9/12(土) 5:56配信
デイリー新潮
小学生時代から“調整役”
「無念の退場」で支持率は回復
安倍総理の退陣表明により、“次期総理”の座を掴んだ菅義偉(よしひで)官房長官。両者の関わりを遡ると、2007年の安倍総理退陣後、菅氏は「安倍再登板」を主張し続け、第2次安倍内閣が発足すると官房長官として安倍総理を支えた。が、いつしか安倍総理は「寝首をかかれる」と警戒心を露わにするようになり、昨年両者の溝は決定的なものになったという――。
【写真】「自民党の悪いところは全て見た」政治家・菅義偉 異例のロングインタビュー
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秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市)出身の菅氏の足跡は、「叩き上げ」そのものだ。
秋田時代の同級生の話。
「小学校時代は桃組と桜組の2クラスあり、義偉は桜組でした。で、桃組と桜組のケンカがしょっちゅうあったのですが、そういうときに義偉が間に入ってまあまあと双方を説得する。お互いの言い分を聞いて、悪いと思った方には謝らせ、それをもって、もう一方の組に行き、これで水に流してくれと頼んで争いごとを収めてしまうのです」
早くも調整能力の高さを発揮していた菅少年。地元の高校を卒業後、上京したことについて、菅氏のHPでは以前、〈集団就職〉と記されていたが、
「義偉が東京に行ったのは事実ですが、それが『集団就職』ではなかったことは間違いない」(同)
段ボール工場勤務から政界へ
上京後は段ボール工場で働きながら学費を貯め、法政大学法学部に入学。卒業後、いったんは電気設備会社に就職するものの、政治の世界に進みたいとの思いを抱き、大学の学生課で法政OBの中村梅吉元法相を紹介してもらう。そして1975年、中村元法相の秘書に横浜を地盤とする小此木彦三郎代議士を紹介してもらい、秘書になるのだ。ちなみに秘書時代に知り合った真理子夫人との間に3人の子どもがいる。
小此木代議士の秘書を11年間務めた菅氏は87年に横浜市議選に出馬して初当選。95年までの2期8年、市議をやった後、96年に衆院選に挑んで初当選を果たしている。この期間のことを知る関係者の証言を重ね合わせていくと、菅氏はここぞという時に自らの意思を貫いて「勝負」をかけ、這い上がってきたことが分かる。
83年に小此木代議士が通産大臣に就任すると「自分が大臣秘書官をやりたい」とゴネて翌年、実際に秘書官となった。横浜市議選に出馬する際には、当時の自民党横浜市連幹事長が「神奈川区から出ろ」と言うのを拒否して西区から出た。96年に国政に進出する際には、小此木代議士の三男の八郎氏を神奈川3区に追いやり、自身は小此木代議士が圧倒的な強さを誇った神奈川2区から出馬して当選――。
また、自らの地盤を強固なものとするために、使える人脈は徹底的に使う。その最たるものが、横浜にある港湾荷役業「藤木企業」会長の藤木幸夫氏との関係である。
週刊新潮は5年前に掲載した特集記事「政権ナンバー2の座に2年と4カ月! 総理の椅子が欲しくなった『菅官房長官』権力の階段」で、菅氏の歩みを詳報。記事の中で、菅氏の「育ての親」である元自民党神奈川県連会長で元神奈川県議の梅沢健治氏が次のように証言している。
〈藤木幸夫さんは、“あいつ(菅氏)を勝たせる”と言って相当応援していた。藤木さんはいろんな会社をもっていて、その下に大勢の従業員がいる。そんな彼らは“藤木軍団”と呼ばれていて、選挙の半年前くらいから動いてくれる〉
安倍総理は「寝首をかかれる」と警戒
国政に転じてからも「勝負師」の顔は変わらない。当選の2年後、98年の総裁選では小渕派(平成研)を離脱して梶山静六氏を支援するも、結果は敗北。その後は加藤派(宏池会)に属し、2000年には「加藤の乱」に同調して無念を味わっている。
バクチに例えるなら「負けがこんで」いた菅氏が“大当たり”を勝ち取ったのは06年。「再チャレンジ支援議員連盟」を立ち上げ、安倍晋三総理を誕生させた菅氏は、第1次安倍内閣で総務大臣兼郵政民営化担当大臣に就任したのだ。さらに、07年に安倍総理が体調不良を理由に退陣した後も「安倍再登板」を主張し続け、12年にそれを実現させた。以来、官房長官の座にあり続ける菅氏について安倍総理は、
「ある時から、“いつか寝首をかかれる”と警戒するようになりました」
と、自民党関係者。
「警戒心を抱くようになったのは、数年前、菅さんが無派閥のグループを作り出した頃からです。それまで何でも総理の了承を得てから行動していた菅さんが、その時は総理に相談なく動いた、ということで不信感を持ち始めたのです」
また、菅氏は内閣人事局を通じ、霞が関の人事を掌握して官僚に睨みを利かせてきたが、
「そのせいで官僚が皆、菅さんの方を見て仕事をするようになった。それも安倍総理としては不快だったようです」(同)
菅氏の逆襲
両者の溝が決定的となったのは、新元号を発表して「令和おじさん」として知名度が急上昇した19年。
「元号発表の翌5月、菅さんは訪米してペンス副大統領と会談しているのですが、あれは明らかに総理の座を意識した行動でした。安倍さんは当然、警戒心を高めました」(先の政治部記者)
しかも、その訪米に同行した外務省幹部は、
「ペンス副大統領に対し、菅さんのことを『次期総理』だと紹介しています」(政府関係者)
しかし、好事魔多し。その後、菅原一秀、河井克行両代議士ら側近たちに相次いでスキャンダルが発覚し、「ポスト安倍」レースから一旦脱落した菅氏。今年に入って新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてからも「干された」状態が続いていたが、
「今井尚哉・首相補佐官などの『官邸官僚』が、コロナ対応を巡って布マスク配布などの失敗を繰り返し、馬脚を現しました」
菅氏に関する著作もあるノンフィクション作家の森功氏はそう話す。
「そして菅の逆襲が始まり、安倍総理が辞任を表明すると、菅の前に総理大臣への道が敷かれていった。ただ、これは安倍総理が政権を放り投げたから総理になれる可能性が出てきただけで、なるべくしてというわけでは当然ない。だから、生まれるのは菅の『居抜き乗っ取り内閣』なわけです」
とはいえ、「菅総理」が現実のものとなった時、
「党役員人事や組閣では、菅さんが可愛がっている河野太郎防衛相や小泉進次郎環境相を厚遇する可能性もある。彼らは将来の総理候補ですから、菅氏は総理を退いた後も『闇将軍』として影響力を持ち続けられる」(永田町関係者)
菅氏の政治の師である梶山静六氏は「大乱世の梶山」と評された。まさに「大乱世」であるコロナ禍の今、菅氏の前に総理への道が拓けるとは、何たる因果だろうか。
「週刊新潮」2020年9月10日号 掲載
新潮社
9/12(土) 16:30配信
産経新聞
憧れのアイドルに少しでも近い席で-。ファンなら当然の心理が増長し、気づけば一線を越えていた。年内で活動を休止する国民的人気グループ「嵐」の公演をめぐり、チケットを転売したとする女(24)が摘発・起訴された事件の手口は、入場に必要な身分証を偽造するなど大胆で悪質だった。中学時代から嵐を追い続けてきた女はなぜ、違法行為に手を染めたのか。8月、大阪地裁で開かれた公判で経緯と詳細が明かされた。(桑村朋)
【表でみる】チケット不正転売の流れ
■「感覚がまひ」
「(ライブや公演に)今は参加する気にもなれないし、しないと思う」
8月27日、大阪地裁の法廷。黒いスーツ姿の女はうつむきがちに、被告人質問に臨んだ。次に消え入りそうな声で、事件を振り返った。「良い席を取らないとという気持ちだった。感覚がまひしていた」
チケットの不正転売が社会問題化したことを機に、昨年6月に施行された入場券不正転売禁止法違反などの罪で起訴された女。事件は同法が初めて適用されたケースとしても注目を集めた。
起訴状などによると、女は昨年6~9月、京セラドーム大阪や東京ドームであった嵐のコンサートやイベントのチケットを不正転売していた。
■身分証偽造も
公判での説明によると、女はツイッターを使って転売されているチケットを検索。定価を超える値段で複数枚を入手していた。
チケットはスマートフォンなどにQRコードが表示される「電子チケット」だった。ファンクラブ会員だけが申し込むことが可能で、当然、転売は禁止されている。
チケットの複数枚入手の狙いは、少しでも良い席に近づくこと。自分が使う分以外のチケットは、改めてツイッターで購入者を募集した。再転売の価格は定価の8~14倍程度で、約11万円のもうけがあり、それは次のコンサートに向けた「軍資金」となった。
もっとも、電子チケットだけでの入場は不可能だ。
QRコードには、購入者と同行者の名前や人数の情報が埋め込まれており、入場時、写真付き身分証の名前や顔が一致する必要がある。そのため、女は実在する会社の訪問介護職員と偽った身分証を偽造。自身らの顔写真を付けた上で、転売相手を同行者にして不正に入場していた。
嵐のイベントでは、本人確認後の入場時に初めて座席の場所が明らかになる仕組みのため、女は最も見やすい座席を自分に、それ以外を転売相手に渡していたとみられる。
■「摘発なければ…」
女は中学生の頃、嵐のファンになった。高校生でライブに初参加。ファンクラブにも入会した。
当時は正規の方法で購入していたが、それだけで必ず良いチケットが手に入るとはかぎらない。平成29年ごろからは、転売サイトで定価を超えた値段でチケットを買うようになった。
母親と一緒にコンサートに参加したこともあり、その際は自身と母親の2人分の身分証を偽造した。
好きなアイドルに近づきたい。そんな純粋な思いの裏側で、ルール違反をもいとわなくなった。
法廷には、北海道から証人として駆け付けた父親の姿があった。「転売は知らなかった。コミュニケーションが不足していた。申し訳ない」。深々と頭を下げた。
大阪地裁の栗原保裁判官は判決でこう指弾した。「興行主の努力を無にする犯行」。女に言い渡されたのは、懲役1年6月、執行猶予3年、罰金30万円、偽造身分証明書の没収(求刑懲役2年など)の有罪判決だった。
「(摘発がなければ)ずっとやり続けてしまっていた」。公判で反省の弁を述べた女。更生を誓うとともに、嵐の公演には「もう行かない」と話した。
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9/12(土) 15:59配信
読売新聞オンライン
ニューシャトルを運行する埼玉新都市交通は11日、社長の南雲敦氏(54)が同日付で辞任したと発表した。女性社員にセクハラまがいの言動をしたことによる引責辞任で、記者会見した渡辺哲・代表取締役常務は「社長としての適任性が問われる事案。おわび申し上げる」と陳謝した。
発表によると、南雲氏は昨年8月に行われた暑気払いの2次会で、女性運転士に「田舎者」と揶揄(やゆ)したほか、下の名前で呼び捨てにしたり、顔を至近距離でのぞき込んだりしたという。今年4月、女性運転士の後輩から会社側に通報があり、5~7月に調査していた。
南雲氏は、酒に酔っていて一部の記憶がないと否定したというが、同社は同席していた社員への聞き取りなどから、不適切な言動を認定した。
南雲氏はJR東日本出身で、昨年6月から埼玉新都市交通に社長として出向していた。JR東日本も今月7日付で南雲氏を処分し、自宅待機させている。
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9/12(土) 19:08配信
朝日新聞デジタル
対局を振り返る藤井聡太二冠(2020年9月12日、東京都渋谷区、将棋日本シリーズ総合事務局提供)
将棋の藤井聡太二冠(18)が12日、将棋日本シリーズJTプロ公式戦の2回戦で豊島将之竜王(30)に108手で敗れた。8月に史上最年少で二冠となって以降、初めての黒星で、豊島竜王との公式戦での対戦成績は0勝5敗となった。藤井二冠は公式戦で2局以上戦った棋士のうち、豊島竜王にだけ一度も勝っていない。
【写真】対局する藤井聡太二冠(2020年9月12日、東京都渋谷区、将棋日本シリーズ総合事務局提供)
同棋戦は、トップ棋士12人が出場する早指しのトーナメント。後手の豊島竜王が「横歩取り」の戦いに誘導し、激しい戦いになった。終盤、双方に勝機が訪れる競り合いになったが、最後は豊島竜王が押し切った。
藤井二冠は「途中で見落としがあって、まずかった」と話した。豊島竜王は藤井二冠との対戦成績が5戦全勝となったことについて「結果が出ているので相性がいいのかもしれないが、たまたまだと思う」と語った。
藤井二冠は7月に棋聖、8月に王位のタイトルを獲得し、史上最年少の18歳1カ月で二冠になった。(村瀬信也)
朝日新聞社
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7つ子の親になったボビーとケニー夫妻は、日々やらなければいけないことに追われてました。もちろん、1日に52個のオムツ交換をしなければいけないことや、42本ものミルクを毎日用意しなければいけないことなどは、想定内でした。
しかし、それ以外にもやることは山のようにありました。ただ、家族や近所の人たち、そして寛大な人達からの寄付を受けて、彼らは立派に7つ子を育てあげることに成功したのです。更に、幼児期を乗り切った後は、世界初の生き延びた7つ子として世間からも知られるようになるのです。果たしてこの家族の壮絶な人生とは?
ボビーは、問題を抱えていた
娘のマッケイラが1歳4ヶ月になった時、ケニーとボビー夫妻は、既に2人目の子供をつくろうとしていました。ボビーは、初産の時に合併症を患い、不妊治療を受けていたので、彼らは、これ以上時間を無駄にしたくはなかったのです。
キャサリン・ハウザー医師は、ボビーにメトロジンと呼ばれる薬を処方しました。この薬は、卵巣を刺激して、動きの悪い卵子に対して、受精の為の働きを活発に促すものです。治療は、初めての挑戦でうまくいきました。しかし、不妊治療の薬には、多胎児が生まれるリスクが含まれているのも事実でした。彼らはもう一人、子供を望んでいましたが、運命は彼らに7という数字を選ばせたのです。
ボビーの不妊治療は、7つの卵子を宿した
マッコギー夫妻は、6週間検診の為に、ハウザー医師のところへ超音波検査を受けに行きました。発育中の胎児の成長は全て良好に見えました。しかし、そんな中看護師がボビーのお腹に、ある異常を発見したのです。
この一瞬の出来事が、夫妻の人生を一変することになるとは、彼らはまだ思いもよりませんでした。医師は、ボビーのお腹の中に、一つではない命が宿っていることを発見したのです。ー そう、彼女のお腹には7つの命が宿っていました。
強い衝撃を受けた夫妻
ハウザー医師でさえ、自分の目を疑ったと言います。「衝撃と疑いの言葉が頭に浮かびました。そしてしばらくの間、この事実がきちんと頭の中で処理できずにいました。」と1977年のTIME誌にハウザー医師は、語っています。マッコギー夫妻は、この事実と同時に、多くの赤ちゃんを産むことに伴うリスクを背負うことになったのです。
もちろん、マッコギー夫妻も、複数のリスクを伴うことの想像はできていました。しかし、医師が次にいう言葉は、想像もしていなかったのです。
ハウジー医師や他の医師が勧めてきた方法は、今までに前例がなかったのです。
「選択して減らす」提案
多胎児出産 — 双子、三つ子、もしくはそれ以上の胎児の出産 — 多胎児出産には、無数のリスクと合併症が伴います。多胎児を期待している母親は、流産や死産に苦しむ危険があるのです。7つ子ともなれば、そのリスクが増幅することは明らかです。
医師は、多胎児出産の選択肢を次のように提案しました。それは、出産する子供を選別して減らすという方法でした。この方法は、健康状態が疑わしい胎児を見つけ出して、中絶するという意味を含みます。しかし、これにより、健康な胎児の生存率が上がるのです。この選択肢は、両親に道徳的ジレンマを引き起こしました。しかしながら、そんな中の、マッコギー夫妻の決断はとても簡単なものでした。
マッコギー夫妻の選択肢に、中絶はありませんでした
マッコギー夫妻は、浸礼協会の信者であったので、「選別し減らす方法」は、考えられませんでした。リスクが伴うにも関わらず、彼らは7人の胎児全てを見守り、残りは神に任せることにしたのです。ケニーは後のインタビューで、記者団たちに、「医師の提示したアイディアは、選択肢ではなかったわ。ただ、起こりうる結果を強く信じていたの。」と述べています。
それでもこの選択は、とても大きな賭けでもありました。多胎児の赤ちゃんは、ほとんどの場合、未熟児として生まれます。つまりは、たとえ出産に成功したとしても、7つ子は乳児期に死亡してしまう可能性が高いということなのです。更に、その多胎児が、乳児期を生き抜いたとしても、その後の成長過程でも、深刻な健康問題を抱えるリスクがあります。
人々は、世界資源の無駄遣いだと訴えました
マッコギー夫妻は、妊娠をこのまま進めるという選択について自信がありました。しかし、世間が皆、この意見に、必ずしも賛成だとは限りませんでした。彼らは、反対者がいる事実を知る前、周囲から脚光を浴びていました。だからこそ、見ず知らぬの人達の、突然の反対意見には、驚かされたのです。
「最初は、どんな時でも幸せでした。しかし、”子供を搾取し、世界資源をこの家族ために無駄にすることに、私は許さない”という1通の手紙をもらったことで、考えが少し揺らぎました。」とボビーはDateline誌に説明しています。
それでも、多くの人が彼らの決断を支持し、すぐにマッコギー夫妻は、多くの寄付を受けたのです。
マッコギー夫妻を支援するための、寄付を募った
マッコギー夫妻は、アイオワ州の小さな町カーライルで、牧場付きの小さな家に住んでいました。ケニーは、自動車会社で経理として働き、ボビーは洋服の仕立て屋として自宅で働いていました。彼らの質素な生活は、7人の赤ちゃんが増える準備など、ほとんど出来ていませんでした。
幸いにも、カーライルの町全体は、マッコギー夫妻を応援していました。市長は、彼らが住む土地より、大きな土地を見つけることを約束しました。そして、地元の企業は、彼らの新しい家の電化製品を準備しました。更に、現金・オムツ・食料なども、周囲の寄付によって集まったのです。その上、アイオワ州では、7つの大学奨学金が子供達に約束されていました。
マッコギー夫妻にプレゼントされた、7つのベッドルームの家
マッコギー夫妻にとって、7つ子が生まれることは予想していませんでしたが、その事実は、だんだんと現実になってきました。夫婦は、2ベッドルームの家では、十分な広さが足りないと思っていました。しかし、ありがたいことに、the Clark Company(クラーク社)が、その夢を叶えてくれることになったのです。
1988年、クラーク社は7つのベッドルーム、そして5つのバスルームの家を、マッコギー夫妻に贈りました。5,500平方フィートのリビング、広い独立キッチン、そして大きなファミリールーム、それはこれから成長していく7つ子の家族にはぴったりの家でした。
ボビーの体は、限界まで押し上げられました
マッコギー夫妻は、すでに第一子であるマッケイラを妊娠した時に、辛い経験をしていたので、ボビーの妊娠は、彼ら自身もとても心配していました。 特に、1人ではなく7人の胎児を抱えているとなると尚更です。
妊娠中は、女性の人生の中でも特別で愛しい時期でもありますが、ボビーにとって、それは少し違っていました。彼女は、毎日の体の変化を、あまりにも早すぎるように感じていました。「とても怖かったわ。お腹のマークが、だんだんと高く、そして横に広がっていくのを見て、この状況があとどれだけ続くのかと思ったわ。」とNBCに伝えています。
彼女のお腹周りは、約1.4m近くにも及んだ
7人の赤ちゃんを抱えているのが、どんな気分なのか、私たちにとって、想像するのはかなり難しいことです。そして更に想像もできない自体が。なんとボビーが妊娠30週にかかった時、彼女のお腹は周囲約1.4mの大きさにもなっていたのです。それは、40週の平均的女性のお腹の2倍以上にもなります。
小柄なボビーにとってそれは背の高さと同じくらいありました。彼女は、NBCの取材に対して、自分のお腹が膝まで達していると伝えました。さぁ、いよいよ出産の時です!
世界は、7つ子の出産準備ができていました。しかし、それは驚くほど複雑な過程だったのです。
ボビーは病院に運ばれた
7つ子の出産期日は、ゆっくりと、でも確実に近づいてきていました。ケニーとボビーも、子供達に会うのを楽しみにしていました。しかし、その日は40週を待たずに、突然やってきたのです。ボビーは、最初の妊娠7ヶ月は、比較的体調が良いと感じていましたが、彼女が30週を迎えるとその状況は変わってきたのです。
1997年11月19日、彼女の体は限界まできていました。彼女は、1時間おきに10回の陣痛が来始めていたので、そのまま病院に搬送されました。そして、医師は”白雪姫作戦”を開始したのです。
ボビーの早産対応チームの結成には、数ヶ月かかった
”白雪姫作戦”とは、ボビーの早産対応チームにつけられた名前でした。事前に選りすぐられた、66人からなるその医療チームの計画は、完成するまでに2ヶ月かかりました。
計画としては、次の通りです。それぞれの赤ちゃんが生まれると、新生児輸送看護師が、すぐさま隣接する手術室へ連れて行きます。そこでは、新生児の安定に最善を尽くすチームが待っており、検査を行う準備ができています。そして、新生児集中治療室に連れて行く前に、それぞれの心臓、酸素の状況、呼吸が分かるモニターの設置を行い、保育器に入れられるようになっています。手術が始まった途端、部屋は突然静かになりました。
6分間で7つ子全員が産まれる
赤ちゃんは、子宮の中でAからGまでラベルが付けられ、逆ピラミッドのような形で配置されていました。べイビーAは、ヘラクレスというニックネームが付けられました。しかし、もちろん、マッコギー夫妻は、既に名前を決めていました。
沈黙は、最初の赤ちゃんの泣き声で壊れました。彼は、ケニー・ロバート(ケニーJr.)という男の子でした。そして、次の6分の間に全員、連続して生まれました。それぞれ、アレキサス・メイ、ナタリー・スー、ケルシー・アン、ブランドン・ジェムーズ、ネイソン・ロイ、そしてジョエル・スティーブンと名付けられました。このニュースは、世界に大きな熱狂を巻き起こしました。そして、マッコギー夫妻は、驚く人物から電話を受けたのです。
ビル・クリントンから直接おめでとうの電話があった
1997年の11月19日の7つ子の誕生日は、世界的なニュースとなりました。クリントン大統領は、マッコギー夫妻に直接お祝いの言葉を伝えるために、電話をかけました。彼が伝えたことは、「この子供達全員を大学進学させる頃には、アメリカの大手企業を経営出来るくらいの能力が付いていることでしょう。あなたは、アメリカで最も良く組織化された管理監督者になれるだろう。」と言う言葉でした。
マッコギー夫妻の7つ子は、世界で2番目の生きて生まれた多胎児です。その年の初め、サウジアラビア人の女性が、7つ子を出産しましたが、不幸にも6人死亡してしまいました。
7つ子は、病院に3ヶ月以上入院した
7つ子は早産だったので、ケニーとボビーは長期入院になることを覚悟していました。彼らの赤ん坊は、病院に入院しなければならなかったので、夫婦は本当の”現実”の生活に向き合う前に、家に帰ることができました。
3ヶ月と10日経った頃、7つ子はついに家に帰る準備が整いました。一番生存率の低い最初の1ヶ月を7人全員が生き抜きました。そう、この7つ子は強い生命力を持っていたのです。
マッコギー夫妻の、7つ子出産成功のニュースは、誰もが未だ興奮冷めやらぬ状態でした。しかし、医師は子供のうち2人に異変を発見しました。
2人の赤ちゃんは、おそらく発達障害を持っていた
すぐに、マッコギー夫妻は2人の赤ちゃんの異変に気づきました。2番目と5番目の赤ちゃんであるアレキサスとネイソンは、脳性麻痺を発症していました。2歳になる前に、5人の赤ちゃんがハイハイを始めたのに対して、アレキサスとネイソンは、その成長過程に追いつくのに苦労していました。
ボビーは、当時のニューヨークポストの取材に対してこう語っています。「彼らが長期的にこの障害と戦わなくてはいけないとしても、私達には、それに対処できる強い力があります。」そうなのです、これは、7つ子の誕生後、マッコギー夫妻が対処しなければならない多くの試練のうちの、たった一つでしかなかったのです。
オムツは何個必要か?
一人の赤ちゃんを育てるのだって、かなりの試練です。その赤ちゃんを7人も育てあげるなんて、不可能に近いと思ってしまいます。マッコギー夫妻が、オムツ交換に悪戦苦闘していないといいのですが…
新生児は、最初の数ヶ月間に平均として、1日に10回オムツ替えを行う必要があります。 それを7人分と考えると、1日に70個のオムツが必要になります。オムツ戦争は、始まったばかりなのです。またこの7つ子は、1日に50本の哺乳瓶も必要でした。ケニーとボビーは、オムツの交換、ミルクやり、そして7人の子供あやす作業の繰り返しで、疲弊していました。
お財布に優しい予算設定
あなたが、マッコギー夫妻ほどの大きな家族を持っていたら、お財布に優しい予算設定をする以外、選択肢がないのは事実でしょう。家族を助けるために、地域からの寄付は、まだ受けていましたが、それでも物資の支給はだんだんと少なくなっていました。
ケニーとボビーは、8人の子供を養うために、出来るだけ予算を抑えることに集中しました。彼らは、低価格な食事内容を考え、食材もまとめ買いをするようにしました。お金を管理するスキルが磨かれたことで、両親は毎月300ドルまでの出費に抑えることが可能になりました。
夫婦が試した食費を抑えるための、興味深い作戦とは・・
家庭菜園は、子供達のお腹をいっぱいにしました
マッコギー夫妻は、食費を月300ドルまで抑えることに成功したが、夫婦は更にコストを抑えるために、物事を更に一歩進めました。
彼らが作った全ての食事は、「ビュッフェスタイル」で提供されました。この方法は、食事時間をより効率的に保つだけでなく、様々な食材を組み合わせて作ることが可能になりました。また、家には大きな裏庭があったので、そこで家庭菜園も始めました。可能な限り、自給自足の生活をすることで、最終的にコストを抑え、子供達のお腹を一杯にすることが可能になったのです。
35人ものボランティアがいました
ケニーとボビーは、素晴らしい両親でしたが、8人の子供を2人だけで育てるのは不可能です。ありがたいことに、彼らは自身のサポートチームを持っていました。7つ子が生まれてすぐに、両親はフルタイムで働くことが必要だと気付いたので、彼らはボランティアに助けを得ることにしました。 — その数なんと全部で35人!
ボランティアの人たちは、彼らのために用事を済ませることはもちろん、掃除や、赤ちゃんの入浴や、昼寝の寝かしつけまであらゆることを手助けしてくれました。
両親は、子供たちに「普通の生活」をさせたいと思っていました
マッコギー夫妻は、彼らの物語を世界と共有できることは嬉しかったけれど、生活の全てを世間に注目されるのは、あまりいい気持ちがしませんでした。タブロイド誌は、夫婦に独占取材として、数十万ドルを提供しました。そこには、本と映画の話がありました。
ケニーは、タイム誌に「有名番組は、世間の大きな見世物になる恐れがあります。これは、私達の家族です。見世物なんかではありません。」と述べました。30代で5つ子を出産し、3人の生き残った子供持つ母親からは、「多胎児出産を娯楽と混同してはいけません。」と言っています。
彼らは何人もの有名人に会った
ケニーとボビーは、子供達が必要以上に注目を浴びることは、良いと思ってませんでしたが、TimeやNewsweekなどの少数のメディには出演していました。クリントン大統領や、ジョージ・W・ブッシュの2人が公然と家族に声をかけたことを考えると、世間の目から離れるのは中々難しいものがあるとは思いますが・・それでも、マッコギー夫妻は、誰が自分達の人生を覗きこむことができるのか、誰に許可するのか、最善の判断を行うようにしました。
彼らが、インタビューを許可したうちの一人とは誰か?そう、オプラでした!7つ子の最初の誕生日の記念として、子供達と一緒に、オプラ・ウィンフリー・ショーに出演しました。
マッコギー夫妻は、結果的にスポットライトを浴びることになったが、それは彼らに予想外の訪問者を招くことにもなったのです。
見知らぬ人の奇妙なお願いに困惑することも
多くの場面で、マッコギー家族は、世間からの注目を避けることに成功していました。しかし、生き延びる7つ子のニュースは依然として、未承諾にも関わらず掲載されることもしばしばありました。
「近所の人たちは、私達のプライバシーを大切にしてくれました。それでも、見ず知らずの人が裏口から訪ねてきたり、子供抱っこさせてくれないかと頼まれたりすることはよくありました。」とボビーは答えます。このような出来事から、マッコギー夫婦が、プライバシーを大切にするのもわかるでしょう。彼らが再び新聞の見出しを飾るのは、これよりまた10年後のお話です。
世界初生き延びた7つ子となった
7つ子が成長にするに連れて、夫婦がインタビューに応じることは、子供達の誕生日の時に地方紙に答えるくらいになっていました。7人の赤ちゃんは、乳児期まで「普通の生活」の中、過ごしていきました。そうした配慮の中、子供達はすくすくと成長し、世界初の生き延びた7つ子になりました。
2007年の9月、彼らの10回目の誕生日にボビーは、デイトライン誌に次のように語っています。「なんていうのが正しいのかわからないけれど、今まで私生活を公にしてきていないにも関わらず、応援やサポートをしてくださった皆さんにありがとうと言いたいです。お礼ではないですが、私達の生活を少しだけご紹介しましょう。」
マッコギー夫婦は、彼らを礼儀正しい子供達に育て上げた
2007年のデイトライン誌のプロファイルを見た人々は、7人が普通の生活を送っていたことを知りました。ケニーは、ジャーナリストのアン・カリーに「私達は、今だに子供達にどのように礼儀正しくするのか教えている最中です。」と話しました。
「今、正に教えようとしていたトレーニングや、シェイプアップを、子供達を見たらもう既に出来ているんです。彼ら、自分たちで生きる力を身につけているのです。」とボビーは言いました。7人は、効率の学校に通い、別々のクラスに振り分けられました。そして、彼らは、常に集団行動をしていたにも関わらず、個性的に育っていたのです。しかし、両親が最も心配だったのは、第一子のマッケイラの扱いでした。
姉のマッケイラとの時間は大切に
7つ子が生まれた時、人々はマッケイラが取り残された気持ちにになるのではないかと心配していました。しかし、夫婦はそれが起こるのを防ぐために、全力を尽くしました。「マッケイラには、他の子供達と過ごすよりも、個人的に一緒に過ごす時間を増やし、多くことを一緒にやりました。」
7つ子が公立学校に通う中、マッケイラはボビーによる私立のホームスクールに通っていました。そして、それは家族全員のためにも、非常に必要な時間でありました。7つ子の姉であることについて、マッケイラは「私のお父さんとお母さんは、彼らのお世話のほとんどをやるわ。でも事実上、私は彼らの唯一のベビーシッターだから、私にはきちんと役割があるわ。」と話します。姉のマッケイラと両親は、特に脳性麻痺を患っているアレキサスとネイソンを支えるために、準備万端だったのです。
脳性麻痺は、アレキサスとネイソンの障害にはならなかった
脳性麻痺と診断されたのは、アレキサスとネイソンだけでした。ネイソンは、「痙攣性麻痺」により、筋肉が強張ってしまう病気でした。アレキサスは、「低張性四肢麻痺」によって筋肉が非常に弱くなっていました。
2007年にネイソンは、自分で歩く事ができるように手術を受け、理学療法も続けていました。一方のアレキサスは、ネイソンと同様の治療を受けるかまだ不明瞭でしたが、彼女は補強器具と歩行器力を借りて、歩く事ができました。しかしながら、決してネイソンとアレキサスの障害は、他の兄弟達の成長の妨げにはなりませんでした。そう彼らはすぐに、少年少女へと育っていくのです。
アレキサスは美の女王
アレキサスは、脳性麻痺と診断されましたが、だからと言って彼女から祝い事などを遠ざけるようなことはありませんでした。彼女が中学生の時、特別支援を必要とする子供達為の美人コンテストに参加しました。
2013年、彼女はその”Dreams Made True”というイベントに参加し、多く人から支持され、 ”Miss Teen Dreams Made True アワード” に輝きました。そのコンテストでは、特別な衣装を着て、みんなの前で、自分が持っている才能を披露したのです。
アレキサスだけが、個性を発揮したのではりません。7つ子は、集団ではなく、個々として魅力を発揮していったのです。
別々のクラス分け
多胎児は、間違いなく魅力的ではありますが、彼らを個別化せず、一つのグループとして簡単にまとめてしまう恐れもあります。ケニーとボビーは、できるだけ一人一人を個人として扱うように生活しました。
学校が始まった際、彼らは意図的に別々のクラスに分けられました。この方法によって、7人の子供は、それぞれ自分の子供を作り、個別に成長する事ができたのです。
2012年には、高校生活が開始
高校生活の始まりは、誰にとっても大きな節目ですが、特にマッコギー夫婦のような、危険を伴った出産を経験した人にとっては、より感慨深く感じます。乳児期を乗り越えることさえ、危ぶまれていたのですから・・しかし、2012年に彼らは故郷であるアイオワ州のカーライル高校で新生活を始めたのです。
この大事な日を迎える前日、彼らはお弁当をリュックサックに詰め、スクールバスに乗る準備を整えて眠りにつきました。
一緒にバンドに入って演奏する
彼らが高校生になる頃には、7つ子の個性がはっきりしているのは明らかでした。アレキサスは、普段勉強し、ブランドンはスポーツをして過ごしていました。しかし、彼らには長年に渡って共有してきた1つの趣味がある。 — そう、それは音楽。
彼らは全員、高校の最初の年に同じバンドに入り、フットボールの試合のために、他の学校へ行って演奏したりしました。
彼らには、彼らの趣味がある
前述した通り、彼らが生まれた時から、一人一人異なる才能や、性格を持っていたことは明らかでした。しかし、それは成長するにつれて、どんどんと明らかになっていきました。高校生になった今、友達や趣味が、はっきりしていたのです。
ケニーJr.は、お調子者の性格なのに対し、アレキサスは、とても真面目でした。ブランドンとケルシーは、相変わらずスポーツに夢中でした。彼ら全員が自己主張をしているこの間も尚、バンド以外に兄弟で一緒にしている事がありました。
7つ子はついに16歳に
2013年、マッコギー夫妻の7つ子は、16歳の誕生日を迎えました。北米では、スイート・シックスティーンと言って、成人ではありませんが、大人の階段を登る一歩として16歳の誕生日は盛大に祝われます。 また、運転免許が取得できる年でもあります。7つ子は、路上に出る準備はできていましたが、ケニーとボビーが7台もの車を買うことは不可能です。
その代わり、両親は子供達にアルバイトをすることを許可しました。そうです。彼らは自分の車を買うために一生懸命働かなければなりませんでした!
あっという間に18歳
2015年の「TODAY」 というテレビ番組で、7つ子は18歳の誕生日を祝うということで出演しました。世界は、ついにん世界初の7つ子の成長した姿が見られるようになったのです。
「時が過ぎるのは、早いですね。思い出や喜び、そして時に苦難。今日、今こうして私たちがここにいられるのは、とても特別なことです。」とボビーは番組内で語りました。高校生活も終盤に差し掛かった7つ子達は、特に悪さもせず、立派に成長していました。この後、高校卒業と同時に、彼ら7人はそれぞれ別々の道を歩んでいくことになるのです。
4人は、州外の大学へ進学
高校を卒業した同時に、兄弟はそれぞれ自分の道を歩み始めました。7人のうち、4人はミズーリ州のハンニバル・ラグランジュ大学から奨学金を受けていました。ケルシーは音楽、ナタリーは初等教育、ネイソンとジョエルは、コンピューターサイエンスをそれぞれ専攻しました。
彼らは少し緊張していましたが、大学に行けることをとても楽しみにしていました。「きっと今までと異なり、全てに違和感を感じると思います。しかし、慣れ親しんだ土地から外に出て、新しい人々に会うことは、私たちにとってとても価値のあることになると思います。」とケルシーがNBCニュースに答えました。また、2人は家の近くのカレッジ選びましたが、家の中で自分だけのスペースが、多く持てるようになったことを嬉しく思っていました。
それぞれの道を選択した事を嬉しく思う
ケニーJr.とアレキサスの2人は、自宅から近いコミュニティカレッジに通うことを選びました。そこでアレキサスは幼児教育を、ケニーJr.は建設・建築業を学ぶことにしました。
ケニーJr.は、NBCニュースに「私達は、それぞれが別々の道を選んで歩んで行くことを嬉しく思うよ。今まで見たく、みんなにはしょっちゅう会えないけれど、そんなに心配はしていないよ。おそらく、私だけでなく、みんなそう思ってるんじゃないかな?」と述べました。そして、最後の一人は、みんなと違うかなり危険な道を選択したのです。
7つ子のうち1人は、軍隊にに入隊
高校卒業後、1人だけは軍隊への入隊を選択しました。ブランドンは、アメリカ陸軍に入隊し、1人暮らしをすることになったのです。
「兄弟がいなくて、おそらく今までとは状況が変わってくると思う。でも、彼らと連絡を取れるようになってからは、それほど悪くもないよ。軍隊に入隊してから、自分が欲しいと思ったことは自分で手に入れる、他の人がやってくれると思うなという精神を学んだのはとても大きかったよ。」と彼は言いました。その時の両親は、悲しみよりも、いかに時が早く過ぎ去ったのかに圧倒されていましたが、後に”空の巣症候群”に悩まされることになるとは、思ってもいなかった。
マッケイラが結婚
マッケイラにとって、1977年に兄弟や姉妹が産まれて以来、決して普通の人生ではありませんでした。しかし、マッケイラはこの事を通して、皆から愛され、支えられ、個人として尊重される事を学びました。彼女は何年もの間、独自のマイルストーンを積み重ねて言っていたのです。
マッケイラは、コミュニティカレッジとアリゾナ州立の大学を卒業していました。そして、彼女は結婚し、その大事な日には、兄弟全員が彼女の周りを囲んでいたのでした。
7つ子は、両親の教育方針が大好きだった
7つ子であることは、いいことばかりではありませんでしたが、全てを通して、マッコギー夫妻の子供達は、両親の教育方針が大好きでした。彼らが無事に成長した今、今後もその方針を変えることはないと言っています。
「僕らは、決して一人にならない。」とケニーJrは語っています。「話をしたり、一緒に出かけたりする相手は、常にいる。そして、これがなによりも素敵なことです。」とケルシーは、兄に続いて言いました。「僕らの生活に最悪な部分なんてないんだ。」「私達は、それらを楽しんでいたわ。」と、他の兄弟たちも、次々に口にしました。
マッコギー夫婦は、次のステップへ
2018年になると、全ての子供達が家から独立しました。ボビーとケニーは、7つものベッドルームが空いたことから、サイズを縮小しようと考えていました。彼らの家は、好意から寄付されたものだったので、夫婦はその好意を返したいと決心しました。彼らは、若い母親に住宅と支援を提供する非営利団体「ルース・ハーバー」に家を売却しました。
「私たちの子供が巣立った今、どうやら新たな章を始めるのにふさわしいタイミングのようです。私たちは長い間、多くの人から、素敵な贈り物をいただき、恵まれて過ごしてきました。だからこそ、私たちの家を、困っている人への手助けとして使って欲しいのです。」とボビーは伝えたのでした。
postfun
評論家コラム
日刊スポーツ紙面でも活躍する評論家陣が、さまざまな角度から野球を詳しく、分かりやすく解説します。
2020年9月12日20時48分
阪神対広島 6回表広島2死一塁、鈴木誠は見逃しの三振に倒れる(撮影・前岡正明)
阪神対広島 6回表広島2死一塁、鈴木誠は見逃しの三振に倒れる(撮影・前岡正明)
<阪神3-1広島>◇12日◇甲子園
阪神が先発秋山拓巳投手(29)の好投で3連勝に延ばし、今季最多タイの貯金3とした。
◇ ◇ ◇
-阪神バッテリーが2試合続けて、広島4番の鈴木誠を無安打に封じ込んだ。この日も、中飛、二ゴロ、三振、右飛で寄せ付けず。このカードまでの鈴木誠は阪神戦で打率3割4分、3本塁打、9打点をマークしていた。
梨田 鈴木誠に対しての攻めはほぼ完璧だった。打つほうで「2番」に入った梅野が配球面でもうまくリードした。対戦成績が示すように、このカードまでは踏み込んでこられていたが、バッティングをさせなかった。特に6回はポイントになった。
-6回2死一塁の鈴木誠の第3打席。1ボール2ストライクからの4球目、球速139キロの外角ストレートで見逃し三振に仕留めた。
梨田 タイミングの取れていない鈴木誠の裏をかいた配球だったといえる。秋山-梅野のバッテリーは、1ストライクからの2球目ストレートを外角に外した。1-1になった時点で打者は内角を意識したはずだ。そこを3球目に外角ストレートで見逃し、さらに4球目も外角に配して三振にとった。1球もバットを振らせず、完璧だった。
-ただ広島に反撃を許さなかったが、打線のほうは1回の3点止まりだった。
梨田 梅野が「2番」に入ってゲームの流れを作ることができた。3つの犠打を決めたが、それ以外のベンチの作戦にも対応できるタイプで、そうなると「3番」はキーになってくる。阪神はここで広島に3つ勝たないと、15日からの巨人3連戦に立ち向かう意味がなくなってしまう。2番梅野を生かす「3番」がカギを握っている。
【取材・構成=寺尾博和編集委員】
[2020年9月13日0時0分]
1回裏阪神2死一、二塁、大山は中越え先制3点本塁打を放つ(撮影・前岡正明)
85年、巨人槙原から本塁打を放つ阪神掛布(左)と岡田
<阪神3-1広島>◇12日◇甲子園
阪神大山悠輔内野手(25)が決勝18号3ランを放ち、3連勝で今季最多タイの貯金3を導いた。初回の好機で広島遠藤の直球をバックスクリーン左に運ぶ会心弾。前日好機で併殺打に倒れ、矢野監督から奮起を促されていた男が1発回答を決めた。
▼阪神大山が先制の18号3ラン。
同僚のサンズと並び、リーグ2位につける。サンズが9月6本、大山が5本と調子を上げており、シーズン30本塁打のペースだ。
ともに30本以上なら、85年にバース、掛布雅之、岡田彰布、真弓明信の4人が30本を超えて以来となる。
86年以降で30本塁打以上を記録した日本人選手は、04、05、07年の金本知憲だけで、生え抜きは85年の掛布、岡田を最後に出ていない。
90年の八木裕、00年新庄剛志、04、05年の今岡誠があと1歩で大台を逃しているが、今季の大山は35年ぶりのクリアなるか。