒麟のレリーフの作者は鈴木長吉氏としているが、前述のとおり、鈴木長吉氏が語っているように小倉惣次郎氏であろう。
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宗像市 沖ノ島出土のガラス製品がササン朝ペルシャで作られたものと判明

2020年03月02日 | Weblog
 宗像大社(宗像市)は1日、1954~55年の調査で沖ノ島の祭事場跡から出土したカットグラス破片とガラス製の切り子玉について、西アジアのササン朝ペルシャ(226-651)で作られたものと判明したと発表した。
 カットグラス破片は淡い緑色で長さ5.6cm、厚さ3~5mm。13個のガラス製切り子玉は深緑色で長さ3.1~3.7cm。
 東京理科大などの研究チームがX線分析を実施し、ササン朝のガラスの特徴の植物の灰を原料としていることが分かった。
[参考:共同通信、時事通信、毎日新聞、読売新聞、2017.5.25毎日新聞]

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備考: ササンガラス
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松江市・田和山遺跡 弥生中期後半の石製品=硯?に最古の文字か

2020年02月03日 | Weblog
 1日、岐阜県大垣市で開かれた考古学研究会東海例会で福岡市埋蔵文化財課久住猛雄氏が、松江市乃白町(のしらちょう)の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を発表した。石製品は約8cm四方の板状で、硯(すずり)と判断された。国内で書かれた文字とすれば2~3世紀遡る国内最古の例となるとする。
 墨で書かれていた可能性があるとしているが、赤外線撮影では墨書を確認できなかった。
[参考:毎日新聞、朝日新聞]

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御所市・中西遺跡 新たに弥生前期の水田跡が見つかる

2019年11月21日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が20日、弥生時代前期(約2400年前)の水田跡が確認されていた御所市の中西遺跡で、新たに約3500㎡の水田跡が見つかったと発表した。
 水田跡は約4万3千㎡に及び、この時期では全国最大規模とみられる。
 出土した水田跡は小さなあぜで区画され、表面には人の足跡も無数残っていた。川とみられる跡や同時期の洪水跡もみつかった。一帯の水田の広さは約10万㎡を超えていたと推定されるという。
 現地説明会が23日午前10時~午後3時に行われる。
[参考:共同通信、朝日新聞、]

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京都市南区・西寺跡 五重塔跡?が見つかる

2019年10月25日 | Weblog
 京都市文化財保護課が24日、平安京への遷都(794年)直後、羅城門の西に建てられた国営寺院「西寺(さいじ)」について境内跡南西部を発掘調査をしたところ、存在したとされる五重塔の基礎部分の可能性が高い跡が見つかったと発表した。
 京都市は先月から発掘調査を行っており、講堂の「基壇」が確認されていた。
 文献史料によれば、塔は鎌倉時代の1233年に焼失した後は再建されないままだった。
 現地説明会が10月26日午前10時~正午に開かれる。
[参考:時事通信、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞NHK]

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橿原市・本薬師寺跡 南門跡が見つかる

2019年09月27日 | Weblog
 橿原市教委が25日、飛鳥時代7世紀末に藤原京に創建された本薬師寺跡(もとやくしじ、同市城殿町)で、正門に当たる南門跡が見つかったと発表した。
 本薬師寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して造営した国家寺院。
 これまで中門は見つかっているが、南門は見つかっていなかった。
 教委が今春、中門から約20m南にある水田から柱の礎石穴3カ所や、基壇の一部とみられる盛り土、基壇を囲う石敷きなどが見つかった。 門の東西は推定約15m、南北は約10mで、中門(東西約14m)を上回る規模とみられる。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞]

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