歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

向日市・五塚原古墳 川原石で築いた竪穴式石室が見つかる

2019年09月11日 | Weblog
向日市埋蔵文化財センターが6日、同市寺戸町芝山の五塚原(いつかはら)古墳(3世紀半ばから後半の築造、全長約91mの前方後円墳)の発掘調査で、竪穴式石室が見つかったと発表した。
大きさや形がふぞろいな川原石で石室を築いていた。
[参考:2019.9.6 共同通信]

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五塚原古墳に竪穴式石室、京都川原石で構築、移行期か




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明日香村・飛鳥京跡苑池 流水施設 7世紀、天皇の祭祀用か

2019年08月09日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が8日、飛鳥時代(7世紀)に造られた日本最古の本格的庭園とされる飛鳥京跡苑池(明日香村)の北池で湧き水を利用した流水施設が見つかったと発表した。
 石組みの中に湧き出た水が、大規模な石敷きに設けられた溝を流れる構造。これまでは供宴の場と考えられていたが、天皇が祭祀などで使う重要な空間だった可能性が高いとしている。
 階段状の護岸も見つかった。
[参考:共同通信、産経新聞、朝日新聞、関西テレビ、読売テレビ、ABCテレビ]
 
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奈良県吉野町・宮滝遺跡 聖武天皇時代の吉野宮建物跡2棟が見つかる

2019年07月19日 | Weblog
 吉野町と県立橿原考古学研究所は19日、聖武天皇時代の正殿に付帯する二つの建物跡を確認したと発表した。
 昨年、同遺跡では正殿とみられる大型建物跡(東西23.7m、縦9.6m)が出土した。今回は、正殿の北側に後殿と南西側に脇殿とみられる。脇殿は1985年度の調査で見つかった正殿南東側の建物と左右対称とみられる。
 また正殿の西側で北へ約61m、掘っ立て柱塀の柱穴が続くのを確認した。
 吉野宮が本格的な離宮で、天皇家にとって特別な場所だったと裏付けられた」としている。
[参考:毎日新聞、産経新聞、NHK]
 
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 奈良時代(8世紀)前半とみられる大型建物跡(東西23.7m、南北9.6m)が見つかる。
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大山崎町・鳥居前古墳 出土した画文帯環状乳神獣鏡片は芝山古墳の出土品と酷似

2019年07月03日 | Weblog
 京都府大山崎町教委は、同町円明寺の鳥居前古墳(全長60mの前方後円墳、4世紀末~5世紀初頭)から出土した、西暦200年前後に中国で製作された青銅鏡「画文帯環状乳神獣鏡」2片について、同町教委と京都大大学院の学生が調査した結果、鏡の成分や文様が、向日市寺戸町芝山の芝山古墳(経20m円墳?)で見つかった鏡と酷似していることから、同じ工人による作品だと発表した。
 異なる勢力の古墳から似た副葬品が出土するのは珍しく、権力者が連携した関係を構築していたとみている。
 出土した画文帯環状乳神獣鏡2片は7日まで、同町歴史資料館ラウンジで展示される。
 
備考: 今年に発行された大山崎町の「鳥居前古墳の概要リーフレット」では、芝山古墳の築造時期は鳥居前古墳よりやや早い、4世紀後半としている。
[参考:京都新聞、大山崎町HP]
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松江市・南外古墳群5号墳 6世紀前半の横穴式石室が出土

2019年06月30日 | Weblog
 松江市は27日、同市東津田町の南外(なんげ)古墳群5号墳から、6世紀前半ごろの横穴式石室が出土したと発表した。出雲地方で横穴式石室が導入され始めたころの遺跡。
 5号墳は茶臼山(標高171.4m)の標高約73mにあり、東西約13m、南北約10m、高さ1.7mの方墳。石室は両袖型で、長さ2・3m、幅1・3m。全体を盛り土で覆っていたらしい。玄室入り口に玄門が立ち、形状から九州型石室と考えられるという。
 29日に現地説明会が行われた。
[参考:毎日新聞、朝日新聞、松江市HP]


キーワード: 南外古墳群、 九州型石室
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明日香村・飛鳥寺 創建当初?の風鐸の破片が見つかる

2019年06月30日 | Weblog
 奈良文化財研究所は28日、日本初の本格的仏教寺院・飛鳥寺の旧境内地の発掘調査で、江戸時代ごろに整地された土の中から青銅製「風鐸」の破片1点(8.4cm分)が見つかったと発表した。
 創建当初の国内最古級の風鐸の可能性もあるとしている。
[参考:毎日新聞]
 
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竹島を記したさらに古い地図を発見

2019年06月27日 | Weblog
国立国会図書館所蔵の資料の中から、竹島への航路を示した日本地図として最古とみられる「日本志山陰部隠岐国(にほんしさんいんぶおきのくに)地図」(宝暦2年(1752)地図学者 森幸安作成)が見つかった。
[参考:毎日新聞]
 
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会津坂下町・高寺山遺跡 平安時代前期の山岳寺院遺構が出土

2019年06月27日 | Weblog
 平安時代前期9世紀前半の山岳寺院跡とみられる福島県河沼郡会津坂下町宇内の高寺山(たかでらやま)遺跡で、古密教の祈祷で利用する「修法壇(しゅほうだん)」や、湧き水をためる堰(せき)とみられる遺構が新たに見つかったことが分かった。
 同遺跡ではほかにも、古密教に関連する八角形の建物跡とみられる遺構も見つかっている。
 徳一(とくいつ)による磐梯町の慧日寺(えにちじ)の創建年(807年)と近いことなどから、徳一とも深く関わりがあると考えられるとしている。
[参考:福島民友新聞]

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香芝市・平野塚穴山古墳 墳丘から凝灰岩の切石(張り石)が見つかる

2019年06月27日 | Weblog
 奈良県香芝市教委は25日、平野塚穴山(ひらのつかあなやま)古墳(7世紀後半)の発掘調査で、墳丘から古墳の表面を飾るために敷き詰められたとみられる凝灰岩の切石が見つかったと発表した。
 同古墳は25~30m四方、墳丘高さ約5.4mの二段式の方墳。切石は近くの二上山(にじょうさん)で産出された凝灰岩とみられ、墳丘南側で約20個見つかった。15~30cm四方で一部が平らに加工されており、墳丘上段の表面を張り石で飾っていたとみられる。
 二上山の凝灰岩が敷き詰められているのが確認されたのは、野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)と、被葬者が斉明天皇とみられている牽牛子塚古墳に続き3例目となる。
 平野塚穴山古墳の被葬者は斉明、孝徳両天皇の父で、天智、天武両天皇の祖父に当たる茅渟(ちぬ)王との説があるが、さらに高まったとする。
 さらに同古墳の石室は「横口式石槨」で、壁画で知られる高松塚古墳(明日香村)などと類似。石室の石には築造の際に道具を挿入したとみられる梃子(てこ)穴も見つかった。梃子穴は後の時期の高松塚古墳とキトラ古墳(同村)でも見つかっており、同じ石工集団が手がけたと考えられるという。
 現地公開は30日午前11時~午後3時。
[参考:共同通信、毎日新聞、朝日新聞、産経新聞、奈良テレビ放送]
 
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大分市・小部遺跡3世紀後半の地方豪族の大型建物跡が出土

2019年06月20日 | Weblog

大分県宇佐市教委は宇佐市荒木の小部(こべ)遺跡で、古墳時代前期(3世紀後半)の豪族居館の大型建物跡を発見したことを明らかにした。

 小部遺跡は弥生終末期から7世紀初頭の遺跡で、古墳前期が中心。南北約120m、東西100m以上の環濠に囲まれた集落で、ぼぼ中心部に南北約50m、東西約37mの方形区画がある。周囲に掘られた溝から、柵を立てたとみられる穴が連続しており、形状から当時の豪族居館とされた。

 今回、柱穴が見つかったのは方形区画の内部からで、直径約30cm20cmの穴が約2m間隔に、縦4列、横5列に計約20か所が出土した。縦4間、横3間(縦8m、横6m)の大型建物の基礎部分が想定される。

 34km離れた宇佐市高森に同時代の前方後円墳・赤塚古墳(全長約57.5m、3世紀末築造)があり、そこに埋葬された権力者の居館の可能性があるという。同古墳から三角縁神獣鏡5面などが出土している。

 遺跡からは畿内や吉備の土器が多数発見されており、「ヤマト王権と強いつながりを持った強力な豪族が宇佐にいたことが裏付けられた」とている。

 古墳と居館がセットで確認できるものは全国的に珍しい。

 古墳時代に地方豪族が使っていた大型建物跡が見つかるのは九州では初めてという。

[参考:共同通信、毎日新聞]

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泉南市・滑瀬遺跡 近畿でも弥生硯が出土か

2019年06月20日 | Weblog
 大阪府泉南市の弥生時代の滑瀬遺跡で、1985~86年度の調査で出土した板石の破片(長さ6.5cm、幅2cm)が、これまで砥石とみられていたが、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄主事の指摘により、弥生時代後期(1世紀)の硯(すずり)の可能性が高いことがわかった。 5月に開催された考古学研究会岡山例会で発表された。
 弥生時代から古墳時代前期の硯は、これまでに北部九州を中心に50例以上確認されているが、大阪府で見つかるのは初めてで現状では東限という。
[参考:共同通信]
 
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喜多方市・灰塚山古墳 石棺から出土した人骨から全身像を復元

2019年06月05日 | Weblog
 東北学院大文学部の研究グループは、喜多方市慶徳町新宮字小山腰の前方後円墳「灰塚山古墳」の石棺から出土した人骨や歯などをもとに、山梨大の調査協力を得て全身像を復元した。
 男性は身長158cmで渡来系の顔つきだった。死亡推定年齢は50代後半。
[参考:河北新報]

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 2017.9.16 5世紀ごろに築造された「灰塚山古墳」(全長約60mの前方後円墳)の箱式石棺(長さ2.2m、深さ20cm前後、最大幅85cm)から、成人男性の全身人骨(身長150~160cm)が見つかった。昨年の調査で石棺の上から鉄製の剣や矢尻など大量の副葬品が出土している。1km南に、東日本最大級で古墳時代の豪族の居住跡とされる国指定史跡「古屋敷(ふるやしき)遺跡」があり、埋葬者はそこに居た豪族とみられ、大和王権の中枢と関係が深かったと考えられるとしている。 [参考:福島民友新聞、毎日新聞]


支配層の男性は渡来系 喜多方・灰塚山古墳出土 歯や骨格から全身像を復元

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指宿市・敷領遺跡 亀卜の収納容器・鉄製甲臺が出土

2019年06月04日 | Weblog
 指宿市十町の敷領(しきりょう)遺跡で、874年の開聞岳噴火に伴う火山灰の下の8~9世紀の地層から「亀卜(きぼく)」の収納容器とみられる五角形の「鉄製甲臺(こうだい)」(幅約15cm、厚さ約4mm、残存部分の長さ約20cm)が見つかった。同遺跡からの出土は1996年に続いて2例目。
 亀卜は国の政策を決める際の占いに使用されるため、敷領遺跡に古代の役所「郡家(ぐうけ)」が置かれていた可能性が高まったとしている。
[参考:5.22南日本新聞、6.3 KTS鹿児島テレビ]

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2008.9.10敷領遺跡 開聞岳噴火埋没の住居跡出土
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茨城県・城里町 徳化原古墳 7世紀半ば以降の古墳時代終末期の東西37mの長方墳

2019年06月04日 | Weblog
 城里町と茨城大学考古学教室が5月31日、2018年度から連携して実施している同町指定史跡 「徳化原(とっけはら)古墳」(同町北方)の発掘調査の成果報告を行った。
 古墳の規模は東西約37m、南北約23m以上の長方墳。築造時期は7世紀半ば以降の古墳時代終末期。
 トレンチの中に柱穴列が確認され、柱が施工時土留め境界杭(あるいは割り付け杭)に使われていたことが考えられ、階段ピラミッドのような形状だった可能性がある。
 石室は横穴式石室で、玄室と羨道の部分からできている。地元産の凝灰質石材の切石を組み合わせており、栃木県にみられる構造。羨道部の石が上下逆さまになっていることも分かった。
[参考:茨城新聞、茨城大学HP、城里町HP]

徳化原古墳=頓化原古墳とも

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 都塚古墳


城里・「徳化原古墳」発掘 東西37メートルの長方墳 柱穴列確認 階段ピラミッド形状か

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栗東市・下鈎遺跡 弥生時代の青銅製環状分銅(環権)か

2019年05月24日 | Weblog
 滋賀県栗東市教育委員会が23日、弥生時代の環濠集落として知られる下鈎(しもまがり)遺跡(栗東市)で、20年前に出土した弥生時代後期後半(2世紀後半)の青銅品1点が、天秤ばかりに用いるリング状の分銅「環権」である可能性が高いことが分かったと発表した。青銅製環権は中国や韓国では墓に副葬された例があるが国内で見つかるのは初めて。
 下鈎遺跡では青銅器や赤色顔料「水銀朱」を生産しており、青銅の配合、朱の計量など精密な計量に用いたのだろうとしている。弥生時代に度量衡制度が伝わっていたことを示す史料となる。
 これまで亀井遺跡(大阪府八尾市など)などで天秤用の円柱状の石製分銅が、原の辻遺跡(長崎県壱岐市)では、竿秤(さおばかり)に吊り下げる青銅製分銅(弥生後期)が出土している。
 1999年に実施した発掘調査で、この青銅品(外径12.7cm、内径11.25cm、厚さ0.7cm)は弥生時代後期の川底跡から土器片や銅鏃と一緒に出土した。腕輪の「銅釧」(直径5cm)としては大きすぎるため、用途は不明で「銅環(どうかん)」と仮称されてきた。
 2017年ごろから調査し、韓国昌原市の茶戸里遺跡1号墓(紀元前1世紀)で出土した青銅製環権と重さを比較した。青銅品は重さが89.3g。茶戸里で出土した大小3点の環権と2の累乗倍という質量の法則と類似性が見られ、また、平たん面もあり積み重ねに適した形状から、分銅の可能性が高いと判断した。最大の環権(22.73g)の約4倍に当たるという。形状から中国か朝鮮半島で生産されたと考えられるという。
 5月25日~7月15日に栗東歴史民俗博物館(同市小野)で展示される。
[参考:共同通信、朝日新聞、毎日新聞、京都新聞、産経新聞、BBC びわ湖放送]

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 下鈎遺跡
 分銅
2008.11.28 慶尚南道昌原市北面・茶戸里遺跡 出土品から現れた新しい発見!


弥生の青銅製環状分銅か、滋賀 下鈎遺跡、国内初

国内初、弥生時代のてんびん環状分銅か 滋賀の遺跡20年前出土

国内初、弥生時代の分銅?20年前に発見の青銅製リング
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