辞めたいと思ったこと「何回もある」 菅氏、事実上最後の官房長官会見で吐露

2020年09月14日 17時54分43秒 | 社会・文化・政治・経済

9/14(月) 12:34配信

毎日新聞

総裁選投票前の「最後」の記者会見で笑顔を見せる菅義偉官房長官=首相官邸で2020年9月14日午前11時22分、竹内幹撮影

 菅義偉官房長官は14日午前、安倍政権の官房長官として事実上最後となる3213回目の記者会見に臨んだ。

7年8カ月間務めた官房長官を辞めたいと思ったことはあるかと問われ「何回もある。国会運営がうまくいかない時、(2015年に成立した)平和安全法制(安全保障関連法)とか、眠れないようなことはたびたびあった」と吐露した。

【拍手に両手を上げて応える菅義偉官房長官】

 菅氏は官房長官時代を振り返って「次から次へと新しい課題が来る。それが国家運営だなと痛切に感じている。課題に的確に対応するため、なるべく幅広く現場の皆さんの声をうかがいながら、アンテナを高くするように心がけてきた」と述べた。

長く続ける秘訣(ひけつ)については「しっかりとした判断をするには、体調維持が大事で、毎朝散歩などをして調整してきた」と説明。政治の師である故・梶山静六元官房長官を超えたかとの質問には「まだまだ足りないところばっかしだと思う」と述べた。

 また記者会見について「政府の立場や見解を正確に発信する貴重な機会であり、しっかり準備し、丁寧に誠実に臨んできた。すべての会見が一つ一つ印象に残る」と述べた。丁寧な説明になっていないとの批判があることについては「そうしたことを含めて、会見はなかなか難しいとずっと思って続けている」と釈明。「次のステージ」での会見での対応ぶりについては「だいぶ変わってくると思う」と述べた。

 ◇新長官就任までは副長官が代行

 菅氏は14日午後に開票される自民党総裁選で新総裁に選出される見通しで、新長官が就任するまでの間の定例会見は官房副長官が代行する予定だ。【秋山信一】

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菅義偉氏が377票、2位岸田氏89票 3位石破茂氏68票

2020年09月14日 17時43分54秒 | 社会・文化・政治・経済

配信

自見党総裁選は開票の結果、投票総数534票、菅義偉氏が377票、岸田文雄氏が89票、石破茂氏が68票だった。
 

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「国民の皆さんのために働く内閣を作る」菅新総裁が決意表明
9/14(月) 15:44配信

ABEMA TIMES

菅新総裁

 自民党総裁選で選出された菅義偉新総裁は、次の通り挨拶した。

【映像】選出された瞬間の菅官房長官


岸田氏、安倍総理、菅新総裁、石破氏

 安倍総理が病気のために道半ばにして退かれることになった。しかし、新型コロナウイルスが拡大するという、まさに国難にあって、政治の空白は許されません。この危機を乗り越えて、一人一人が安心をして、安定をした生活が送れるよう、そのためには、安倍総理が進めてきた取り組みを継承し、進めていかなければなりません。私にはその使命があると認識をしております。

 この度の総裁選挙にあたり、ご支援、ご協力いただきました皆様方に、改めて御礼申し上げます。そしてこの選挙戦を共に戦い、論戦を繰り広げてくれました石破総総裁候補、岸田総裁候補にも敬意を表し、改めて御礼申し上げます。総裁選挙が終わった今、会場の全ての皆さん、全国の党員・党友の皆さん、自民党の旗の下に一致団結をして、この日本の国を前に進めようではありませんか。

 私の目指す社会像は、自助・共助・公助、そして絆であります。まず自分でできることは自分でやってみる。そして地域や家族で共に助け合う。その上に立って、政府がセーフティネットでお守りをする。そうした、国民から信頼される政府を作っていきたい。そのためには、役所の縦割り、既得権益、そして悪しき前例主義、こうしたことを打破して、規制改革を進めてまいります。そして、国民の皆さんのために働く内閣を作ってまいります。

 私は秋田の農家の長男として生まれました。地縁も血縁もない政治の世界に飛び込んで、まさにゼロからのスタートでありました、その私が歴史と伝統のある自由民主党の総裁に就任することができました。私自身の全てを傾注して、この日本のため、そして国民のために働くことをお誓い申し上げます。

(ANNニュース)

 

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三浦春馬主演『ブラッディ・マンデイ シーズン1』

2020年09月14日 17時39分28秒 | 社会・文化・政治・経済


動画配信サービス「Paravi(パラビ)」では、2008年10月期にTBS系列で放送された、三浦春馬主演『ブラッディ・マンデイ シーズン1』を6/20(土)より独占初配信することが決定した。

本作は、三浦春馬演じる天才高校生ハッカー・高木藤丸が、最凶最悪のウイルステロから家族や仲間そして地球を救うべく、テロ組織に立ち向かうノンストップアクション・サスペンス。三浦春馬のドラマ初単独主演作であり、2020年に発表された「三浦春馬が最強にかっこよかった作品ランキング」(goo調べ)で1位に輝くなど、ファンの間で根強い人気を誇る作品となっており、今もなお、視聴者から「配信で見たい!」という要望が多く寄せられため、今回、待望の初配信につながった。

主演の三浦春馬以外のキャストの豪華さにも、是非注目していただきたい。テロに巻き込まれる友達思いの青年・九条音弥役を、『恋はつづくよどこまでも』(2020年TBS系列で放送)のドSなドクター・天堂浬役で、日本中の女性を虜にした佐藤健が熱演。そして、高木藤丸の妹役を川島海荷が演じ、こちらも当時大きな注目を集めた。

他にも、吉瀬美智子、松重豊、片瀬那奈、芦名星、神木隆之介、満島ひかり、成宮寛貴、田中哲司、吉沢悠などの豪華俳優陣が、重要な役どころを演じている。

さらに、今や日本国内だけでなく、中華圏でも絶大な人気を誇るロックバンドflumpoolが、デビューしたての2008年に、初めてのドラマ主題歌「Over the rain ~ひかりの橋~」を担当したことも大きな話題となった。

スリリングなストーリーはもちろん、豪華キャストと音楽にも注目しながら、Paraviでの配信をお楽しみいただきたい。

神戸明プロデューサー コメント
「こんな番組は後にも先にももうできないかなと、今でも思います。初主演の三浦春馬さんを中心に当時のキャスト・スタッフが一丸となって全話を全力疾走した熱を、ぜひ改めて感じていただきたいです」


今月21日にTBSのCSチャンネル「ブラッディ・マンデイ」

2020年09月14日 17時06分52秒 | 社会・文化・政治・経済

今月9/21(月)午前11:00〜午後10:00[全話一挙放送]

制作年 : 2008年
全話数 : 11話
制作 : 東宝/TBS
プロデューサー : 蒔田光治、神戸明、樋口優香
ディレクター・監督 : 平野俊一、波多野貴文、宮下健作
原作 : 龍門諒、恵広史
脚本 : 蒔田光治、渡辺雄介
主題歌 : Over the rain〜ひかりの橋〜
歌手 : flumpool

出演
三浦春馬、吉瀬美智子、佐藤健、松重豊、片瀬那奈、芦名星、藤井美菜、川島海荷、徳永えり、成宮寛貴(特別出演)、中原丈雄、嶋田久作、田中哲司、吉沢悠 ほか

天才ハッカーの高校生が、家族や仲間を救うべく最凶最悪のウイルステロに立ち向かう、スピード感あふれるノンストップアクション・サスペンス「ブラッディ・マンデイ」。2010年に“シーズン2”も制作される人気作となった。
主人公の天才ハッカー・高木藤丸を演じるのは、この作品が連続ドラマ初主演となった三浦春馬。
このほか、吉瀬美智子や吉沢悠、成宮寛貴、佐藤健など勢いのあるキャストが勢ぞろいした。
学校や警察組織にまで潜入するテロ組織のスパイ、そして時間とともに確実に進行するウイルステロ。これらの脅威に、藤丸たちはどう挑んでいくのか!? 映画顔負けの迫力ある映像と予測不能のストーリー展開から目が離せない!


芦名星さん死去、36歳 ドラマ「相棒」など出演、「ブラッディ・マンデイ」では三浦春馬さんと共演

2020年09月14日 17時06分52秒 | 事件・事故

[ 2020年9月14日 16:31 ]

 女優の芦名星(あしな・せい、本名・五十嵐彩=いがらし・あや)さんが亡くなったことが14日、分かった。36歳。福島県出身。

 芦名さんは2002年にモデルとしてデビューし、同6月にTBSドラマ「しあわせのシッポ」で女優デビュー。

06年には日本、カナダ、イタリアの合作映画「シルク」の日本人ヒロインに抜てきされた。今年はTBSドラマ「テセウスの船」に出演し、好演が評価されていた。これまでテレビ朝日「相棒」シリーズにも週刊誌の記者役としてたびたび出演していた。
08、10年のドラマ「ブラッディ・マンデイ」シーズン1、2(TBS)では、7月18日に30歳で死去した俳優の三浦春馬さんと共演していた。


芦名星さん死去、36歳 自殺とみられる

2020年09月14日 16時59分26秒 | 事件・事故

配信

女優・芦名星さん(36)が亡くなったことが14日、分かった。所属事務所のホリプロによると、この日午前、新宿区の自宅マンションで亡くなっているのを親族が発見した。捜査関係者への取材によると、自殺とみられる。
 ホリプロは死因など詳細については「調査中」としている。
 芦名さんは美しい黒髪のアジアンビューティ、クールビューティーとして海外での評価も高く、フランソワ・ジラール監督の日、加、伊合作映画「シルク/SILK」(08年)にも出演。
今年1月期に放送されたTBS系「テセウスの船」をはじめ、「相棒」などのドラマ、今年公開された映画「AI崩壊」、「検察側の罪人」(18年)など話題作への出演が続いていた。  昨年5月には俳優・小泉孝太郎との熱愛が報じられていた。
 

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女優の芦名星さんが死去、自宅マンションで見つかる 36歳

2020年09月14日 16時52分11秒 | 社会・文化・政治・経済

配信

女優の芦名星さんが死去していたことが14日、分かった。36歳だった。所属事務所が認めた。  所属事務所は「本日午前中、新宿区の自宅マンションで亡くなっているところを親族が発見。
死因については現在調査中です」とした。  芦名さんは14日発売の週刊プレイボーイのグラビアに登場。水着や下着姿などを披露している。  
芦名さんは2002年にモデルデビューし、同年にTBS系「しあわせのシッポ」で女優デビュー。06年に日本・カナダ・イタリアの合作で総製作費30億円という映画「シルク」の日本人ヒロインに抜擢され、話題を呼んだ。今年は1月期のTBS系「テセウスの船」に出演していた。

報知新聞社

 

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向田和子インタビュー 向田邦子の言葉に支えられて

2020年09月14日 16時29分17秒 | 事件・事故

2011.12.09 文芸春秋 インタビューほか

烏兎沼 佳代 (構成)

姉と妹の「没後三十年」

「不思議」だった30年間

 まずは、お礼を申し上げてから、この30年の思いを、私なりの言葉でお伝えしようと思います。

 没後30年にもわたりまして、いろいろな方々のお力を頂戴して、向田邦子の本やテレビ番組をこの世に出しつづけていただきました。姉邦子はもうおりませんが、作家向田邦子は書店でもテレビでもまだ生き続けております。

 ありがとうございました。


1980年7月、イーデス・ハンソンさんとの対談での邦子さん
 向田邦子が51歳で事故死したのは、昭和56年8月22日のことでした。

 身内にとって邦子の没後は、折々に起こる思いがけない出来事と向き合って、1つ1つの答えを探しながら過ごす月日でした。30年の間にいろいろなことをしていただけて、ありがたい、という思いがたくさん残っています。

 毎年、夏が近づくと、取材があったり、雑誌の特集のお話がきたりと、騒がしくなってきます。10年たったとき、「いつまで続くかしら?」とテレビ局の方に聞くと、「邦子さんみたいに冠番組がつづく人はあんまりいないよなあ」と返事が返ってきました。

30年すぎて編集の仕事に詳しい人から、「お姉さんの本はよくぞ絶版にならないで、今も本が書店に並んでいるわね」と言われました。向田家は邦子を除いて活字の世界はみんな素人ですから、私はこの言葉を聞いて、(ああ、30年って、そういう長さなのか)としみじみ感じました。

 この年月の感想を言葉にするならば、「不思議」の一言です。

 というのは、3年、5年、10年、15年、20年、25年、30年という没後の節目で、邦子は何事かを引き起こしてくれたのです。

本人が空の上から差配しているといったら言い過ぎかもしれませんが、何かそういう不思議な力を感じながら、ずっと邦子の仕事を守りつづけています。

 身内のことながら、「どうしてこんなに続くのかしら?」と考え始めたのは、10年経ったころからでした。

 生前の姉は、脚本家としては23年間、活字の世界では直木賞をいただいてのちにはわずか1年あまりしか仕事をしておりません。それがいまもってみなさんに愛されつづけている仕事を残すことができたのです。

 姉にとっての幸運はまず、時代に恵まれたことでしょう。テレビドラマ創りの大変面白い時期にシナリオを書かせてもらえました。

 デビューした昭和33年は東京タワーが出来た年。

日本で初めての刑事ドラマといわれる『ダイヤル110番』(昭和32年~39年、日本テレビ、全365話)で、シナリオ作家デビューをしています。

何もかもが試行錯誤で番組はすべて生放送だったテレビ創成期から、自由にシナリオを書かせてもらえました。なにしろ邦子は押しつけられることが嫌いなので、「好きにやっていい」と言われると、ますます頑張るタチなのです。


久我山の社宅前で。右から邦子、迪子、和子さん(写真)

 幸運の2つ目は、人に恵まれました。とくに森繁久彌さん、久世光彦さんには大きなチャンスを与えていただきました。

 久世さんから、こんな思い出話をよく聞いたものです。 「お姉ちゃんは、大してうまくなかったね。モノ食ってる場面ばっかり書いて、全然場面転換がない。茶の間のシーンの次がまた茶の間のシーンだものな。でも、何か1、2箇所は今まで書いてきた人とは違って面白いところがあったんだ」

 こんなふうに思っていただける演出家に出会えた。これは運のよさがあってこそです。

 森繁久彌さんは、邦子の運命を変えた方。

師匠であり恩人で、絶対的な存在でした。ラジオドラマ『森繁の重役読本』(昭和37年~44年、TBSほか)をはじめ、『だいこんの花』(昭和45年~52年、NET)など多くの作品を書かせていただいています。『だいこんの花』は最初は何人かの書き手がいたのに、

「自分の代表作にしたいから、私1人に書かせてください」とプロデューサーに直訴して、邦子が単独で書くようになったのです。

森繁さん演じる元海軍大佐の口煩(くちうるさ)いじいさんを主人公にしたこのホームドラマは、第5シリーズまで7年間にわたって続いた、邦子がお気に入りのドラマとなりました。

「ままや」の思い出

『だいこんの花』といえば、森繁さんと先日お亡くなりになった竹脇無我さんの顔が思い浮かびます。当時はドラマを観ても脚本を誰が書いたというより、演じている役者さんの印象が大変強くなってしまう。

後になって、「ああ、あれを書いてたのは向田さんだったの?」という程度で、書いている人の名前よりもドラマのタイトルが独り立ちしてしまうのです。

「それでテレビドラマはいいのよ」と邦子は言っておりました。

 そうかなあ? とそのときは思ったのですが、後々になって、ドラマのタイトルと俳優さんの名前がまず思い浮かぶような代表作をもっていることが、脚本家にとって、とてもありがたいことなんだと思えるようになりました。

 姉が書いたテレビドラマは、70作ほどあります。

 その中で私が1番の代表作だと感じているのは、『寺内貫太郎一家』(昭和49年、2は50年、TBS)。作曲家の小林亜星さんを主役に抜擢したことや、卓袱台のある茶の間の乱闘シーンが評判になって高視聴率をとった番組です。

 なぜ私がこれを代表作と思ったかというと、私が「ままや」という店をやっていたときに、お運びで男子学生のアルバイトを雇っていたのです。店で、私は一言も姉のこと言っていないのに、アルバイト同士で何となく、

「この店は『寺内貫太郎一家』を書いていた脚本家の妹がやっているんだってさ」という話になる。

「エエッ? 『テラカン』! 僕、観たよ」

 脚本家の名前が向田邦子とは知らなくとも、小林亜星さん、加藤治子さん、樹木希林(当時は悠木千帆)さん、西城秀樹さん、梶芽衣子さん、浅田美代子さんが1つの卓袱台を囲んでいるあの茶の間の風景を思い出す。そして、ササーっと居住いを正して、私の顔をまじまじと見直して、

「僕の中学校のときの試験問題に出ましたよ、『字のない葉書』ってエッセイ。字が書けない女の子って、ママさん?」

 とかなんとか言われて、私はたちまち“字が書けないおばちゃん”になったりしたものです。『寺内貫太郎一家』がきっかけで向田を身近に思っていただいて、一所懸命働いていただいた学生さんが何人もいらっしゃいました。

赤坂「ままや」にて。カウンターの中には和子さん(写真)

「ままや」は、昭和53年から平成10年まで20年間つづけました。やめて13年になりますから、中学・高校の時に「寺貫」を観てくれていた当時の学生さんたちも、もう50歳近くになっているでしょうね。

『寺内貫太郎一家』以降の、『あ・うん』、『阿修羅のごとく』、『冬の運動会』などをとてもいい作品と言ってくださる方も多くいて、ありがたいことです。でも、皆さんの中に脚本家・向田邦子の存在を記憶させた1番大きなきっかけは、やはり『寺内貫太郎一家』。私はそう思っているのです。

 この30年、「向田邦子さんって、どういう人でしたか?」とたくさんの方に聞かれました。姉本人は、自分という人間について質問されることがあまり好きではありませんでした。

むしろ自分のことを語りたがらない人。何か聞いても不機嫌になることはないけれど、ちょっと寄せつけない感じがしたものです。姉とは9つ違いですから、私が物心ついたときはもう大人びて見えたこともあって、ほんとに小さいときから、そう感じていました。

親にも聞いてはいけないことや、言ってはいけないことがある、と私は小さいときから思ってきました。どうしてかは分かりませんがきっと、家の中にそういう空気があったのかもしれません。

 いまになってその理由を考えると、父が私生児だったことと関係しているように思います。

シングルマザーという言葉が日本で使われるようになるずっと以前のことですから、私生児という言葉そのものに今とは違う時代の感覚がついてまわったと思うのです。

 母は、「私は馬鹿やったなあ」などと、死ぬ間際に冗談交じりに言っていたのですけど、父の出生の事情など全く気にしないでお見合いで結婚を決めました。

 母が父との結婚を決意したのは、「向田敏雄という1人の男がいて、親1人子1人で、とても自立した、しっかりした人だ」という紹介者の一言。

子供の頃に裕福だった自分の実家が、父親の優しさが災いして保証人の判子を押したばかりに破滅して苦い思いをしたので、男の人ははっきり「イヤだ!」と言える強い人がいいと思っていたこと。それと、会社勤めの月給取りがいいんじゃないかと思った。そんな理由で一生の伴侶を決めました。

 結婚して相手の人生の蓋を開けてみたら、いろんなことが分かって、こんな人生ってあるんだ、こんな人っているんだ、と驚いた。驚いた次に、母は何を思ったか。「こんなに親の愛情を知らない人がいるのだから、その愛情を私たち家族がきちんと補ってあげたい」と思った。それが母向田せいでした。

「敏雄さんがイヤがるようなことは、あなた方が言うべきではないよ」

 という無言の戒めが家の中に充満していたのでしょう。「お父さんって、人間としていろいろ欠点もあって、家の事情で苦労もしたけど立派な人だよ。人間にとって、生い立ちは関係ないことだ」というルールを母が決め、何事も父を優先するという空気感が私が生まれたときにはもうあったような気がします。

 私は小さい頃は、怖くて五月蠅(うるさ)い父だな、と思っていましたから、小学校の頃からわからないことは全部、親より邦子に聞いていました。

 洋服の採寸でくすぐったがって笑う私に「笑ってちゃ、できません」とぴしっとけじめを教えてくれたのも邦子でした。

 ある時は父親がわりにもなってくれました。

 小学校のとき、先生にどうしても腑に落ちないことをされたことがあるのです。小学校6年の1学期、5月に仙台から東京に来たばかりのとき、授業が終わって家に帰ろうとしたら、雨がジャージャー降りになった。

私の家は学校の近くだったので蛇の目傘を5、6本あるだけ小脇に抱えて家から持ってきて先生に渡すと、「こんな蛇の目なんてさせないよ」とちょっと気色ばんで言われた。

自分ではいいことしたと思っているのに、まったく受け入れられないことがショックで、家で黙っていると、姉が飼い猫の背中をゆっくりなでながら、「今日、和子ちゃん、どうだった? 何かあった?」とのんびりした口調で聞く。

私が理由を話すと、姉は、「大人でも、子供でも、人間としての好き嫌いもあるし、感情の起伏もあるし、価値観もあるから、それは先生にとって、あんまりご機嫌がよくなくて受け入れられなかったことなんだけど、あなたのやったことは大変いいことよ」と言ってくれたのです。

「子供も、先生も、同じ人間」ということを私は小学校の6年の夏に20歳だった姉に教わりました。これは、私にとってとても大きな出来事でした。

 人間は、「あなたのことをきちんと見ているよ」という誰かがいると、人生をとてものびのびと歩んでいける。私にとってはその人が向田邦子だったということです。

 こんなこともありました。6年生のときに、学期末に頂戴して帰る通信簿の一筆欄に、「積極性に欠ける。云々カンヌン」と書いてあった。

それに親が返事を書いて戻すのですが、母が父親の出張があったりで忙しかったので、邦子に代筆を頼んだのです。書いてくれた一文が、「やや積極性は欠けますが、やらせれば、最後まで責任を持ってやり遂げる子です。」

 私はめちゃくちゃ嬉しくて、この時、(いつか邦子のために何かをやれる私でいたい)と心に決めました。この思いは今でも同じ。一生涯変わらないと思います。

何も言わない人だからこそ

 この30年間、向田邦子関連のお仕事でたくさんの方々からお声をかけていただきました。「お引き受けする・お断りする」を決める基準は、姉の好き嫌いを考えた上で姉が喜ぶこと、それに母が喜ぶことをやること。私はそれだけを考えて、仕事を決めたい、と思いました。

 邦子から仕事についてあれこれ指示するメモ書きや手紙をもらったことは1度もありません。もしもメモ書きをもらったりなんかしたら、思いは薄れてしまったと思う。文字に書き残されているということに頼ってしまう。何も言わない人だからこそ、私はほんとに何か1つをもらったり、何気なく街を歩いたときに言う言葉をわりときちんと聞いていたと思います。

本当に大切なことは、さりげない言葉で、ぽろり、ぽろりと言う人だと、子供のときから分かっていましたから。

 私から姉に手紙を書いたこともありません。書いても、「読みたくない」と言って、ひっちゃぶる人だと思います。

 父は反対に筆まめな人でした。筆まめな人というのは何かそれに頼って、あんまりインパクトがなくて何も残っていない、ということもあります。

実際、取材などで「字のない葉書」に出てくる、私がマルやバツを書いて返信した葉書と、「父の詫び状」に出てくる朱筆で傍線のついた詫び状は残ってないか、と何度も聞かれましたが、1枚も残っておりませんしね。

 書いて伝えることより察することが優先だったはずが、唯一「書いてある」と姉が私に言ったものがあります。それが遺言状でした。

「もしものことがあるから、遺言状は書きました。テレビの上に置いてあります」と。

 でも、実際に事故死した直後には、遺言状のことはまったく思い出しませんでした。遺言状は、ちゃんと姉が言い残した位置に置いてありましたけど、気づいたのは迪子(次姉)でした。

 姉の訃報が届いた直後から、私は文字ではなくて、姉が何を言いたかったか、というメッセージを探していたと思います。

姉が死んだ直後のことは話したくありませんが、1つだけ言えることがあるとすれば、「命を大切にしなさい」という姉の遺志を強く感じたこと。

家族、猫たち、残された命をどうやって守っていくか。生きているために、食べる、寝る。それだけに集中することで、私は精一杯でした。食べることがあんなに苦しかったことはありません。

 3カ月ほどすぎてから、今度は、姉の仕事をどうするかという現実問題をつきつけられてきました。

 各方面の方々に半年間待ってもらい、半年後から一斉に邦子の仕事をスタートすることになりました。

私が窓口をする、と公に決まったときから、私は、「向田邦子という人は、どういう仕事をすることを考えていたか?」という地点に立って、「向田邦子だったら、どういうことを考えて仕事を進めていったか」、「イエス、ノーをはっきりしなきゃいけない」と考えながら、邦子の没後の仕事をするスタートラインに立ちました。

 大変ありがたいことに私は姉の生前に3年間、「ままや」で姉の後ろ姿を見たような気がしますし、仕事関係の人たちも何となく見ていました。それで誰にも相談せずにイエス・ノーを決めてきました。

向田邦子と東日本大震災

 今年は、30年の年月を感じる不思議なご縁がたくさんありました。

 NHKでは松下奈緒さんの主演で『胡桃(くるみ)の部屋』をドラマ化してくださいました。

『寺内貫太郎一家』を子どもの時に観ていてくれた爆笑問題の太田光さんが全集の月報に書いてくださった原稿が『向田邦子の陽射し』という1冊の本になりました。

朝日新聞をはじめ多くの紙誌でも邦子は取り上げられて、作家の角田光代さん、有川浩さん、歌手の桑田佳祐さんまでが向田邦子のファンだと言ってくださって、驚いています。

桑田さんはなんでも太田さんに全集を送ってもらったのが読みはじめたきっかけだったとか。文庫の新装版で、『ダイヤル110番』のプロデューサーだった北川信さんと、この何年か向田作品を舞台にしてくださっている中島淳彦さんに解説をいただけたのも嬉しいことでした。

 私の「和樂」の連載もきれいなムックにしていただけましたし、『向田邦子テレビドラマ全仕事』の改訂版も発売されました。

この何年かで発見されたシナリオと資料があって、向田邦子の全作品数が66作品から74作品に増えました。時代の流れにのって、シナリオ集の電子書籍も順調に巻を重ねています。『寺内貫太郎一家』の脚本がパソコンや携帯で丸ごと読めるなんて、邦子が知ったらなんて言うかしら。

 そして、今年は私にとって、没後30年を迎えたこと以上に、3月11日におこった東日本の震災が向田邦子を深く考えるきっかけになりました。

 泥だらけになったアルバムを綺麗に洗って生き残った家族のもとに返す……そんなテレビニュースを見るたびに、邦子を思い出したのです。

 邦子が全てを失いかけたとき、それは乳がんの発病でしたが、自分の原点はなんだろうと考えて支えになったのも家族の記憶でした。余命いくばくかと宣告される恐怖と戦いながら、エッセイを書き始めたにちがいありません。

鹿児島県の平之町での家族写真。邦子さんは右端

向田一家勢揃いの写真は、鹿児島で撮った1枚だけです。邦子は記憶が大変いいですから、まず、その写真を思い出したかもしれません。でもそれよりも、邦子は心のアルバムを開いたと思うのです。そうすることで実際の写真よりも色鮮やかな記憶がよみがえった。

心のアルバムに浮かび上がったものが、『父の詫び状』の中の薩摩揚げであったり、鹿児島の子供のときの思い出であったり、空襲のことであったり。それから、「ああ、和子が疎開に行ったとき、お父さんが宛名を書いた葉書をたくさん持たせたなあ」、などと思い出していって、随筆を書かせていただけた。「父の詫び状」自体が仙台時代の思い出を書いたエッセイですから、ひときわそう思いました。

 ガンと死が向田邦子の人生を変えた。もしかしたら、それは幸せだったのかも知れません。病名がわかったのはちょうど『寺内貫太郎一家』を書き終える頃です。この病気で作風が変わりました。

 病気が幸運だとは言えないけれど、運も不運も裏返し。うちの姉が言う「縄みたいなもの」です。

 作家にとっての死も、そうだと言えないでしょうか。

「直木賞をもらったから、命が終わるのが早まった」という言い方も耳にしましたけど、私はそうは思いませんでした。直木賞をもらったことと、それから旅に出て命を絶たれたことは別の運命だ、と私は感じているのです。

 直木賞は、向田邦子というあまり賞をもらったことのない人間、そして、本当はとても褒められることが大好きなのにあんまり褒められることもなく生きて来た人間を、50歳になって、ぱーっと輝かせた。

その後の人生がどうなろうと、一瞬最高に輝けたことは、妹であることぬきに客観的に考えて、「向田邦子」の人生にとってとてもよかった、と私は30年たった今もそう思ってます。

 もしも何年か後に、私が天国へ行って邦子に会ったら、姉は何て言うでしょう。 「和子ったら、ずいぶん待たせるねえ」とでも言うんじゃないかしら。「よくやったね」なんて褒めてはくれませんよ、絶対にね。

 


向田邦子 心の風景

2020年09月14日 16時11分23秒 | 社会・文化・政治・経済

松田 良一 (著)

向田邦子の実像に迫る!
少女期から死去するまでを編年体で追求。幅広い取材と文献渉猟、新資料の発掘などで、向田邦子の人と文学を解明する書下ろし評伝。

著者について

昭和23年愛知県生まれ。愛知県立大学文学部国文科を経て立教大学大学院卒。著書に『散歩の詩学サンポロジー』、『永井荷風オペラの夢』ほかがある。現在、椙山女学園大学文学部教授。
 
 
 
「心の風景」いいタイトルですね。松田良一 著「向田邦子 心の風景」、1996.6発行。父親思いの向田邦子さん、父親と娘、昭和という時代を改めて振り返りました。家庭が優しい温もりと人間修行という二律背反的な役割をもっていた時代。
父親の向田敏雄は、毎日妻に会社まで弁当を運ばせ、さらに、昼過ぎに再び弁当箱を取りに来させた。すごいの一語です。その父親が末の娘和子を疎開先に送る時持たせた「字のない葉書」、そして病気になって帰ってきた時泣きながら抱きしめた・・・。向田邦子さんの作品には、人情の機微がさりげなく・・・。
 
 
 
松田良一は私の近代文学研究の道を開いてくれた恩師である。松田が、その文学講義の中で「作家の原風景が大事なんですよ」と言っていたのを事あるごとに思い返す。『なつかしい時間』に頻回に登場する「風景」とも符合すると思う。
松田は学生に、物事を見る時、文学を味わう時に、その表面だけでなくその時代の風物や地理など、作品を読むときには必ず現地を歩くことを勧めていた。文学研究だけでなく散歩の楽しみや、敗残の美学というのも松田がよく好んで使っていた言葉だ。心の軸がぶれる時、師匠の本を読みたくなるのはなぜか、
 
 
 
読むと、文学を語る時の松田の静かな熱情と、学生を育てようとする気持ちの温かさを思い出すからだ。死してなお、蘇るのは、いつも温かい雰囲気のゼミや松田の懐かしい研究室の風景を思い出すからだ。
 
 
 
 

大山よ“バントが普通の作戦”は間違いと証明せよ

2020年09月14日 13時05分56秒 | 野球

9/14(月) 6:00配信

日刊スポーツ

3回裏阪神無死一、二塁、大山は投前送りバントを決める(撮影・前岡正明)

<阪神7-6広島>◇13日◇甲子園

これが本当の「ブルペンデー」か。両軍とも先発投手が苦しむ場合を想定し、早い段階から救援陣を用意。それを惜しむことなく注ぎ込んだ。3連敗で借金10に沈むのは避けたい広島に対し、巨人との“最終決戦”を控える阪神の思いがわずかに勝ったと言えるかもしれない。

【写真】7回裏阪神無死二、三塁、大山は左飛に倒れる

そんな試合で甲子園がざわめいたのは3回の攻撃だった。同点に追いつき、なおも無死一、二塁で打席は5番・大山悠輔に回った。一気に勝ち越し打だ、と思ったら犠打のサインだった。大山は投手前にうまく転がし、6番ボーアが放ったこの時点で勝ち越しとする適時打につなげた。

大山ファンを中心に「ここでバントなのか?」と思った方も少なくないだろう。薮田和樹が立ち上がりからフラフラしていただけに「バントでなくても…」と考えたかもしれない。

その後もクロスゲームが続く中で大山は5回に空振り三振。

7回、無死二、三塁の勝ち越し機でも島内颯太郎が投じた球をミスショットし、左飛に終わった。

ここだけは負けられないという異様なムードの中で梅野隆太郎、糸原健斗、サンズ、ボーアと主軸打者が次々に安打を放つ中、音無しに終わった。

「だからあそこで犠打のサインが出るのか」。

厳しい言い方になるけれど、そう思ってしまう結果になった。

この場面、試合後のインタビューに指揮官・矢野燿大はこう答えた。

「普通の作戦ですけど。勝つためにね」。

質問をサラリとかわした。

実際にどう考えているかは別だと思うがハッキリしているのは、あの場面で大山に勝ち越し打は期待できない-と見ていたということだ。

悔しかったろう。「バント?」と思ったはずだ。

思わなければウソだ。だが結果は出なかった。悔しさは結果で晴らすしかない。矢野が願っているのもそこだ、と思う。

大山は間違いなく才能のある選手だ。本塁打、長打を放つのは努力もあるが天賦の才が大きい。

前監督・金本知憲がドラフト1位で獲得したとき「1位で取るのか」と思ったが、そんな見方を次第に払拭(ふっしょく)してきている。

必要なのは悔しさを勝負強さに変える気迫、集中力のようなものだと思っている。4番まで務め、今も5番を打つ男への犠打が「普通の作戦」。巨人3連戦で「それは間違いです」と証明してみせよ。(敬称略)【高原寿夫】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「虎だ虎だ虎になれ!」)


「バカかお前?」大麻逮捕・伊勢谷友介 東京藝大生たちが忘れられない“高飛車すぎる女の振り方”と広末涼子の影

2020年09月14日 11時15分48秒 | 事件・事故

9/12(土) 19:31配信

文春オンライン

伊勢谷容疑者が移送された湾岸署前に集まった報道陣 ©文藝春秋

「僕にとってはピアスは文化」大麻逮捕・伊勢谷友介が明かした“7つの穴”の秘密  から続く

【画像】早稲田大学に初登校する18歳の広末涼子

「あんなにキラッキラに輝いていて、学内で誰もが知っている超有名人だった伊勢谷くんが逮捕なんて……本当に残念でなりません」

 肩を落としながらこう話すのは、9月8日に大麻取締法違反の疑いで警視庁に逮捕された伊勢谷友介容疑者(44)の大学時代の同級生だ。

 伊勢谷容疑者は、1995年に東京藝術大学美術学部デザイン学科に現役で合格し、進学。97年には藝大生3人のメンバーでアート集団「カクト」を結成し、グラフィックや映像、インスタレーションを制作するなど幅広く活動を行っていた。また、大学在学中にモデル活動を開始し、98年には、後に「万引き家族」(2018年)でカンヌ国際映画祭のパルム・ドール(最優秀作品賞)を受賞した是枝裕和監督の長編映画第2作「ワンダフルライフ」に出演、俳優デビューも飾るなど、日本を代表する芸術家を数多く輩出してきた藝大のなかでもとにかく「目立つ存在」だった。前出の同級生が振り返る。

「裏口入学だろ」という陰口も
「伊勢谷くんを学内で知らない人は誰もいないというくらいの有名人で、オーラとかもすごくギラギラしていて目立っていましたよ。成績優秀でモデルもやっていてカッコいい。オシャレだからファッションを真似するヤツもいたりしましたけど、逆に、完璧すぎる伊勢谷くんに嫉妬しているヤツもいて。2浪3浪が当たり前と言われていた東京藝術大学にストレートで入学した伊勢谷くんに対して、『裏口入学だろ』という陰口を聞いたこともあります。大げさではなく藝大生みんな伊勢谷くんのことを羨ましがっていました。しかも、あの広末涼子と交際していたんですからね……」

 伊勢谷容疑者は大学4年生の時、女優の広末涼子とのデート現場写真を「FRIDAY」(1999年3月19日号)に撮られている。広末の母親同伴で、横浜中華街でランチを楽しんだ後に、母親と別れ、伊勢谷のオフロードバイクに広末を乗せて「2人乗り」で颯爽と去っていったというものだ。

当時、広末は18歳の高校3年生で早稲田大学教育学部に進学が決まっていた。日本一のスーパーアイドルとして人気絶頂だった広末の新恋人として、一気に伊勢谷容疑者の知名度は上がったが、2人の交際は非常にオープンなものだったようだ。伊勢谷容疑者と広末が学内で仲睦まじくする様子を同級生たちは頻繁に目撃していた。

「広末さんは藝大の学園祭にも来ていましたね。まったく人目を憚ることなく、伊勢谷くんと手を繋いで歩きながら、出店で買い物をしていました。僕も当時、広末さんのファンだったからすごく羨ましかった(笑)。それ以外にも、学校付近で一緒にいるのをよく見かけました。当時は広末さんが、早稲田にあまり登校しなかったことで批判が集まっていたんですけど、藝大にはほんとよくいました。『あれ、広末って早稲田じゃなかった?』と思うぐらいでしたよ。広末さんがいることは段々と当たり前のように感じて、途中からはいても大して驚かなくなりました」(同前)

「完全にギャングの集団だった」
 一方で伊勢谷容疑者は広末を連れていないときなどには、学内で「やんちゃ」な一面も覗かせていたという。

「今でも、伊勢谷くんがバイクの乗っている姿は印象に残っています、まさに“ワル”って感じでした。当時、藝大には、伊勢谷くんを中心としたバイク集団があったんですよ。その集団が指定エリアじゃない場所で喫煙していて、よく教授に怒られていました。大学側からはかなり目をつけられていたと思いますよ。バイクでブンブンとエンジンを吹かしながら集団で登校してきて、かなり尖っていた。傍から見ればあれは完全にギャングの集団でした(笑)」(別の同級生)

 広末とオープンな交際をしていたとはいえ、やはり「学内ではかなりモテていた」という。女子からは憧れの的だったようだ。

「女の子のあいだで、もちろん伊勢谷さんは人気でした。それで、ある時伊勢谷さんの一つ下の学年の女の子が勇気を振り絞って、伊勢谷さんに告白したんですよ。『付き合ってください』って。すると、伊勢谷さんは一瞬ぽかんとしたあと、ものすごく高飛車に、『バカかお前? なんで俺がお前と』って言われて断られてしまったんです。なにもそこまで言う必要ないじゃないって、仲間内では非難囂々。彼女はすごく傷ついたみたいでした。仲間内では仲良さそうによく大騒ぎしていましたけど、外から見ると、すごく傲慢で近づきにくい人だったのをよく覚えています」(一学年下のA子さん)

 また、別のある同級生は「当時から、一部のグループが大麻をやっているのではないかという噂はあった。伊勢谷くんがやっていたかどうかは知らないけど、とにかく彼は良も悪くも話題の中心にいる人物でしたね」と語った。

 芸能事務所「カクトエンタテインメント」は伊勢谷容疑者とのエージェント契約を10日付で解除。12日朝には公式サイトから同容疑者の写真とともに、発表していた謝罪文も削除した。

「文春オンライン」特集班/Webオリジナル(特集班)

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2週間ぶり「半沢直樹」第8話25・6% 番組最高を更新 8話連続大台超え!関西

2020年09月14日 11時07分40秒 | 社会・文化・政治・経済

28・5% 30%視野
9/14(月) 9:03配信

スポニチアネックス

主演を務める日曜劇場「半沢直樹」の製作発表に出席した堺雅人(C)TBS

 俳優の堺雅人(46)が主演を務めるTBS日曜劇場「半沢直樹」(日曜後9・00)の第8話が13日に放送され、平均世帯視聴率は25・6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことが14日、分かった。初回から8話連続の大台超えで、第5話の25・5%を0・1ポイント上回り、番組最高を更新。同時に「今年ドラマ1位」「令和ドラマ1位」の記録も塗り替えた。関西地区(世帯)も番組最高を更新し、28・5%。30%の大台が視野に入った。第8話は新型コロナウイルスの影響により撮影に遅れが生じ、当初予定の先週6日から急きょ延期。待ちに待った2週間ぶりの放送をファンも堪能した。

【写真】ネットも涙したシーン…半沢(堺雅人)に箕部(柄本明)追及を託す黒崎(片岡愛之助)

 関東地区は初回22・0%、第2話22・1%、第3話23・2%、第4話22・9%、第5話25・5%、第6話24・3%、第7話24・7%、第8話25・6%と推移。6日の代替生放送特番は22・2%。

 個人視聴率は第1話13・4%、第2話13・6%、第3話14・1%、第4話14・8%、第5話15・2%、第6話15・0%、第7話15・4%、第8話15・8%と推移。番組最高を更新した。

 関西地区は初回23・3%、第2話26・4%、第3話26・9%、第4話26・3%、第5話27・3%、第6話27・4%、第7話27・6%、第8話28・5%と推移。4話連続の番組最高更新となった。

 当初は4月19日スタート予定だったが、新型コロナウイルスの影響による撮影中断を挟み、3カ月遅れで待望の幕開けとなった。

 第8話は、半沢(堺)は開発投資銀行の“鉄の女”谷川(西田尚美)と共闘し、債権放棄を断固拒否。政府に一矢報いる。しかし、これが箕部幹事長(柄本明)の怒りを買い、中野渡頭取(北大路欣也)が参考人招致されるという危機に立たされる。その折、「タスクフォースの再建草案」の中身を知った半沢は、赤字路線の羽田・伊勢志摩路線が撤退リストから外されていることに気づく。伊勢志摩は、他ならぬ箕部の選挙地盤。建設に尽力した彼の功績を讃え、地元からは「箕部空港」とも呼ばれている。すべてのカギを握るのは箕部だと確信し、その不正を探る半沢は“ある衝撃の過去”に行き着く。同じ頃、金融庁の検査官・黒崎(片岡愛之助)もまた、箕部を追っていて…という展開だった。

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伊勢谷友介容疑者 「大麻やめて!」と懇願の交際女性を〝フルボッコ〟

2020年09月14日 11時03分57秒 | 社会・文化・政治・経済

9/14(月) 5:15配信

東スポWeb

伊勢谷友介容疑者

 大麻取締法違反容疑で逮捕された伊勢谷友介容疑者(44)は、大麻をやめるように懇願した交際女性も〝フルボッコ〟にしていた――。長年にわたる大麻使用歴が指摘されていることからも分かるように、依存度は深刻だったようだ。交際女性の中には、なんとか大麻をやめさせようとした女性もいたが、伊勢谷容疑者は耳を傾けるどころか〝顔面蹴り〟で一蹴していたという。

大麻の押収量が20・3グラム(約40回分)あったことから、常習性が高いとみられている伊勢谷容疑者。使用歴は10年とも20年ともいわれているが、芸能界からは「周りに誰か止める人間はいなかったのか?」と残念がる声も多い。

 歌手の和田アキ子は13日のTBS系「アッコにおまかせ!」で、伊勢谷容疑者に言及。以前から薬物の噂があったとされることに触れ「一緒にいた人が感じてたなら、注意しない? 普通」「周りが言うべきやけどな」と不思議がった。

 また、同日のTBS系「サンデー・ジャポン」では、長渕剛の長男でシンガーソングライターのWATARUが「誰か『ダメだろ!』って殴ってでも止めてくれるような、熱い友情がある身内関係者がいなかったのか」と首をひねった。

 伊勢谷容疑者の自宅に出入りするような親密な関係の人なら、確かに違法薬物使用を知らなかったとは考えにくい。その中にはやめるように説得しようとしていた交際女性もいたという。

「交際当時、モデルとして活動し、きちんと事務所にも所属していたA子さんです。伊勢谷は仕事先の仲間にも彼女を紹介するほどで、仲の良さは知られていた。感情の起伏があまりに激しく、DVを繰り返す伊勢谷の原因が〝薬物使用〟と疑って、彼女はやめるように懇願していました」(A子さんを知る芸能関係者)

 しかし、伊勢谷容疑者は恋人の懇願を〝拒否〟。それどころか、日ごろから受けていた殴るなどのDVが過激になり、絶対服従の支配下に置くように。さらに〝ある部分〟を執拗に狙うようにもなっていったという。

「モデル出身の伊勢谷でなくても、絶対にダメだと分かるはずなんですが、〝顔〟を狙うんです。しかも、手じゃなくて足で。何度も顔に蹴りを入れるんです。顔面が陥没骨折したこともあるほど激しかった。しかし、別れそうになると、泣きながら謝罪し、結婚まで匂わせる。ストーカー気質でした」(前同)

 DV後遺症で、事務所を退所し、モデルの仕事からも離れたA子さん。「A子さんが順調に芸能活動をしていたと思っていた親御さんは娘の変わり果てた姿に大激怒。裁判一歩手前までいきましたが、伊勢谷は慰謝料として数百万円を支払って交際関係を清算した」と前同。

 その手際の良さから「同じような被害者が多くいるのでは?」とささやかれたほどだった。

 本紙をはじめ、多くの媒体で報じられているように、伊勢谷容疑者は交際女性を的に見立て、エアガンを発射するといったDVを繰り返していたことも判明している。

「交際女性へのDVが、違法薬物によるものなのかは分かりません。ただ、結婚を匂わせながらDVを繰り返すのは最低の行為。ましてや伊勢谷容疑者のことを思って、ドラッグ断ちを懇願した恋人に卑劣な行為で服従させるなんて…許せない」(モデル仲間)

 パーティーやクラブなどで異様なテンションで騒ぐ姿が目撃され、以前から薬物疑惑を噂されていた伊勢谷容疑者。A子さんが止めた時がやめる最大のチャンスだったが、それもキックで吹き飛ばしてしまった。

東京スポーツ

 

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人気の『渓谷』で20代の男女流される 女子大学生(22)が死亡 男性は行方不明で捜索続く

2020年09月14日 10時49分05秒 | 社会・文化・政治・経済


9/13(日) 19:12配信

NBS長野放送

13日夕方、長野県大桑村の阿寺渓谷で男女が流される水難事故がありました。死亡が確認された女性は、その後、松本市の大学生とわかりました。男性は行方不明で捜索が続いています。

警察によりますと、午後4時過ぎ、阿寺渓谷で「男女が流された」と一緒に来ていた仲間から通報がありました。捜索したところ、女性は川の中で発見されましたが、午後7過ぎ、搬送先の病院で死亡が確認されました。
その後、女性の身元は松本市の大学生、小林晶歩さん(22)とわかりました。
男性は行方不明で、14日朝から捜索が行われています。

小林さんたちは3人で阿寺渓谷を訪れていて、小林さんは川べりから転落したということです。

犬帰りの淵
 

 
 

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ムクドリ大群、追い払い大作戦 15日から福島の中心部

2020年09月14日 10時46分46秒 | 事件・事故

9/14(月) 9:24配信

福島民友新聞

夕方になるとムクドリの大群が集まってくる福島市中心部の樹木

 福島市は15~17日、ムクドリやカラスの大群によるフン害・騒音に悩まされている市中心部で、鳥のスペシャリスト中村浩志信州大名誉教授(鳥類生態学)の協力を得て追い払い大作戦を展開する。市は「当日はロケット花火や爆竹で大きな音を鳴らすので驚かないでほしい」と市民に呼び掛けている。

 同市によると、同市中心部の福島駅前や県庁周辺、パセオ通り周辺の街路樹などに、多いときは約2万羽のムクドリが集まってきているという。

 市民からも苦情が寄せられ、市は対策として街路樹の枝を切ったり、天敵のタカを放ったりと試行錯誤してきたが、一時的に姿を消してもまた元に戻ってくる“いたちごっこ“の状況が続いていた。

 そこで市は、全国でムクドリなどの追い払いに成果がある中村氏に協力を依頼した。

 追い払いでは、福島駅を中心とした半径500メートルにあるムクドリやカラスが集まる樹木でロケット花火や爆竹を鳴らし、タカやワシの剥製を樹上に設置する。市担当者は「フン害と騒音のない街を取り戻したい」と意気込む。

福島民友新聞

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