2011.12.09 文芸春秋 インタビューほか
烏兎沼 佳代 (構成)
姉と妹の「没後三十年」
「不思議」だった30年間
まずは、お礼を申し上げてから、この30年の思いを、私なりの言葉でお伝えしようと思います。
没後30年にもわたりまして、いろいろな方々のお力を頂戴して、向田邦子の本やテレビ番組をこの世に出しつづけていただきました。姉邦子はもうおりませんが、作家向田邦子は書店でもテレビでもまだ生き続けております。
ありがとうございました。
1980年7月、イーデス・ハンソンさんとの対談での邦子さん
向田邦子が51歳で事故死したのは、昭和56年8月22日のことでした。
身内にとって邦子の没後は、折々に起こる思いがけない出来事と向き合って、1つ1つの答えを探しながら過ごす月日でした。30年の間にいろいろなことをしていただけて、ありがたい、という思いがたくさん残っています。
毎年、夏が近づくと、取材があったり、雑誌の特集のお話がきたりと、騒がしくなってきます。10年たったとき、「いつまで続くかしら?」とテレビ局の方に聞くと、「邦子さんみたいに冠番組がつづく人はあんまりいないよなあ」と返事が返ってきました。
30年すぎて編集の仕事に詳しい人から、「お姉さんの本はよくぞ絶版にならないで、今も本が書店に並んでいるわね」と言われました。向田家は邦子を除いて活字の世界はみんな素人ですから、私はこの言葉を聞いて、(ああ、30年って、そういう長さなのか)としみじみ感じました。
この年月の感想を言葉にするならば、「不思議」の一言です。
というのは、3年、5年、10年、15年、20年、25年、30年という没後の節目で、邦子は何事かを引き起こしてくれたのです。
本人が空の上から差配しているといったら言い過ぎかもしれませんが、何かそういう不思議な力を感じながら、ずっと邦子の仕事を守りつづけています。
身内のことながら、「どうしてこんなに続くのかしら?」と考え始めたのは、10年経ったころからでした。
生前の姉は、脚本家としては23年間、活字の世界では直木賞をいただいてのちにはわずか1年あまりしか仕事をしておりません。それがいまもってみなさんに愛されつづけている仕事を残すことができたのです。
姉にとっての幸運はまず、時代に恵まれたことでしょう。テレビドラマ創りの大変面白い時期にシナリオを書かせてもらえました。
デビューした昭和33年は東京タワーが出来た年。
日本で初めての刑事ドラマといわれる『ダイヤル110番』(昭和32年~39年、日本テレビ、全365話)で、シナリオ作家デビューをしています。
何もかもが試行錯誤で番組はすべて生放送だったテレビ創成期から、自由にシナリオを書かせてもらえました。なにしろ邦子は押しつけられることが嫌いなので、「好きにやっていい」と言われると、ますます頑張るタチなのです。
久我山の社宅前で。右から邦子、迪子、和子さん(写真)
幸運の2つ目は、人に恵まれました。とくに森繁久彌さん、久世光彦さんには大きなチャンスを与えていただきました。
久世さんから、こんな思い出話をよく聞いたものです。 「お姉ちゃんは、大してうまくなかったね。モノ食ってる場面ばっかり書いて、全然場面転換がない。茶の間のシーンの次がまた茶の間のシーンだものな。でも、何か1、2箇所は今まで書いてきた人とは違って面白いところがあったんだ」
こんなふうに思っていただける演出家に出会えた。これは運のよさがあってこそです。
森繁久彌さんは、邦子の運命を変えた方。
師匠であり恩人で、絶対的な存在でした。ラジオドラマ『森繁の重役読本』(昭和37年~44年、TBSほか)をはじめ、『だいこんの花』(昭和45年~52年、NET)など多くの作品を書かせていただいています。『だいこんの花』は最初は何人かの書き手がいたのに、
「自分の代表作にしたいから、私1人に書かせてください」とプロデューサーに直訴して、邦子が単独で書くようになったのです。
森繁さん演じる元海軍大佐の口煩(くちうるさ)いじいさんを主人公にしたこのホームドラマは、第5シリーズまで7年間にわたって続いた、邦子がお気に入りのドラマとなりました。
「ままや」の思い出
『だいこんの花』といえば、森繁さんと先日お亡くなりになった竹脇無我さんの顔が思い浮かびます。当時はドラマを観ても脚本を誰が書いたというより、演じている役者さんの印象が大変強くなってしまう。
後になって、「ああ、あれを書いてたのは向田さんだったの?」という程度で、書いている人の名前よりもドラマのタイトルが独り立ちしてしまうのです。
「それでテレビドラマはいいのよ」と邦子は言っておりました。
そうかなあ? とそのときは思ったのですが、後々になって、ドラマのタイトルと俳優さんの名前がまず思い浮かぶような代表作をもっていることが、脚本家にとって、とてもありがたいことなんだと思えるようになりました。
姉が書いたテレビドラマは、70作ほどあります。
その中で私が1番の代表作だと感じているのは、『寺内貫太郎一家』(昭和49年、2は50年、TBS)。作曲家の小林亜星さんを主役に抜擢したことや、卓袱台のある茶の間の乱闘シーンが評判になって高視聴率をとった番組です。
なぜ私がこれを代表作と思ったかというと、私が「ままや」という店をやっていたときに、お運びで男子学生のアルバイトを雇っていたのです。店で、私は一言も姉のこと言っていないのに、アルバイト同士で何となく、
「この店は『寺内貫太郎一家』を書いていた脚本家の妹がやっているんだってさ」という話になる。
「エエッ? 『テラカン』! 僕、観たよ」
脚本家の名前が向田邦子とは知らなくとも、小林亜星さん、加藤治子さん、樹木希林(当時は悠木千帆)さん、西城秀樹さん、梶芽衣子さん、浅田美代子さんが1つの卓袱台を囲んでいるあの茶の間の風景を思い出す。そして、ササーっと居住いを正して、私の顔をまじまじと見直して、
「僕の中学校のときの試験問題に出ましたよ、『字のない葉書』ってエッセイ。字が書けない女の子って、ママさん?」
とかなんとか言われて、私はたちまち“字が書けないおばちゃん”になったりしたものです。『寺内貫太郎一家』がきっかけで向田を身近に思っていただいて、一所懸命働いていただいた学生さんが何人もいらっしゃいました。
赤坂「ままや」にて。カウンターの中には和子さん(写真)
「ままや」は、昭和53年から平成10年まで20年間つづけました。やめて13年になりますから、中学・高校の時に「寺貫」を観てくれていた当時の学生さんたちも、もう50歳近くになっているでしょうね。
『寺内貫太郎一家』以降の、『あ・うん』、『阿修羅のごとく』、『冬の運動会』などをとてもいい作品と言ってくださる方も多くいて、ありがたいことです。でも、皆さんの中に脚本家・向田邦子の存在を記憶させた1番大きなきっかけは、やはり『寺内貫太郎一家』。私はそう思っているのです。
この30年、「向田邦子さんって、どういう人でしたか?」とたくさんの方に聞かれました。姉本人は、自分という人間について質問されることがあまり好きではありませんでした。
むしろ自分のことを語りたがらない人。何か聞いても不機嫌になることはないけれど、ちょっと寄せつけない感じがしたものです。姉とは9つ違いですから、私が物心ついたときはもう大人びて見えたこともあって、ほんとに小さいときから、そう感じていました。
親にも聞いてはいけないことや、言ってはいけないことがある、と私は小さいときから思ってきました。どうしてかは分かりませんがきっと、家の中にそういう空気があったのかもしれません。
いまになってその理由を考えると、父が私生児だったことと関係しているように思います。
シングルマザーという言葉が日本で使われるようになるずっと以前のことですから、私生児という言葉そのものに今とは違う時代の感覚がついてまわったと思うのです。
母は、「私は馬鹿やったなあ」などと、死ぬ間際に冗談交じりに言っていたのですけど、父の出生の事情など全く気にしないでお見合いで結婚を決めました。
母が父との結婚を決意したのは、「向田敏雄という1人の男がいて、親1人子1人で、とても自立した、しっかりした人だ」という紹介者の一言。
子供の頃に裕福だった自分の実家が、父親の優しさが災いして保証人の判子を押したばかりに破滅して苦い思いをしたので、男の人ははっきり「イヤだ!」と言える強い人がいいと思っていたこと。それと、会社勤めの月給取りがいいんじゃないかと思った。そんな理由で一生の伴侶を決めました。
結婚して相手の人生の蓋を開けてみたら、いろんなことが分かって、こんな人生ってあるんだ、こんな人っているんだ、と驚いた。驚いた次に、母は何を思ったか。「こんなに親の愛情を知らない人がいるのだから、その愛情を私たち家族がきちんと補ってあげたい」と思った。それが母向田せいでした。
「敏雄さんがイヤがるようなことは、あなた方が言うべきではないよ」
という無言の戒めが家の中に充満していたのでしょう。「お父さんって、人間としていろいろ欠点もあって、家の事情で苦労もしたけど立派な人だよ。人間にとって、生い立ちは関係ないことだ」というルールを母が決め、何事も父を優先するという空気感が私が生まれたときにはもうあったような気がします。
私は小さい頃は、怖くて五月蠅(うるさ)い父だな、と思っていましたから、小学校の頃からわからないことは全部、親より邦子に聞いていました。
洋服の採寸でくすぐったがって笑う私に「笑ってちゃ、できません」とぴしっとけじめを教えてくれたのも邦子でした。
ある時は父親がわりにもなってくれました。
小学校のとき、先生にどうしても腑に落ちないことをされたことがあるのです。小学校6年の1学期、5月に仙台から東京に来たばかりのとき、授業が終わって家に帰ろうとしたら、雨がジャージャー降りになった。
私の家は学校の近くだったので蛇の目傘を5、6本あるだけ小脇に抱えて家から持ってきて先生に渡すと、「こんな蛇の目なんてさせないよ」とちょっと気色ばんで言われた。
自分ではいいことしたと思っているのに、まったく受け入れられないことがショックで、家で黙っていると、姉が飼い猫の背中をゆっくりなでながら、「今日、和子ちゃん、どうだった? 何かあった?」とのんびりした口調で聞く。
私が理由を話すと、姉は、「大人でも、子供でも、人間としての好き嫌いもあるし、感情の起伏もあるし、価値観もあるから、それは先生にとって、あんまりご機嫌がよくなくて受け入れられなかったことなんだけど、あなたのやったことは大変いいことよ」と言ってくれたのです。
「子供も、先生も、同じ人間」ということを私は小学校の6年の夏に20歳だった姉に教わりました。これは、私にとってとても大きな出来事でした。
人間は、「あなたのことをきちんと見ているよ」という誰かがいると、人生をとてものびのびと歩んでいける。私にとってはその人が向田邦子だったということです。
こんなこともありました。6年生のときに、学期末に頂戴して帰る通信簿の一筆欄に、「積極性に欠ける。云々カンヌン」と書いてあった。
それに親が返事を書いて戻すのですが、母が父親の出張があったりで忙しかったので、邦子に代筆を頼んだのです。書いてくれた一文が、「やや積極性は欠けますが、やらせれば、最後まで責任を持ってやり遂げる子です。」
私はめちゃくちゃ嬉しくて、この時、(いつか邦子のために何かをやれる私でいたい)と心に決めました。この思いは今でも同じ。一生涯変わらないと思います。
何も言わない人だからこそ
この30年間、向田邦子関連のお仕事でたくさんの方々からお声をかけていただきました。「お引き受けする・お断りする」を決める基準は、姉の好き嫌いを考えた上で姉が喜ぶこと、それに母が喜ぶことをやること。私はそれだけを考えて、仕事を決めたい、と思いました。
邦子から仕事についてあれこれ指示するメモ書きや手紙をもらったことは1度もありません。もしもメモ書きをもらったりなんかしたら、思いは薄れてしまったと思う。文字に書き残されているということに頼ってしまう。何も言わない人だからこそ、私はほんとに何か1つをもらったり、何気なく街を歩いたときに言う言葉をわりときちんと聞いていたと思います。
本当に大切なことは、さりげない言葉で、ぽろり、ぽろりと言う人だと、子供のときから分かっていましたから。
私から姉に手紙を書いたこともありません。書いても、「読みたくない」と言って、ひっちゃぶる人だと思います。
父は反対に筆まめな人でした。筆まめな人というのは何かそれに頼って、あんまりインパクトがなくて何も残っていない、ということもあります。
実際、取材などで「字のない葉書」に出てくる、私がマルやバツを書いて返信した葉書と、「父の詫び状」に出てくる朱筆で傍線のついた詫び状は残ってないか、と何度も聞かれましたが、1枚も残っておりませんしね。
書いて伝えることより察することが優先だったはずが、唯一「書いてある」と姉が私に言ったものがあります。それが遺言状でした。
「もしものことがあるから、遺言状は書きました。テレビの上に置いてあります」と。
でも、実際に事故死した直後には、遺言状のことはまったく思い出しませんでした。遺言状は、ちゃんと姉が言い残した位置に置いてありましたけど、気づいたのは迪子(次姉)でした。
姉の訃報が届いた直後から、私は文字ではなくて、姉が何を言いたかったか、というメッセージを探していたと思います。
姉が死んだ直後のことは話したくありませんが、1つだけ言えることがあるとすれば、「命を大切にしなさい」という姉の遺志を強く感じたこと。
家族、猫たち、残された命をどうやって守っていくか。生きているために、食べる、寝る。それだけに集中することで、私は精一杯でした。食べることがあんなに苦しかったことはありません。
3カ月ほどすぎてから、今度は、姉の仕事をどうするかという現実問題をつきつけられてきました。
各方面の方々に半年間待ってもらい、半年後から一斉に邦子の仕事をスタートすることになりました。
私が窓口をする、と公に決まったときから、私は、「向田邦子という人は、どういう仕事をすることを考えていたか?」という地点に立って、「向田邦子だったら、どういうことを考えて仕事を進めていったか」、「イエス、ノーをはっきりしなきゃいけない」と考えながら、邦子の没後の仕事をするスタートラインに立ちました。
大変ありがたいことに私は姉の生前に3年間、「ままや」で姉の後ろ姿を見たような気がしますし、仕事関係の人たちも何となく見ていました。それで誰にも相談せずにイエス・ノーを決めてきました。
向田邦子と東日本大震災
今年は、30年の年月を感じる不思議なご縁がたくさんありました。
NHKでは松下奈緒さんの主演で『胡桃(くるみ)の部屋』をドラマ化してくださいました。
『寺内貫太郎一家』を子どもの時に観ていてくれた爆笑問題の太田光さんが全集の月報に書いてくださった原稿が『向田邦子の陽射し』という1冊の本になりました。
朝日新聞をはじめ多くの紙誌でも邦子は取り上げられて、作家の角田光代さん、有川浩さん、歌手の桑田佳祐さんまでが向田邦子のファンだと言ってくださって、驚いています。
桑田さんはなんでも太田さんに全集を送ってもらったのが読みはじめたきっかけだったとか。文庫の新装版で、『ダイヤル110番』のプロデューサーだった北川信さんと、この何年か向田作品を舞台にしてくださっている中島淳彦さんに解説をいただけたのも嬉しいことでした。
私の「和樂」の連載もきれいなムックにしていただけましたし、『向田邦子テレビドラマ全仕事』の改訂版も発売されました。
この何年かで発見されたシナリオと資料があって、向田邦子の全作品数が66作品から74作品に増えました。時代の流れにのって、シナリオ集の電子書籍も順調に巻を重ねています。『寺内貫太郎一家』の脚本がパソコンや携帯で丸ごと読めるなんて、邦子が知ったらなんて言うかしら。
そして、今年は私にとって、没後30年を迎えたこと以上に、3月11日におこった東日本の震災が向田邦子を深く考えるきっかけになりました。
泥だらけになったアルバムを綺麗に洗って生き残った家族のもとに返す……そんなテレビニュースを見るたびに、邦子を思い出したのです。
邦子が全てを失いかけたとき、それは乳がんの発病でしたが、自分の原点はなんだろうと考えて支えになったのも家族の記憶でした。余命いくばくかと宣告される恐怖と戦いながら、エッセイを書き始めたにちがいありません。
鹿児島県の平之町での家族写真。邦子さんは右端
向田一家勢揃いの写真は、鹿児島で撮った1枚だけです。邦子は記憶が大変いいですから、まず、その写真を思い出したかもしれません。でもそれよりも、邦子は心のアルバムを開いたと思うのです。そうすることで実際の写真よりも色鮮やかな記憶がよみがえった。
心のアルバムに浮かび上がったものが、『父の詫び状』の中の薩摩揚げであったり、鹿児島の子供のときの思い出であったり、空襲のことであったり。それから、「ああ、和子が疎開に行ったとき、お父さんが宛名を書いた葉書をたくさん持たせたなあ」、などと思い出していって、随筆を書かせていただけた。「父の詫び状」自体が仙台時代の思い出を書いたエッセイですから、ひときわそう思いました。
ガンと死が向田邦子の人生を変えた。もしかしたら、それは幸せだったのかも知れません。病名がわかったのはちょうど『寺内貫太郎一家』を書き終える頃です。この病気で作風が変わりました。
病気が幸運だとは言えないけれど、運も不運も裏返し。うちの姉が言う「縄みたいなもの」です。
作家にとっての死も、そうだと言えないでしょうか。
「直木賞をもらったから、命が終わるのが早まった」という言い方も耳にしましたけど、私はそうは思いませんでした。直木賞をもらったことと、それから旅に出て命を絶たれたことは別の運命だ、と私は感じているのです。
直木賞は、向田邦子というあまり賞をもらったことのない人間、そして、本当はとても褒められることが大好きなのにあんまり褒められることもなく生きて来た人間を、50歳になって、ぱーっと輝かせた。
その後の人生がどうなろうと、一瞬最高に輝けたことは、妹であることぬきに客観的に考えて、「向田邦子」の人生にとってとてもよかった、と私は30年たった今もそう思ってます。
もしも何年か後に、私が天国へ行って邦子に会ったら、姉は何て言うでしょう。 「和子ったら、ずいぶん待たせるねえ」とでも言うんじゃないかしら。「よくやったね」なんて褒めてはくれませんよ、絶対にね。