歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

京都市東山区・平家一門の「六波羅邸」堀跡が出土

2019年05月18日 | Weblog
 京都市の民間調査会社「文化財サービス」が16日、京都市東山区で平安時代後期から末期にかけて平家一門が設けたとみられる「六波羅邸」の堀跡が出土したと発表した。六波羅から平家に関連する遺構が見つかったのは初めてという。
 調査地は清水寺から西に約1km、若宮八幡宮からは南西、五条通のすぐ北の東山区五条通東大路西入ルの浅見五郎助窯跡。遺跡周辺は、平安時代に「鳥辺野(とりべの)」と呼ばれる葬送の地だったといわれる。
 堀跡は幅3m(底面1.8m)、深さ約1・3mの逆台形で東西約15mにわたる。水も張られていたとみられ、堀の南側を沿ったかたちで堤防状の幅1.5mの土塁跡も出土した。堀の西側の約5mが土で埋められており、土留めの石垣が組まれていた。石の積み方は、石を積み土を固めて補強する工法「版築」で築くなど、鳥羽離宮跡(伏見区)にあるほぼ同時期の白河天皇陵の石垣に類似しているという。
 堀跡からは平安末期の12世紀中ごろの中国から輸入した高級な白磁などが見つかり、平清盛の祖父、正盛が邸宅を構えるなど六波羅に拠点を置いた12世紀前半に整備されたと推定される。堀は13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に「六波羅探題」を設けたころにはすべて埋め戻された。
 現地説明会が19日(午前10時から正午まで)開かれる。
[参考:共同通信、京都新聞、産経新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
2011.8.18六波羅政庁跡・六波羅蜜寺境内発掘調査 六波羅蜜寺の堀や門跡が見つかる


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横須賀市・三浦按針塚

2019年05月16日 | Weblog

按針塚(2019年4月6日撮影)

塚山公園(2019年4月6日撮影)
今日、5月16日はウィリアム・アダムス(三浦按針)の命日である。
1620年5月16日(元和六年四月二四日)に平戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死した。
横須賀市西逸見町の塚山公園(標高133m)には按針塚がある。
ここには、三浦按針夫妻の供養塔(宝篋印塔)が建てられている。いつ建てられたかは不明であるが、夫人の没年1634年(寛永11年)以降と考えられている。

埋葬墓ではないと考えられているが、今年になって、三浦按針の菩提寺である浄土寺(西逸見町)から、1905年(明治38年)に安針塚を発掘したところ鬢髪(びんぱつ、耳際の髪)などの遺物が埋蔵されていたと書かれた資料が見つかったという。 【神奈川新聞2019年05月09日を参照方】
来年は、三浦按針の没後400年である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平戸市・三浦按針墓地 一昨年に墓地から出土の人骨は三浦按針の可能性高い

2019年04月03日 | Weblog
 長崎県平戸市は1日、平戸市崎方公園内の「三浦按針墓地」で出土した人骨について、詳しい分析の結果、按針が亡くなった年代のヨーロッパ人男性と断定されたことを発表した。徳川家康の外交顧問を務めた英国人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)の可能性が高いとみている。
 DNAなどの分析結果、骨の成分を抽出して行った年代測定で、1590~1620年に死亡した可能性が高いことがわかったほか、DNA配列の分析で西ヨーロッパや北ヨーロッパの人の特徴が確認されたという。
 三浦按針は、慶長5年(1600)に臼杵市佐志生に漂着したイギリス人で、徳川家康に外交と貿易の顧問として重用され、1620年に56歳で平戸で亡くなった。
[参考:長崎新聞、NHK長崎]


過去の関連ニュース・情報
2018.3.3 平戸市の「三浦按針墓地」で発見の人骨、西洋人の可能性
三浦按針の墓と伝わる立碑と周辺の調査を進めている平戸市は2日、立碑下の地中から昨年7月に見つかった人骨について、「鑑定の結果、男性で、西洋人の可能性が高い」と発表した。今後、DNAの配列を調べて、ヨーロッパ系の人物かどうかをはっきりさせる方針。 [参考:朝日新聞]


平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津山市・桑山2号墳 岡山県北部、最古級〈6世紀中頃〉の横穴式石室が見つかる

2019年04月02日 | Weblog
 岡山県古代吉備文化財センターが発掘調査する佐良山古墳群の桑山古墳群2号墳(津山市高尾)で、県北最古級の横穴式石室が見つかった。
 桑山古墳群は、吉井川支流の皿川〈さらがわ〉の西に位置し、4基の古墳からなる。
 2号墳は6世紀中頃の直径約13mの円墳。周囲を幅約3mの周溝がめぐっており、中から埴輪が出土している。石室は奥行き約2.3m、幅は最大約1.9m。石室の上部は大きく壊れていたが、床面は河原石が敷き詰められており完全に残っていた。盗掘は受けておらず、その中から柄頭(つかがしら)に飾りが付いた「環頭大刀(かんとうたち)」や轡(くつわ)や鞍(くら)、辻金具など馬具一式などの副葬品が出土した。一部には表面に金銅装が施されていた。ほかに、須恵器が出土した。
 環頭大刀は長さ約80cm。全体がさびに覆われ、今後装飾の有無などを確認する。
[参考:山陽新聞、岡山県古代吉備文化財センターHP]


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県川俣町・前田遺跡 縄文時代中期、国内最古の「火切り臼」が出土

2019年03月29日 | Weblog
 福島県教委が26日、川俣町小綱木の前田遺跡から出土した、縄文時代中期(約4500年前)の「火切り臼」(火おこしに使われた道具)や漆器を報道陣に公開した。
 発掘調査は昨年7~12月に実施。
 県教委によると、出土した火切り臼は約5cmの木片。 縄文時代前期から、木の板の凹み(火切り臼)に垂直に棒を立てて回転させる火おこし「錐揉み(きりもみ)法」が行われていたと考えられている。縄文時代では、北海道小樽市の忍路土場(おしょろどば)遺跡(縄文後期)、石川県能登町の真脇遺跡(縄文後期・晩期)に続く3例目の出土で、国内最古とみられる。
 このほか、漆塗り製品も出土した。 赤の漆で塗られた土器の側面や縁の部分には、黒の漆で模様が描かれていた。
 取っ手が付いた木器など木製品も多く出土した。水玉や縞模様が描かれた土器の破片などもあった。
[参考:福島民友、共同通信、河北新報]


国内最古「火切り臼」出土 川俣・前田遺跡、縄文の重要な資料

漆塗り縄文土器が出土 「際立つ装飾性、概念が変わる可能性」 福島・川俣の前田遺跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪市・大坂城 豊臣の大名屋敷跡が見つかる 佐竹義宣の屋敷跡か

2019年03月20日 | Weblog
 大阪府教委は20日、大阪城(大阪市中央区)の西側で豊臣秀吉が整備した「大坂城三ノ丸」にあたる場所で、豊臣家六大将(徳川、前田、島津、毛利、上杉、佐竹)の一人、佐竹義宣(佐竹氏19代当主、1570-1633)の大名屋敷とみられる建物跡や、豊臣方が大坂の陣に備えて作った火縄銃の弾が見つかったと発表した。
 三ノ丸は慶長3年(1598)から整備が始められた。 礎石立ちの建物跡が2棟見つかり、そのうち1棟は東西約20m、南北約15mと規模が大きい。 建物近くで佐竹氏の家紋「扇に月丸紋」がある瓦が3点出土した。 豊臣時代の「大坂城」の周辺から当時の大名屋敷跡が見つかるのは今回が初めてという。
 建物跡は現在の地表から約2~3m下から見つかったが、徳川氏による大坂城再築工事で埋められていた。
 現地説明会が23日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、NHKニュース]


豊臣六大将・佐竹義宣氏邸宅か 大坂城西側で出土

豊臣大坂城三ノ丸に大型建物 武将・佐竹義宣の屋敷跡か

大坂城に豊臣家重臣の大名屋敷跡 佐竹義宣か、火縄銃の弾も
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良市・平城京左京六条三坊十二坪 東堀河の荷揚げ場 舟入遺構か

2019年03月19日 | Weblog
 奈良市教委員会埋蔵文化財調査センターの昨年4~5月の調査で、奈良市大安寺2丁目の平城京跡で、運河「東堀河」の東側で船の荷揚げ場「舟入(ふないり)」とみられる遺構が見つかった。
舟入遺構は東西16m、南北6m以上、深さ0・8m。西側で幅4・3m分検出した東堀河跡と幅約2m、長さ約1m、深さ0・6mの溝を介して接続されていた。
 古代の都城跡で同様の施設が確認されるのは初めて。
 出土遺物は、同市大安寺西2丁目の同センターで開催中の平成30年度春季発掘速報展(~29日まで)で展示されている。
[参考:奈良新聞、奈良市HP]

過去の関連ニュース・情報
奈良市・平城京左京
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神埼市・吉野ケ里遺跡 弥生後期の硯が出土 有明海沿岸で初

2019年03月15日 | Weblog
 佐賀県教委は13日、吉野ケ里遺跡(同県神埼市吉野ケ里町)で出土した石製品が弥生時代後期の硯(すずり)とみられると発表した。有明海沿岸では初めての出土。
 硯は、1993年に弥生後期の竪穴住居跡から出土した。長さ7・8cm、幅5・2cm、厚さ1・0cmの長方形の板状で、全ての側面が磨かれているため、完成品とみられる。墨が付着した痕跡は確認されていない。
 また、1995年に遺跡内の溝跡で出土した石製品は、墨をすりつぶすための研石(長さ3・8cm、幅3・5cm、厚さ0・5cm)とみられ、硯と研石が佐賀県内で見つかったのは中原遺跡(同県唐津市)に次いで2例目という。
 県教委は14日から4月上旬(予定)まで、吉野ヶ里遺跡展示室(国営吉野ケ里歴史公園内)で速報展示会を開催する。
[参考:西日本新聞、日経新聞、NHK佐賀、佐賀市教委HP]

過去の関連ニュース・情報
 吉野ケ里遺跡
 弥生硯
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和郡山市・平城京南方遺跡 「十条」条間北小路とみられる道路遺構が見つかる

2019年03月15日 | Weblog
 大和郡山市教委が13日平城京羅城門の南にある平城京南方遺跡(同市野垣内町)で、道路遺構が見つかったと発表した。
 九条大路の南側でも道路遺構の発見がみられ、造営当初は十条大路まであった可能性があるという。
 市教委が2月から、羅城門跡の南西150mの109㎡を発掘調査したところ、幅6mの東西道路跡が見つかった。
 九条大路と並行する「十条」条間北小路と西一坊坊間西小路と交差する地点よりやや西側の場所に当たる。
北側に2本の溝跡があった。内側の溝(幅1・8m)を埋め戻した後に外側の溝(幅2・6m、奈良時代中頃)を削ったらしく、道路の幅を7・6mに広げていた。
 羅城門や城壁と一体的に機能させるために一帯を再整備した可能性が高いという。
 続日本紀に、天平十九年(747)六月十五日己未 於羅城門雩。 (羅城門で雨乞いをした)
とする記述があり、この時期までには羅城門は築かれていたとみられる。
 現地説明会が16日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、朝日新聞、奈良新聞、産経新聞]

過去の関連ユース・情報
2018-6-9 大和郡山市・平城京南方遺跡 平城京南端とされる九条大路より南側で、奈良時代の道路遺構が2カ所見つかる
2012-12-24 大和郡山市・平城京南方遺跡 京域が九条までだった可能性を示す溝跡が見つかる


「羅城門」南西で新たに道路跡 京の玄関口と一体整備か 平城京

平城京外に「十条」道路跡? 奈良・大和郡山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三重県・斎宮跡 飛鳥時代の宮殿一部か

2019年03月07日 | Weblog
 斎宮歴史博物館(三重県明和町)が6日、国史跡・斎宮跡(同町)で、7世紀後半から8世紀初めの飛鳥時代に建てられた宮殿の一部とみられる建物遺構が見つかったと発表した。
 最初の斎王は天武天皇3年(674)に派遣された天武天皇の娘、大来皇女(661-702)とされ、今回見つかったのはそれに続く時期の遺構。
 「日本書紀」の記述を裏付ける重要な発見としている。
[参考:共同通信、毎日新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
2019,1.5 三重県明和町の国史跡・斎宮跡で、飛鳥時代後半(7世紀後半~8世紀初頭)の斎宮の中心施設である、方形区画と多数の建物跡が見つかった。天武天皇の娘で初代斎王・大来皇女の就任に伴い造営されたとみられる。
現場は国史跡範囲の西部に位置する。2018年度の発掘調査で、区画の北東隅とみられる直角に折れた塀跡が見つかり、過去に発掘された塀跡と合わせて東西約40m、南北約60m以上の方形区画が存在することが分かった。区画内では脇殿とみられる掘立柱建物跡が4棟、さらに区画外の西では、3間×4間の大型総柱建物を含む倉庫跡が7棟あることが確認された。
[参考:読売新聞、斎宮歴史博物館HP]

斎宮跡


斎宮跡で飛鳥時代の宮殿一部か 伊勢神宮奉仕の皇女過ごす
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿南市・若杉山遺跡 水銀朱の原料となる辰砂の坑道跡を最古となる弥生後期と確認

2019年03月01日 | Weblog
 阿南市と徳島県教委が1日、赤色顔料「水銀朱」の原料となる「辰砂(しんしゃ)」が採取されていた若杉山遺跡(阿南市水井町)の坑道跡が、土器片の年代から弥生時代後期(1~3世紀)の遺構と確認されたと発表した。
坑道跡は太龍寺山(たいりゅうじざん、標高618m)の斜面・標高約250mにあった横穴。全長12.7m、高さ0.7~1.2m、幅3m。
 これまで最古とされてきた山口県美祢(みね)市の長登(ながのぼり)銅山跡の坑道(8世紀)を約500年さかのぼり、国内最古の坑道という。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
若杉山遺跡


徳島に国内最古の坑道 弥生土器出土、朱を採掘

徳島に最古の鉱山遺跡か 卑弥呼も入手?「朱色」の原料
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウズベキスタンのサマルカンド州・カフィルカラ遺跡 王族の装身具が出土

2019年02月28日 | Weblog
 国立民族学博物館(大阪府吹田市)と帝塚山大(奈良市)の調査チームが28日、ウズベキスタンにあるシルクロード都市サマルカンド州のカフィルカラ遺跡でゾロアスター(拝火教)を信仰したソグド人のものとみられる、ハート形の金製品や指輪飾りの装身具など約20点が城の玉座付近の祭壇から見つかったと発表した。
 出土品が藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町)の金銅冠の部品に類似していることも指摘。ソグド人の宝飾文化がシルクロードを経て日本に及ぼした影響を考える上でも重要としている。
[参考:共同通信、毎日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 カフィルカラ遺跡


ゾロアスター教の金製品など出土 日本の調査団が発表、ウズベク
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四條畷市・大上7号墳 奇妙な文様が刻まれた盾形埴輪片が出土

2019年02月27日 | Weblog
 四條畷市教育委員会の調査で、馬飼集団の古墳とみられる大上(おおがみ)古墳群(四條畷市清滝中町)の7号墳(6世紀)から、奇妙な文様が刻まれた珍しい盾形埴輪片(高さ約43cm、幅約17cm)が見つかり、現在、府立近つ飛鳥博物館(大阪府河南町)で展示している。3月17日まで。
 古代中国の呪術師「方相氏(ほうそうし)」を描いた可能性も指摘されているという。
[参考:朝日新聞]

過去の関連ニュース・情報
 方相氏
 盾持人埴輪
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊谷市・東善寺 快慶作の阿弥陀如来立像か

2019年02月26日 | Weblog
 熊谷市教育委員会は25日、曹洞宗・東善寺(熊谷市代町944)が所蔵する木造阿弥陀如来立像が、鎌倉時代の仏師・快慶が製作した可能性が高いことが分かったと発表した。
 平成29年11月、市史編纂のため市内の全仏像の調査中、東善寺で複数の仏像と一緒に箱に入っていた当像が、像の表情や衣文表現などが快慶に共通していたため、東京国立博物館に調査を依頼したところ、X線コンピューター断層撮影(CT)の結果、仏像の内部に古文書らしい折りたたまれた紙(高さ36cm、幅6・6cm、厚さ4cm)や髪の毛の束などがあることなどが分かった。
 像は高さ69cmで、材質は針葉樹系(ヒノキか?)。1本の木に全身を彫り出した後、分割し、内部を刳り貫いて接ぎ合わせる割矧造(わりはぎづくり)の技法が用いられていた。小さく秀麗な顔や腰高ですらりとした体形が快慶の作風に通じているという。
 当像は埼玉県立歴史と民俗の博物館(さいたま市大宮区)で開かれる特別展「東国の地獄極楽」(3月16日~5月6日)で展示される。
[参考:埼玉新聞、毎日新聞、産経新聞、読売新聞]

東善寺についての詳しいことは、なかなか調べきれなかったが、日本姓氏語源辞典、埼玉苗字辞典、新編武蔵風土記稿より、下記が推察される。
曹洞宗 代島山 東善寺 (旧、大里郡代村)
創建 慶長13年(1608)
開基 原島三郎義治(法名東善寺殿義応義治居士)・・・原島氏の祖先は丹治比姓にて、熊谷次郎直実が末流?
開山 叱洞長牛



県内初の快慶作の仏像か…熊谷・東善寺の阿弥陀如来立像、市が背景解明へ 年代や大きさなど謎多く

快慶の阿弥陀如来立像か 埼玉・熊谷の東善寺で発見


過去の関連ニュース・情報
 快慶



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天理市・ヒエ塚古墳 後円部直径を69mと推定

2019年02月22日 | Weblog
 天理市教育委員会は20日、同市萱生町の前方後円墳「ヒエ塚古墳」(全長130m、3世紀後半~4世紀初め築造)の後円部直径が、地中レーダー探査の結果とこれまでの発掘調査から約69mと推定されると発表した。
 現地説明会が23日(土)午後1時半から3時半に開かれる。
[参考:毎日新聞、奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 ヒエ塚古墳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする