魚食の人類史: 出アフリカから日本列島へ

2020年09月06日 11時12分48秒 | 社会・文化・政治・経済

 

魚食の人類史: 出アフリカから日本列島へ (NHK BOOKS)

 

島 泰三 (著)

ホモ・サピエンスが生き残ったのは魚食のおかげ


脳を育て氷河期を乗り越えさせた

魚食こそが、人類拡散の原動力だった!

なぜ霊長類の中でホモ・サピエンスだけが、積極的に魚を食べるのか? それは、もともとホモ・エレクトゥスやネアンデルタール人といった「強者」に対抗するための仕方なしの生存戦略だった。

だが、人類がアフリカから世界中に拡散していく過程で、その魚食こそが飢えを満たし、交通手段を発展させ、様々な文化を生み出す原動力になった。

果たして、魚食は「弱者」ホモ・サピエンスに何をもたらしたのか? 他の霊長類との比較を踏まえ、出アフリカから日本列島へと至る「大逆転の歴史」をベテランの人類学者が鮮やかに描き出す。

内容(「BOOK」データベースより)

裸の皮膚、華奢な骨格、平らな歯列―。ホモ・サピエンスのこうした特徴は、必ずしも生存競争に向いているとは言えない。その不利を覆し、人類に繁栄をもたらしたのが「魚食」だった。人類は、魚食によってホモ・エレクツスやネアンデルタールら、陸の王者との競合を避け、アフリカから拡散していく過程で、飢えを満たし、交通手段を発展させ、新たな文化を生み出した。果たして、それは一体どのようなプロセスであったのか?他の霊長類との比較、最新の人類史研究の成果を総動員し、やがて日本列島へと至る「大逆転の歴史」を鮮やかに描き出す。

著者について

1946年生まれ。東京大学理学部人類学教室卒業。日本野生生物研究センター主任研究員、ニホンザルの生息地保護管理調査団主任調査員などを経て、現在、日本アイアイ・ファンド代表。理学博士。アイアイの保護活動への貢献によりマダガスカル国第5等勲位「シュバリエ」を受ける。著書に『親指はなぜ太いのか』『ヒト』(ともに中公新書)、『サルの社会とヒトの社会』(大修館書店)、『はだかの起原』(講談社学術文庫)、『人、犬に出会う』 (講談社選書メチエ)など。
 
 
 

本書は1960年代の下関、ある鮮魚商の店先から始まる。著者の母は下関市彦島で鮮魚商を営んでおり、マイワシ、ウルメ(イワシ)、カタクチイワシ、またケンサキイカ、ヤリイカ、スルメイカを区別して売り、「これは今が旬」というのが口癖だった。著者の祖父は天草の漁師であり、父も長兄も船乗り、母方の祖母は日本の港で唯一の女性労働者「ごんぞう」の一人だった。

 

 「早朝の下関漁港には活気にあふれる日常があった。漁船は岸壁に列をつくり、魚を満載した網籠をクレーンで吊りおろしていた。働き者揃いのおばさんたちが選別台で選り分けた魚が魚箱(トロ箱)に流し込まれ、それを若い衆が引き込み線に並んだ貨車に次々と積み込んで、周りでは仲買の男たちが大声を上げて売り買いをしていた」。当時、下関漁港は西日本でも最大級の漁港だった。

 

 ところが2004年には下関漁港の取扱漁獲量は1万6967㌧と、最盛期(1966年)の7%にまで落ち込んだ。これは日本の漁業が自給率113%を誇っていた20世紀半ば(1964年)から、57%に急落した21世紀(2015年)への時代の転換とほぼ一致している。

 

 本書はサルの野外研究を生涯続けてきた著者が、日本の漁業の現状を憂えて、人類がサルであった時代までさかのぼって人類と食の問題を検証し、魚食文化の復活を訴えたものである。

 

メソポタミア文明と漁獲

 

 著者によれば、樹上生活者である霊長類が、食物として魚をとり入れる例はごく少ないという。

 

 一方、最新の研究によると、人類の祖先であるホモ・サピエンスは35万年前かそれ以前にアフリカで誕生し、アフリカで旧石器文明を築いた後、4万~5万年前にヨーロッパに進出し、ユーラシア大陸に広がった。アフリカの10万~20万年前の遺跡から、彼らはオモ川やナイル川などの水辺で魚介類を食べていたことがわかっている。そして、すでに4万年前にニューギニアでヤムイモが栽培されていたように、東南アジアではイモ類を栽培する農耕が中近東の農耕よりもはるかに古くからおこなわれていた。そのタロイモ(サトイモ)がある河川周辺や湖沼まわりの低湿地は、古い漁労の適地だった。

 

 時代は下り、メソポタミアの肥沃な三日月地帯では約1万年前から小麦、エンドウ、オリーブの栽培とヒツジ、ヤギ、ウシ、ブタの飼育が始まった。近年、シュメール中心地のエリドゥ遺跡(イラク)で18㌢も積もった魚骨の中に祭壇が見つかり、メソポタミア文明が河口の豊かな漁獲に支えられていたことがわかってきた。農耕とともに漁労が、人類が文明を築いていく原動力だったわけだ。著者は、ホモ・サピエンスの裸の皮膚や華奢な骨格は生存競争に向いているとはいえないが、逆に水辺での生活や漁労には適していると指摘している。

 

日本人と海藻と腸内環境

 

 本書後半の舞台は日本で、日本列島は約1万年前の後氷期から温暖な気候に変わった。この時期の縄文遺跡・貝塚(東北から九州まで836)をある研究者が調べたところ、貝類353種(ハマグリ、カキ、アサリ、オキシジミ等)、魚類71種(マダイ、スズキ、クロダイ、マフグ、ヒラメ等)、その他エビ類、カニ類、バフンウニ、ムラサキウニなど豊富な魚介類が出土している。青森県山内丸山遺跡からは、体長1㍍と推測されるマダイの骨と、釣り針が出土している。

 

 これらは山とともに海の恵みの豊かさを示している。それは、南北3000㌔におよぶ日本列島を取り囲む4つの海と4つの海流のたまものであり、そして3000㍍をこえる高山と260以上の活火山を有する険しい地形が、大小6800の島々と半島、岬と浦々、内海と水道と無数の河川と湖沼という、世界に類を見ない多様な水世界をつくり出しているからだ。

 

 続いて著者は、大伴家持が、夏の産卵期にマグロが沿岸近くにあらわれたのをヤスで突いてとる様子をうたったように、『万葉集』には魚をうたった歌が数多いこと、12~14世紀の絵巻物で、漁労の現場や魚を売る市場を描いたものが多くあること、江戸時代には日本橋にあった魚市場(築地市場の前身)が江戸の台所として繁盛したこと、などの歴史をたどっている。

 

 また、日本列島周辺では約1200種もの種類の海藻が知られており、それは世界有数の多さだという。そして、いにしえから海藻を食してきた日本人には、海藻の細胞壁を分解する酵素を持つ細菌が腸内に共生しており、これは人類の中では日本人の腸の中だけ--という話には驚かされる。人の腸内細菌は3万種、100兆~1000兆個といわれるが、腸内細菌の突然変異によって新しい食物をとり入れられるようになる進化は、生物史的には大進化に属するそうだ。

 

 ところがその海藻の森が日本列島沿岸から消えている。それはイカ漁が衰退し、また日本沿岸から沸き立つような魚の産卵風景が見られなくなった時代と対応している。著者はその原因として、沿岸の埋め立てによる環境破壊を指摘するが、水産物の自給率低下については、200カイリ問題や農水産物の輸入増大という政府の対米隷属外交がおおいに関係している。その結果としての食生活の欧米化は、日本人の健康にも影響を与えないわけにはいかない。

 

 著者によれば、北大西洋のタラが乱獲によって、2006年には1970年の資源量の16%にまで減ってしまったが、北大西洋沿岸諸国が国の垣根をこえて協力し、今では資源量を半分にまで戻すことができたという。それが日本でできないはずはない。日本の水産関係者と研究者との協力、周辺諸国の協力によって打開策は見出せるのではないかと思わせる。と同時に、漁業法を改定して漁業権を民間開放し、日本の沿岸を大企業のためのリゾート開発や洋上風力発電建設の草刈り場にするなど論外であることを教えている。

 

 

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『魚食の人類史』 著・島泰三
書評・テレビ評2020年8月8日  長周新聞 

ホモ・サピエンスが生き残ったのは魚食のおかげ

本書『魚食の人類史――出アフリカから日本列島へ』(NHKブックス)は、魚食こそがわれわれホモ・サピエンスをして、今日の大繁栄(いささか繁栄しすぎだが)に導いたという壮大な物語を、最新のデータを駆使して教えてくれる。一時は、同時代の地球を生きたネアンデルタールとの生存競争で生き残ったのも魚食のおかげだったという。著者は霊長類学者の島泰三氏。1946年生まれ。日本の漁業の全盛期の時代に、その中心地・下関の鮮魚商の母親のもとで育ったこともあり、昨今の日本の漁業の不振を嘆きながらも、「魚食」の意味と大切さも伝えたいという気持ちが満ち溢れている。

35万年前に現れた「裸のサル」

 現世の霊長類の中でも、「魚食」といえるほどの量の魚を食べているのはホモ・サピエンスだけだという。とはいえ、ホモ・サピエンスの専売特許ではない。ホモ・サピエンスの祖先であるホモ・エレクトゥスの化石の出た約200万年前の地層から、魚類の骨が出ているというから、祖先も魚は食べていた。

 時代は下った数十万年前、ホモ・エレクトゥスの子孫として現れたホモ・ネアンデルターレンシスは、頑丈な骨格と筋肉をもつ大型種の人類で、その体格を生かして草食のウシやマンモスだけではなく、肉食のライオンまで捕食する「陸の王者」となった。それゆえ、彼らは魚食からは遠ざかった。

 われらホモ・サピエンスは35万年前ころにアフリカの大地溝帯に現れた。体毛が薄い「裸のサル」で、骨格はきゃしゃだった。毛のない皮膚は乾燥に弱かったせいか水辺にすみついた。きゃしゃな体は泳ぐことには適していたこともあり、魚食を手放さなかった。

 19万年前のエチオピア・オモ河の流域の遺跡と同じ地層からは、多くの哺乳類化石とともに、ナマズやナイルパーチ、コイなどの化石も出土しているという。それらは今の同じ魚よりはるかに巨大だった。また、骨製の逆刺(かえり)のついた骨製の銛も見つかっているという。

厳しい寒冷期を乗り越えた

 ネアンデルタールとホモ・サピエンスは、ざっと5千年くらいの間共存していた。しかし、2万4000年前に始まる最も寒冷な時代に入る前に、前者は滅びてしまった。ネアンデルタールの主たる食糧である中大型哺乳類が減ってしまったことが致命的だった。一方、きゃしゃな体ゆえに、根菜や獣、魚など多様な生物を食料としていたホモ・サピエンスは厳しい寒冷期を乗り越えた。さらには水辺伝いに海辺にも進出、広く東南アジア、アメリカ大陸にも分布を広げ、今日の隆盛となったというわけである。

 農業の起源も魚食とつながっているという。かつては、1万5千年前にコーカサスからメソポタミアで始まった小麦の栽培が農業の起源とされていたが、それよりはるかに早い時期(約4万年前)から、東南アジアではサトイモを栽培(根栽農耕)していた。これが農業の始まりだった。メソポタミアの方は「灌漑農業の始まり」とウィキペディアには書いてある。

 筆者は、「漁撈と根栽農耕が結びつく時、たんぱく質と炭水化物の栄養が保証される。水稲栽培は根栽農耕から発展したのだから、漁撈と深く結びついている」と書き、人類史における魚食の重要性を強調している。

 蛇足ながら、評者は日曜菜園でサトイモを栽培している。イモの食べられない固い根の部分はその辺に転がして枯葉をかぶせておけば、春には種芋に使えるし、収穫し損ねたイモからも勝手に芽が出てくる。サトイモが原始的な農業の起源だということを知り、体験的にも納得し、静かに感動した。

(BOOKウォッチ編集部 yuki)

 

 


舞台をまわす、舞台がまわる――山崎正和オーラルヒストリー

2020年09月06日 10時58分42秒 | 社会・文化・政治・経済

舞台をまわす、舞台がまわる――山崎正和オーラルヒストリー

編者 御厨貴、阿川尚之、苅部直、牧原出
発行 中央公論新社
発行日 2017年3月25日

阿川 尚之 Naoyuki Agawa

 山崎正和さんのオーラルヒストリーは、今から約10年前、2006年3月から2007年12月まで12回にわたって実施された。サントリー文化財団の特別研究助成を受けた「日本政治・外交と文化人のかかわり研究プロジェクト」の第1号という位置づけであったが、プロジェクトの中心人物である御厨貴さんの表現を借りれば、山崎さんから話をたっぷり聴いて「腹一杯になってしまった」ので、他の文化人のオーラルは行わなかった。今回本書の上梓により、その内容が初めて公になった。

 私は御厨さん、苅部直さん、牧原出さんと共に、山崎オーラルの聞き手をつとめ、本書の編者の一人として名を連ねているので、宣伝めくが、この本は読み物として実におもしろい。第一に、オーラルヒストリーという形態を取っているものの、これは山崎正和という一人の希有な知識人の立身出世の物語であり、冒険談である。

 機知に富んだ若者が逆境に置かれながら、ふとした出会いから運をつかみ、努力を重ねて大成功を収める。わらしべ長者からベンジャミン・フランクリンに至るまで、サクセス・ストーリーのパターンは変わらない。山崎さんの冒険は、敗戦とともにあらゆる秩序が崩壊した満州で、病身の父に変わって家族を守りつつ生き延びるという、想像を絶する経験から始まる。かちかちに凍り付いた首つり死体が梁からぶら下がる教室で、なにごともなかったかのように小学生たちが勉強を続けるという光景は、凄惨を越えてシュールである。敗戦から3年、父の死後内地へ帰還して高校へ進んだ少年は、飢えてはいたものの目前の死から解放されて知の世界に耽溺する。共産党の細胞になり、京大で美学を学びながら、初めて書いた戯曲が認められ上演される。不思議な出会いに恵まれ、アメリカへ留学してオフブロードウエーで自分の戯曲公演にこぎつけながら、「成功の泥沼」を嫌って帰国。戯曲を書き続け、評論を書きはじめ、大学で教えているうちに、30代半ばで時の総理大臣に直接助言をするようになる。これが成功物語でなくて何であろう。

 山崎さんはしかし、こうした信じられないような体験をただ語るだけではない。自らが置かれた状況、時代を、正確かつ冷静な口調で分析してみせる。新しい知の世代が活躍の機会を与えられた、戦後日本という貧しくて危ういけれど可能性に満ちた場を描く。知識人と政治の関係、時代の空気という現象、演劇の本質、社交という営みについて語り、思索の翼をさらに拡げ飛翔する山崎さんを目の当たりにして、我々は文字通り圧倒された。そうした分析を記録したこの本が、おもしろくないはずがない。

 ただ不思議なのは、こうした体験とその背景を、時に身を乗り出して語るなかで、自分は一つの点景に過ぎないと山崎さんがくりかえし強調することである。共産党員として活動し、大学で学問に取り組み、左翼全盛の演劇界に身を投じ、あるいは首相に助言をし、サントリー文化財団の仕組を作り上げても、覚めている。いや覚めているように見える。

 もちろん1960年代政治の世界に深く関与したのは、日本という国家がまだ非常に小さく見えて、自分が守り支える必要があると考えた。サントリー文化財団を作ったのは、専門化し蛸壷化した学問分野にとらわれず、総合的に深く考える真の知識人を育てる必要があった。そうした至極もっともな説明はあるのだけれど、自分が関与したのは偶々そこに居合わせただけであるかのような姿勢に徹する。それはなぜなのか。

 山崎さんはこうした問いを予想していて、政治と長く関わったのは、むしろ「ある種の諦念があったから」だと述べる。それを森鷗外に見られる「自分には自我がない」という自覚に結びつけ、「私自身も(鷗外と同様)自我を空白としてしか把握できない」と言い切る。

 しかし、そうした自我のない山崎さんが、時代が何を必要としているかを他の人に先がけてたびたび見抜き、その実現のために新しい仕組をつくり、適任者を見つけて配し、徐々に軌道へ乗せることに、異様なほど熱心である。この劇作家は芝居を書いていないときも、常に筋書きを考え、配役を考えている。山崎さんはこれを「積極的無常観」という巧みな言葉で説明するが、本当だろうか。むしろここにこそ、山崎正和の自我が存在するのではないか。「いかにして人は自身を知るか。観察ではなく、行いによってである」というゲーテの言葉を、他ならぬ本人が引いているではないか。

 70年代にニューヨークで大ヒットし、今でもしばしば上演される『コーラスライン』というミュージカルがある。声だけで出演するザックという演出家が、舞台のうえに売れない俳優たちを立たせ、オーディションを行うという設定である。一体君はどうして舞台に立ちたいのか、君は誰なのかというザックの問に、抵抗しつつも一人一人が自分について赤裸裸に語りはじめる。

 10年前の山崎オーラルでは、いつもは演出家のさらに背後にいて役者を見定めている山崎さん自身が、初めて舞台の上に立たされ、いったいあなたはだれなのかと、4人のザックから問われ続けた。問われなくても考えさせられた。時には居心地が悪かっただろう。そのせいかどうか、オーラルの成果は10年間封印された。

 けれども時が経つにつれ、山崎さんは自らのオーラルヒストリーもまた一つの舞台だった、改めて世の中に出せると考えたのかもしれない。そのために必要な加筆や修正を行って、出版社に原稿を渡した。そのせいか、この本は時に質問者を飛び越え、山崎正和の作品として読者に強い調子で直接語りかける。舞台を設け役者を配することにおいて山崎さんに負けず劣らず巧みな御厨さんが、こうなるのを予想してこのオーラルヒストリーを始めたのだとしたら、それもまた大したものだ。

 役者は上手から下手から現れ、必死に演じ続けるが、上演時間は限られている。一体だれが舞台を回しているのか、舞台はどのように回っているのか。舞台は回せるものなのか。山崎さんだけでなく我々一人一人に、言葉のより根源的な意味で題名が問いかけるこの本は、やはり実におもしろい。

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◆現代日本を代表する知識人の歩み
山崎家の家系。小学校時代。満洲での終戦と引き揚げ体験。京都大学での学生生活。劇作のきっかけとアメリカへの留学。評論活動の開始。政治との関わり。サントリー文化財団設立の経緯など多岐にわたる文化活動……。
現代日本を代表する知識人が、自らの歩んできた道を回顧する。13回に及ぶインタビューの記録を初めて公開。

商品の説明

メディア掲載レビューほか

宮沢喜一の「教養人ぶりと酔態」とは? 昭和政治の舞台裏

にこやかな表情に終始して、普通ならばけっして表面には出てこない「声」を引き出し、記録するのはオーラルヒストリーの役割であろう。引き出し役である聞き手たちとの間に信頼関係が徐々に形成され、墓場まで黙って持っていく予定だった「記憶」が公刊される。本書を読む醍醐味はここにある。

山崎正和は弁舌よどみない評論家であり、セリフに巧みな劇作家である。自己を表現する言語手段はいくらでもある。にもかかわらず、自己を露出することを嫌悪する「抑制」の人である。その抑制を半ば解き、ホテルのバーかどこかで心地よく酔いながらのように、回想は語られていく。聞き耳を立てたくなる話が、たくさん出てくる。高橋和巳、江藤淳、福田恆存、小林秀雄、大江健三郎、梅原猛ら言論人の、ちょっといい話ならぬ、ちょっとワルい話。権威主義マル出しの東大教授の話、等々。

ゴシップを潤滑油にしながら語られる本題は、「知識人の政治参加」である。山崎は三十歳代の時、時の佐藤栄作政権のブレーンとなり、以後、半世紀にわたって、現実の政治と交わってきた。その時々の政権により濃淡はある。佐藤、福田、大平とは濃い。筋が悪い角栄、中曽根とは距離を置いた。「あの人は品格がないから嫌いだ」と中曽根の使者に告げている。佐藤政権時代の東大入試中止、沖縄の「核抜き本土並み」返還などの政策が決まる舞台裏の知的風土がわかる。

政治家の人物月旦も尽きない。なかでは、宮沢喜一の「教養人ぶりと酔態」に鬼気迫るものがある。一休宗純の墨跡をすらすら読み下し、英米の雑誌を読破する政界一のインテリは、ぐでんぐでんに酔って秘書官に抱えられる始末だった。英語使いのアメリカ憎しで、「この人は本当に日米関係で苦労した人なんだな」と納得する。

山崎が政権中枢に馳せ参じた半世紀前と現在との落差には、隔世の感がある。当時の論壇は(演劇界も)「左」の時代だ。「左翼の圧倒的な勢力に対して、リベラル派は本当に一掴みだった」。山崎のいう自分たち「リベラル派」と今のいわゆる「リベラル」とは全くの別物である。その頃は日米「同盟」という言葉さえタブーで、日米「基軸」というお役所言葉が使われていた。

山崎が政治に関わったのは、「日本が薄氷の上に乗っているという感覚」だったからだ。この虚無の匂いを持つ紳士の秘密は、国家を失った敗戦後の満洲の暮しと、中三で入党した早熟な共産党体験だろう。その部分の語りは圧巻である。

評者:平山 周吉

(週刊文春 2017.05.25号掲載)
 

内容(「BOOK」データベースより)

満洲における終戦体験、多彩な劇作・評論活動の展開、そして政治との関わり―ロングインタヴューの記録によって明らかにされる、ある知識人の歩んだ道と戦後史の一断面。

著者について

劇作家、評論家。1934年、京都府に生まれる。京都大学大学院美学美術史学専攻博士課程修了。関西大学教授、大阪大学教授、東亜大学学長などを歴任。著書に『世阿彌』『オイディプス昇天』『鷗外 闘う家長』『社交する人間』『装飾とデザイン』『世界文明史の試み』など。2006年、文化功労者に顕彰される。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

御厨/貴
1951年生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学教授、政策研究大学院大学教授、東京大学教授、放送大学教授、青山学院大学特任教授などを経て、東京大学先端科学技術研究センター客員教授、東京大学名誉教授。専攻は近代日本政治史

阿川/尚之
1951年生まれ。米国ジョージタウン大学外交学部・ロースクール卒業。ソニー、米国法律事務所勤務を経て、慶應義塾大学総合政策学部教授、在米日本国大使館公使などを歴任。現在、同志社大学特別客員教授、慶應義塾大学名誉教授。専攻は米国憲法史

苅部/直
1965年生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。現在、東京大学法学部教授。専攻は日本政治思想史

牧原/出
1967年生まれ。東京大学法学部卒業。博士(学術)。東北大学法学部助教授、東北大学大学院法学研究科教授を経て、東京大学先端科学技術研究センター教授。専攻は政治学・行政学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
 
10年前に行われたインタビュー(2008年に報告書として活字化されたらしい、未見)に、補遺のインタビュー、山崎氏による手入れを経て、2017年3月、A5判、2段組み、360ページ強の大冊(本体価格3000円)として刊行された。インタビュアーは、御厨貴・阿川尚之・苅部直・牧原出の4人。サントリー文化財団が編集作業に協力している。1934(昭和9)年生まれ、現在83歳の、山崎氏の軌跡が語られる。八面六臂というのは、こういう人のことを指すのであろう。ともかく、無類の面白さというほかはない。よい記録を残してくれた方々に感謝する。
 
 
 
 
山崎正和氏の著書、「おんりい・いえすたでい‘60s」や「日本人の内と外(司馬遼太郎との対談)」は面白く読めたが、「不機嫌の時代」や「柔らかい個人主義の誕生」は一度ならず手にしたものの、読めたとは言い難い。そんな程度に止まりながらも、氏には関心を持ち続けて来た。氏の高い知性と広く深い洞察、透徹した論理、豊かな表現などに、憧憬とともに畏敬に近いものを抱いて。その氏に少しでも近付けることを期待して、本書を購入した。
 期待は裏切られなかった。果たされたと言い切るには、まだまだ自身が力不足、そういう到達点である。
 聴き手4人の先達である氏に抱く敬愛と、氏の後継である聴き手4人への信頼を基底にして、和やかで温かい雰囲気の中、氏のこれまでの様々な分野における歩みがその時々の思いとともに、赤裸々に語られて行く。時代状況への認識や関わりを持った人々への感想・評価、著作への意図などを添えて。改めて戦中・戦後を含む昭和の時代について学ぶとともに、氏の著書を読み解くポイントなるものを幾つか与えられた思いである。ここに出て来る一二を加えて、氏の著書に再度挑んでみたい、年甲斐もなくそんな気持ちにさせる本となった。 
 
 
 
 
御厨貴先生らが始めた「オーラルヒストリー」。本人存命中に学者が直接本人にあってインタビューを繰り返し、その人となりを浮かび上がらせつつ、インタビューの対象となった人物が歴史の節目節目で果たしてきた役割とその裏事情を本人の口から語ってもらい記録するという作業。これまで、私は数々のオーラルヒストリーを読んできた。竹下登、宮澤喜一、後藤田正晴、鈴木俊一などなど。インタビュー対象の多くは政治家であり行政官であったわけだが、今回は山崎正和という、学者であり、戯作家であり、文筆家でもある多様な顔を持った人物である。しかし、個人的には山崎正和が果たした最大の役割は、政府の中枢に食い込んだ知恵袋という役割だと思う。彼は単なる象牙の塔の人ではない。若い時期から首相官邸の奥深くに政府から招かれて総理大臣をはじめとする政権中枢に助言をしてきたのである。アメリカで言えば、補佐官という役職があるが、山崎が果たしてきた最大の役割は、この補佐官的な役割であったと思う。

山崎さんの文章を読んでいて思うのは「本当にこの人は頭のいい人なんだな」ということである。山崎さんの本来の仕事は劇作家である。劇作家とは本書にも出てくる平田オリザではないが、変人か、視野狭窄かのいずれかの人間が大半で、「なんだ、こいつ」みたいな輩が多い。ところがこの山崎さんは違う。彼が書く文明論、社会論、歴史論、都市論、教育論。どれをとっても見事なのである。そもそもこの人は、いきなりアメリカ政府からフルブライト留学生として選抜されたことから人生がスタートしている。普通は応募して試験を受けて選抜されて奨学金を得て留学するのだが、山崎さんはアメリカ政府から藪から棒にフルブライト留学申込書を送られてくる。そして英語が十分できないというとハワイでの語学学校通いがついてくる。しかも逡巡していると奨学金が学生から研究者扱いになって跳ね上がる。こうして彼のイェール大学留学が始まるのである。そのあとも彼は文字通り「筆一本」で人生を切り開き、渡り歩いているのである。「世の中には優秀な人というのはいるものだな」と山崎さんを見ていると嘆息してしまう。

山崎正和を最初に見出したのは佐藤栄作総理大臣の首席秘書官だった楠田實である。楠田はケネディ政権下で組織されたブレーントラストに範をとり、日本でも知識人によるグループを組織し、政府への提言を求めるようにした。このメンバーに抜擢されたのが山崎正和のほか高坂正尭、永井陽之助らがいた。

山崎正和の文章を私が大学生の頃から愛読してきた。彼は中央公論の名編集長粕谷一希のお気に入りで、当時の中央公論、あるいは文芸春秋にも高坂正尭氏とともに頻繁に登場していた。山崎正和を貫く一本の筋がある。それは彼が何よりも日本という国家を心から愛する「愛国者」であり、当時の日本で圧倒的な勢力を誇った左翼(日本共産党、全共闘ら新左翼、日本社会党、更には彼ら彼女らの背後にいるソ連、中国、北朝鮮)を「敵」と見做し、日本を日米同盟を基軸とする自由主義陣営の明確な一員と位置づけ、日米同盟を軸に日本が共産化しソ連もしくは中国の衛星国化しないよう全力で知恵を絞り、言論を通じて日本の独立維持に人生をかけてきたということである。確かに山崎は「愛国者」ではあったが、それは、いわゆる「右翼」とは異なる。彼は全体主義者とは全く異なる「リベラリスト」であり「自由主義者」であった。リベラルと言っても朝日毎日東京新聞的な左翼シンパのリベラルではない。アメリカ主導の自由主義陣営の一員として日本が共産主義国家に飲み込まれないようにして、言論が自由な日本を守るという意味でのリベラルであった。山崎は若い時期から政治的なリアリズムを理解してきた。だからアメリカの陣営に属することなく自由と独立を維持できると思い込む「中立主義者」ではなかった。日本が共産主義という「大きな悪」に飲み込まれないためには、日本にアメリカ軍の駐留を認める日米安保条約およびそれに伴う数々の「痛み」は「独立維持の必要経費」と割り切る鋭敏さを備えていた。これは高坂正尭にも共通する。

当時の日本にはソ連や中国よりもアメリカを憎む一派がいた。坂本義和がその代表である。坂本義和のアメリカ嫌いには、彼が東京大空襲の罹災者であるという原体験があった。こここそが、空襲されなかった京都で戦時中を過ごした高坂正尭と最後まで理解しあえない一線であった。坂本にしれみれば「大阪空襲に向かうB29の銀色の機体を見て、美しいと感動する高坂は同じ日本人ではない」という思いがあったのだろう。「アメリカは僕らの父母であり朋友を、情け容赦なく焼き払った鬼だ。なぜ奴らを憎まないんだ」というのが人生の原点だったのだろう。そこへ山崎が出てくる。山崎の原体験は満州での大日本帝国崩壊であり、その直後に生じた阿鼻叫喚の「無政府状態」に対する恐怖と嫌悪である。山崎は語っている。「私はどの政治学者よりも、無政府状態がいかに怖ろしいか知っています。そしてどんなに悪い政府でも、無政府状態よりはましだという信念の持ち主です」と。大日本帝国と満州国が崩壊した後にやってきたのはソ連軍で、その多くはソ連軍の中でも最下層の囚人兵の集団だった。彼らは収監時に手の甲に掘られた刺青を持っていた。その彼らは白昼堂々街を歩いているロシア人女性、日本人女性、中国人女性、朝鮮人女性らを次々に強姦したという。彼らの無知蒙昧ぶりは漫画の領域に達しており、腕から肩にかけて日本人らから取り上げた腕時計をし、そのまま川に飛び込んで泳ぎ始めるも、時計は防水でないからあっという間に壊れた云々。こういう「原体験」があればこその反共であり反ソ連が山崎の背骨だったのであろう。

昭和40年代の日本はメディアも学者も学生も左翼一色だった。戦後の左傾化には、軍国主義化した戦前に対する「反動」という面があった。ただ山崎は「学者たちは、ある意味で世間知らずだし、アカデミーそのものが左傾化してきたら、それに乗っからないと飯の食い上げですから、大量に左翼になってしま」ったと書いている。学者は、現実政治に対するリアルな認識など全くなく、まして「左翼が日本を追い出して日本を支配したらどうなるか」というリアルな認識が全くなく、ただただ「ご時世だから」と世間に迎合して「にわか左翼」を装い、おまんまの食い上げを回避する無責任な存在と斬って捨てている。その意味で、粕谷一希、高坂正尭、山崎正和は、本当の意味での愛国者だったし、透徹した世界政治に対するリアルな認識を持った稀有な人々だったということなのである。

山崎は感慨深げに書いている。「お前は何をやったんだと問われたら、少なくとも民主主義は守ったといえる。世代全体が暗黙の協力をして、まず軍国主義の復活を防いだ。そのうえで、日本を北朝鮮にもしなかったし、中国の属国にもしなかった。その危険性はある程度ありました。ジャーナリズムと大学の教員の半分以上、いや三分の二くらい、そして高校以下の学校の教員の8割方は左翼だったわけですから」「運もよかったけれど、よくぞ日米安保をここまで維持してきたな、と思います」。これは実感であろう。そして山崎は本書の最後で自らを「戦後民主主義の子」としつつ、個人と国家の関係については「国家を敬うのでもなく恐れるのでもなく、いじらしく、愛すべき存在だと見る感覚を持つことです」と言い切っている。これは重要なポイントであろう。感覚で言うと、明治の元勲たちが持った国家観を取り戻せということなのだろう。

この「国家観」について山崎は興味深い分析を行っている。確かに明治の元勲たちは日本という国家は何時ひっくり返ってもおかしくない笹舟のような存在と認識し、懸命に日本国の舵取りをし、日清日露の戦いを勝ち抜いて、第一次大戦という大正の御代の天佑を活用し、功成り名を遂げた。ところがそれを継いだ第二世代はそうは思わなかった。彼らにとって大日本帝国は生まれた時には既に存在し、その五大国の一角を占める見上げるような存在だった。「国家は大きい」「国家は抑圧的」だと思い込むばかりで「国家は自分が助けてやらないとひっくり返る」と思っている人はいなくなる。そこへきて急速な日本の近代化が生み出した副作用としての農村の窮乏化と都市のプロレタリアの悲惨な状況が、第二世代の若者を左傾化させ、あるいは右傾化させるが、いずれもが反国家、反政府、反体制へと向かわせたという。それは陸軍士官学校生徒の間でも顕著で、第二世代は第一世代を恨んでいたという。第一世代は功成り爵位を得て上手くやっている。「あいつらは自分たちが軍を作ったから最初から将軍で、下っ端の苦労を知らない」という妬みを背景とする下剋上の空気が醸成されていったという。こうした空気が第二世代を極端に政治化させた本当の原因で、それで彼らは「国家は俺たちが背負う。あの連中では駄目だ」となって5.15事件、2.26事件を起こし、やがて満州事変を経て大日本帝国を滅亡へと追い込んで行ったというわけだ。

面白いエピソードもてんこ盛りである。

例えば全共闘。全共闘運動とは不思議な運動で、大学の外は平穏で一般市民は高度成長を謳歌しまくる昭和元禄状態。ところが大学の中だけは無政府状態で暴力が支配する地獄絵図。しかも「大学自治」という固定観念に取り付けれ教授陣にとって警察の導入はタブー。この悪の連鎖を断ち切るにはどうするかで山崎さんが提案したのが「東大入試の中止」。狙いは完全に遮断されている学生運動と一般社会を結びつけて「いま、大学のなかが大変なことになっている」ということを満天下に知らしめる。その為には、今も昔も日本国民の最大関心事である大学入試、その頂点に君臨する東京大学の入学試験を中止して世間をあっと言わせれば、あっという間に学生運動問題は解決すると山崎さんは読んだ。そして事実は読み通りに推移し「東大に入れなくなったのは全共闘のせいだ」という声が日本中に広まって、あっという間に全共闘運動は下火になっていったという。

政治家との距離も面白い。山崎さんが深く付きあったのが佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、宮澤喜一ら官僚出身の総理で、中曽根康弘や田中角栄との接触は自分の方から断っている。昨今、田中角栄ブームだが、本書の中で京極純一教授が田中角栄の総理就任を受けて「これで日本の政治は変わります。いままでこういう人が総理になったことはなかった。あなた方はそういう自覚はないでしょう。だけど私にはそれがわかるんだ。これで日本の政治は狂います」。京極純一ほどの大学者をして、ここまで言わしめた田中角栄。事実、このあと、日本政治は狂い始めたことを見るにつけ、京極先生の選球眼のすごさに改めて敬服する次第である。田中角栄は「手に取りるな、やはり野に置けレンゲソウ」だったといまさらながら思う。

宮澤喜一に対する評価も面白い。宮澤喜一は学生時代から日米学生会議に属し、訪米を繰り返した英語の達人で、本来日米関係が日本にとって最も大事ということを最も良く分かっている政治家のはず。ところがこの宮澤喜一が「言葉のはしばしにアメリカ憎し」が出てしまう。それには理由があって、池田大蔵大臣に同行して訪米して講和条約の交渉に携わるが、その時のアメリカ側から受けた待遇のひどさに対する怒りが宮澤喜一という政治家の原点だったという。宮澤はなまじ英語が出来たからアメリカ人が語る英語のニュアンスまで分かり、それが「あいつらは日本を見下している」という怒りに変わったという。このときの怨恨が生涯宮澤にはついて回った。これには私にも思い出がある。宮澤喜一は日本語で話している時は「さあ、どうでしょうか」などと笑顔でとぼけたことをいう物事をはっきり言わない政治家だった。ところが英語になった途端、極めて端然と、しかもアメリカに対してぴしゃりと意見を言う毅然とした政治家だった。日本語環境の宮澤と英語環境の宮澤ではまるで別人だったのである。

イギリスでもアメリカでも知識人は積極的に政治に関与する。アメリカの政治とアメリカの大学は軍事技術研究含め密接な協力関係にある。それはフランスも同じ。ところがドイツでは違うという。日本の学者が政治に関与することを嫌うのは「ドイツからの影響を受け過ぎたから」という山崎さんの指摘は目から鱗だった。そしてこのドイツにおける知識人の政治嫌いがドイツにおけるナチス台頭の下地にもなっているという。

私が敬愛する高坂正尭はケンカ上手な人で、要するに「負ける喧嘩はしない」かわり「喧嘩する以上、必ず勝つ」をモットーとし、事実ほとんどすべての喧嘩で勝った人。一方の佐藤誠三郎は全く逆で、傍目からも「負けるに決まっている喧嘩」を全部引き受けて、そのほとんど敗北したという。

ついでながらこの山崎正和さんのオーラルヒストリーには、本書には収録しきれなかった「番外編」が存在するという。まあ、内容が機微にわたるので公開を遠慮したのだろうが、その番外編も出来るだけ早く公開されることを私は切望している。
 
 
 
亡き父が『鴎外 闘う家長』を愛読し、「山崎正和というのはたいした人だ」を語っていたことから
山崎氏に興味を持つようになった私だが、これほど多方面にわたって活躍していた方だとは
恥ずかしながら知らなかった。

山崎氏の演劇や評論における功績が四人の聞き手を相手に語られるのだが、登場する人々が実に多彩だ。
福田・大平元総理、京極純一、江藤淳、三島由紀夫、高橋和巳、開高健、大岡信。
山崎氏の目に映った東大紛争・安保闘争、日本文学、劇壇の諸相。ニューヨークでの劇の上映のくだりも実に面白い。

確かにエスタブリッシュメント寄りといえるのだろうが、
日本の文化をしっかりと支える優れた知識人がこの国に多くいた時代、
そして彼らに耳を傾ける見識と度量を備えた政治家が存在した時代を
懐かしく振り返った。
 
 
 
 
10年前の聴き取りが「かなりのドラマ」(編者)を経てようやく刊行。80歳を越えて、もう多少の炎上は怖くないということか。ものすごく面白い。自分のキャリアーは新幹線がなければありえなかった、とか、A利K太には小隊長っぽいところがあった、とか、面白いから勉強ができるのではない、勉強はできるから面白いのです、とか。満州や、共産党や、大学紛争や、晩年の地方私学などの修羅場も、静かだが歯に衣着せない語り口で語られていて爽快である。読んでいて元気が出た。
 
 
 
 
山崎正和といえば、評者自身はかつて『不機嫌の時代』を興味深く読んだというぐらいです。その後なにか文明論を書くひとになったなあという印象をもちつづけてきました。あとは、やや記憶が不確かですが、丸谷才一との対談かなんかで、丸谷が山崎に、あなたは法学部的な頭のよさをもっていると言っていたのをなんとなく覚えています。
 まあとにかく評者も山崎正和というひとはたしかに頭がいい人だという印象はずっとあって、そのことは本書を読んでもよくわかります。
 ただ、頭がよすぎて、かれが終始冷静に語る自分史もなんだかあまりに整合的にきちんと整理されすぎていて、二段組み三百ページほどを読み切ったのに、どういうわけかあまり記憶に残るものがありません。

 オーラルヒストリーということで、対象者からいろんな話を聞き出す役目の、御厨貴はじめとする多く東大教授でもあるインタヴュアーたちも、残念ながらほとんどその役目を果たしていません。本書はほとんど山崎正和の一人語り、独演となっています。これはこれでもちろん面白いことは面白いのですが、結果は、山崎正和が聡明に生きてきたということしか伝わってきません。
 インタヴュアーたちは、山崎正和に不意打ちを食らわせ、山崎正和をたじろがせ、山崎正和に思いもかけないような告白をなさしめるような、そんな自分たちなりの質問を周到に準備してほしかったなあと思うばかりです。
 まあ本書での御厨貴はじめとする聞き役たちは、もしかすると精神分析医のように、とにかく対象者(患者)の話に介入せず、ただただ対象者(患者)に一人語りさせる、思うがまましゃべらせるというスタンスでその場に臨んでいたのかもしれません。それが御厨流のオーラルヒストリーの手法だということで。
 ただ、こちらとしてはそれがなんともインタヴュアーとしての不甲斐なさと映ります。もっと山崎正和を勉強して、三人がかり、四人がかりで山崎正和につっこんでほしかった。もっとあれこれ聞き出してほしかった。そのためには、インタヴュアーとして、今回のように政治学者ばかりではなく、文学関係者(文芸批評家など)、演劇関係者(演劇批評家など)もそろえるべきだったのではないかと思います。

 最後に、二段組み三百ページ以上ある本書で、とりわけ記憶に残った山崎正和の発言:

 「話をうんと飛躍させると、私が靖国問題が危ないというのは、これ[=前段で山崎が述べた「ヨーロッパ、アメリカ、早い話が白人社会の中に一本の水脈がある。それは陰に陽にユダヤ・リンクスとつながっている。だから彼らが動いたら、下手すると世界が動く」ということ]があるからです。中国や韓国が怒っているうちはまだいい。だが、もしも連帯したユダヤ人が本当に怒ったら、全西洋の知識人が動きます。そしていまの慰安婦問題がそうですが、現にアメリカの議会で非難決議が起こっているわけでしょう。それと同じことが靖国についても起こらないとは限らない。それ以来私は、政府は靖国から距離を置くべきだという確信を固めました。」

 これはユダヤ陰謀史観というのとは少し違うのかもしれないけれど、でもそれに限りなく近いことを山崎正和は信じているんだなあと思ったしだいです。

評論家、劇作家の山崎正和さんが死去(産経新聞)

2020年09月06日 10時49分09秒 | 社会・文化・政治・経済

劇作家や評論家などとして幅広い表現活動を展開し、産経新聞の「正論」執筆メンバーを務める大阪大学名誉教授の山崎正和(やまざき・まさかず)さんが19日、悪性中皮腫のため死去した。86歳。葬儀は近親者で済ませた。お別れの会などは未定。

 昭和9年、京都市出身。少年時代を満州で過ごした。京都大学文学部哲学科卒。同大学院在学中から戯曲を発表した。世阿弥生誕600年に合わせ、38年に発表した『世阿彌』は岸田國士戯曲賞を受賞し、米ニューヨークなど海外でも上演された。

 独創的な社会評論や文明論、文芸評論など幅広い分野で活動。51年には志賀直哉や夏目漱石ら文豪の作品を題材に、明治末期に特有の精神現象を発見した『不機嫌の時代』を発刊。翌年には『おんりい・いえすたでい’60s』で、流行や風俗から1960年代を明快に論じた斬新な社会評論が注目を集めた。

 また、自由な自己表現へと変容する脱工業化社会の自我を論じ、時間消費を楽しむ社会を予測した『柔らかい個人主義の誕生』(昭和59年)はロングセラーとなった。

 54年、サントリー社長だった佐治敬三氏の依頼で、作家の開高健(かいこう・たけし)氏、政治学者の高坂正堯(こうさか・まさたか)氏との3人を発起人としてサントリー文化財団を設立。研究者を発掘奨励し育成するサントリー学芸賞を創設した。

 昭和40年代に佐藤栄作首相の諮問機関「国際関係懇談会」に参画して以降、竹下登、小渕恵三、小泉純一郎首相らの諮問機関メンバーを務める。平成23年日本芸術院賞・恩賜賞受賞、30年文化勲章。

山崎正和氏死去、86歳 劇作家、評論家「柔らかい個人主義」―文化勲章受章

2020年08月21日16時41分

 文化勲章の受章が決まり、記者会見する劇作家の山崎正和さん=2018年10月撮影
文化勲章の受章が決まり、記者会見する劇作家の山崎正和さん=2018年10月撮影
 「オイディプス昇天」など多くの戯曲を手掛けたほか、「顔の見える大衆社会」を提唱した「柔らかい個人主義の誕生」など評論活動でも知られた劇作家・評論家で文化勲章受章者の山崎正和(やまざき・まさかず)氏が19日、悪性中皮腫のため兵庫県内の病院で死去した。86歳だった。葬儀は近親者のみで済ませた。

京都市生まれ。少年期を旧満州(中国東北部)で過ごし、京都大哲学科卒。同大大学院在学中から戯曲を執筆し、1963年に将軍・足利義満と能の達人を光と影の関係として捉えた「世阿彌」で岸田国士戯曲賞を受賞。その後、評論活動も開始し、近代日本文明論「劇的なる日本人」で72年芸術選奨新人賞、73年には森鴎外論に新たな視座を与えた「鴎外 闘う家長」で読売文学賞を受けた。
 関西大、大阪大教授、東亜大学長を歴任、教育者として後進の育成に当たる傍ら、「オイディプス昇天」などの劇作、「病みあがりのアメリカ」「不機嫌の時代」「柔らかい個人主義の誕生」の文明評論など、学問やジャンルの枠にとらわれない幅広い視野で活動を展開。サントリー文化財団副理事長も務め、社会文化活動にも尽力した。
 自らを「文化的保守」と位置付け、佐藤栄作内閣以来、時々の政権のブレーン役を務めた。政府の「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」メンバー(2001~02年)や文部科学相の諮問機関である中央教育審議会会長(07~09年)なども歴任した。
 06年に文化功労者に選ばれ、11年日本芸術院賞・恩賜賞、18年には文化勲章を受けた。 
時事ドットコム

考え、書くこと習慣に 「4足のわらじ」で活動―山崎正和氏

2020年08月21日20時33分

 若くして劇作家としてデビュー、硬派の評論家としても活躍した“知の巨人”山崎正和氏が亡くなった。幅広い活動が評価され2018年に文化勲章を受章したが「ものを考え書くことは体についた習慣。やめることはない」と宣言していた。
山崎正和氏死去、86歳 劇作家、評論家「柔らかい個人主義」―文化勲章受章

 自身の活動を「劇作」「評論」「教育」「社会文化活動」の「4足のわらじ」と評していたが、「それぞれに劇作家としての感性やものの考え方が一貫している」と「劇作家」の肩書を好んだ。
 現代社会への鋭い視点も持ち続けた。吉野作造賞を受賞した「柔らかい個人主義の誕生」で成熟した個人主義に期待感を示した一方、インターネット時代の到来について「ソーシャルメディアでは誰も編集者がおらず、一人一人が勝手に情報を発信する。誰も責任を取らない情報が氾濫する時代になっては困る」と危惧していた。
 阪神大震災後は「劇場建設は復興の象徴」と考え、05年の兵庫県立芸術文化センターのオープンにも尽力。同センターは自前のオーケストラを持つ音楽や演劇の公演で人気劇場に成長。「お客さんの大半が地元で、地元のみなさんの支持があった」と喜びを表現していた。
 佐藤栄作内閣以降、政策ブレーンとして政治にも関わったものの、のめり込むことのないよう自制することを忘れなかった。「私の考えることは、かくかくしかじか。耳を傾けるかどうかは、あなたのご勝手です」という姿勢を崩さず、権力からの自由と矜持(きょうじ)を貫いた人生だった。 
時事ドットコム

 


「公明党結党50年」に寄せて/劇作家/山崎正和 

2020年09月06日 10時47分24秒 | 社会・文化・政治・経済

「公明党結党50年」に寄せて/劇作家/山崎正和 (2014年11月11日 公明新聞より)

山崎正和さん(ネット検索にて1)

山崎正和さん(ネット検索にて1)

今月17日、公明党は結党50年の節目を刻む。折しも時代は半世紀前の“あの頃”に似て、多くの難問難題を前途に抱える。内には高齢化、人口減少、格差拡大等々、外には日中・日韓、北朝鮮、さらには地球環境問題や資源問題と。“来し方50年”にも増しての奮戦の連続となろう“次の50年”。再びの船出を期す公明党に期待されるものは何か。劇作家の山崎正和氏に聞く。=編集委員 峠淳次

『“来し方”への評価/時代貫く中道の思考と実践』

半世紀前、世界は東西冷戦構造の只中にあり、日本の政治も55年体制下、硬直したイデオロギー対立を余儀なくされていた。そうした不毛の保革対立の中、左右どちらにも偏しない中道主義を掲げて登場したのが公明党だった。

いらい50年。政治倫理に関しては清潔に徹し、福祉、文化、平和に力を入れてきたその歩みを私は高く評価している。その政治姿勢は今後も変える必要などなく、引き続き、中道の旗の下、政治の王道を歩んでほしいと願っている。

冷戦が終わって20年余、世界は「イデオロギーなき時代」となり、わが国においても政策の根本的な対立は消滅したと見なされている。

だが、中道の有効性はいささかも減じていないというのが私の見方だ。ものごとには常に二元性があり、何ごとであれラディカリズム(急進主義)の危険が付きまとうからである。

ある種の問題の分かれ道はどこにあるのか、対立点はどこにあるのか。そこを見極め、バランスある着地点を見出していく中道の行き方は、むしろイデオロギーなき時代にこそ欠かせない。

たとえば、格差問題。一方には、格差をゼロにしろという極端な意見がある。これは競争をゼロにしろということだが、しかし、「競争なき社会」とは、裏を返せば「停滞した社会」にならざるを得ない。かと言って、過度の競争社会が格差を拡大し、行きすぎた不平等社会を生むのも事実だ。

競争の程度や方法について、中道に立つ思考が求められるゆえんである。

記憶に新しいところでは、先般の安全保障法制整備に関する閣議決定がある。

変容する日本の安全保障環境を一方に見据え、他方、平和憲法が許容する武力行使の範囲も厳しく見定め、安保法制の不備を確実に補完する。

これまた中道の思考がもたらした成果であったと高く評価している。

『“次の50年”に向けて/長期視点で政策構想研究を/「定常型社会」「道徳教育」をテーマに』

  繰り返しになるが、次の50年への“再びの船出”に際し、公明党がこれまでの歩みを変える必要はないし、変えずにいてもらいたいとさえ願っている。

ただ、その前提に立ってあえてひと言、プラス・アルファを注文するなら、中長期的な世界観に立つ政策構想の研究にも打って出てほしいという思いはある。

というのも、東西冷戦が終わってからこのかた、政策の方向軸が立てにくくなっているからだ。

実際、国会の論戦から長期的な国家像や未来の社会を見据えた政策構想をめぐる論争は絶えて久しい。長期的な視点から対立政策を提示する立場にある野党も離合集散を繰り返すばかりで、その主体がどこにあるかすら分からないのが現状だ。

だとすれば、ここは与党、とりわけ公明党に期待するほかあるまい。党内に常設の研究機関なりグループなりを設置し、現下の政策課題の一歩先を行く問題を先取りして研究してほしいと願うのである。

  『「逆艪」の心得』

もとより私は、アベノミクスや地方創生など、現実に即した具体的な政策を論じようとしているのではない。それはそれとして、予見できる将来に焦点を当て、あらかじめ政策に「逆艪」【■参照】をつけておく周到さを持ってほしいのだ。

私なりの考えを言えば、研究すべきテーマは大きく二つある。定常型社会論と道徳教育の問題だ。

ひと言で言うなら、定常型社会とは人口と経済の成長が限界に達した社会であり、その「事実」を受け入れ、これ以上の経済成長を求めようとしない社会である。科学史家の広井良典氏、物理学者の岸田一?氏、エコノミストの水野和夫氏らがそれぞれ学際的な立場から提唱している。

地球規模での資源の枯渇と環境破壊から「持続可能な成長」をめざす議論は従来からもあったが、定常型社会論はそこに高齢化と人口収縮の観点を加え、「成長なき社会」への軟着陸をめざすのが特徴だ。

彼ら定常型社会論者に共通するのは、21世紀を長い人類史の中に位置づけ、現代が過去に例のない崖っぷちに立っているとの強烈な危機意識である。

例えば岸田氏が、18世紀の産業革命に始まる近代300年がいかに環境を破壊し、資源を枯渇させてきたかを論証し、2006年の人類はすでに地球1・4個分の資源と環境を消費していたことを明らかにしているように。

3氏はそれぞれに「成長なき社会」への移行過程も示すが、この部分の考察はなお検討が必要だろう。私自身も、3氏の主張をそのまま受け入れ、定常型社会への速やかな移行を訴えるつもりはない。

ただ、定常型社会論の中に聞くべきところがたくさんあるのは事実だし、それでなくても環境、資源、高齢化の問題が「今ここにある危機」として眼前にあることは誰も否定できまい。

となれば政治は、定常型社会論が示す問題提起をまじめに受け止め、賛成、反対を超えて研究を進めるべきだろう。その名誉ある作業を公明党が担い、ありうべき将来の政策転換に備えて予備的な検討を始めてもらいたいと望むのである。

『社会激変の中で』

道徳教育問題については、中央教育審議会が及び腰ながら独立科目化を提唱した。だが、政治の舞台に上ってくるまでには、まだしばらく時間があるだろう。ここは拙速を避け、じっくりと研究してほしいというのが私の立場だ。

というのも、急速な社会変化の中で、道徳というものの中身は不透明感を増す一方にあるからだ。

例えば、貧富差。その格差がどれぐらい不平等になったら不道徳なのか。2倍なのか、100倍なのか、それ以上なのか。この問いに答えられる教師はおそらくいないだろう。

  妊娠中絶問題も同様だ。胎内に宿る子どもの扱いを母親の自由意思に委ねることは、人権上許されるのか否か。ほかにも、米国の女性がそれを選んだことで大きな話題になった安楽死や、時代の趨勢にも見える同姓婚にも道徳問題が絡む。

科学技術が格段に進歩し、社会構造も大きく変容する中、どうすることが道徳的で、何が不道徳なのか、その境界線が大人でも分からなくなっている。それを教科にして教え、採点することが果たして正しいのか、可能なのか。

無論、社会的合意のある最低限度の徳目はある。いじめはいけない、汚したところはきれいにしましょう、といったように。

だが、これらは道徳教育というよりは、しつけの問題だろう。家庭も学校も地域も含めて、日頃の生活の中で指導すべき問題である。

それでなくても、道徳教育は人間の内面に関わる微妙なテーマだ。人間主義を掲げる公明党こそが熟考を重ね、幅広く研究してほしいと念願している。

 『党内シンクタンク/健全な民主主義社会へ 民間有識者との協働で』

いささかお節介に過ぎるかもしれないが、この際、研究機関のありようについても述べておきたい。

1960年代の末から70年代にかけての佐藤内閣時代、政府に政策アイデアを助言する知識人グループが生まれた。中心にいたのは楠田實という首相秘書官。高坂正堯、京極純一、梅棹忠夫ら新進気鋭の学者、評論家が参加し、私もその一角に加わっていた。通称、「楠田研究会」と呼ばれたこのグループの取り組みが、やがて沖縄返還や学園紛争の収束などへとつながっていったことは『楠田實日記』に記されている通りだが、そのユニークさと先見性、画期性は知識人と政府をつないだ点にある。

その後、大平内閣も有識者らからなる研究会を発足させ、近年では、いわゆる審議会政治が常態化し、その構成員に民間の学識経験者が数多く加わっている。

今、私が提案したいのは、これらの先進事例に倣って、政党内部につくる政策研究機関も有識者と政治家で構成したらどうかというものだ。そこで互いに知恵を出し合い、政策を研究、立案していけるなら、それはポピュリズムを避け、健全な民主主義を育てる上でも有効だろう。

間接民主主義とは、時に大きく揺らぎ、時に暴走もする民意を、いったん政治家のスクリーンに通すことで濾過する仕組みにほかならず、それゆえに政治家の政策立案能力の向上が決定的に重要だからだ。学者との協働による政策研究は、その能力の鍛錬を自ずと政治家に課すことになろう。

次の50年へ、公明党内での検討を期待したい。

【■参照】逆艪=船を後ろへも自由に漕ぎ進められるよう、反対の向きに取り付けた艪。すなわち、状況の急激な変化に備える対応力と心構えを持てとの意。

  やまざき・まさかず 1934年生まれ。京都大学大学院博士課程修了。大阪大学教授、東亜大学学長、中教審会長など歴任。『山崎正和著作集』全12巻など著書多数。文化功労者。

 

大型インタビュー/現代日本政治の位相と自公連立政権/劇作家/山崎正和氏(2013年02月20日 公明新聞より)

山崎正和さん(ネット検索にて2)

山崎正和さん(ネット検索にて2)

自民、公明両党連立による第2次安倍内閣の発足から間もなく2カ月。民主党政権下で失われた政治のダイナミズムをどう回復するか。公明党への期待と併せ、劇作家の山崎正和氏に語ってもらった。(聞き手=論説部・峠淳次)

『2012年衆院選の意味「変革願望」から「現実改善」へ』

自公連立政権の誕生から2カ月。まずは、先の衆院選をもう一度振り返っておこう。

■元に戻っただけ

ひと言で言うなら、今回の自公圧勝は特段に驚くべき現象ではないというのが私の見立てだ。2009年夏の衆院選で、国民はとんでもない非常識な選択をし、さすがに「これはまずかった」と気が付いて普通に戻った。それだけのことというわけである。実際、選挙結果を受けて公明党の井上幹事長も自民党の石破幹事長も言っていた。「余りにもこれまでがおかしかったので元に戻っただけだ」と。

その「余りにもおかしかった」「元に戻っただけ」という意味内容を私なりに解釈すれば、それは「変革願望の幻滅」であり、その裏返しとしての「現実改善への回帰」と捉え直すことができよう。

思えば21世紀に入ってからのこの10年余、世界は、とりわけ日本は拭いがたい停滞感に支配されてきた。人々は漠とした閉塞感の中で自分の立ち位置の決めにくさに苛立ち、そのことがさらに新たな混迷を生んで、社会に「変革願望症候群」とでも呼ぶべき現象を引き起こしてきた。

■失望の時代

この停滞感がはなはだ逆説的な形で始まったことは容易に理解できよう。東西冷戦の終焉、すなわち一方で社会主義と共産主義の夢が崩壊し、他方、自由主義社会の人たちも冷戦が終わった先にバラ色の時代の到来を夢見たが、それが大錯覚であることにやがて気付き、失望の時代を予見する形で始まった。

失望の時代は予想以上に早く到来し、資本主義が持っている様々な不都合が今や我々の眼前に噴き出していることは周知の通りだ。グローバル化一つをみても、貧富の差は地球規模で拡大し、自然破壊や資源の枯渇も加速する一方にある。イデオロギー対立がなくなった途端、人々はめざすべき方向が分からなくなり、そうした時間経過の中で、政治権力も陳腐化していったというのが冷戦後世界の実相というわけである。

『12年衆院選回顧』

『大停滞の時代「小さな改善の物語」を確実に』

東西対立の崩壊は意外な副作用を招くことにもなった。新しい何ものかが生まれるどころか、近代文明の重要な一側面である「国民国家」の相貌をその成立当初の粗野な姿に逆行させることになった。19世紀的と呼ぶほかないような、国益丸出しの露骨な対立がむき出しになり、どの国も自国中心主義に幼児返りしてしまったように映る。

 ■大きな物語なき時代

こうした地球規模の手詰まり感を打破するものとして期待されるのが科学技術だが、残念ながら革命的と呼べるような技術革新は20世紀の前半で終わっている。抗生物質、原子力、あるいはジェット機や合成繊維……、基礎的な文明を変えたこうした大発明は、1947〜8年にかけて発明されたゲルマニウム・トランジスタを最後に起こっていない。20世紀後半からの科学技術の進展はせいぜい改良改善の連続であって、今起こっている「IT革命」も、その基礎技術は20世紀前半にできたものだ。

政治的にも経済的にも社会的にも、さらには科学技術に至るまで、我々は「大きな物語のない時代」に生きていることを痛感しないわけにはいかない。

あらためて強調したいのは、そうした時代の空気の中で、誰しもが変革願望を空しく持つようになった点だ。「ともかく今を変えなくてはいけない」「何でもいいから変化が必要だ」とする「変革願望症候群」のまん延である。

そんな焦燥を露わにした象徴的な出来事が、2008年の米大統領選挙だった。オバマ候補はほとんど公約らしい公約を発しないまま、「チェンジ(変革)」というスローガンだけで勝った。

日本でもこの十数年、人々の「変革」への願望は高まる一方だった。「自民党をぶっ壊す」と叫んだ小泉首相が総選挙に大勝し、そのあとの民主党のマニフェスト選挙も、「政権交代」を公約に掲げるという異様な選挙を展開した。そうしていずれの場合も、国民は劇的なショーを楽しむかのように目先の変化に快哉を叫んだのである。

  ■夢から覚めて

 まさにここに、今回の衆院選結果が持つ意味内容の大きさがある。つまり、そういう劇的な選挙を2度やってみて、とりわけ鳩山・菅両内閣のひどさを痛感して、ようやく国民は「変革願望症候群」から抜け出したと見られるからだ。

  だとするなら、政権に復帰した自民党と公明党が取るべき選択は自明だろう。決して「大きな夢物語」を語るのではなく、今ここにある「小さな現実の物語」をじっくりと落ち着いて観察し、「小さな改善の物語」を確実に紡いでいくことだ。現実政策への回帰、これが夢から覚めた日本が取るべき選択なのである。

  『「学校」としての政党 小党乱立の中で鮮明に』

  今回の衆院選でもう一つ、指摘しておかなければならないのは、にわかづくりの小政党が乱立した中、かえって「政党とは何か」との問いへの解が反面教師として浮かび上がったことだ。このことは国民の投票行動にはっきりと表れたように思う。公示直前まで政治家の離合集散が続き、名前も覚えられないほどおびただしい数の政党が生まれたが、結局はどの党も勝てなかった。3分の1の議席獲得もあり得ると言われていた維新の会も、あけてみたらあの程度だった。

■酒樽のごときもの

やはり国民は民主党政権下の3年間で学んだのだ。政党というのは、じっくりと熟成するための、いわば酒樽のようなものだと。政党とは、一定の幅の中で信念や政策を共有する集団なのであって、しかも一定程度以上の期間にわたり続いている組織でなければならないのだと。

このことが大事であるのは、多くの有権者は自民党なら自民党、公明党なら公明党という、一定期間の中で醸成されてきたイメージで判断して投票するからだ。にわかづくりの小政党がなべて勝てなかった理由がここにある。有権者の多くは、降って湧いた数多の小党をイメージすることができなかったのである。

もう一つ、明らかになったのは、「政党とは政治家を養成する学校である」との側面だ。この点でも、一定の歴史を持つ政党は、にわか政党との力量差を見せつけた。

例えば自民党なら、その“教育”の手法の良しあしは別として、1年生議員が大臣になるのに10年かかる。その間、政務官や党の部会長などをして政治と政策を学習し、政治家としてのマナーも学ぶ。

公明党も結党50年の歴史を持つ。しかも組織政党だから、党員一人一人までもが学習する場を持っている。側聞するところでは、支持母体の創価学会の中でも、みんなが互いに勉強する場を持っているという。そうした「学校」の中で修練された人たちが党組織のリーダーや政治家になって出てくるという教育機能は、およそにわか政党では真似できないものだ。

  この点からも、自公政権には重い責任と使命があることを強調しておきたい。

『国防』

『隙なき態勢の構築急務』 

民主党政権から自公政権に代わっても、日本が直面する難局に変わりはない。いわゆるアベノミクスは、「3本の矢」のうち、短期的な財政出動と金融緩和という2本の矢は当分有効だとしても、三つ目の矢である成長戦略については未知な部分が残る。人口減少や少子高齢化にも即効薬はないし、農業、環境、教育も粘り強く改善していくしかない。当面、自公がやらなくてはならないのはパッチワーク、すなわち破れた箇所を一つ一つ繕って、少しずつ少しずつ直していくことに尽きよう。

 ■変容する安保環境

ただし、これだけは検討を急ぐべきと思うのは安全保障政策の整備だ。北朝鮮の核・ミサイル開発、中国との尖閣諸島をめぐる問題など、日本周辺の安全保障情勢が厳しさを増す中、備えだけは怠ってはならない。かえって事態を悪化するだけの勇ましい、突出した意見を排するためにも先送りは許されない。

焦点の一つは、自衛隊法の改正だ。早い話、海上保安庁による「警察権」と、自衛隊による「自衛権」の関係も極めて不明瞭と聞く。これでは集団的自衛権以前に、個別的自衛権すらが縛られている格好だ。あるいは、自衛隊が現に行動している海域に限定して、米軍が攻撃を受けたら共同防衛に当たれるようにするべきではないだろうか。

自衛隊の行動基準をめぐる内規の見直しも含め、隙のない防衛警備態勢の構築は急務と言わねばなるまい。

『世界の中の日本』

『決定的に重要な科学技術貢献/品格ある国家へ 紛争調停活動の拡充も』

  「世界の中の日本」が進むべき道についても一考察を加えておきたい。

■iPSからADSまで

まず第一に、科学技術面での世界貢献が決定的に大事だろう。資源が乏しく、停滞感も漂う社会にあって、それは日本の明日に夢を与えることにもなる。

幸い、科学技術の発展を予感させる萌芽はある。iPS細胞(人工多能性幹細胞)の開発はその象徴だが、ほかにも兵庫県に建設された日本初のX線自由電子レーザー「SACLA」(サクラ)、世界最高水準のスーパーコンピューター「京」など、日本が最先端を走っている科学技術は少なくない。

とりわけ、私が今最も注目しているのは、ADSと呼ばれる技術だ。これは「加速器駆動核変換システム」の略称で、原子炉の核廃棄物に中性子を当て、10万年単位と言われる放射能の半減期を数百年単位にまで短縮する技術である。これが出来たら、使用済み核燃料の最終処分場は必要なくなるわけで、日本が助かるだけでなく、無数の原発を抱えた全世界への大いなる貢献ともなろう。

現在、この研究の先進国は日本とベルギーだが、先行しているのはベルギーらしい。既にベルギーは実証実験装置の建設を具体化させているのに対して、日本はまだ研究室の中での実験段階だという。

その意味で、自公政権が今回の補正予算案の中に科学技術振興予算として1800億円を緊急追加したことを私は高く評価している。これを機に、科学技術分野への政策的援助が格段にアップすることを期待したい。

■ミンダナオ島の事例

もう一つ、「世界の中の日本」としてやるべきことは国際援助活動の強化だろう。それも単なる援助でなく、紛争当事者同士の仲を取り持つ調停活動への貢献だ。

実際、フィリピンのミンダナオ島では、国際協力機構(JICA)の仲介でイスラム武装勢力と中央政府との対立を克服するという見事な成果を出している。緒方貞子さんの後を継いでJICA理事長となった田中明彦氏によると、「日本人が間に入るのなら信用しよう」とまでの信頼を両勢力から勝ち取り、停戦協定にまで結びつけたという。

なぜか日本人には、こういうことをできる能力が元来あるようだ。この特質と機能を拡張することで、品格ある「世界の中の日本」像を高めゆくことが重要だ。

『公明党論』

『健全な「内なる世論」に立脚した「新しい中道」の追求を』

■中道志向の時代

ある意味で、私は公明党に一つの危機が来ていると思っている。それは日本中が「中道」になったことだ。

結党以来、公明党が中道を標榜し、それで成功したことは周知の事実だ。しかし、東西対立がなくなり、イデオロギー対立がなくなる中で、かつての右も左も限りなく中道に寄ってきた。特に日本の場合は、もともと極端な自由主義者もいなければ、極端な社会主義者も少なかった。所得格差をみても欧米や中国のように極端ではない。

要するに、時代は限りなく中道志向で推移しており、言うならば全部が公明党に近づいている格好だ。その意味での危機が到来しているというわけである。

となると、老舗の中道政党たる公明党は「新しい中道」を模索しなければならない。そこで私が期待したいのは「世論に翻弄されない中道」とでも呼ぶべきものの確立だ。

世論というものは時に極端に揺れるもので、特に今、私が危惧しているのは国論がややもすれば右に揺れているように見えることだ。

■揺れない構造

そういう中にあって、公明党は組織政党として確かな支持基盤を持ち、非常に安定した世論、いわば「重し」みたいなものを内部に持っている。外の世論が極端にブレても内部世論はあまり揺れないという構造を持つ。支持母体の創価学会を含め、内部で会話が交わされ、そこから世論が形成されている。だから極端な意見が形成される余地は小さい。

訪中した山口代表と習近平・中国共産党総書記との会談が実現したのも、長期にわたる公明党と中国との友好関係に加え、そうした政党としての安定感への信頼と期待もあったはずだ。現実的にも、「内なる世論」は政権パートナーたる自民党との関係をもよくしていると私は見ている。

この強みをさらに磨き、「揺れない中道」「新しい中道」を理念と実践両面で追求してほしい。


東京)こどもホスピス・東京に初のNPO法人

2020年09月06日 09時48分34秒 | 社会・文化・政治・経済

杉山圭子
2020年7月23日 10時30分 朝日新聞

NPO法人「東京こどもホスピスプロジェクト」代表理事の佐藤良絵さん。亡き長男がLINEで使っていたマークを冊子や名刺にあしらっている=東京都昭島市昭和町5丁目

 重い病気で終末期に至った子どもや家族を支える「こどもホスピス」の建設を目標に掲げるNPO法人が、東京都内で初めて誕生した。昭島市のイベント会社経営・佐藤良絵さん(47)が立ち上げた「東京こどもホスピスプロジェクト」。早期の実現を目指し、寄付を呼びかけていく。
 佐藤さんは2017年7月、長男の陸(りく)さんを骨肉腫で亡くした。高校生のときに病気がわかり、手術を受けたが完治は難しいとされ、余命宣告を受けた。旅立ったのは20歳の誕生日の3日前だった。
 英国発祥の「こどもホスピス」の存在を知ったのは亡くなる1週間ほど前だ。米国に住む長女の義兄にあたる医師が見舞いに訪れ、自宅で過ごす陸さんを見て言った。「米国では各地域に子どものホスピスがあって、最後まで地域ぐるみのケアを受けて楽しく過ごせる。ここにいないで、今からでも行こうよ」と。

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東京こどもホスピスプロジェクトの法人活動理念

特定非営利活動法人東京 こどもホス ピス プロジェク ト定款
第 1章 総 則
(名 称)
第 1条 この法人は、特定非営利活動法人東京 こどもホス ピス プロジェク トとい う。
(事 務所)
第 2条 この法人は、主た る事務所 を東京都昭島市昭和町五丁 目10番 16号 森高 ビル
2階 の内北側に置 く。
(目 的)
第 3条 この法人は、生命 を脅かす病気 を持つ子 どもとその家族の支援に関心のある
市 民に対 して、専門病院や教育機関を始め とす る様 々な機関 と連携 し、子 ども
とその家族の生活 を向上 させ、良きパー トナー とな つて支援 できるよ う、小児
緩和ケアに関す る人材育成や啓発事業を行 い、すべての子 どもが子 どもら しく
生 きる権利 を保障す ることに寄与す ることを目的 とす る。
(特 定非営利活動の種類)
第 4条 この法人は、前条の 目的 を達成するため、次の種類の特定非営利活動 を行 う。
(1)保 健、医療又は福祉の増進を図 る活動
(2)社 会教育の推進 を図 る活動
(3)子 どもの健全育成 を図 る活動
(4)前 各号に掲 げる活動 を行 う団体の運営又 は活動に関す る連絡、助言又は援助の
活動
(事 業の種類)
第 5条 この法人は、第 3条 の 目的 を達成す るため、特定非営利活動 に係 る事業 と し
て、次の事 業 を行 う。
(1)小 児緩和ケアに関す る実態調査や啓発及 び普 及活動
(2)小 児緩和 ケアに関す る人材の育成に関す る事 業
(3)そ の他 目的を達成す るために必要 な事業


漱石の「意中の女性」大塚楠緒子

2020年09月06日 09時48分34秒 | 社会・文化・政治・経済
夏目漱石の恋人説考 - Janis
 
書簡や随筆、講演などで漱石自身が言及している部分を挙げてみたいと思う。
 
(1)漱石の恋愛について
 
 恋愛関係にあったのかあるいは片想いのようなものであったのかは別にして、漱石が残している多くの文章のなかで、そのことに触れているのは明治39年(1906年)10月23日付、狩野亭吉宛書簡の中の次の一言だけである。
 
 「・・・・・・・何でも君が僕の夢を見た事がある。さうして僕が養母と其娘と居て穴八幡があって、養母の名が仲であるという夢は実際妙である。・・・・・・・元来夢に就いて僕はかう思っている。人はよく平生思っているものを夢にみると云うが僕の考では割合から云ふと思はないものを見る方が多い。昔し僕がある女に惚れて其女の容貌を夢に見たい見たいと思って寝たが何晩かかっても遂に一度でも見なかったのでもわかる。・・・・・・」
 
 「三四郎」の中の広田先生が、昼寝をした時に、昔見た少女に夢の中で出会ったという話を三四郎にする場面があるが、これをどう解釈するのか興味の持てるところである。
 
 漱石の文ではないが、芥川竜之介「漱石先生の話」の中の「女」の項に
 
 「ある人が先生に、「先生のやうな方でも女に惚れるやうなことがありますか」ときくと、先生はしばらく無言で其の人をにらめつけてゐたが「あばたと思って馬鹿にするな」と言ったといふことを極く最近ある友達からききました。」
 
というのがある。なかなか意味深長な場面のような気もする。
 
 そのほかに俳句でそれらしき心情を表現したと思われる数首をあげてみるのも意味のないことではないと考える。
 
 
明治24年     吾恋は闇夜に似たる月夜かな
明治29年 子規へ送りたる句稿 19 15句
  初恋(2句)  今年より夏書せんとぞ思いたつ 独り顔を団扇でかくす不審なり
  逢恋(3句)  降る雪よ今宵ばかりは積もれかし 思いきや花にやせたる御姿
           影法師月に並んで静かなり
  別恋(2句)  きぬぎぬや裏の篠原露多し 見送るや春の潮のひたひたに
  忍恋(2句)  人に言えぬ願の糸の乱れかな 君が名や硯に書いては洗ひ消す
  絶恋(2句)  橋落ちて恋中耐えぬ五月雨 忘れしか知らぬ顔して畑打つ
  恨恋(2句)  行春を琴掻き鳴らし掻き乱す 五月雨や鏡曇りて恨めしき
  死恋(2句)  生れ代るも物憂からましわすれ草 化石して強面なくならう朧月
明治32年     妾と郎離別を語る柳哉 煩悩の朧に似たる夜もありき
           相逢ふて語らで過ぎぬ梅の下 郎去って柳空しく緑なり
           秋茄子髭ある人に嫁ぎけり
明治37年     罪もうれし二人にかかる朧月
明治39年     花の影、女の影の朧かな
明治43年     棺には菊抛げ入れよ有らん程 有る程の菊抛げ入れよ棺の中
 
 さらに「落第」(「中学文明」-明治39年)の中で自分の性格について次のように書いている。
 
 「・・・・・・・・元来僕は訥弁で自分の思って居ることが云えない性だから、英語などを訳しても分って居乍らそれを云ふことが出来ない。けれども考へて見ると分って居ることが云へないといふ訳はないのだから、何でも思ひ切って云ふに限ると決心して、その後は拙くても構はずどしどし云ふ様にすると、今までは教場などで云へなかったこともずんずん云ふことが出来る。・・・・・・」
 
 努力して性格改造を行ったことを窺い知ることが出来るが、それは公式の場で発言することに効果はあっても対女性ということになるとどうであっただろうか。
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(2)大塚楠緒子との関係
 
 前項(3)で大塚楠緒子が漱石の失恋相手であるとする小坂説を紹介したが、弟子達の間でもそうではないかという感じていた人がいたようである。
 
 漱石、楠緒子、それと夫の大塚(旧姓小屋)保治の3人の間にどのような交友関係があったのかというところから検討しなければならない(即ち漱石と楠緒子が何時の時点でお互いに知り合ったかということである)。
 
 前述のとおり漱石は明治26(1893)年7月に東京帝国大学文科大学を卒業し大学院に進んだ。そして同年7月頃から10月半ばまでの3ヶ月間寄宿舎に居住したようである。このとき同様にこの寄宿舎にいたのが大塚(小屋)保治であり、それ以来交友が始まったと考えられる。楠緒子と保治は8月に見合いをし翌々年(明治28年)の3月に結婚式を挙げている。学生時代の交渉についての大塚保治の回想文がある。
 
 「自分は夏目君の性格や思想なぞを知っている点で、恐らく随一だらうとは信じてゐるが、学生時代の夏目君と云はれると、同君の性向を躍如とさせるやうなインシデントが記憶に残ってゐない。さう云ふものは却って、大学卒業後暫らく一緒の家にいた菅寅雄君とか、同級だった狩野享吉君なぞの方が詳しく知ってゐる筈である。
 初めて夏目君と相識ったのは、自分が卒業して、大学院にゐる時であった。同君は確か自分より二年下だったと思ふ。兎に角自分が大学院にゐて、寄宿舎にゐる時、夏目君も入舎して来た。その頃の文科生は数も少なく、寄宿舎でも二三室を占領してゐるだけだったから、夏目君とは同室になった事もあり、又向かひの室に居たこともある。
 其時分話がよく合ったのは覚えてゐるが、果たしてどんな問題を喋り合ったものかは、毫も記憶にない。唯同君の学生時代の態度も、後の夏目君と異なりがなく、・・・・・・・・・・・・・学生時代の事と云へば、先づそんな処である。・・・・・・・・・・・・・・・」  
                     「学生時代の夏目君」(大正6(1917)年1月)
 
 漱石没後の回想談であるが、これによれば大学生らしく種々語り合ったが其の内容は詳しく記憶していないということになる。
 
 一方、漱石の側からはどうであったか。
 
 明治26年7月26日付、斉藤阿具宛
 「・・・・・・・・小屋君は其後何等の報知も無之同氏宿所は静岡県駿州興津清見寺と申す寺院に御座候・・・・・・・」
 
 明治27年7月25日付、小屋保治宛(伊香保よりー前出)・・・話したいことが有るから来て欲しいという趣旨の手紙
 
 明治27年10月16日付、小屋保治宛
 「遊子標蕩の末遂に蠕袋を此所に葬り了り申候 御閑暇の説は御来会可被下候
                  小石川表町七十三番地法蔵院にて 夏目金之助」
 
 明治29年7月28日付、大塚保治宛(ドイツ留学中)
 「・・・・・先日は独乙着の御手紙正に拝受仕候愈御清適御勉学の御模様結構のことに存候国家の為め御奮励有之度切に希望仕候・・・・・・
 
 回想風のものは、前出した明治39年1月9日付、森田草平宛の大塚が美人(楠緒子のこと)に惚れられた事を吹聴されて羨ましかったという書簡である。
 
 以上の資料からみる限りでは、大塚保治の学生時代の「漱石のことはよく知らない」と云う言に若干の秘匿性を感ずるものの、楠緒子を含めての深刻な三角関係があったということなど想像することさえ出来ない。
 
 明治28年3月に行われた大塚夫妻の結婚式に出席した後、4月松山に赴任している。
 
 また楠緒子と漱石との間の交渉を示す書簡もあるが、それは漱石が「猫」で一躍有名になった後、楠緒子の小説を新聞社に紹介することになり、以降楠緒子が弟子のような形で漱石と接触するようになったものと考えられる。
 (言われる様な深刻な恋愛関係が学生時代に二人の間に存在し、手紙の交換があったとしてもそれは永久に出ては来ないであろう。)
 
 明治37年6月3日、野村伝四宛
 「・・・・・・太陽にある大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経のごとしおんなのくせによせばい丶のに、それを思ふと僕の従軍行杯はうまいものだ・・・・・・・・・・」
 
 明治38年4月7日付、大塚保治宛
 「猫の画は中々うまい。あれは細君の代作だろう。
 猫の顔や骨格や姿勢はうまいが。色がまづい。頭の周囲にある模様見た様なものも妙だな。
 僕も画葉書を書いて奥さんを驚かせやうと思ふがひまがないからやめ。・・・・・・・・」
 
 明治39年3月3日付、野村伝四宛
 「大塚楠緒子作 筆が器用に出来て居る。苦(原)る文章を考へたものであります。思ひつきもわるくありません。あの人の作としては上乗であります。三小説のうちの傑作である。」
 
 明治40年7月12日付、大塚楠緒子宛
 「拝啓 一寸出る筈ですが出ると長くなって御邪魔になりますから手紙で用を弁じます
 あなたの万朝へ御書きになったものを岡田さんの方が先へ出るとすればあまる事だらうと思ひまして朝日の方へ話しをしたらもし五十回以上百回位迄のものなら頂戴は出来まいかと申して来ました是は虞美人草のあとへ四迷先生の短いものを出して其次に出す計画の由です
 万朝の方が御都合がつけばこちらへ廻してくださいませんか 以上」
 
 明治40年7月19日付、大塚楠緒子宛
 「拝啓金尾文淵堂であなたの万朝に出る小説を頂いて本にしたいと申ます夫でひ此男があなた{に}紹介してくれと申ます御迷惑でなければ一寸逢ってやって下さい 以上」
 
 明治41年2月29日付、大塚楠緒子宛   小説の原稿についての件である。
 
 明治41年5月11日付、大塚楠緒子宛
 「一週間に一辺手紙をよこせとか云って無花果を半分づつ食ふ所がありましたね。あすこが面白い。今迄ノウチデ一番ヨカッタ」
 
 明治41年5月15日付、大塚楠緒子宛   小説の執筆についての打合せ
 
 明治42年4月3日付、大塚保治宛
 「・・・・・・・先達て奥さんが御出の節文学評論が一部欲しいと仰しゃったさうだがもし別に今一部御入用なら、まだ二三部あるから夫を献上してもいい。然し君にあげれば大抵よかろうと思って一部にして置いた。よろしく」
 
 明治42年7月7日付,大塚保治宛
 「文学評論を通読して呉れて寔に難有い。其上わざわざ批評を書いて貰って済まない。大変に過重な褒辞を得て少々辟易するが矢張り嬉しい。それから悪い所をもっと色々指摘してもらいたかった。もっと無遠慮に僕の参考になる様に云ってくれると猶よかった。がそれは忙しい君に望むのは僕の方の無理かも知れない。・・・・・・・・・
 君の所に御産があった様に聞く。奥さんも赤坊も御壮健ならん事を祈る。・・・・・・・・・・」
 
 明治43年3月16日付、大塚楠緒子宛
 「先日は御光来の処何の風情も無失礼致候其節御話の・・・・・・・・・・」
 
 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」 (昭和7年10月17日)
 「・・・・・・・・何時だったか、先生が何処かからか少しばかりの原稿料を貰ったときに、早速それで水彩絵具一組とスケッチ帖と象牙のブックナイフを買って来たのを見せられて大層うれしそうに見えた。其の絵の具で絵葉書ををかいて親しい人達に送ったりして居た。『猫』以後には樋口五葉氏や大塚楠緒子女史などとも絵葉書の交換があったやうである。・・・・・・・・」
 
 漱石の楠緒子に対する追慕の記 「硝子戸の中」 二十五
 「・・・・・・日陰町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌俥に出合った。私と俥の間には何の隔たりもなかったので、私は遠くから其中に乗っている人の女だといふ事に気がついた。まだセルロイドの窓などの出来ない時分だから、車上の人は遠くから其白い顔を私に見せてゐたのである。
 私の眼には其白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きなが凝と其人の姿に見惚れてゐた。同時に是は芸者だらうといふ推察が、殆ど事実のやうに、私の心に働きかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見てゐた美しい人が、鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴う其挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった事に、始めて気が付いた。
 次に会ったのは夫から幾日目だったらうか、楠緒さんが私に、「此間は失礼しました」と云ったので、私は有りの儘を話す気になった。
 「実は何処の美しい方かと思って見てゐました。芸者ぢゃないかとも考へたのです」
 其時楠緒さんが何と答へたか、私はたしかに覚えてゐないけれども、楠緒っさんは些とも顔を赧らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をたゞ其儘に受け取ったらしく思はれた。
 それからずっと経って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ尋ねて来て呉れた事がある。然るに生憎私は妻と喧嘩をしてゐた。私は厭な顔をした儘、書斎に凝と座ってゐた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 其日はそれで済んだが、程なく私は西片町へ詫まりに出掛けた。
 「実は喧嘩をしてゐたのです。妻も定めて無愛想でしたらう。私は又苦々しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込んでゐたのです」
 是に対する楠緒さんの挨拶も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事の出来ない程、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだといふ報知の来たのは、たしか私が胃腸病院に居る頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支ないかと電話で問ひ合された事杯もまだ覚えてゐる。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺の中」といふ手向けの句を楠緒さんのために咏んだ。それを俳句の好きなある男が嬉しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。」
 
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(3)文鳥より
 「五」
 「・・・・・・・・・昔し美しい女を知って居た。此の女が机に凭れて何か考へてゐる所を、後ろから、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後ろを向いた。其時女の眉は心持八の字に寄って居た。夫で目尻と口元には笑が萌して居た。同時に格好の好い頸を肩まですくめて居た。文鳥が自分を見た時、自分は不図此の女の事を思ひ出した。此の女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたづらをしたのは縁談の極った二三日後である。・・・・・・・・」
 
「七」
 「・・・・・・・・・・・・・昔紫の帯上でいたづらをした女が、座敷で仕事をしてゐた時、裏二階から懐中鏡で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅くなった頬を上げて、繊い手を額の前に翳しながら、不思議そうに瞬きをした。此の女と此の文鳥とは恐らく同じ心持だらう。」
 
 上記の漱石自身の回想記を読むと、そこには人生の晩年に至った時に覚える、失われた青春時代を慈しみながらも、何か悔悟に似た気持ちを捨て去ることは出来ない想いが込められているように思えてならない。
 
 結局、漱石は自身の恋愛については語ることをしなかった、または記すに足るほどの経験は存在しなかったということかもしれない。その代わり若干の体験に基づきつつ、そのようなこともあり得たかもしれないと言う場面設定を行い、創作能力を駆使し、果たせなかった青春の想いを作品の中に見出そうとしたのではないだろうか。
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松山行きに関して
 この項では漱石自身が書簡、回想録等でどのような記録を残しているか検討する。
 
 明治28年4月9日付、清水彦五郎宛
 「在学中は何角御好意にあづかり奉鳴謝候偖迂生今般一身上の都合により当県尋常中学へ就任仕候出発の際は草々の折柄とて御告別も申上兼候無礼の段御海恕可被下候・・・・・・・」
 
 これは奨学金返済を3ヶ月猶予してもらうための手紙で、一身上の都合というのは勿論形式的なものである。
 
 明治38年4月16日付、神田乃武宛
 「・・・・・・教授後まだ一週間に過ぎず候へども地方の中学の有様抔は東京に在っては考ふる如き淡白のものには無之小生如きハーミット的の人間は大に困却致す事も可有と存候くだらぬ事に時を費やし思ふ様に勉強も出来ず且又過日御話の洋行費貯蓄の実行も出来ぬ様になりはせぬかと窃かに心配致居候・・・・・・・・」
 
 明治38年7月25日、斎藤阿具宛
 「・・・・・・・去年以来海水浴場温泉場抔は嫌いに相成候故・・・・・・・・・・・・・・・・。
 小生当地に参り候目的は金をためて洋行の旅費を作る所存に有之候処夫所ではなく月給は十五日位にてなくなり申候・・・・・・・」
 
 上記の「去年以来海水浴場温泉場抔は嫌いに相成候故・・・」のところは恋人説にからんで一寸興味のあるところであるが、この項とは論点を外れるので後に作品論で触れることにする。
 
 この書簡に関しては漱石没後に、手紙を受け取った本人(斎藤阿具)が大正8(1919)年1月「夏目君と僕と僕の家」の中で
 「・・・・・君が松山から送られたる書状に、(上記書簡文掲載)などあるが、何処まで真面目の本音であるか、僕には分らねど、・・・・・・」
とある。
 
 10年後の明治39年になってかなり昂揚した感情を吐露した手紙を友人に書いているが、その中で松山行きの一端に触れた箇所がある。
 
 明治39年10月23日付(第2便)、狩野享吉宛
 「・・・・・・・・・・御存知の如く僕は卒業してから田舎へ行って仕舞った。是には色々理由がある。理由はどうでもよいとして、此田舎行は所謂大乗的に見れば東京に居ると同じ事になる。然し世間的に云ふと甚だ不都合であった。僕の出世の為に不都合と云ふのではない。僕が世間の一人として世間に立つ点から見て大失敗である。といふものは当時僕をして東京を去らしめたる理由のうちに下の事がある。--世の中は下等である。人を馬鹿にしてゐる。汚い奴が他と云ふ事を顧慮せずして衆を恃み勢に乗じて失礼千万な事をしてゐる。こんな所に居りたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しやう--是が大なる目的であった。然るに田舎に行って見れば東京同様の不愉快な事を同程度に於て受ける。其時僕はシミジミ感じた。僕は何が故に東京へ踏み留まらなかったか。彼らがかく迄に残酷なものであると知ったら、こちらも命がけで死ぬ迄勝負をすればよかった。余は比較的にハームレスな男である。進んで人と争ふを好まねばこそ退いて一人(種々な便宜をすて、色々な空想をすて、将来の希望さへ棄てゝ)退いて只一人安きを得ればよいと云ふ謙遜な態度で東京をすてたのである。然るにもかゝはらず彼等は余にこれ丈の犠牲を敢えてせしめたる上に猶前と同程度の圧迫を余の上に加へんと試みたのである。此れは無法である。文明の衣をつけた野蛮人である。かかるものをして一毫たりとも彼等の得となる様な事をするならば余は社会の一員として、それ丈社会の悪徳を増長せしむる者である。第一余が東京を去ったのからして彼等を増長せしめたる源因を暗に作って居る。余は余と同境遇に立つものゝ為に悪例を開いた。自らを潔くせんが為に他人の事を少しも顧みなかった。是ではいかぬ。もし是からこんな場合に臨んだらならば決して退くまい。・・・・・・・・-余は当時ひそかにかう決心した。夫から熊本に行った。熊本に行ったのは逃れて熊本へ行ったと云はんより、人を遇する道を心得ぬ松山のものを罰した積もりである。・・・・・・・・」
 
 このあともまだ延々と続いているのであるが、昂ぶった気持ちで一気呵成に書いたことが窺える。
 
 上の書簡で見る限りでは、
   1.東京を去る原因になった何らかの事情があり、それを解決するために職の口のあった松山へ行った。
   2.自分は人と争ってまでも何かを手に入れたいとは思はない。
   3.しかしそれは結局誤まりであることに気付いた。これからはそんなことはしない。
ということになる。
 
 以上のことから
 1.青春時代、好意を抱いた女性がいた。
 2.理由はよく分らないが、漱石の気持ちの中には(何に対してかは明言していないが)自分が身を引くこと(松山行ー即ち東京を離れる)でそれを解決することが出来ると信じていた。
 3.しかしそれは誤まりであった。これからはそのような事はしない。
 
 これらが漱石の心情の吐露として感じとる事が出来る全てである。そしてこのような体験を踏まえた上での文筆活動が漱石文学の骨子をなしているのではないかと思うのである。
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9月10日から9月16日までを「自殺予防週間」

2020年09月06日 09時38分17秒 | 社会・文化・政治・経済

自殺予防週間とは
 自殺対策を推進するためには、自殺について、誤解や偏見をなくし、正しい知識を普及啓発することが重要です。
このため、自殺対策基本法では、9月10日から9月16日までを「自殺予防週間」と位置付け、国及び地方公共団体は、啓発活動を広く展開するものとし、それにふさわしい事業を実施するよう努めるものとすることとされています。
 また、平成29年7月25日に閣議決定した、「自殺総合対策大綱」では、国、地方公共団体、関係団体及び民間団体等が連携して「いのち支える自殺対策」という理念を前面に打ち出して啓発活動を推進し、あわせて、啓発事業によって援助を求めるに至った悩みを抱えた人が必要な支援を受けられるよう、支援策を重点的に実施することとされています。


3月は、自殺対策強化月間です
毎年、月別自殺者の多い3月を「自殺対策強化月間」として、国、県、市町村、関係機関・団体が連携し、自殺予防のための取組みを行います。

ゲートキーパー(命の門番)
ゲートキーパーとは、悩んでいる人に気づき、声をかけ、話を聞いて、必要な支援につなげ、見守る人のことです。悩みを抱える人の周囲の人は、誰でもゲートキーパーの役割を担っています。
ゲートキーパー(命の門番)
話してね あなたの悩み 心の中を
(我孫子市自殺対策キャッチフレーズ)
もし、あなたが悩みを抱えていたら、ぜひ相談してください。
大切な人が悩みを抱えていることに気づいたら、声をかけてみてください。
そして、その人が悩みを話してくれたら、話をそらしたり、「そんなことで」と否定したリ、安易に励ましたりせず、じっくりと話を聴いて、相談窓口を紹介してあげてください。その後も、「何かあったらまた話して」と寄り添い、暖かく見守ってあげてください。

8月から自殺相談窓口

第27回自殺防止!東京キャンペーン(令和2年9月)

東京都では、毎年9月と3月を自殺対策強化月間に位置付け、「自殺防止!東京キャンペーン」を実施しています。
 自殺に追い込まれるという危機は「誰にでも起こり得る危機」であり、誰もが当事者となり得る重大な問題です。また、今般、新型コロナウイルス感染症による経済活動や社会生活への影響が拡大していることから、自殺リスクの高まりが懸念されています。
 東京都は、自殺対策強化月間に合わせて、区市町村や関係団体と連携し、「生きることの包括的な支援」として、特別相談や普及啓発に取り組みます。

第26回自殺防止!東京キャンペーンポスター

特別相談

関係団体等と連携し、相談受付時間の延長や24時間対応等を行います。

 
窓口名称 番号 特別相談期間 実施主体
フリーダイヤル特別相談 0120-58-9090

※03-5286-9090でも受付
8月20日[木]~31日[月]
各日20時~翌2時30分
ただし、25日[火]のみ17時~翌2時30分
NPO法人国際ビフレンダーズ東京
自殺防止センター
有終支援いのちの山彦電話
―傾聴電話―
03-3842-5311 9月1日[火]~30日[水]
毎週火・水・金・土・日及び祝日
各日12時~20時
NPO法人有終支援いのちの山彦電話
自殺予防いのちの電話 0120-783-556 9月10日[木]8時~11日[金]8時 (一社)日本いのちの電話連盟
東京都自殺相談ダイヤル
~こころといのちのほっとライン~
0570-087478 9月23日[水]~27日[日] 
各日24時間
東京都
(NPO法人メンタルケア協議会)
自死遺族相談ダイヤル 03-3261-4350 9月7日[月]~10日[木]
各日11時~19時
NPO法人全国自死遺族総合支援
センター
自死遺族傾聴電話 03-3796-5453 9月15日[火]~19日[土]
各日12時~16時
NPO法人グリーフケア・サポートプラザ
多重債務110番 03-3235-1155 9月7日[月]・8日[火]
各日9時~17時
東京都消費生活総合センター

※フリーダイヤル以外は通話料がかかります。
※0570で始まるナビダイヤルは携帯電話の無料通話やかけ放題プラン等の対象外です。

その他の相談窓口一覧はこちらをご覧ください。

特別相談以外にも、様々な機関が相談窓口を設けています。

LINE相談についてはこちらをご覧ください。

LINE相談「相談ほっとLINE@東京」は、8月20日から毎日15時~21時30分に受付時間を延長します。

外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。心の健康相談

東京都労働相談情報センターが実施している「心の健康相談」はこちらをご覧ください。

街頭キャンペーン(予定)

各区市町村において啓発活動に取り組みます。また、街頭等において以下のとおり啓発物の配布を行います。
※新型コロナウイルス感染症の流行状況を鑑み、内容の変更または中止をする場合があります。

1 北区

(1)日時
  令和2年8月31日(月曜日)17時~17時30分
(2)場所 
  JR「赤羽駅」、「王子駅」、「十条駅」

2 江戸川区

(1)期間
  9月1日から、配架物がなくなり次第終了
(2)場所 
  江戸川保健所、区民課窓口、健康サポートセンター、図書館、なごみの家

3 小平市

(1)日時
  令和2年9月24日(木曜日)7時30分~8時30分
(2)場所 
  市内主要駅予定(決まり次第お知らせいたします。)

4 多摩市

(1)日時
  令和2年9月29日(火曜日)16時~17時
(2)場所 
 ・京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」
 ・京王線・小田急線「多摩センター駅」、「永山駅」
 ・小田急線「唐木田駅」

強化月間における都内区市町村・東京都保健所の取組

※新型コロナウイルス感染症の流行状況を鑑み、内容の変更または中止をする場合があります。最新の情報や詳細につきましては、各区市町村にお問い合わせください。

学生向けこころといのちの講演会「メンタルヘルス・ファーストエイド講習~身近な人のこころの不調に気づいたら?~」

こころといのちの講演会 チラシ

 東京都では、若年層の自殺対策を重点施策と位置付け、毎年、若者が抱えている悩みや、その悩みにどのように対応していくかを若者自らが考えていくことを目的とした講演会を開催しています。
 今回のテーマ「メンタルヘルス・ファーストエイド」は、メンタルヘルスの問題を抱える人に対して、専門家に相談するまでの間に、側にいる身近な人が行う「こころの応急処置」のプログラムです。

講演会の詳細はこちらをご覧ください。

都庁第一本庁舎などのライトアップを行います。

自殺対策基本法が定める自殺予防週間に合わせて、都庁第一本庁舎や都有施設等のライトアップを行います。

期間

9月10日(木曜日)から16日(水曜日)まで

場所

東京都庁第一本庁舎、駒沢オリンピック公園、東京芸術劇場

ライトアップカラーについて

国が定めた「いのち支えるロゴマーク」は、自殺対策の相談対応で重要な「気づき、傾聴、つなぎ、見守る」の流れを一体的に行うことで、いのちを支えるという決意が込められています。
ライトアップでは、本ロゴマークに使用されている4色を点灯します。

いのち支える


三重大病院の教授ら、不必要な薬投与か 第三者委設置

2020年09月06日 09時35分45秒 | 医科・歯科・介護

9/6(日) 5:00配信

朝日新聞デジタル

三重大学医学部付属病院(津市)の医師らが不必要な薬品投与に関わった疑いがあるとして、三重大が医師らを自宅謹慎にし、第三者委員会を設置して調査を進めていることが、大学側への取材で分かった。

 三重大によると、付属病院の教授と准教授の2人が不要な薬を購入したり、患者に不必要な薬を投与したりした疑いがあるとして、第三者委が調査している間、2人を自宅謹慎にしているという。

 病院関係者からの情報提供をきっかけに調査が始まったといい、第三者委は患者のカルテの調査などを進めている。健康被害が出た患者はいないという。(甲斐江里子)

朝日新聞社

 

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原監督「記憶の中に対策ある」藤浪打ち返した打線に

2020年09月06日 03時13分37秒 | 野球

配信

<阪神2-11巨人>◇5日◇甲子園 歴史的な大敗だ。
阪神の藤浪晋太郎投手(26)が5回途中で11失点と大炎上した。

甲子園3年ぶり、巨人戦4年半ぶりの白星を懸けたマウンドで、創設85周年を迎えた球団のワースト失点を更新した。13連戦の5戦目。

ブルペン陣への負担を考慮した続投で、藤浪は火だるまになって125球を投じた。首位巨人とは再び7・5差。引きずりたくない負けだ。

【写真】大城に二塁打を浴び苦しそうに汗をぬぐう藤浪   

 ◇   ◇   ◇

▽巨人原監督(藤浪の直球を打ち返した打線に)「対戦数はかなりある投手ですからね。記憶の中に対策というものは入っているのではないかと思います」

 

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訊問の罠 足利事件の真実

2020年09月06日 02時59分54秒 | 事件・事故

著者菅家 利和 (著),佐藤 博史 (著)

私の人生は権力に殺された! 恐怖の任意同行、虚偽自白の強要、DNA再鑑定の抹殺…。「足利事件」の冤罪被害者・菅家利和が、科警研・警察・検察・裁判所の「犯罪」のすべてを告発...

足利事件は""仕組まれた冤罪""だった!嘘の自白の強要、DNA再鑑定の抹殺、嘘の証言の強要、口封じのための?死刑執行などの、科警研・警察・検察・裁判所・法務省の恐るべき「犯罪」を、冤罪被害者と弁護人が告発する

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

菅家/利和
「足利事件」冤罪被害者。1991年、栃木県足利市で幼女が殺害された事件で逮捕。公判で無実を訴え続けるも、2000年に無期懲役が確定し、収監。09年6月4日、DNA再鑑定の結果、無罪が明らかになり、逮捕後17年半ぶりに釈放された

佐藤/博史
弁護士。早稲田大学客員教授。1948年、島根県に生まれる。71年、東京大学法学部卒業。74年、弁護士登録。2004年、東京大学法科大学院客員教授。二審より、足利事件の弁護にあたり、菅家氏の無実を主張し続けてきた。現在も、足利事件の真実を明らかにすべく、検察・裁判所と闘い続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
本書を読むと現代の司法システムは冤罪を作り出すためのシステム、もしくは著者の一人でもある佐藤弁護士がいうところの殺人マシーンと化している。
立件されたら最後、合理的な疑いがあろうとなかろうと推定有罪である。
冤罪までの過程と成立するまでには少なくとも4つの社会的な損失をおかしている。
ひとつめは冤罪被害者となるべく容疑をかけられた無辜の人間。もし死刑囚として刑が執行されることにでもなれば重大な憲法違反である。
ふたつめは真犯人を取り逃がしていること。これは警察の捜査段階から言えるし、犯人が社会に存在しているなら再犯をまねくことにもなりかねない。
みっつめは被害者本人、もしくは被害者が亡くなっているようであればその遺族へ真実が伝えられないということ。
そしてよっつめは司法によって証された真実により、立法や行政による社会システムへの有効的な手立てが打てないことだ。
最後の項目が司法に課せられている最も重要な課題であることを当の法務、検察、裁判所は理解しているのだろうか。
甚だ疑問におもう。
 
 
 
 
自分から罪を被ろうという意図があるのでない限り、虚偽の自白は、するものではなく、させられるものである。本書では、菅家さん自身が虚偽の自白について書かれているが、菅家さんの人柄、優しさが表れた文章で、かえって、虚偽の自白をしてしまった菅家さんにも非があるような印象を与えているかもしれない。しかしこの事件や、他にいくつも明るみに出ている虚偽の自白を強いられた冤罪事件について、むしろ当人以外が書いた記事を読めば、虚偽の自白に至る取り調べが本人にとってどれだけ過酷なものだったかが分かる。郵便不正事件の村木さんのように、虚偽の自白はしないという意志を貫くことができ、手遅れにならないうちに周囲の応援を受けることができたケースは稀である。だがそもそも、そうでないと冤罪を被ることが避けられないというのは、明らかに間違ったことである。本書でも、佐藤弁護士が菅家さんの自白について多くの疑問点をあげ、一審弁護人、検察官、裁判官が無実を見抜けなかったことを糾弾している。取り調べる側が、関係のない人間を罪に陥れ、真犯人を見逃しているのだ。しかもそれが明らかになっても、非を認めようとしない。学ぶべきことは、虚偽の自白をしてはならないということではなく、虚偽の自白をさせてはいけないこと、させることを許してはならないということだろう。
 
 
 
足利事件・冤罪被害者の菅家利和さんと、二審から菅家さんの弁護人となった佐藤博史弁護士の闘いの記録です。7つの章のうち3つを菅家さん、4つを佐藤弁護士が担当していて、塀の内と外で、それぞれ闘い続けた2人の対照が見事です。
 菅家さんの章は、突然の任意同行から刑務所暮らし、釈放に至るまでの17年半の日々が親しみやすい言葉で紹介されています。菅家さんの素朴で善良な人柄がよく表れていて、何ゆえ彼がこのような仕打ちを受けねばならなかったのか、という不条理について、あらためて考えさせられます。
 一方、佐藤弁護士の章は、弁護士らしい緻密な筆致で検察や司法を徹底的に糾弾しています。抑制のきいた文章の行間から、佐藤弁護士の深い怒りが伝わってきます。DNA鑑定に関する詳細な解説の部分はやや難しいのですが、それが真実を明らかにするためにどれほど重要だったかを思えば、少しぐらいの難解さは我慢して何とか読み解きたい、と読者に思わせてしまうから不思議です。
 また、紹介されている数々のエピソードからは、時に人目をはばからず涙を流したり、声を荒らげて怒りを爆発させたりする佐藤弁護士の人間味あふれる人柄がうかがえます。菅家さんに向けられた優しいまなざしと、変わらぬ誠意には、読んでいて胸が熱くなります。
 今でこそ足利事件は「世紀の冤罪事件」として認知されましたが、DNAの再鑑定が決まり、事態が急展開したのは、17年半のうち最後のわずか半年足らずのことでした。その前には気の遠くなるような長い暗闇の日々があり、その間、決してあきらめずに闘いを続けた菅家さんと佐藤弁護士に、あらためて尊敬の気持ちでいっぱいになります。
 冤罪を繰り返さないために、私たち市民にできることはいったい何だろう、と深く考えさせられる一冊でした。
 
 
 
密室で行われる尋問では、机をたたかれ、大きな声を上げられ、人格攻撃を受け、時にはこずかれ、髪をひっぱられながら、自白へ誘導されます。
一種の洗脳であり、ある種の犯罪者には有効なテクニックかも知れませんが、心がよわっているとき(というより、心をよわらせるテクニックなのですが)これをやられると、
もうどうにでも慣れといった気分で、”私がやりました”と自分もいってしまいそうです。

読んだ印象では、冤罪は起こりえます。
問題は、裁判所にそれを救うシステムもアイディアもないことです。
 
 
 
 
通称「足利事件」は、それだけで有名になった事件ではなかったと思う。むしろ、冤罪としてお茶の間に登場したと言って良い。ちなみに、事件自体は時効を迎えている。

 菅家氏が冤罪の対象となったについては、「単純なものではなく、構造的・重層的」な要因が数えられる。まず背景として、当時、警察庁がDNA鑑定を導入しようとしており、予算請求というニンジンがぶら下がっていた。犯人を挙げてなんぼの捜査だから、重要参考人が犯人ではなかったことを証明しても、手柄にはならない。

 そして、マスコミに情報を漏らしたことで、後に引けなくなった警察庁のメンツ。実は、DNA鑑定がクロと出て外堀は埋まっていたものの、逮捕状が発付されたわけではなかった。新聞報道が先行していることを知って驚いたのは、任意同行に向かう足利警察署職員の方だったらしい。

 また、私選弁護士として菅家氏の兄から弁護を依頼された梅澤錦治弁護士、奥澤利夫弁護士が怠惰だった。だったらしい。控訴審から引き継いだ本著者の佐藤博史弁護士から、同業者間とは思えぬほど罵倒されている。

 何より大きかったのは、菅家氏が「自白」したことである。朝の9時頃から取り調べが始まって、有形無形の圧力を受けた菅家氏は、夜の10時過ぎに「落ちた」。「自分がやりました」、と言われてしまったら、警察も後には引けない。そりゃそうだ。DNA鑑定がクロと出て、本人がやったと言っている以上、逮捕するしかない。

 もちろん、最終的には、検察が起訴を断念するか、裁判官が無罪を判定するかするべきだったのだろうけれど、その頃には、周りが固められすぎていた。だから、逮捕されて一年経ってから突然「やってません」などと言われても、今更勘弁してくれというのが、弁護士を含めた関係者の本音だっただろう。

 この冤罪事件から学ぶことがあるとすれば、決して虚偽の自白をしてはならないということである。菅家氏は冤罪の被害者であると同時に、共犯者でもある。その間に、真犯人はぬくぬくと市民生活を続け、あまつさえ新たな迷宮、冤罪の温床となっているかもしれないのである。もちろん、菅家氏が獄中で過ごした十七年間に対しては返す言葉もない。どうにかして代償できないものかと思う。しかし、そうかといって、検察や警察に土下座させれば済む問題でもない。冤罪を成立させた条件として、虚偽の自白という要因は、決して無視できないはずである。

 ちなみに、虚偽の自白によって捜査を攪乱したことは罪に問われないのだろうか。
 
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足利事件の自白強要について
 
2013/06/09 08:23 okwave.jp
菅谷利和・佐藤博史『訊問の罠』を読み、足利事件について知りました。
それと同時に、菅谷に対する自白強要について、
 
「この冤罪の非が検察・警察にあったことは間違いない。しかし、虚偽自白をしたり、裁判中に虚偽の供述を繰り返した菅谷氏に非はなかったのだろうか?」
 
と疑問に思うことがありました。
 
この本には、警察の自白強要については詳しく述べられていないのですが、この本を読んだだけだと、なぜそんな簡単に自白強要に屈してしまったのか分からなかったのです。
 
自白強要だけなら私もしてしまうかもしれませんが、自分で架空の話を作って供述したり、弁護士にも虚偽自白をしたりというのは、どうも私には納得できませんでした。
 
菅谷氏は虚偽自白をしてもやむをえないほどの暴力を警察から受けていたのでしょうか?
selfless
 
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2013/06/09 18:17
回答No.5
maiko0318
 
ベストアンサー率21% (1468/6893)
>失礼ですが、足利事件のことをきちんとご存じの上で回答されているのでしょうか。
 
検察・警察側と、弁護士側の意見が対立しているわけですよね。
それで、裁判長が両方を聞いて判決を出しているわけですよね。
 
あなたはどちらを信用なさっているか知りませんが、裁判の結果を見る必要がありますね。
 
 
関連するQ&A
足利事件、冤罪はなぜ起きた?
栃木県足利市で1990年、当時4歳の女児が殺害された「足利事件」で無罪が確定的となり釈放された菅家利和さん(62)と、元死刑囚として初の再審無罪を勝ち取った福岡県大牟田市の免田栄さん(83)が5日、面談し、冤罪(えんざい)撲滅へ“共闘”を誓い合ったそうです。
 
 しかし、冤罪はなぜ起きたんでしょうか? 菅家さんが警察に容疑者にされるには、それ相当の疑わしい要因があったと思いますが、警察の捜査が杜撰すぎたんでしょうか?
 
足利事件
私は事件自体はじめて認識したのですが、足利事件の菅家さんが無罪放免になったそうです。
 
 刑事補償法という制度があるそうですが有って無いようなもので、
 即刻見直した方が良いと思いませんか?
 
 そして
 
 ・今回は何がきっかけで、DNAの再鑑定になったんでしょうか?
 
 ・当時のDNA鑑定の精度は問題があったようですが、
  それについて不安はなかったんでしょうか?
 
 ・結局菅家さんは、どうして罪に問われたのでしょうか?
 
 ・暴力で自白を強要?されたようですが、警察は罪に問われないんでしょうか?
 
足利事件は再捜査するのでしょうか?
足利事件の犯人は冤罪でした。
 では、警察は本格的に再捜査をはじめるのでしょうか?
 それとも姿勢を示すていどで、お茶を濁すのでしょうか。
 
2013/06/09 15:07
回答No.4
anaguma99
 
ベストアンサー率59% (1620/2727)
虚偽自白は、いつまで続くかわからない拘束下で
捜査官から圧力をかけられる特殊な環境下で
行われるものです。
別に暴力が伴う必要はありません。
相当に強靱な精神力を持っていなければ
誰しも虚偽自白を行う可能性があります。
それは、私もそうですし、質問者さんもそうです。
 
なお、犯人ではないわけですから、
どのように犯行を行ったか知るはずもないわけですが、
明確に事実に合わない供述をした場合は、
捜査官によって修正させられ、
事実に合うような形につくられていきます。
ネットなりすまし事件でも、神奈川県警が
もっともらしい虚偽自白を得てましたよね。
実質的には自発的なものではなく、
捜査官の誘導による作文です。
 
裁判中の虚偽の供述ですが、
警察は当然のことですが、
検察や、さらには当時の弁護士に
まともに取り合ってもらえない中で、
そうなってしまうのも
無理がない面もあるのではないでしょうか。
実際には裁判の途中で否認に転じています。
 
そもそも、菅家氏が虚偽自白したから
捜査が攪乱されたのではありません。
菅家氏を犯人と見立てて行動調査を長期間行った末に、
確たる証拠もなしに引っ張って
自白を誘導したというものです。
その時点で、自白が得ることが目的であり、
自白が得られさえすれば、後はどうでもいいのです。
それで攪乱されたなんてことは全くありなく、
予定通りの結果が得られて満足したというだけです。
 
虚偽自白の問題については、
浜田寿美男氏が研究しています。
読んでみてはいかがでしょうか。
 
 
2013/06/09 09:12
回答No.3
hideka0404
 
ベストアンサー率16% (819/5105)
軽犯罪法第一条十六項の虚偽申告のことを言っていると思いますが、条文には
 
16.虚構の犯罪又は災害の事実を公務員に申し出た者 無実の第三者を犯人に仕立て上げて処罰を受けさせる目的で、虚構の犯罪を申告した場合は、虚偽告訴罪となる。
 
とあるので、第三者が特定されないため(もしくは当事者のため)にあたらないという判断です。
 
 
 
質問者からのお礼
2013/06/09 10:15
回答ありがとうございます。
 
> 虚偽申告
まず、私は別に「菅谷氏が虚偽申告ではないか?」と疑っているわけではありません。
単に、「検察や警察の非ばかりが強調されているようだが、被告人の菅谷氏に非はなかったのか?」と疑問に思っただけです。
 
菅谷氏の行いが虚偽申告にあたらないとして、だからといって菅谷氏が全くの潔癖であったようにも思えないのです。
明らかに作り話の供述をしたり、事件を混乱させた一因は菅谷氏自身にもあったように思えます。
2013/06/09 08:35
回答No.2
noname#185504
 
オームと同じ手口です。三日三晩、ろくに睡眠時間を与えずに追い込めば、だいたいマインドコントロールできます。そこまで行かなくても、似たような路線で精神的に追い込めば、あなたも自白するかもしれません。
 
 
 
2013/06/09 10:13
回答ありがとうございます。
 
> 似たような路線で精神的に追い込めば、あなたも自白するかもしれません。
おっしゃる通り、そこまで追い詰められれば自白するとは思います。
 
しかし、菅谷氏の場合、公判でも自分の犯行を認め、さらには自分で作った話を話しています。
さすがの私も、公判で自分の作り話を話す気にはなれません。
2013/06/09 08:28
回答No.1
maiko0318
 
ベストアンサー率21% (1468/6893)
虚偽自白ではありません。ストーリーは警察が作っています。
犯人しか知り得ないことを自白させ、犯人にでっち上げているケースがあります。
もちろん、虚偽自白なのか、犯人でっち上げなのか、真犯人なのかはこちらにはわからないことです。
 
質問者からのお礼
2013/06/09 10:12
失礼ですが、足利事件のことをきちんとご存じの上で回答されているのでしょうか。
 
> 虚偽自白ではありません。ストーリーは警察が作っています。
足利事件については、被告人の菅谷氏が、自分は犯人でないのに自白をしてしまい、その辻褄あわせのためにストーリーを自分で偽造しました。
ただ、証人の証言や現場の証拠と明らかに食い違いがあったため、偽造であることは当時から明らかであったようです。
 
> 犯人しか知り得ないことを自白させ、犯人にでっち上げているケースがあります。
この文章の意味が分からないのですが、「犯人しか知り得ないこと」が「自白」できるなら、それは「犯人」なのではないですか?(「秘密の暴露」に該当します)
 
 
 「足利事件DNA一致せず」
 http://www.47news.jp/CN/200904/CN2009042001000881.html
ベストアンサー ニュース・時事問題
足利事件
「足利事件 冤罪を証明した一冊のこの本」 小林 篤 著 を読み終えたところです。 本の中で「~怪しいと思われる人たちの取材を折々に重ねてきました。そして、いま、そのうちの一人に真犯人がいると思っています」という件があります。 同書をお読みになった方で、この著者は、誰を真犯人だと思っているのか、おわかりの方はいらっしゃいませんか。 構文のニュアンスを読み解く必要があるので、このカテで質問させていただきます。 また、真犯人について、もう少し詳しく言及しているような記事や本はないでしょうか。  
 
少し前の事件ですが
自分は真面目とは言えない人間でニュースもあまり見ませんが、数年前から気になっている事件があります。 足利事件と呼ばれている事件です。 ずっと気になってはいましたがニュースになっている時に投稿すると荒れる恐れがあると考えたので今更ながらの投稿です。
気になっているのは事件の真相などではなくご遺族の方についてです。 菅谷さんが虚偽の自白を強要されたということは誰もが知ることですが、もしそれがなければ捜査は継続して行われ、真犯人にたどり着く可能性もあったのではないかと思います。
菅谷さんが奪われた17年といわれる歳月は何があっても補償しきれるものではないでしょうけれど、その17年が事件の真相を闇に隠してしまったともいえると思います。 冷たい考えだと思われるかもしれませんが、強要されたとはいえ虚偽の自白をして自分が犯人に仕立て上げられれば真犯人が捕まる事はなくなるであろう事は誰だって分かると思います。
もちろん冤罪の原因を作ったのは警察だと思いますが引き金を引いたのは菅谷さん自身だったのではないかとも思います。口から出た言葉は絶対に戻らないことは誰もが知ることですから。 これらのことから、自分がご遺族の方の心情を推測するの大変失礼ではありますが自分がその立場であれば解決したと思っていた事件が17年も経過して「冤罪でした、未解決です」なんて言われたら怒りどころではすまないだろうと思うのです。 冤罪を生んだ原因は警察や検察にあることは間違いないでしょう。
しかし、ご遺族の方の無念はどこにぶつければよいのでしょうか。 素人の意見ですがもう真犯人が捕まる可能性はゼロに近いと感じてしまいます。 それ故、冤罪を起こした責任とは別の問題として殺人事件の解決、真犯人の逮捕を難しいものにした責任というのがあるような気がしてなりません。また、それはどこにあるのでしょうか。
もし自分がご遺族の方の立場であれば誰を責めればよいのでしょう。 誰かのせいにしたいというわけではありませんがどうにも気になるのです。 この事件が起きた時は自分はまだ産まれていませんので知識については間違い等あるかもしれません。 どうかお力添えをよろしくお願いします。
 
嘘の自白
殺人容疑で警察に捕まり、拷問のような取調べを受け、やってもいない犯罪を自分がやったと自白する。
 その後、裁判まで進んでから「自分は無実。自白は強要された。」と告白する。
 しかし、有罪になり・・・・
 
 長い年月、冤罪だと戦い続け、報われた人が、
 冤罪だったのだから、釈放されるのは当然のことで、警察、検察、裁判所を非難するのは当然のことだと思うのですが、
 
 もし、その人が嘘の自白をしなければ、もしかすると真犯人が見つかったかもしれない・・・
 
 被害者の遺族は、「あんたがやってもいない事をやったって言ったから、真実が見えなくなった・・・」という感情を持つことはないのでしょうか。。。。
締切済み その他(社会問題・時事)
足利事件の菅家さんや被害者家族は警察や検察を訴えられないのですか?
 足利事件では菅家さんの完全無罪が確定しました。
 しかし、これで解決としたのでは再び同種の冤罪事件が起き得ると思います。
 警察、検察の謝罪や徹底した検証はもちろんですが、反対に警察、検察を相手に訴訟を起こせないものなのでしょうか?
  実際には本田克也筑波大教授は、旧鑑定であっても肌着の体液と菅家さんのDNAが同じだとしたのははっきりとグラフが違っており、当時の科警研の技師が、明らかに警察の取り調べに迎合した形跡があると言っています。
  例えば真犯人が政財界の大物の家族だったり、警察の身内だったりということも考えられないでしょうか?だから再鑑定要求も門前払いにしてきたのではないでしょうか?
  私は法律に詳しくないのでよく分かりませんが現実的には事件そのものは時効になっていますから「真犯人の逃亡幇助」とか業務上過失?あるいは故意による「監禁罪」とか?そうでもしないと・・・「被害者家族や菅家さんにとっては警察、検察は真犯人の共犯者だとしか思えない」でしょうから、けじめをつけさせるべきだと思うのです。
 どなたか専門の方、こういう場合に考えられるけじめのつけさせ方を教えてください。
 
ベストアンサー その他(法律)
 
茨城県の布川(冤罪)事件をどう思われますか。私は「足利事件は司法取引ではないか」と思っていて最高検の検事長まで謝罪したから今度も図に乗った警察のヤラセではないか「気になる」のです。
単体としての足利事件は100%近い確率で「冤罪判決が妥当」である、しかし「おかしいのは小沢一郎氏立件騒動との時期的地域的符合が10以上と在り過ぎるのです」。
例えば判決確定時期と細川小沢政変衆院総選挙の10日違い、菅家被告が「私の17年を返せ」と細川小沢政変総選挙時を誇張した事、冤罪確定時期と小沢氏辞任の三日違い他・・・。
栃木県には「平成維新を進める100万人の会」が在り那須御用邸傍に「共和」大学も在る、隣の群馬県の当時首相だった××氏をかばう為に不祥事させない司法取引である可能性があるのです、検察の追及を非難する。そこで今度は常陸宮殿下「常陸宮」名称由来の「常陸国」茨城県で、1995年(体制)近辺判決確定の事件。栃木・茨木と来れば「普通なら群馬と直ぐに連想出来るから」益々、群馬県の××氏の組織不祥事隠しに私は思えてしまうのです。
冤罪者の気持ちを考えれば「本当に冤罪の身の上が晴らされるべき重大な人権問題なのですが」どうも納得が行かないのです。飽くまで基本は冤罪事件としながらも例外的に上記事柄が考え得るとの前提で、皆さんの御意見をお伺いさせて下さい。
 
警察の違法な自白強要と、遠隔操作ウイルス事件
警察の違法な自白強要と、遠隔操作ウイルス事件 真犯人の自殺について 昨日の夜、真犯人が「ミスをしました。自殺します。」とメッセージを残しましたね。 もし本当に犯人が自殺してしまったら、私は非常に残念なので すが、恐らく本当だろうと思っています。 フェイクではないか?との声もありますが、今までゲーム感覚のような素振で、これだけ大事なことをやってきた犯人が、 全面的にミスを認めているわけですから、相当な覚悟の上でメッセージを書いていると思うからです。
ずっと身元を隠して犯行してきた犯人が、一度だけ素のIPアドレスを使って掲示板に書き込みをしてた可能性がある、との報道がされてすぐのことなので、恐らくミスとはこのことでしょう。 もともと、私がこの犯人をそんなに悪いと思っておらず、事実、いままで何十年も前から警察は違法捜査がやってきてます。
私は、冤罪で捕まった可能性がある人たちがあまりに気の毒だと思っていて、再審請求を求める署名運動などを数々してきました。(有名なものには免田事件や足利事件や袴田事件があります。) そういった事件を詳しく調べると、決まって共通しているのが警察の自白の強要です。 今回の犯人は、そういった警察の悪質な捜査のやり方を、世間に広めるのが目的だったと思います。 そう考えると、単に自己顕示欲から人騒がせをする愉快犯とは違う気がします。
少し前に、尖閣諸島沖で中国の漁船が、日本の海上保安官の船に体当たりしてきた時の映像を、 国民の過半数が公開を望んでいるのにも関わらずに国が隠蔽しようとして、 その動画をYou Tubeに公開して暴いた海上保安官がいましたね。(尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件) どちらかというと、今回の犯人は愉快犯というよりは、この海上保安官の場合と似ている気がします。
(まぁ、今回の犯人の相手をバカにした態度などはあまり褒められたことではないですが…) どちらのケースも、やり方はいけないことですが、不正を国民に伝えようとする姿勢に関してだけは、認められるべきものだと思います。 なので、今回の犯人にはどうしても生きていてほしいです。
警察が「犯人は素のIPアドレスで掲示板に書き込んだ可能性がある」なんて情報を公開しなければ、犯人は自分のミスに気付かないで死ぬこともなかったのでは… と思うと、今回のミスは、警察の失態だらけな気がしてきます。 犯人の思惑通りに無実の人を捕まえて、捕まえたはいいものの、自白を強要し、しまいには犯人を死に追い込んでいる。 勿論犯人のやり方はいけないことですが、結局犯人の方が上手(うわて)だったというか、結局最後まで警察は成長せず変わらなかったですよね?
 
菅谷さんの裁判にかかわった人たちを裁きたいですが
菅谷さんは、最後にすばらしい弁護士にめぐり会えて、なんとか世の中に出てくることができました。
 しかし、このような悲劇を生ませてしまった人たちをこのまま許してもいいものでしょうか。
 人権を守るべき警察、検察、裁判所が北朝鮮よりもひどいことをしてしまったわけです。
 これらの関係者を裁く方法はありませんか。
 
 新聞記事「足利事件菅谷さんの17年」
 http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20090604-502871.html
 
PC遠隔操作事件★真犯人は別にいる!?
PC遠隔操作事件・片山祐輔容疑者に冤罪の可能性が浮上!
★真犯人は別にいる!? パソコンの遠隔操作事件で威力業務妨害の疑いで逮捕された片山祐輔(30)容疑者が、真犯人ではない可能性があるというAERA発の記事。 片山容疑者の弁護を務める佐藤博史氏は、足利事件で菅谷利和さんの弁護を担当し、冤罪を晴らした人物である。 佐藤弁護士が、警察が決定的な証拠があるといっていた「決定的なる証拠」に疑問ありというのだ。
これは、1月3日に江ノ島で片山容疑者が映っていたという、防犯カメラの映像のことだ。 当初、実際に片山容疑者がネコに首輪を付けている映像があると報じられたが、そうした決定的な場面を、警察は持っていないのではないかというのである。
もちろん、仮に映像があっても警察や検察がすぐに証拠を開示する必然性はないのだが、片山容疑者は江ノ島へ行き、ネコに触り、スマートフォンで写真を撮ったことは認めているのだが、肝心のネコに首輪を付けたかという質問には「つけてない」と答えているのだ。
また、遠隔操作ウイルス「iesys.exe(アイシス・エグゼ)」に使われたプログラミング言語「C♯」を、片山容疑者は「自分は使えない」と話しているというのである。 これが本当なら、根底からこの捜査は崩れる。 彼が勤務していたIT関連会社の社長は、片山が「C♯」を使ったことはあるが、ウイルスの設計コードをいじるほどのレベルではないのではないかと話している。
4人の冤罪者を出したこの事件。 もし今度もまた犯人を間違えたなら、刑事も記者も全員クビですな。 (日刊サイゾー発・元木昌彦) 4人も誤認逮捕して、いよいよ5人目の誤認逮捕になるか!? これで冤罪だったら、警察のダメさに泣けるわい(ノ_・。)。 警察の威信にかけて、無理矢理にでも犯人に仕立て上げてくるかも。 犯人かも知れないけど、雲行きが怪しくなってきた。 そして、マスコミもヤバイ。 松本サリン事件から何も学んでいない。 いろいろ警察やらマスコミやらのボロを浮き彫りにした事件だよ。 
 
 
 
 
 

自白の心理学

2020年09月06日 02時19分56秒 | 事件・事故
 
浜田 寿美男  (著)
 
身に覚えのない犯罪を自白する.そんなことはありうるのだろうか? 心理学の立場から冤罪事件に関わってきた著者が,甲山事件,仁保事件など,自白が大きな争点になった事件の取調べ過程を細かに分析し,「自分に不利なうそ」をつくに至る心のメカニズムを検証する.
 

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

浜田/寿美男
1947年香川県に生まれる。1976年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、花園大学社会福祉学部教授。専攻は発達心理学および法心理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 
99.9%の有罪率は,世界一であり,そこには生真面目な警察と検察が存在し,罪の意識もなく,冤罪を発生させている.容疑者を追い詰めるのは,23日間の留置と,巧みな誘導があり,自白調書から,その過程が容易に想像できる.精神的に弱い容疑者はたちまち凶悪犯に仕立て上げられていく過程が実際の事件から指摘される.無数の無実の容疑者がそこには存在し,これを生み出しているのが生真面目な公務員である警察と検察である
 
 
 
事件で不可解な被疑者の供述があるというのは稀ではないですが、その実情を知ることは関係者以外はあまり知ることができないです。そういった事例が記述されている本はとても面白かったです。ともすれば自分もそういったところに陥る可能性もあるのではとは思いました。
 
 
 
参考になりました。警察の段階で踏ん張らないと検察・裁判所でひっくり返すのがいかに難しいか思い知らされます。
 
 
 
題名にある「自白」とは「嘘の自白」のことである。

なぜ、無実のはずの人が嘘の自白をしてしまうのか?

自分に不利となるような自白をなぜしてしまうのか?

そして、尤もらしく見えてしまう嘘の自白はなぜ真実に見えてしまうのか。

この本はそのような「嘘の自白」の構造を追求した好著である。

宇和島事件、甲山事件、仁保事件、袴田事件の4つの冤罪事件を題材に嘘とはなにか、なぜ嘘をつくのか、どうして嘘の自白は一見尤もらしく見えてしまうのか、それらの嘘の自白を見破るための方法といった問題を論じていく。

一度放たれた言葉は一人歩きする。

一人歩きし始めた言葉は周囲の人々の思惑を吸い取って過剰に成長する。

そこに冤罪が発生する余地がある。

尋問に圧迫が存在するのは致し方ないことである。

無実であってもその場を逃れたいために嘘をついてしまう人は今後もいなくなることはないだろう。

これから必要なこと、それは嘘の自白を見抜くことだろう。自分を有利にするための嘘だけではなく、自分を不利にしてしまう嘘もある。どちらの嘘であっても真実を覆い隠していることには変わりはない。真実を明らかにするために嘘を見破る力が必要である。
 
 
 
 
文中に拷問的な取り調べとあったが、まさに拷問としか言えないような取り調べ。
未だに、取り調べ時の映像・音声がないとのが不思議なくらいだ。
いかに、容疑者を犯人に仕立てる様がよくわかり、執拗な取り調べでやっていないのに
自分が犯人だとなりきってしまう心理が良く分かりました。
自分が被疑者になった時を想像するととても怖いです。
 
 
 
被疑者は自分の犯していない罪を『自白』するとき、被疑者は何を考え、なぜそこまで落ちていくのかを心理学的に分析した一冊です。

 警察に捕まり取り調べを受けることはめったにありませんが、些細なことで「うその自白」を強要するようなことは日常よくあることではないかと思いました。
 
 
 
 
法律を学ぶ者にはもちろん,そうでなくとも読者にとって示唆的な内容を多く含む。裁判員制度が始まって年月が経つが,自白問題については必ずしも一般的に知られているものではない以上,一読の価値はある。実際の事件を題材にしている点も理解を促進させる。
 
 
 
 
_宇和島,甲山,仁保,袴田事件を取り上げて,自白がどの様にして作り上げられていくのか,供述調書の自白の変遷等に注目しながら,語られています。

虚偽の自白をするとは,どういう心理過程を経ているかについて,以下の様に本書で語られている。
_ゴミ警察は,見込み捜査によって,こいつは怪しいなとターゲットを決めたら,そのターゲットを真犯人とみなし,その見込みに沿うように証拠を集めようとする。そんな状況が出来上がってしまう。これを著者は冤罪被害者を追い詰める磁場が働いていると表現しています。
_ゴミ警察からすれば,容疑者=真犯人だから,客観的に状況を勘案すれば,容疑者が冤罪だと気づけるにもかかわらず,彼の無実の抗弁を虚偽とみなして長時間の取調べを行い,精神的・肉体的に追い詰める。そして,容疑者とされた冤罪被害者はついに心が折れて死刑事案にもなりうる事件について,やってもいないのに自白をする。
_ここで冤罪被害者の心理としては,容疑を認めると死刑になる可能性があるとは自覚しつつも,毎日10時間も越える取り調べ(精神的・肉体的暴力,暴言,威圧)を味わい,しかもいつまでこんな目にあわないといけないのか,という先の見えない不安--こういった目の前の苦痛に今すぐに逃げ出したい一心で冤罪被害者は嘘の自白をしてしまう。
_自白に転じた冤罪被害者は,自白をしようにも,もちろん犯行を行っていないから,その嘘の自白には客観的証拠・目撃者の証言とは食い違いが起きる。警察は手元にある証拠を基に冤罪被害者の供述に対して「その発言は証拠と食い違っているだろ」と問いただし,冤罪被害者はこの取調官からの”訂正”に迎合する形で,客観的証拠に合致するように自白を行う。
_真犯人ならば,真犯人だからこそ語れる迫真に迫った供述,その時点でいまだ警察が握っていない新証拠に関する供述が出来る。これを秘密の暴露という。
_しかし,冤罪被害者は犯行を行っていないから秘密の暴露は出来ない。逆に,本書の提唱する擁護である”無知の暴露”を行う。これは,犯行を行っていない者が虚偽の自白をするからこそ現れる客観的状況に一致しない状況や,不自然な証言(彼が真犯人なら「容疑を認めているのに,なぜこんな些細な事について事実に反する事を言わなければならないんだ」と思うような証言など),不合理な供述の変遷等の事を指す。
_ゴミ警察はもちろん,裁判官までもこの無知の暴露に気づけず,冤罪を生んでしまう。

_冤罪に関することに興味関心のある方は本書を含め,[裁判官はなぜ誤るのか][冤罪はこうして作られる]は読んで欲しい。これらを読めば,今の日本の冤罪問題について多少の知識はつくはずだ
 
 
 
虚偽自白は、いつまで続くかわからない拘束下で 捜査官から圧力をかけられる特殊な環境下で 行われるものです。 別に暴力が伴う必要はありません。 相当に強靱な精神力を持っていなければ 誰しも虚偽自白を行う可能性があります。 それは、私もそうですし、質問者さんもそうです。
なお、犯人ではないわけですから、 どのように犯行を行ったか知るはずもないわけですが、 明確に事実に合わない供述をした場合は、 捜査官によって修正させられ、 事実に合うような形につくられていきます。
ネットなりすまし事件でも、神奈川県警が もっともらしい虚偽自白を得てましたよね。 実質的には自発的なものではなく、 捜査官の誘導による作文です。
裁判中の虚偽の供述ですが、 警察は当然のことですが、 検察や、さらには当時の弁護士に まともに取り合ってもらえない中で、 そうなってしまうのも 無理がない面もあるのではないでしょうか。
実際には裁判の途中で否認に転じています。 そもそも、菅家氏が虚偽自白したから 捜査が攪乱されたのではありません。 菅家氏を犯人と見立てて行動調査を長期間行った末に、 確たる証拠もなしに引っ張って 自白を誘導したというものです。 その時点で、自白が得ることが目的であり、 自白が得られさえすれば、後はどうでもいいのです。 それで攪乱されたなんてことは全くありなく、 予定通りの結果が得られて満足したというだけです。
 
 

袴田事件の証拠捏造による証拠隠滅罪について

2020年09月06日 02時19分01秒 | 事件・事故

2014/03/29 12:08 okwave.jp
  袴田事件の第二次再審請求審で、静岡地裁の村山浩昭裁判長は、確定判決で犯行時の着衣と認定された「5点の衣類」について「後日捏造された疑いがある」と結論付けました。
  証拠の捏造は、刑法で証拠隠滅罪にあたるそうですが、ウィキペディアで証拠隠滅罪は、「他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられる(刑法第104条)。これらの行為によって犯人や被疑者の利益になるか否かは問わず、無実の人間を陥れようとする場合にも成立する(証拠隠滅により被告人に不利益を与えた事例として、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件参照)。証拠隠滅罪の公訴時効は、3年です。」とのことです。
  今回の袴田さんのケースでは、あきらかに無実と推定される人が、事件発生から約48年、死刑確定から約34年も死刑の恐怖におののきながら身柄を拘束されているのに、この程度の刑でしかも、公訴時効が、3年とはいかにも短すぎると思います。これでは、警察や検察のモラル・ハザードたりえません。違法捜査の温床を自ら生み出しているとしか思えません。捜査機関が、証拠を捏造する事態を刑法は、想定していないのだと思います。
  私は、この際、刑法を改正して欲しいと思いますが、皆さんは、どのようにお考えですか?それとも、捜査機関が証拠を故意に捏造した場合、他に適用される法律があるのでしょうか?教えてください。
  
hello-hirobiro

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カテゴリ 社会法律裁判

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ベストアンサー 2014/03/30 11:40
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Erdbeerkegels

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以前から袴田さんの事件に憤慨し、署名などもさせてもらった者です
私がずっと考えていたのは、
「これは冤罪事件ではなく殺人(未遂)事件ではないのか?」ということです
間違えて人を死刑にしようとしたのではなく
無罪だと知っててわざわざ証拠をねつ造してまで死刑にしようとしたのです
何の罪もない人を死におとしめようとすることを「殺人未遂」とは言わないのでしょうか
動機が何であれ問題ではありません
やれ手柄をあげたかった事だの、実は真犯人とつるんでいるだの
そんなことは被害者袴田さんにとってはどうでもいいことです
何もやっていないのに自分を殺そうとする人間は殺人者です
(もっとも、直接殺そうとしているわけではないので殺人ほう助とかになるのかもしれませんが…)
これが、「他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられる(刑法第104条)」
で済まされては、どうにも腑に落ちません
もとより絶対的な権力の行使には相当の制限が加えられるべきですが
この規範をあざ笑うかのような今回の事例等にはもっと厳しく対処すべきであり
その趣旨に沿った刑法の改正は必要だと思います
さら言えば、証拠のねつ造によって被害者がどのような不利益を被るか
という点も加味されるべきではないのでしょうか
盗んでもいないものを無理やり盗んだことにされて窃盗犯にされたのと
殺してもいないのに無理やり殺したことにされて死刑の判決を受けるのとでは
天と地ほどの違いがあります
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質問者からのお礼
2014/03/30 23:30
 疑問を抱き実際に署名活動に参加されたとのことですが、机上で、新聞を読んだり、意見を投稿するだけではなく、実際に行動されたのですね。
 個人的には、そのような活動を地道にされてきた方々がいらっしゃったからこそ、今回の再審開始の決定を得ることができたのだと思います。ありがとうございます。
質問者からの補足
2014/03/30 20:41
 私は、いくつかの新聞を読みましたが、再審決定に懐疑的な意見を述べているのは、検事出身の弁護士が多いです。もちろん、新聞社も賛同意見と反対意見を掲載するために新聞社の方で人選していると思うのでそうした傾向になるのかもしれません。
 ただ、検察出身者が以前の身内の仲間をかばいたい、検察の権威を貶めたくないと考えているのではないかと感じるのは私だけでしょうか。


袴田事件の証拠捏造による証拠隠滅罪について

2020年09月06日 02時07分08秒 | 事件・事故

2014/03/29 12:08 okwave.jp
  袴田事件の第二次再審請求審で、静岡地裁の村山浩昭裁判長は、確定判決で犯行時の着衣と認定された「5点の衣類」について「後日捏造された疑いがある」と結論付けました。
  証拠の捏造は、刑法で証拠隠滅罪にあたるそうですが、ウィキペディアで証拠隠滅罪は、「他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられる(刑法第104条)。これらの行為によって犯人や被疑者の利益になるか否かは問わず、無実の人間を陥れようとする場合にも成立する(証拠隠滅により被告人に不利益を与えた事例として、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件参照)。証拠隠滅罪の公訴時効は、3年です。」とのことです。
  今回の袴田さんのケースでは、あきらかに無実と推定される人が、事件発生から約48年、死刑確定から約34年も死刑の恐怖におののきながら身柄を拘束されているのに、この程度の刑でしかも、公訴時効が、3年とはいかにも短すぎると思います。これでは、警察や検察のモラル・ハザードたりえません。違法捜査の温床を自ら生み出しているとしか思えません。捜査機関が、証拠を捏造する事態を刑法は、想定していないのだと思います。
  私は、この際、刑法を改正して欲しいと思いますが、皆さんは、どのようにお考えですか?それとも、捜査機関が証拠を故意に捏造した場合、他に適用される法律があるのでしょうか?教えてください。
  
hello-hirobiro

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質問者が選んだベストアンサー
ベストアンサー 2014/03/30 11:40
回答No.2
Erdbeerkegels

ベストアンサー率33% (155/468)
以前から袴田さんの事件に憤慨し、署名などもさせてもらった者です
私がずっと考えていたのは、
「これは冤罪事件ではなく殺人(未遂)事件ではないのか?」ということです
間違えて人を死刑にしようとしたのではなく
無罪だと知っててわざわざ証拠をねつ造してまで死刑にしようとしたのです
何の罪もない人を死におとしめようとすることを「殺人未遂」とは言わないのでしょうか
動機が何であれ問題ではありません
やれ手柄をあげたかった事だの、実は真犯人とつるんでいるだの
そんなことは被害者袴田さんにとってはどうでもいいことです
何もやっていないのに自分を殺そうとする人間は殺人者です
(もっとも、直接殺そうとしているわけではないので殺人ほう助とかになるのかもしれませんが…)
これが、「他人の刑事事件に関する証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられる(刑法第104条)」
で済まされては、どうにも腑に落ちません
もとより絶対的な権力の行使には相当の制限が加えられるべきですが
この規範をあざ笑うかのような今回の事例等にはもっと厳しく対処すべきであり
その趣旨に沿った刑法の改正は必要だと思います
さら言えば、証拠のねつ造によって被害者がどのような不利益を被るか
という点も加味されるべきではないのでしょうか
盗んでもいないものを無理やり盗んだことにされて窃盗犯にされたのと
殺してもいないのに無理やり殺したことにされて死刑の判決を受けるのとでは
天と地ほどの違いがあります

質問者からのお礼
2014/03/30 23:30
 疑問を抱き実際に署名活動に参加されたとのことですが、机上で、新聞を読んだり、意見を投稿するだけではなく、実際に行動されたのですね。
 個人的には、そのような活動を地道にされてきた方々がいらっしゃったからこそ、今回の再審開始の決定を得ることができたのだと思います。ありがとうございます。
質問者からの補足
2014/03/30 20:41
 私は、いくつかの新聞を読みましたが、再審決定に懐疑的な意見を述べているのは、検事出身の弁護士が多いです。もちろん、新聞社も賛同意見と反対意見を掲載するために新聞社の方で人選していると思うのでそうした傾向になるのかもしれません。
 ただ、検察出身者が以前の身内の仲間をかばいたい、検察の権威を貶めたくないと考えているのではないかと感じるのは私だけでしょうか。

質問者からのお礼
2014/03/31 08:43
補足の反論もあります。
「BLOGOS」に記事がありました。
 この袴田さんの再審決定に対して、筋違いな論評を寄せている人がいます。
「なにが「袴田巌」を死刑から救ったのか」(門田隆将氏オフィシャルサイト)
 何と、その功績を裁判員制度に求めているのです。論旨曰く、裁判員制度により公判前整理手続きが導入され、証拠開示がなされるようになった。
 今回、静岡地裁が命じた証拠開示は、この裁判員制度と公判前整理手続き、証拠開示があったからというのです。
 これはいくら何でも歪曲が過ぎるでしょう。証拠開示といっても全面開示からほど遠く、開示請求にあたっては開示させる証拠を特定しなければなりません。
刑事訴訟法316条の15第2項
 被告人又は弁護人は,前項の開示の請求をするときは,次に掲げる事項を明らかにしなければならない。
 一 前項各号に掲げる証拠の類型及び開示の請求に係る証拠を識別するに足りる事項
 二 事案の内容,特定の検察官請求証拠に対応する証明予定事実,開示の請求に係る証拠と当該検察官請求証拠との関係その他の事情に照らし,当該開示の請求に係る証拠が当該検察官請求証拠の証明力を判断するために重要であることその他の被告人の防御の準備のために当該開示が必要である理由
 そもそも証拠については当然の前提として検察官手持ちの証拠はすべて開示しなければならないのに、現在はそのような制度にはなっていません。
 むしろ、現在、行われている「法制審議会-新時代の刑事司法制度特別部会」での議論では日弁連が要求していた証拠の全面開示は見送られる公算が大です。えん罪発生防止の観点からは全くのザルです。
 おおよそ、以上の趣旨のことが書かれています。
 まだまだ、司法改革は、道なかばのようです。
質問者からの補足
2014/03/30 23:17
 今回の再審開始決定は、「BLOGOS」の門田隆将氏の記事によると「検察側は裁判員制度導入にむけた公判前整理手続の採用以降、弁護側が要求する証拠物件は、すべて開示しなければならなくなったことが大きい。定着してきたこの公判前整理手続の習慣は、袴田事件の再審をめぐる攻防にも決定的な影響を与えた。」との内容が書かれています。
 以後、文章をそのまま抜粋すると、「それは、検察が法廷に出す証拠は、有罪を「勝ち取るだけのもの」であり、それに不都合なものは「隠されて」いたのである。たとえば、A、B、C、D、Eという5種類の関係者の供述調書があり、そのうち、有罪に有利なものがAとCとDだった場合、有罪を勝ち取るために不利なBとEの供述調書は、法廷に出さなくてもよかった。
 たとえ弁護人から「BとEの供述調書を出してください」という要求があっても、同じ“官”同士である裁判官から「その必要はありません」と却下されれば、それで終わりだったのだ。そもそも弁護側は、「BとEの供述調書」が存在することを知らないまま、判決が下されることが多かったのである。」とあります。
 つまるところ、裁判官も同じ“官”である検察官のことを弁護側より以上に信頼していたのが大きいようです。
2014/03/30 17:57
回答No.3
mhd02556

ベストアンサー率30% (34/113)
 補足説明ありがとうございます。

>  犯行時の着衣と認定された「5点の衣類」については、DNA鑑定だけではなく、発見された時期や場所、サイズや色素の染まり具合なども含めて袴田さんの物とするには不自然です。

 48年も経過すれば人々の記憶も、証拠も、消えてしまって、分からなくなります。本人の記憶もあいまいです。だから、何が正しいかは、判定できなくなると言うのが正しいでしょう。

 袴田事件の袴田さんは、事件の当日、事件時間に建物にいたので、疑われたのでしょう。袴田さんの主張は、火災があったので、火災を止めようと家の屋根に上り、屋根から落ちて指に怪我をしたとのことです。

 犯人は、家族4人を殺害して、放火して逃げたのでしょう。

 多数の回数刃で刺したので、多数の返り血を浴びたでしょう。殺害して専務の家から、逃げたと考えられますが、このような犯人の逃走の姿を見たものは、いなかったのでしょうか?

 たとえ、逃げた時を見逃しても、多数の血の跡から、衣類の血の跡を誰かが見ているでしょう。このような証言をした人は、いなかったのでしょうか?
 犯人の仲間や親族からは、不自然さを指摘できるものです。

 犯人と袴田さんは、犯人ととても、近接した時間に同一場所にいます。このようなことから、嫌疑をかけられたのでは、ないでしょうか?

 犯人は、家族を殺害しているので、家族や主人によほどの強い憎しみを抱いていたのでしょう。知らない他人が、家族4人を殺害するなど考えにくいです。お金は、奪われたようですが、多額ではないので、お金が目的で無いと考えれます。専務を良く知っている人の犯行でしょう。

 袴田さんは、専務に恨みは、無かったのですか?

 また、事件の前に、仲間などに専務のことをどのように話していたのでしょうか?

 聞き込みなどでこのような疑いのある人は、浮かび上がってこなかったのでしょうか?

 多くの自白書を残していますが、採用されたのは、一通のみとのことです。この内容がどのようなものなのでしょうか?

 袴田さんを救済する運動の人の声は、強く聞こえますが、捜査機関にも、言い分があるのでしょう。
 捜査機関の言い分は、どのようなものでしょうか?

 犯行時の着衣と認定された「5点の衣類」は、本人は、認めているのでしょうか?

 本人の着衣と認めているのであれば、あまりに、血が付きすぎている不自然さを感じます。
 単に火災を消す目的で、屋根に上るだけで着衣に他人の多数の血が付着するものでしょうか?

 屋根から落ちて、指を怪我したとのことですが、この時の血にしては、量が多すぎます。それに、一人のつまり、本人の血だけでは、無かったとのことです。

 これも、捜査機関が証拠を故意に捏造のでしょうか?

 ここまでするとは、さすがに信じられないです。

>  また、自供の不自然な変遷も含め全体として、確定判決は大いに疑念があるといいたかったのです。なお、過酷な取調べをしたのは、他でもない捜査機関です。 

 捜査機関と救済側の両者の事件の背景をもうすこし、知りたいと考えます。現在の捜査では、疑わしきは、罰せずで変だと考えても、確定でなければ、無罪になります。しかし、本当のことを知りたい市民は、納得できにくいところがあります。

 別に袴田さんの成否をここで言ってるのではありません。
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質問者からのお礼
2014/04/03 03:22
 回答、ありがとうございます。
 今回、検察側は、「5点の衣類」についての証拠を捜査機関の捏造とされたことは到底承服できないとして即時抗告をしました。
 しかし、報道によると連日、12時間を超える過酷な取調べで、しかも、多数の自供がなされましたが、裁判所にその不自然さを指摘され、実際に証拠採用されたのは、たった1通の調書のみでした。
 ウィキペディアによると主な争点について、
任意性に関する争点 : 自白調書全45通のうち、裁判所は44通を強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの等の理由で任意性を認めず証拠から排除したが、そのうちの2通の調書と、同日に取られ唯一証拠採用された検察官調書には任意性があるのかなど。
信用性に関する争点 : 自白によれば犯行着衣はパジャマだったが、1年後に現場付近で発見され、裁判所が犯行着衣と認定した「5点の衣類」については自白では全く触れられていない点など。
凶器とされているくり小刀で犯行は可能か。
逃走ルートとされた裏木戸からの逃走は可能か。
犯行着衣とされた「5点の衣類」は犯人である証拠か、警察の捏造か。弁護側は「サイズから見て被告人の着用は不可能」、検察は「1年間近く、味噌づけになってサイズが縮んだ」と主張している。2011年2月、弁護側により、ズボンについていたタブのアルファベットコードはサイズではなく色を示しているとして、警察が誤認した疑いが指摘された。
 取調べ・拷問について、 
袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。
睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。
 以上のように記載されています。
 袴田事件の捜査側・検察側のこのような捜査・取調べに対し、私は大いになる疑念を感じます。
2014/03/29 19:13
回答No.1
mhd02556
mhd02556
ベストアンサー率30% (34/113)
 質問ありがとうございます。

> あきらかに無実と推定される人

> 事件発生から約48年、死刑確定から約34年も死刑の恐怖

 とのことですが、そのように古い血液のDNA鑑定で、本人かどうかの判定が、できるのでしょうか?

 私の考えでは、48年も経過すれば、本人かどうかなどの判定は、不可能ではないかと考えています。

 たとえ、本人の血液でも、本人で無いと判定されるのではないでしょうか?

 それなのに判定で本人で無いと言う証拠になるのでしょうか?

 悪意も無いのに、

 > 捜査機関が証拠を故意に捏造

 したと断定するのは、不自然に考えられないでしょうか?

 殺害された親族としては、納得できないと考えるでしょう。もし、読者が親族なら納得できないでしょう。

 家族全員4人を殺害するなど、よほどの恨みを持っていたのでしょう。これでは、真犯人が分からないままです。約48年も経過すれば、自然と、本当のことが、あぶりだされるものですが、新しい展開は、無いのでしょうか?

 捜査機関が悪人と言う判断は、早計に感じます。

敬具

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ありがとう

質問者からの補足
2014/03/29 20:14
 犯行時の着衣と認定された「5点の衣類」については、DNA鑑定だけではなく、発見された時期や場所、サイズや色素の染まり具合なども含めて袴田さんの物とするには不自然です。
 また、自供の不自然な変遷も含め全体として、確定判決は大いに疑念があるといいたかったのです。なお、過酷な取調べをしたのは、他でもない捜査機関です。


袴田事件で捏造をした検察側

2020年09月06日 01時56分24秒 | 事件・事故

2014/03/28 21:22
袴田事件で捏造をした検察側は、言わば袴田さんの47年もの人生を
不当に奪ったのですよね。
このことに関して、検察は何の罪にも問われないようです。

賠償金を支払って済む問題ではないと思います。

こんな不条理がありますか!

捏造をした検察も袴田さんと同じ年数とまではいかなくても

10年くらい刑務所に入るべきだと思いませんか?

色々な意見をお願いします。
Erdbeerkegels

お礼率69% (1310/1894)

質問者が選んだベストアンサー
ベストアンサー 2014/03/28 21:33
回答No.1
noname#194996

そのとおりです。確信的な殺人教唆でしょうね。もう時効だとのことらしいですが、被害者が苦しんでいる間は時効停止にするべきです。生き残っていれば再審では証人台に立つ筈ですが、実質真犯人の仲間とされても間違いではないでしょう。

質問者からのお礼
2014/03/28 21:37
回答ありがとうございます。

 


袴田さんは、何故刑務所に入っていたのですか?

2020年09月06日 01時56分24秒 | 事件・事故

2014/11/11 21:37
袴田さんは、殺人を犯してないそうですが、何故刑務所に入ることになったのですか?
証拠の捏造があったとか。

何故、そこまでして追い込む必要があったのでしょうか?
natsumega
お礼率87% (2244/2576)


質問者が選んだベストアンサー
ベストアンサー 2014/11/11 22:40
回答No.2
shin1417

ベストアンサー率27% (199/721)
ボクサーだったからですよ。

ボクシングって現在でこそスポーツ『扱い』されてますけど、あの事件の起きたような時代のボクシングはね『見世物』だったんですよ。
殴り合いを人に見せて金を取る『見世物』。
でっ、ボクサーは殴り合いを人に見せる『キ○ガイ』『ゴロツキ』『イカレタ人間』という扱い。

事件は内部事情を知っている人間の仕業と見られ、被害者の周辺の人間を調べたら、従業員の中に『ボクサー』(袴田氏)がいた。
警察関係者の大半は、それ見た瞬間『コイツだ!!』って、思い込んだのですよ。
なんせ『キ○ガイ』『ゴロツキ』『イカレタ人間』なんだから、人なんか平気で殺すだろう、って思われたのです。
袴田氏がボクサーだと分かってから、もう警察はまともに捜査していません。
犯人は「袴田」に決まり、袴田に自白させれば事件は解決だ、っと、犯人が他にいるかも?なんて目線で捜査なんてしていなんです。
ですから袴田氏にはどうしても犯人になってもらわなければ警察は困るのです。
もう捜査やめちゃったんですから。

質問者からのお礼
2014/11/12 11:50
当時の警察、素人の推理そのものですね。
ありがとうございました♪