大同文化財研究院は14日、大伽耶の石垣山城である慶北高霊郡主山城(고령 주산성)内城(6世紀初期に築城)で、百済の技術で作られた食材を保管するために作ったと推定される大型地下保存施設・木槨庫(縦横各5m、深さ2m、 6世紀中頃)を確認したと発表した。
このような木槨庫は公州 公山城、大田 鷄足山城、利川 雪城山城、錦山 栢嶺城、大田 月坪洞遺跡などの百済圏域で主に発掘され、伽耶圏域から出たことは初めてという。
当時、大伽耶と百済が密接な交流をしており、木槨庫に使われた度量衡が百済で使われた南朝尺(1尺=25㎝)である点からみて、百済技術で作られた可能性が大きいと話した。
木槨庫では、新羅が大伽耶を併合した後、火を付けたとみられる焼土と木炭とともに、6世紀後半新羅で製作された短脚高杯、短脚皿片も出土した。
研究院関係者は木槨庫の確認は大伽耶が554年管山城戰鬪(注1)で敗れた後、親百済勢力によって支配されたという学説を後押しすると話している。
[参考:聯合ニュース]
(注1)管山城戦闘は554年百済と新羅が管山城、今の忠北、沃川で戦って新羅軍が百済軍を打ち破って百済聖王を殺した戦い。 その後、両国は百済が滅亡するまで敵対関係が続いた。
このような木槨庫は公州 公山城、大田 鷄足山城、利川 雪城山城、錦山 栢嶺城、大田 月坪洞遺跡などの百済圏域で主に発掘され、伽耶圏域から出たことは初めてという。
当時、大伽耶と百済が密接な交流をしており、木槨庫に使われた度量衡が百済で使われた南朝尺(1尺=25㎝)である点からみて、百済技術で作られた可能性が大きいと話した。
木槨庫では、新羅が大伽耶を併合した後、火を付けたとみられる焼土と木炭とともに、6世紀後半新羅で製作された短脚高杯、短脚皿片も出土した。
研究院関係者は木槨庫の確認は大伽耶が554年管山城戰鬪(注1)で敗れた後、親百済勢力によって支配されたという学説を後押しすると話している。
[参考:聯合ニュース]
(注1)管山城戦闘は554年百済と新羅が管山城、今の忠北、沃川で戦って新羅軍が百済軍を打ち破って百済聖王を殺した戦い。 その後、両国は百済が滅亡するまで敵対関係が続いた。