平城京左京五条五坊十三坪跡(奈良市西木辻町)で平成5年に見つかった7世紀後半の軒平瓦片が、和田廃寺跡(橿原市和田町、7~8世紀)から出土した瓦と同笵だったことが、奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で分かった。
文献史料から、出土地の東側には「葛木寺」があったと推定され、和田廃寺跡を聖徳太子創建七カ寺の一つ「葛木尼寺」とする説を裏付ける成果としている。
[2017.12.9参考:奈良新聞]
コメント
葛木寺は、平城京の時代には左京五条六坊に移ったようである。五条大路に面し、東隣は空海が上京したときに滞在した、佐伯今毛人(いまえみし、719-790)の氏寺・佐伯院であった。
続日本紀 宝亀十一年(780)正月庚辰【十四】の条に
大雷。災於京中数寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆焼尽焉。
と記される。
文献史料から、出土地の東側には「葛木寺」があったと推定され、和田廃寺跡を聖徳太子創建七カ寺の一つ「葛木尼寺」とする説を裏付ける成果としている。
[2017.12.9参考:奈良新聞]
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葛木寺は、平城京の時代には左京五条六坊に移ったようである。五条大路に面し、東隣は空海が上京したときに滞在した、佐伯今毛人(いまえみし、719-790)の氏寺・佐伯院であった。
続日本紀 宝亀十一年(780)正月庚辰【十四】の条に
大雷。災於京中数寺。其新薬師寺西塔。葛城寺塔并金堂等。皆焼尽焉。
と記される。