利根輪太郎 競輪人間学 裏目を軽視

2022年04月09日 20時31分35秒 | 未来予測研究会の掲示板

競輪専門新聞「競輪ニュース」
青競で親しまれており、競輪仲間たちも購読している。
ネットでも、予想を見ることができるが、紙面を競輪仲間は重視している。

11レースの予想。

周回1-9-4 8-2 3-7 6-5

王者古性
充実の実践脚勢を披露する古性が当然の本命。
神田が再びマーク。
坂井―宿口のスピードや、津村任せの山田が台頭する場面も。

<車番作戦>
津村目標となった山田だが、いざとなれば自ら縦横に動けるのが強味。
古性との関東勢を相手に、
2-1-9

こんな予想が。
だが1-2 1-9の3連単で勝負する。

1-2で勝負する人が大半であるが、2-1で勝負した競輪仲間も居た。

1000円、2000円投じるなら、配当が高い方を<あえて選んで勝負する>気質なのだ。

本命は買わないが、利根輪太郎の勝負姿勢であったのに、現時点では<守りの姿勢>になることを悔いる場面が増えてきた。

1番人気 1-9 (3.5倍)

結果

2-1 1,630円(6番人気)

2-1-9 6,860円(25番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 山田 庸平   11.5 B 2角番手捲
2 1 古性 優作 1/8車輪 11.4   斬り山田続
3 9 神田 紘輔 3/4車身 11.3     古性マーク
  4 4 坂口 晃輔 3/4車身 11.3     大阪勢続き
× 5 7 宿口 陽一 3/4車身 11.2   S 坂井追切替
6 5 阿竹 智史 2車身 11.2     薦田共倒れ
  7 6 薦田 将伍 3車身 11.7     立遅れ不発
8 3 坂井 洋 5車身 12.4     外浮捲れず
  9 8 津村 洸次郎 大差       鐘前カマシ

戦い終わって

戦い終わって写真

 津村洸次郎がジャンから一気の発進。山田庸平が番手捲りで押し切る。「津村君の気持ちが伝わり、何とか決勝に乗ろうと。自分が乗ってくれれば良いと言ってくれていたから。スタートで古性優作君は自分たちの仕掛け町なのかなと。思い切り行ってくれたから仕掛けに被らないようにだけと。押し切れて良かった。初日の感じが良かったけど、昨日、今日はそこまででもうひとつかなと。それでもレースで動けているから」。
 叩かれて3番手に入った古性は山田を交せず2着で決勝へ。「1番人気になっていたのに申し訳ない。自分からレースを動かしてだったが、思ったよりも相手にふかされて一杯になった。もっとピッチを上げておけば良かった。山田さんは加速していって凄く強かった。昨日までと乗り方を変えてみたが、一体感がなかった。決勝はまた戻して。脚はそこまでだが、気持ちでカバーしたい」。
 古性にマークの神田紘輔が3着。「古性君には全部任せてくださいと言われて、自分はしっかり付いていくだけだった。飛付くのにしんどかったと思う。自分は余裕があり、周りも見えていた。記念の決勝は久し振り。ずっと調子は良かったから自信を持って走りたい。明日もしっかり追走。同期の古性君には刺激を受けていて、自分も少しでも上で走れるようにと思っている」。


勇気は最も役立つ人間の気質だ

2022年04月09日 09時39分01秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼新聞の言葉は情報を載せる。文学の言葉は価値を載せる。
価値とは生きる喜び。
▼風采はその人であるとするならば、言葉その魂である―新渡戸稲造
▼勇気は最も役立つ人間の気質だ―ヒルティの言葉
▼「孤立育児」が増えている。子育てを皆で。
社会全体で支え、応援することが地域や国の未来を豊にする。
解決には制度の改善が求められるが、その上で「変わらなければならないのは、人々の意識。
▼どんな組織も時間経過の中で、ともすれば閉鎖的・保守的になるものだ。
時代の流れの中で変化し続ける柔軟性が期待される。
▼人生や社会に必要な教養を得るためには、他者との学び合いが大切だ。
▼皆で目標を立てて、結束して、それを達成していく。
それが組織の活性化、持続性につながる。
▼自分がいる地域で、自分にしかできない役割を見出すことを善とする。
▼分かりやすさこそ、大衆化、普遍化する上で欠かせない鍵だ。
▼想像を絶する苦悩に直面しても、周囲の人や環境のせいにするのではなく。自分自身の宿命捉え、必ず転換できると捉える。
▼あらゆる行動や評価の原因を内(自己)に求めるのか、外(他者)に求めるのかを分類する。
▼困難にぶっかったときに、人や環境のせいにするのは簡単だけれど、これは自分にしか越えられない壁だと捉えていける人は、人生の荒波を乗り越えていける。
▼今いる場所で、自分の役割を見いだし、それを喜びに感じようとする。
▼現代社会において、自分の役割を見失い、生きる意欲をなくしている人も少なくない。
そして、役割をもって活躍する人を疎んで、自らの承認要求を満たせずに他者の足を引っ張ってしまう。
そうした人の存在は、大きな社会課題だ。


大衆とは?

2022年04月09日 09時39分01秒 | 社会・文化・政治・経済

大衆(たいしゅう)とは、社会を占める「大多数の・大勢を占める」とされる人々、またはそれに属する個人を指す言葉である。
類義語には主に政治用語として使用する民衆(みんしゅう)、危機管理の対象としては群衆(ぐんしゅう)などがある。
それぞれ傾向が異なる個々の集合に着目した場合は不特定多数(ふとくていたすう)と称される。
また国家という単位に於いては、国民も同語に類される。

政治学、社会学などの社会科学分野においては大衆は匿名性を帯びた無責任な集団としての意味合いを持ち、顕名性をもつ市民との対比で用いられる。

仏教用語における大衆とは、仏法によって調和のとれた人々の集まりの意。

概要
多くの場合では、単なる「社会の大多数を占める大勢の人々」といった程度の意味で用いられる。

三省堂のWeb Dictionaryによれば、大衆はもと仏教用語「だいしゅ」から来ており、仏教に帰依した多くの僧をいった。

天台宗では役職につかない修行僧を「大衆(だいしゅ)」と呼ぶようになってから、天台座主(ざす)ら高僧に支配された僧の意味合いが生じ、現在の大衆の語源となった、とある。

近代都市の発達にともない、同じような生活スタイルを持つ新中間層と呼ばれた都市給与生活者が増えた大正時代からよく使われるようになった[3]。

英語ではthe general public、the masses、the people、popular(ization)などに相当する。popularはポピュリズムの語源である。

大衆に属すると考えられる人々は、しばしば没個性的で、同種の他人と混同されやすい存在であるとみなされる。全体として「突出した能力」や「傑出した容姿」または「類稀なる才能」場合によっては「不快極まりない悪癖」や「言語道断なる害意」を持ち合わせていない存在などとされる。

何等かの存在を際立たせるための対義語として使用され(英雄・指導者・エリートに対する大衆、など)己の優位性を喧伝するために、他を貶める意図で用いられるケースが見られ、しばしばネガティブな意味を持つ語と認識される場合がある。

大衆と良く似た語法に庶民があるが、「庶民」は社会的な特権をもたない諸々の人、一般市民の意(三省堂大辞林)であり、大衆とは標記するものがことなる。

たとえば古代ローマにおける護民官(tribunus plebis)に見られるplebis(プレブス:平民)が社会階層としての庶民である。

また庶民が登録された市民を意味する場合には顕名性があり、その代表たる者が存在しえるが、大衆にはその意を代弁する者が登場することはあっても大衆の代表者は存在し得ない。

主役としての大衆
社会の変革において、大衆は常にその圧倒的な数をもって主役となる。古代中国では陳勝・呉広の乱が史上初の大衆反乱として登場した。

日本では中世より強訴など群衆の力をもとにした政治活動が見られる。西欧ではジャックリーの乱、ワット・タイラーの乱などの主役となったが、民衆反乱には主導者がおり、彼らの処刑により鎮圧されることが常であった。

近代以降はフランス革命より以降、大衆による意思形成(人民集会)が重視される思想(民主主義)が進展した。

現代社会では、文化や芸術面において、商業芸術や大衆文化の最大の担い手(パトロン)となっている。

対比する対象
対比させる対象としては、知識階級や権力階級、または生産者に対する消費者と言った意味合いで同語が用いられる。

オルテガによれば『大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである』とされる。

しかしけっして愚鈍ではなく、上層階層にも下層階層にも大衆はおり、その全体として「無名」であることを特徴とする。

大衆の特権は自分を棚にあげて言動に参加できることであり、いつでもその言動を暗示してくれた相手をほめ尽くし、またその相手を捨ててしまう特権を持つ。

大衆とは「心理的事実」であり、大衆にはどこまでいっても罪はない。

ゆえに大衆の動きや考えが何かに反映され、それが社会の「信念」だと判断すると重大な問題が生じる、とする。以下はオルテガの観点からの要約であるが、大衆の定義はかならずしもこれに限定されるものではない。

知識人
知識人(もしくはインテリゲンチャ)の対義語として扱われる場合には、知識の過程に参加せず、つまり日常生活の範囲でしか思考しない(と少なくとも知識人側が見なす)圧倒的多数派を指す。

大衆は、もともと政治や哲学、文学には関心がない、とする。

しかし生活に不満を持ったときのみ爆発的なエネルギーを示す。

そうして、生活に不満がなくなれば、政治の場を去り、生活の場に戻って行く。

日本では60年安保闘争のあと、主役になった大衆は街頭から消え、知識を振りかざす活動家だけが残る。活動家は、ときとして「大衆は愚かだ」と述べる(大衆蔑視)。

権力
権力を対比させる対象に据えた場合、大衆は権力の影響を被る側である。この場合において、個々の大衆は常に無力な存在である。

民主主義社会においては、大衆こそが権力を持っているという建前だが、実質的に大衆には必ずしも適切な施政者を選択する能力が求められないか、持たないということを前提にしており、結果的に施政者に権力が集中して大衆はその恩恵を被るか、若しくは不適切な施政者によって搾取される可能性があるとする(権力の分立、治者と被治者の同時性)。

大衆はしばしば納税者や徴兵対象者と同義であるが、大衆は受動的に納税や徴兵を強要される存在であり、これらは社会維持への対価というよりも、単なる搾取と受け止められる。他方、施政者はそのような状況下では、権力を大衆から社会維持のために預かったものという認識を欠き、無駄遣いや私費との混同を招く。逆に大衆を権力基盤とする政治家(ポピュリスト)は、大衆への利益の還元を優先するため、国庫財政や国家経済の破綻をもたらす。

専制政治では、大衆は施政者を取り替えることができない。だが納税という形を通して間接的に政治に関与することができる(良くない政治の元では生活が苦しいために多くの納税が出来ず、良い政治の元では活発に利益を上げられるため多くの納税ができる)が、場合によっては施政者が無能であるばかりに、大衆がその不利益を被るケースが発生し、社会不満が増大する。

増大した施政者への社会不満はしばしばテロや、暴動という形で爆発するが、もとより権力の元に個々の大衆は無力であるため、主導者が検挙されたり施政者側のテロ(恐怖政治)により鎮圧される。

あまりに社会不満が大きく普遍的に過ぎる場合は、この暴動が権力側の手に余る事態に発展する。

特に検挙する側の警察機構や、鎮圧すべき軍部も元々は大衆であるため、同じ社会不満を抱いている場合には、大衆の動きに呼応して、一緒になって施政者を放伐する。

革命ともなると権力者は大衆の力の前に成す術もなく打ち倒されるが、大衆は新たな統治者を求める。

主導者を擁立し、同じ目的意識を持って活動する場合、大衆は無力ではない。

民主主義社会では、暴動や革命といった暴力的な行為に拠らないでも、選挙という形で直接的または間接的に施政者を選択することができ、あるいは自ら施政者となるために立候補することも可能である。

生産者
生産者は消費者が求める物を生産することが求められる。

生物界では生産者は消費者よりも多数派であるが、人間社会に於いては生産者(農工業者・企業)は消費者に対して少数派である。

この人間社会の生産者に対する消費者が、いわゆる大衆である。

大衆は常に、安価な良い物(製品)を求めるとされており、メーカーや企業は常にそのニーズに呼応する形で商品を提供、その代価を受け取ってきた。

しかし一部には、粗悪な製品を安価で販売することで、代価を受け取る企業もある。粗悪な製品であっても、それに求められる代価が適正である場合は、大衆は然程問題としない。

しかし中には一見して粗悪な製品に見えないものを高値で売りつける所もあり、これは粗悪品または不良品として問題視される。

往々にして大衆は自分の購入したいと思う製品に対して、その仕組みや良し悪しまでもを熟知していることは稀(ブラックボックス)である。

このため製品を利用するまでは、それに含まれる問題点や欠陥を消費者である大衆が見抜くことは難しいが、実際に使用して行く中で、支払った対価程の利便性が得られない・または何等かの損害を被るというケースも発生する。

大衆は(生産者と比較すると)無知であるために、不適切な製品を製造・販売する生産者に騙され易い。

しかし騙されると、それに関連する商品にまで不信感を抱くため、他商品の売り上げにまで風評被害が波及することもある。このため多くの社会では、消費者である大衆を保護すると共に、それに損害を与えかねない生産者は罰せられる。

日本ではこの役割を国民生活センターが担っており、他の地域でも往々にして、これに類する消費者保護団体が存在する。

この場合、大衆は無知であるが故に保護されると共に、その保護を受けることで生産者に一定の発言権を持つといえる。生産するメーカーや企業は、大衆が求めない商品を作っても売れないだけなので、常に消費者である大衆の嗜好を知りたいと考えている。

またその一方で大衆は自分達の言動やライフスタイルを暗示してくれるような未知の商品を求めており、革新的で思いもよらない新規商品をしばしば熱狂的に支持するため、商品企画者はつねにこのあい矛盾している大衆性のディレンマに直面している。

メディアと大衆
かつて貧しい時代・地域に於いては、辻々に設置された街頭テレビは大衆に対する娯楽の提供を行った。後に一般家庭にもテレビが普及するようになると、それは教育の一端を担うと共に、「大衆の生産を行う装置」と見なされ、テレビの視聴を持って大衆と位置付ける者も見られる。

その一端には活字離れに対する危惧がある訳だが、近年では質の高い番組も増えた事から、文化的なメディアと位置付けられる場合もあり、一概にテレビ視聴を大衆の特徴と位置付けるケースは減っている。

しかし猥雑とされる放送内容も少なくないことも在り、今尚テレビ放送を目の仇にする教育関係者も見られ、同様の考えから視聴する側を長時間拘束しがちな他の娯楽メディアに対しても、一定の嫌悪感を表明するケースも見られる(一億総白痴化も参照)。

近代では漫画が、現代ではテレビゲームがその「大衆の消費するメディア」の槍玉に挙げられている。

またこの他にも、写真週刊誌が下世話な好奇心を煽っているとして敵視されたが、イエロー・ジャーナリズムの類として社会に飽きられるのも早かったため、一過性の傾向に終わっている。

被暗示性
一方、大衆はこれらメディアに扇動されやすいとも見なされる。これは大衆が暗示に弱く、また自己の判断能力に自信がないため、大勢に同調しやすい傾向があるためだとされている。

他方、教育の不足から来る迷信や、判断材料不足も関係するとされ、結果的に扇動されやすいのだと説明されるケースも見られる。

これらは先の活字離れと並んで理科離れに於いても問題の一端として挙げられる傾向があり、特に知識や理解が不足することで、正しい判断が行えないのだと言われている。


マイクロアグレッション

2022年04月09日 09時30分39秒 | 社会・文化・政治・経済

マイクロアグレッション

マイクロアグレッション(英語: Microaggression)とは、1970年にアメリカの精神医学者であるチェスター・ピアス(英語版)によって提唱された、意図的か否かにかかわらず、政治的文化的に疎外された集団に対する何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度のこと。

提案したピアスは、黒人以外のアメリカ人がアフリカ系アメリカ人に対して行うものをさしていたが、その後2000年代にコロンビア大学心理学教授のデラルド・ウィング・スー(英語版)によって再定義され、様々な人種、LGBTといったジェンダーや障害を持つ人などあらゆる社会的に疎外されているといわれている集団も対象になった。

2015年以降は特に、海外の多くの学者や社会的コメンテーターがマイクロアグレッションの概念は、主観的な根拠に過度に依存している、科学的根拠がとぼしい疑似科学であるとする政治的保守派の見解があり、対人関係等の心理的負荷を自分で処理する能力を低下させ心理的脆弱性を助長している、コールアウトカルチャー(キャンセルカルチャー)の原動力になっている、論理的思考や批判的思考といった大学生や社会人に求められる思考能力が身につかなくなるなど、マイクロアグレッションの科学的社会的妥当性が疑問視されてきている

定義
1970年にアメリカの精神医学者であるチェスター・ピアスによって提唱され、元は人種主義が精神衛生に及ぼす影響の中で、白人が黒人に対して無自覚に行う貶しを意味した。

2000年代に人種やジェンダー、障害をかかえる等が原因で人が無意識の中で軽視されたり侮辱されたりすることで受ける悪影響の研究が行われた際に、コロンビア大学心理学教授のスーによって再定義され、白人黒人だけでなくその範囲は拡大した。

再定義を行ったスーはアジア系アメリカ人に対するマイクロアグレッションについてこのような事例があるとした。

Alien in own land: 人々が有色人種を外国人だと思い込むこと。例えば、「どこから来たの?」や「なぜ訛ってないの?」などを質問したり思うこと。
Ascription of intelligence: 有色人種(とくにアジア系)は知的であるというステレオタイプに基づいて一定レベルの知性を持っていると思い込むこと。

例えば、「その授業にアジア系の学生が多くいたら、その授業は難しい、大変だろう。」など。
Denial of racial reality: 有色人種は決して差別を受けていないと強調し、不平等な扱いを受けている事実はないと暗に主張すること。
Exoticization of non-white women: メディアや創作などで、エキゾチックな存在として描くこと。例えばアジア系女性は従順なタイプかドラゴンレディ、タイガー・マザーのようなパワフルだが短気なタイプ、アジア系男性は性的意欲がない、弱弱しい描かれ方がステレオタイプだといわれることがある。
Refusal to acknowledge intra-ethnic differences: 民族内にも違いがあることを認めない。例えばアジア系アメリカ人はみんな似ており、全員同じ言語を話したり同じ価値観や文化を持っているという前提に基づき、これらの人と接すること。
Pathologizing cultural values/communication styles: アジア系アメリカ人の文化や価値観が好ましくないものとして見ること。例えば、アジアの文化的規範が沈黙を大事にするものなのに学校や大学の授業では口頭で参加することを期待され、アジア系アメリカ人の多くがアメリカで学業を成功させるために西洋の文化的規範に従うことを余儀なくされていると感じているとスーは述べている。
Second-class citizenship: 有色人種の人が、他の人とは異なる扱いをされ平等な権利を与えられていないと感じるような言動。例えば、韓国人男性がバーに入って飲み物を頼むが、バーテンダーは白人男性に飲み物を出すときに無視した。
Invisibility: 人種差別についての議論などが行われる際、議論の外にいると感じさせるようなこと。例えばアメリカの人種に関する議論をする際に、白人と黒人の問題にだけ焦点を当てられ、アジア系アメリカ人は除外されてしまったりすること。
これはあくまでも人種だけで一部であり、ほかにも性別や病気に対してにもあるとしてスー達は2007年に「人種差別のニューフェース」と表現し、差別があからさまなものからより曖昧で、意図的でない回避的な人種差別に変化してきたと述べこれらをマイクロアグレッションと定義している。

ただこのスー達の文献に対してアメリカの心理学者スコット・リリエンフェルド(英語版)は2017年、文献内で提供されている事例の中にはマイクロ(微小)でなく、明白な攻撃、脅迫、偏見であるものがありマイクロアグレッションとは分けるべきものがあると述べている。

また同じくカナダの教育者カミーユ・ターナー(英語版)は、マイクロアグレッションとされるものの中には、自閉症や社会不安障害など他のものが起因している可能性があり、マイクロアグレッションに基づき差別をするという悪意があることを前提にすることは事実を見誤り、これらの病を抱える人々には良くないとオックスフォード大学で起きた事例を踏まえ彼女は述べている。

オックスフォード大学では2017年、視線を合わせないことをマイクロアグレッションとしていたが、これが視線を合わせることを苦手とする自閉症の人に対して無神経であるとして批判され大学は謝罪した。

日本で定義について言及されているものだと、精神保健福祉士でZAC 在日コリアンカウンセリング&コミュニティセンター代表の丸一俊介によると「微細な攻撃」と直訳されることもあるが、マイクロはそのまま「小さい」という意味ではなく、あくまで個人間で発生するアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)が関係してくる日常的な差別事象のことを指すとしている。

表面的には攻撃性がないので、マイクロアグレッションをする側は悪気もなく気づいてすらいないケースがほとんどだが、マイクロアグレッションをされた側は精神的に傷つき、健康を害することがあると丸一は指摘している。


ウクライナ侵攻と独ソ戦に不気味な類似点 ベストセラー著者の憂慮

2022年04月09日 09時20分03秒 | 新聞を読もう


毎日新聞 2022/4/6 05:00(最終更新 4/7 20:25)

 ナチス・ドイツとソ連が戦った独ソ戦(1941~45年)は、双方で民間人を含め3000万人以上が死亡したとされる人類史上最悪規模の戦争だった。主戦場の一つとなったのが、いまもロシアの侵攻が続くウクライナだ。独ソ戦とロシアのウクライナ侵攻。2019年に出版されたベストセラー「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(岩波新書)の著者、大木毅さんは、二つの戦争の不気味な類似点を指摘する。【聞き手・金子淳】

大木毅さんに聞いた
 ――ウクライナ侵攻を機に改めて著書が読まれています。

 ◆ナチス・ドイツは独ソ戦を自らが掲げるイデオロギーに基づく「世界観戦争」とみなし、「スラブ人という劣った人種を殲滅(せんめつ)ないしは奴隷化し、その後にドイツが植民地帝国を作るための闘争」と規定した。一方、ソ連側はナポレオンに勝利した祖国戦争(1812年)になぞらえ、対独戦をファシストの侵略者を撃退する「大祖国戦争」と呼び、報復感情を正当化した。その結果、独ソ戦は通常の戦闘だけでなく、住民虐殺や捕虜虐待など悲惨なことが起きた。今回のウクライナ侵攻も、住民の虐殺や強制連行が明らかになってきている。読者の多くは皮膚感覚で「どうも普通の戦争ではないようだ」と感じているのではないか。

深刻な世界観戦争になりつつある
 ――ウクライナ侵攻が独ソ戦に似ている部分は?

 ◆独ソ戦では43年のクルスクの戦い以降、ソ連軍が大反攻に出た。ロシアとウクライナの国境は当時の戦線とほぼ同じだ。今回も同じ土地を同じ方向から攻めているので、表面的には似てくる。80年たっても軍を動かしやすい場所はほぼ決まってくるからだ。首都キーウ(キエフ)や東部ハリコフなどは独ソ戦でも激戦地だった。

 しかし、より深刻なのは、ウクライナ侵攻も世界観戦争になりつつあるという点だ。独ソ戦はナチスのイデオロギーの下、労働力や資源を根こそぎ奪う「収奪戦争」や、民間人を虐殺する「絶滅戦争」の要素が強まった。ウクライナ侵攻でプーチン政権は「ナチスからロシア系住民を解放する」と主張している。戦局が泥沼化する中、こうしたイデオロギーが肥大化し、「邪悪な敵を倒すためには手荒なことをしてもかまわない」と考えるようになっているのではないか。露軍はすでに非戦闘員のいる病院を爆撃したり、燃料気化爆弾など殺傷能力の高い兵器を使用したりしている。

 ――ロシアの「世界観」とは?

 ◆プーチン露大統領は「大祖国戦争史観」への回帰を打ち出している。ソ連がナチス・ドイツと独ソ不可侵条約(39年)を結びポーランドなどに侵攻したのは、来たるべきナチスとの戦いに備えていたからであり、人類の敵であるナチスを打倒したのはソ連である、という見方だ。独ソ戦では、ウクライナの独立勢力が一時的にナチス・ドイツと手を結び、ソ連に抵抗したことがある。プーチン氏はそうした歴史を引き合いに出し、「何としても打倒しなければならない」と主張する。今回の侵攻では、こうしたイデオロギーが前面に出てきて、戦争がいっそう残酷な形に向かいつつある。

手打ちが難しい「善と悪の戦い」
 ――世界観戦争の怖さとは?

 ◆世界観戦争に踏み切ったのはナチスだけではない。例えば米国もベトナム戦争で共産主義という「悪」と戦っていると主張した。その結果が、住民を虐殺した「ソンミ事件」や人体に有害な除草剤をまく「枯れ葉作戦」だ。「正義は何…

 


世界観戦争

2022年04月09日 09時13分47秒 | 新聞を読もう

好書 好日

大木毅「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」 無法も蛮行も桁外れの全体像

 悪いのはヒトラーであり、その過った戦争指導・作戦指導のせいでドイツは第2次世界大戦に敗れた。ユダヤ人虐殺など悪事を働いたのも武装親衛隊などナチの軍隊であり、ドイツ国防軍は潔癖だった。そんな神話が戦後初期の西ドイツで広く流布していた。その主な出どころは生き延びた将官たちの回想録だが、背景には自らの戦争責任を拒み、ドイツ軍の再建を進めようとした彼らの思惑があった。

 それから半世紀以上が経過して、学問的にも社会的にも既に葬り去られたこの神話に日本の独ソ戦理解はいまだに囚(とら)われているのではないか。本書は、これまで定説とされてきた見解に批判を加え、確かな史実に基づく独ソ戦の全体像を描いた。

 本書の特長は、用兵思想の変遷と軍事用語に精通する著者が、専門知識のない読者に歴史的理解と気づきを促しながら、リズム感をもって語る点にある。ドイツの「世界観戦争」とソ連の「大祖国戦争」が激突した場で、独ソの指導者は何を思い、何に迷い、どのような決断を下したのか。雌雄を決したのは結局、何であったのか。

 両軍の膠着(こうちゃく)が破れ、やがてソ連軍の力で潮流が逆転するあたりの記述は圧巻だ。独ソ戦を通常戦争、収奪戦争、絶滅戦争の三重の円で語る手法も鮮やかだ。人気作家で、優れた歴史学者でもある著者の面目躍如である。

 あえて言えば、独ソ戦を他から決定的に際立たせた絶滅戦争としての本質、つまり本来はジェノサイド(集団抹殺)とは異なる現象である戦争がジェノサイド的特性を帯びる過程とその条件を、もう少し踏み込んで論じてほしかった。


 補給不足から自軍の糧秣(りょうまつ)を敵地に求め、捕虜の扱いなど戦時国際法を一顧だにしない軍隊は、東部戦線のドイツ軍に限らない。ソ連軍の人道を踏みにじる蛮行も桁外れだった。本書を読んで日中戦争を想起した者も少なくないだろう。そこでの地獄絵を著者ならどう描くだろうか。いつか読んでみたいと思う。

    ◇
 岩波新書・946円=8刷7万部。7月刊行。「独ソ戦の定説を覆し、欧米の新しい知見を採り入れた」と永沼浩一編集長。=朝日新聞2019年10月19日掲載

 


独ソ戦―絶滅戦争の惨禍―

2022年04月09日 09時09分53秒 | 社会・文化・政治・経済

学長室だより

独ソ戦―絶滅戦争の惨禍―

「意外や意外、日本の国内で独ソ戦のことを知りたいという人が実は大勢いたんですね」というのは、朝日新聞の夕刊で10月末に5回にわたって特集していた"独ソ戦を考える"の最終回の冒頭で紹介されている池上彰さんの言葉です。

2020年の新書大賞を取った"独ソ戦"(大木毅、岩波新書、2019年)に触れて言っているもので、この特集もそれを受けてのものでした。私も池上さんにまったく同感です。

私などは、専門でソビエトの心理学を勉強し、行ったことのある外国は、ソビエト及びロシアだけという人間ですので、こうした本に関心をもつのは当然としても、一般の人の関心の対象となるとは到底思いませんでした。それが大賞を取ったと聞いた時には、へぇー!?と思ったものです。

というわけで、"独ソ戦"は、昨年、出た当初に買って読むことは読んでみました。が、内容は、本格的な戦史・軍事史で、当方、地理的思考が苦手なため、記述の中心ともなっている作戦の内容がよくつかめないため、よき読者にはなれませんでした。

しかし、そのなかで強く憶えていることは、"世界観戦争"という言葉です。ナチス・ドイツにとって、この戦争は単なる地政学的な陣取り合戦ではなく、共産主義者を抹殺しようとする"世界観戦争"=絶滅戦争であったということで、彼らのユダヤ人政策と同根のものであったということです。

私は、レニングラードの900日の包囲戦―100万人近くの餓死者を出した都市封鎖など、ナチス・ドイツはなぜすぐに突入占領しなかったのかわからなかったのですが、"軍事的合理性"を越える絶滅戦争だったんだと言われてはじめてわかりました。

また、独裁者の思い込みや、重要な局面で自らの不利な状況を理解しなかったことなども数々示されていました。こうしたことで、一体何人の犠牲者が出たことかと思うと、暗然たる思いにかられました。スターリンが、ドイツが侵略してきて来たことをしばらく信じなかったというのは割と知られていることでしたが、ヒトラーも、英仏の対独宣戦を聞いた時には「さて、どうする?」と呟いたそうです。

ロシアに行くと、第2次大戦に関連するモニュメントに沢山出会います。

これは、やはり、3000万人とも言われる世界でもっとも多くの犠牲者を出した国であるが故のことだと思います。

独裁者の間違った判断に起因する死であっても、ひとりひとりの死の重みは変わりません。ソビエト時代、極東のハバロフスクを訪れた時には、戦死者の名を刻んだ巨大なモニュメントの前に、その死を悼む"永遠の火"がともされており、現地で選抜されたという高校生たちが数名直立して番をしていました。

3月でしたが、あちらはまだまだ真冬で、雪も積もっており、粉雪の舞う曇天の下でしたが、選ばれたという誇りがうかがえる堂々とした顔つきでした。今どうなっているのかと思い、ネットで調べてみたところ、もはや火の番をする高校生はいないようでした。ちょっと残念な気がしました。


独ソ戦 絶滅戦争の惨禍

2022年04月09日 08時29分02秒 | 社会・文化・政治・経済

「これは絶滅戦争なのだ」。ヒトラーがそう断言したとき、ドイツとソ連との血で血を洗う皆殺しの闘争が始まった。日本人の想像を絶する独ソ戦の惨禍。軍事作戦の進行を追うだけでは、この戦いが顕現させた生き地獄を見過ごすことになるだろう。歴史修正主義の歪曲を正し、現代の野蛮とも呼ぶべき戦争の本質をえぐり出す。

「新書大賞2020」大賞受賞!

■著者からのメッセージ
第二次世界大戦の帰趨を決したのは独ソ戦であるが、その規模の巨大さと筆紙につくしがたい惨禍ゆえに、日本人にはなかなか実感しにくい。たとえば一九四二年のドイツ軍夏季攻勢は、日本地図にあてはめれば、日本海の沖合から関東平野に至る空間に相当する広大な地域で実行された。また、独ソ戦全体での死者は、民間人も含めて数千万におよぶ。しかも、この数字には、戦死者のみならず、飢餓や虐待、ジェノサイドによって死に至った者のそれも含まれているのだ。そうした惨戦は、必ずしも狂気や不合理によって生じたものではない。人種差別、社会統合のためのフィクションであったはずのイデオロギーの暴走、占領地からの収奪に訴えてでも、より良い生活を維持したいという民衆の欲求……。さまざまな要因が複合し、史上空前の惨憺たる戦争を引き起こした。本書は、軍事的な展開の叙述に主眼を置きつつ、イデオロギー、経済、社会、ホロコーストとの関連からの説明にも多くのページを割いた。これが、独ソ戦という負の歴史を繰り返さぬための教訓を得る一助となれば、著者にとってはまたとない歓びである。

■呉座勇一氏推薦
冷戦期のプロパガンダによって歪められた独ソ戦像がいまだに日本では根強く残っている。本書は明快な軍事史的叙述を軸に、独ソ両国の政治・外交・経済・世界観など多様な面からその虚像を打ち払う。露わになった実像はより凄惨なものだが、人類史上最悪の戦争に正面から向き合うことが21世紀の平和を築く礎となるだろう。

著者について

大木 毅
1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、現在、著述業。
著書─『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書、2019)、『ドイツ軍事史』(作品社、2016)ほか
訳書─エヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修。白水社、2018─)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社、2018)、フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳。中央公論新社、2003)ほか
 
 
この世において
「地獄」でない戦争は
存在しないのかもしれませんが
「独ソ戦」(1941-1945)は
軍事的な合理性をすら失い
「世界観戦争」(絶滅戦争)にまで
変質して行ったという点において
最高度に「地獄」的な戦争でした。
それが読了していちばんの感想であり
本書の核心と申し上げてよいかと思います。
著者は新史料(あとで述べます)に基づき
軍事的な「経緯」のみならず
独ソ戦の「性格」を正確に論じています。
一般向けの新書として白眉と思います。

上記の著者の結論は
「終章」において詳述されます。
戦争をその性格上
①通常戦争
②収奪戦争
③世界観戦争(絶滅戦争)
の3つに分類し
独ソ戦の時間的な各段階において
①、②、③がどのような
相互関係にあったのかを
「模式図」で示したものが
掲載されています(p.221)。
数学の集合論や論理学で多用される
「ヴェン図」(ベン図)を
イメージしていただけると幸いです。
要するに3つのマル(円)の相互関係です。
ちなみにジョン・ヴェン(1834-1923)は
英国の数学者・哲学者で
いわゆる「ヴェン図」を導入しました。

独ソ戦は
①通常戦争、②収奪戦争、③世界観戦争
(絶滅戦争)の3つが並行して始まり
最終的には①と②が③に完全に包含されて
しまったことが模式図から読み取れます。
そして「通常戦争」が「絶対戦争」に
変質して行っていたことが示されています。

個人的には父祖から耳で聴いた
戦争の地獄と言えばたとえば
・ノモンハン事変(1939)
・ガダルカナル島撤退(1943)
・インパール作戦(1944)
・レイテ戦(1944ー45)
・硫黄島の戦い(1945)
‥などを連想します。このように
旧日本軍の「地獄」は
例えば、敵の圧倒的火力の前に
無力感から精神的失調をきたしたり
あるいは、兵站(補給)の不足・欠損による
飢餓や餓死のイメージが強いのが
特徴と言えるかもしれません。

これらに対して独ソ戦は
ヒトラー(1989-1945)に代表される
「劣等人種」(ウンターメンシュ)を絶滅し
「東方」にドイツ民族(アーリア人)の
「生存圏」(レーベンスラウム)を獲得する
‥というナチス・ドイツ側の世界観と
スターリン(1878-1953)に代表される
「不可侵条約」を一方的に破棄した
「ファシスト」の侵略を
ソ連邦の諸国民が撃退して
「共産主義」イデオロギーの優越を示した
‥というソ連側の世界観の激突でした。
この「世界観の激突」を通奏低音として
本書は書かれていると思います。

独ソ戦の「性格」の話が長くなりましたが
軍事的な経緯やディーテイルについても
本書は「実証的に」詳述されています。
「実証的に」と強調しましたのは
これまで独ソ戦について記述された
一般向けの本の中には
誤った史料に基づいて書かれたものが
少なくなかったからです。
さらに
1989年に東欧諸国が解体し
1991年にソ連が崩壊してから
多くの新史料が見つかりましたが
それらが記述に反映されることなく
標語的に申し上げれば
「1970年代の水準で止まっている」
記述が(特に日本における)
一般向けの本では多かったことは
否定できないようです。

本書によりますと例えば
独ソ戦に直接の関係はありませんが
ヘルマン・ラウシュニングの
『永遠のヒトラー』(天声出版 1968)は
ヒトラー語録・ヒトラーとの対話
というふれこみでしたが現在では
偽書(つまり捏造)であることが
判明しています。

あるいはまた
フランス人を連想させるペンネーム
「パウル・カレル」
で多くの戦記物を書いたドイツ人
パウル・カール・シュミット
(1911-1997)につきましては
2005年
ドイツの歴史家ヴィクベルト・ベンツが
パウル・カレルの伝記を上梓し
体系的な批判を行いました。
カレルの基本的な主張は
「第二次世界大戦の惨禍に対して
ドイツが負うべき責任はなく
国防軍は劣勢にもかかわらず
勇敢かつ巧妙に戦った」(はじめに ⅷ)
でした。つまり現在の視点からみると
明らかにまちがっていたので
「歴史修正主義」(同)
です。その結果
2019年現在、母国ドイツにおいて
パウル・カレルの著作は
「すべて絶版とされている」(はじめに ⅹ)
と著者は指摘しています。
カレルの捏造(実際には存在しなかった
事象を記述すること)について
具体的な記述が「はじめに ⅸ」にあります。

新約聖書「使徒行伝」第9章18節
の表現を借りるならば
「目からうろこのようなものが落ち」る
思いを読了後にしましたのは
上記のラウシュニングやカレルに対する
現在の世界標準の評価だけではありません。
いくつか順不同で挙げてみましょう。

・ドイツ国防軍は
ナチスによる犯罪・戦争犯罪
(SSによるジェノサイドなど)
に関連して決して
無謬(むびゅう)ではなかった。

・そもそも独ソ戦は
ヒトラーの「世界観」によって
のみ起こされたのではなく
ドイツ国防軍も軍事的な観点から
「対ソ戦やむなし」と考えていた。

・ドイツ陸軍総司令部(OKH)が
立案した対ソ作戦は
1)敵を過小評価し
2)我が方の兵站能力を無視した
ずさんな計画だった。

・ドイツを含む中央ヨーロッパの
鉄道が標準軌であるのに対し
ロシアの鉄道は広軌であるから
ドイツ軍にとっては線路の
レールの幅を変える工事をしないと
鉄道による輸送はままならなかった。
(ナポレオンの侵攻を教訓に
二度と侵略されないように
ロシアはわざと鉄道の軌道の幅を
ヨーロッパと違うものにした
とする説を聞いたことがあります)

・「電撃戦」(ブリッツクリーク)
というコトバはそもそも
宣伝・啓蒙当局あるいは
ジャーナリズムが使い始めたもので
軍事用語ではなかった。

・「ドクトリン」という
軍事用語があり重要な概念である。

・史上最大の戦車戦と言えば
「クルスク会戦」(1943)
(の中の「プロホロフカ」の戦い)
という定説があったが
ソ連崩壊・冷戦終結後の新史料による
研究が進んだ結果
独ソ戦の初期において既に
大規模な戦車戦が展開されていた
ことが明らかにされた。
参加した戦車数が
クルスク(プロホロフカ)を上回る
戦車戦があったことが判明している。
ひとつの例は「センノの戦い」である。

‥上記のように私にとりまして
「目からうろこのようなもの」を
挙げて行くときりがないくらいです。

振り返ってみれば
・1989年11月 ベルリンの壁崩壊
それと並行あるいは続発する
東欧諸国の解体
・1989年12月 マルタ会談
(冷戦終結を明記)
・1990年10月 ドイツ統一
・1991年12月 ソ連邦崩壊
という歴史的事象を私は
リアルタイムで見聞きしていましたが
その結果
多くの新史料が公開され
独ソ戦を含む第二次世界大戦に関する
研究が飛躍的かつ画期的に進んだ
という事実を今、実感しています。

ヒトラーの伝記(あるいは第三帝国史)
ひとつとっても
ソ連崩壊以前に
アラン・バロック(1914-2004)
ウィリアム・シャイラ―(1904-1993)
ヴェルナー・マーザー(1922-2007)
ヨアフェム・フェスト(1926-2006)
ジョン・トーランド(1912-2004)
‥などの著者たちによる
特色ある書物が出版されていました。
それらに加え
ソ連崩壊後の新史料を踏まえた
イアン・カーショー氏(1943-)の大著
『ヒトラー(上):1889-1936 傲慢』
(白水社 2016)(原著 1998)
『ヒトラー(下):1936 -1945 天罰』
(白水社 2016)(原著 2000)
が出版されいわばヒトラー伝の
「決定版」となった観があります。
上下二段組で本文に限定しても
(上)が 611ページ
(下)が 870ページあります
(重さはどちらも軽く1キロを超えます)。
とりあえず一度目を通しましたが
なにしろ大著ゆえに細部まで
読みこなすのは時間が必要です。
独ソ戦についても的確な記述が
多々あります(特に下巻)。

カーショーの大著に比べると
逆に一冊の「新書」という
限定された舞台で独ソ戦を記述する
という行為は別種の困難さが伴なう
であろうことは容易に分かります。
材料を取捨選択し
文章の論理的構造を組み立て
かつ読者が(研究者ではなく)
(私を含む)一般人を対象とするという
配慮をする必要があります。
従って本書は
一冊の新書で独ソ戦をコンパクトに
しかも本質的に記述した労作
ということができると思います。

付録の「文献解題」は
次に読むべき本の指針となりますし
「略称、および軍事用語について」
「独ソ戦関連年表」は
よくまとまっていて使いやすいです。
 
 
第二次世界大戦で最も激しい戦いとなった独ソ戦。ソ連軍の死者は2000万人以上、ドイツ軍の死者も数百万以上に達した。これだけの激しい戦いにもかかわらず、独ソ戦の真実は戦後長い間隠蔽・歪曲されてきた。ドイツ側では、ヒトラーに責任を押し付ける為、自らの責任逃れの為の戦記本や回想録などが数多く出版され、ソ連側では、共産主義勢力の輝かしい勝利をアピールすべく、ソ連軍に都合の悪い事実は徹底的に隠蔽された。
しかしながら、90年代以降の歴史研究、機密文書解除によって、独ソ戦の真実が徐々に解明されるようになってきた。ドイツ軍は、ソ連軍の実力を見くびり、自らの兵站能力を蔑ろにし、不十分な作戦で無謀な戦いを進めていった。まるで日本軍みたいだ。
一方、ソ連軍は物量の差・地の利は言わずもがな、特筆すべきは、熟練した「作戦術」によってドイツ軍を凌駕する作戦計画が立てられた事が大きい。作戦術は非常に難解なのでここでは書き切れないが、簡単に言えば複数の作戦・戦役のコンビネーションとでも言うべきもの。
独ソ戦において、ドイツ軍は当初連戦連勝を重ね、あわやモスクワまで陥落させかねない勢いだったが、この優勢だった期間でさえ、相当の被害・損害を受けていた。ドイツ軍は勝利を重ねながらも、実質は敗北に向かって突き進んでいたと言える。ソ連軍も相当な被害・損害を受けてはいたが。
独ソ戦の性格として、「通常戦争」「収奪戦争」「絶滅戦争」の3種が挙げられる。これはドイツ側から見た戦争観である。戦争初期のまだ余裕があるうちは上記の3つが並行して進んでいたが、ドイツ軍が不利になるにつれて収奪戦争と絶滅戦争の性格が濃くなり、最終的には喰うか喰われるかの「絶対戦争」へと進んでいった。史上最も凄惨な戦いになった所以である。
戦争の敗北に不思議な事はないという事実を教えてくれる良い本だった。
 
 
 
独ソ戦で「ドイツ軍は占領地で徹底した破壊と殺戮を繰り広げた」
の一文の裏側で実際に何が行われていたかを知りたいと思うと、「スターリングラード攻防戦」や「クルスク戦車戦」等の個々の戦役や、アウシュビッツ等の絶滅戦争の側面を詳細に記した高価な(研究)書籍は存在する一方で、「第二次世界大戦史」のタイプの書籍では数ページしか記述がなく、価格を含めて手軽なテキストが存在せず不満でした。その中間を埋める事に成功している書籍です。
見やすい地図・図表、巻末の参考文献、略語説明、年表付きと丁寧な作り、戦争本にありがちな過度に感傷的にならない簡潔な文章・文体とテキストとして優れています。

戦局の進行(バルバロッサ作戦→スターリングラード攻防戦→ドイツ軍の退却と敗北)と呼応する形で著者が説明する所の「通常戦争」「収奪戦争」「絶滅戦争」と戦争の性質が変わっていったという記述が特に分かりやすく印象に残りました。優れたテキストですが無味乾燥な通史書ではありません。

人類史上例を見ない特異な戦争である「独ソ戦」‐その事は本書を読み進むうちに理解が進むでしょう‐に関心のある人すべてにお勧めしたいです。

個人的には「アンネの日記」や「夜と霧」、映画「スターリングラード」、アインシュタインが亡命のアメリカで原爆の実現可能性についてルーズベルト大統領に書簡を送ったという”事実”等々、本書を読んで「なるほど」と、理解が立体的に深まりました。

p.s.
いわゆる「軍事クラスタ」の読者にも刺さる内容だと思います。

うっかりミス 細心の注意を!

2022年04月09日 07時39分48秒 | 日記・断片

手を痛めているのに、段差で転んでしまう。

さらに、友人と3人でヤオコウへ行き自動販売機の80円のコーヒを飲んでいる時に、スマートフォンの動画を見せようとして、コーヒカップに右肘が当たり、コーヒをこぼしてしまった。
カラオケ仲間の自宅の火事の動画を見せようとしていたのだ。

友人二人は素早く反応し、紙製のタオルを流し台のところへ取えいに行く。
とりあえず、テーブルを清掃する。
床にもコーヒがこぼれていた。
それも清掃する。
友人の奥さんが、がんで自宅療養となり活動ができかなって幹事を降りることに。
また、青柳地区の別の友人の手術の話になる。
我々の八重洲地区の友人と同じ病であった。
昼食の時間帯なので、30分ほどでヤオコウを出た。
「車で送って行きましょう」と言われれが「近いので歩いて変えります」と言って別れた。


利根輪太郎の競輪人間学 まさか差されるとは!

2022年04月09日 07時08分21秒 | 未来予測研究会の掲示板

競輪学校を目指していた友人がいみじくも言ったものだ。

「力が10対7でも、番手の人が勝てる場合があるだ」
彼は、400㍍、1000㍍、3000㍍のタイムなどが及ばず、結局、競輪学校の受験に不合格となる。
スケートの五輪メダリストだった人でさえ、及ばぬ世界でもある。

 GⅢ 平塚競輪 湘南ダービー 2日目

9レースは、犬伏 湧也選手も佐藤慎太郎選手にけん制され敗退する。

10レース、まさか平原康多選手が杉森 輝大選手に差されるとは!

絶対などあり得ない<これが、競輪>である。


9レース

並び 2-7-3 5-1-9 6(単騎) 8-4

レース評

桜井の先行に乗り、佐藤がゴール前で抜け出すのが定石。ただ、犬伏も師匠を背負い早駆け覚悟。スピードでは他を圧倒する。

1番人気2-1(4.2倍)

結果

1-9 1,080円(5番人気)

1-9-5 6,280円(18番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 佐藤 慎太郎   12.0   振上桜井交
2 9 五日市 誠 3/4車身 12.0   先制3番手
  3 5 櫻井 祐太郎 1/2車身 12.2   B 鐘前逃粘る
× 4 7 阿竹 智史 1/4車輪 11.8     離れ4角伸
  5 6 三宅 裕武 3/4車身 12.0     先手切替え
6 3 筒井 裕哉 1/4車輪 11.8     自ら仕掛も
7 4 藤原 憲征 2車身 11.7     矢野共倒れ
  8 8 矢野 昌彦 1車身 12.0   S 立ち遅れて
9 2 犬伏 湧也 3車身 12.6     振られ不発

 

10レース

並び 5-9-2 4-1 3-7-8-6

レース評

平原が強烈ショットで存在感を誇示。杉森−小林が続いて関東本線だが、上昇嘉永−井上がラインの厚みも活かし猛攻だ。

1番人気 5-9(2.8倍)

2番人気 5-7(4.7倍)

結果

9-5 1,260円(5番人気)

9-5-7 4,310円(16番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 9 杉森 輝大   10.9   平原を交し
2 5 平原 康多 3/4車輪 11.0   5番手捲り
× 3 7 井上 昌己 1車身 11.3     牽制嘉永交
  4 8 津村 洸次郎 1/2車身 11.2     先制3番手
5 3 嘉永 泰斗 3/4車輪 11.5   B 平原捲られ
6 2 小林 令 1/2車身 11.0   S 本線も一杯
  7 4 吉田 茂生 1/8車輪 10.8     8番手では
8 1 川口 公太朗 1車輪 10.7     吉田共倒れ
  9 6 中村 昌弘 1車輪 11.2     先制4番手

戦い終わって

戦い終わって写真

 後ろ攻めの嘉永泰斗がライン四車を生かして赤板過ぎ抑えて先行。中団の吉田茂生はそのラインを追わず、前受けの平原康多が中団五番手をキープ。嘉永がペースアップするが、二角から仕掛けた平原が捲り捕らえ、追走杉森輝大がゴール前交わして関東ワンツー。嘉永マークの井上昌己が直線伸びての三着。
 平原を差してワンツーの杉森は「一着取れてよかったです。平原さんのスピードはよかったし、捲り切れるとは思ってました。あとはアオリがあるかとか見ながら。初日と違って流れがあったし楽に感じましたね。状態も問題ないと思います」。若手の挑戦を力勝負で制した平原は「相手が四車だったし嘉永君もすんなりだったからキツかったですね。予想以上に車間が空いてしまって詰めるのに脚が一杯で。初日は加速が悪かったから少し修正してよくはなりました。杉森君と決められたのはよかったけど、まだまだ修正点が多い」。三着に入った井上「嘉永君はいい感じで駆けていたし、カカリもよかったですよ。でも、平原君もすんなり中団だったしスピードが違っていて。(当たりに行って)巧くいなされてしまった。脚の感じは初日よりも軽かったです」。

 

 


心を強くし、豊かにすれば

2022年04月09日 06時45分37秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼人の幸・不幸を決めるのは誰かではない。
自分の心だ。
心を強くし、豊かにすれば、どんな試練さえ幸福の糧にしていける。
▼味方をつくることだ。
▼真に必要な学問はどう生きるべきかの学問-トルストイ
▼溌剌(はつらつ)とした挨拶は、皆に活力を送る。
朗らかな交流を生む。
▼大切なことは、相手に同情する―あわれむ―ということではなくて、「わかってあげる」ということだ。
「理解する」ことだ。
人間は、「自分のことをわかってくれる人がいる」、それだけで生きる力がわいてくるものだ。


心を強くし、豊かにすれば

2022年04月09日 06時45分37秒 | 新聞を読もう

▼人の幸・不幸を決めるのは誰かではない。
自分の心だ。
心を強くし、豊かにすれば、どんな試練さえ幸福の糧にしていける。
▼味方をつくることだ。
▼真に必要な学問はどう生きるべきかの学問-トルストイ
▼溌剌(はつらつ)とした挨拶は、皆に活力を送る。
朗らかな交流を生む。
▼大切なことは、相手に同情する―あわれむ―ということではなくて、「わかってあげる」ということだ。
「理解する」ことだ。
人間は、「自分のことをわかってくれる人がいる」、それだけで生きる力がわいてくるものだ。