ユー君が3歳を迎える

2022年04月18日 20時30分16秒 | 日記・断片
コロナの影響で、3か月ぶりにユー君が取手に来た。
幼児は、3か月見ないと格段と成長が感じられるものだ。
3か月前は、猫を見ても「わんわん」と言っていたのに、CSテレビのアニマルチャンネルのライオンを見て「ライオン、ライオン」と認識した。
「カラーボール」も認識して「カラーボール」を出してほしいと意思表示をする。
女の子と違って言葉は、まだ遅い。
だが、こちらが言うことはある程度は理解していた。
数字も1~10まで数えてみせたのだ。
買えりは、何時ものようにミスターマックスで買い物をして帰る。
料金はすべてカードで家人が払う。
買い物中には、カートの椅子に座らせたが、歩きたいと無理に自ら降りてしまう。
だが、「お菓子買わないよ」とママに言われると慌ててカートの椅子に戻る。
 
 
ユー君が3歳を迎える 2022年4月17 日

オレオレ詐欺で1000万円被害 鎌倉市の70代女性

2022年04月18日 15時19分31秒 | 事件・事故

配信tvkニュース(テレビ神奈川)

 

 

オレオレ詐欺で1000万円被害 鎌倉市の70代女性

2022年04月18日 15時19分31秒 | 事件・事故

配信tvkニュース(テレビ神奈川)

 

 

ジョン・ロールズ-社会正義の探究者

2022年04月18日 13時09分45秒 | 社会・文化・政治・経済
 
齋藤 純一  (著), 田中 将人 (著)
 
『正義論』で知られるジョン・ロールズ(一九二一~二〇〇二)。「無知のヴェール」「重なり合うコンセンサス」などの独創的な概念を用いて、リベラル・デモクラシーの正統性を探究した。
本書はロールズの生涯をたどりつつ、その思想の要点を紹介する。彼が思想とした社会とはどのようなものだったのか。
また、批判にどのように応答し、後世にどのような影響を与えたか。戦争体験や信仰の影響、日本との意外な関係などの歴史的背景もふまえ、「政治哲学の巨人」の全貌を明らかにする。
 

著者について

齋藤純一
1958年福島県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程中途退学。横浜国立大学経済学部教授等を経て、現職。2016-2018年、日本政治学会理事長。単著に、『公共性』(岩波書店、2000/5)、『自由』(岩波書店、2005/12)、『政治と複数性』(岩波書店、2008/8)、『不平等を考える』(ちくま新書、2017/3)がある。

田中将人
1982年広島県生まれ。2013年、早稲田大学政治学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。早稲田大学助手を経て、現職。単著に『ロールズの政治哲学』(風行社、2017/3)がある。
 
 
Reviewed in Japan on December 25, 2021
Verified Purchase
「本書では、近年明らかになてきたエピソードを交えてロールズの生涯をたどりながら、同時に彼の主要著作についての紹介・解説も充実させることを心がけた。加えて、限られた紙幅ではあるが、ロールズの方法論や、『正義論』から『政治的リベラリズム』への「転回」をどう見るかという理論的な側面も重視することにした」(本書230ページ)と、あとがきにあるとおり。ロールズの人となりにも触れつつ、主著である『正義論』や『政治的リベラリズム』、さらに『万民の法』などの著作について考察を行った書である。

ロールズと言えば『正義論』であり、「ジョン・ロールズ」と題した本書もその大半は『正義論』に関する記述で占められてしまうのかと思ったが、バランス良く各著作を扱っている。ロールズの人となりも、これまであまり見えてこなかったところだと思うが、過度にならない程度に主に第1章で紹介しており、その後の本書全体の記述にも厚みを与えている。
何より本書の読みどころは、冒頭に引用した部分にもある『正義論』から『政治的リベラリズム』への「転回」について詳しく論じた第3章「「リベラルな社会」の正統性を求めて」になるだろう。この第3章以降は『正義論』ほど知名度のない著作についての考察になるが、価値観の多元性を擁護する方途をいかに構想したのか、『正義論』に留まらず思索を深め続けたロールズの足跡を本書で的確に辿ることが出来る。
 
 

約30年間ロールズに関心をもって、それなりの読書をしてきましたが、
彼がどんな人でどんなことを述べたのかについて語れる自信は全くなか
ったです。

しかし、本書に接することで、わずかですが意味のあることを語れるよう
気がしてきています。まず本書の「はじめに」に引きつけられました。何度
も読むとどういう構成でどんなことが書かれているかがわかってきました。

そして、取り組んだ本文を通読することで、ロールズについて何かを問
われたら、一定のことばで説明できるような気がしてきました。
本当に良い本に出会えたと思っています。
 
 
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ジョン・ボードリー・ロールズ(John Bordley Rawls、1921年2月21日 - 2002年11月24日)は、アメリカ合衆国哲学者。主に倫理学政治哲学の分野で功績を残し、リベラリズム社会契約の再興に大きな影響を与えた。

1971年に刊行した『正義論』(A Theory Of Justice)は大きな反響を呼ぶ。当初は、アイザイア・バーリンらが「政治理論はまだ存在するのか?」(1962年)と吐露するほどに停滞しきっていた当時の政治哲学業界を再興させるのに大きく貢献した。

そのため、英語圏における正義論以降の政治哲学(規範政治理論、normative political theory)業界は「ロールズ・インダストリー」(Rawlsian industry)などとしばしば呼ばれる。

生涯[編集]

1921年、メリーランド州ボルチモアに生まれた。ボルチモアの学校にしばらく通った後、コネチカット州にあるプレップスクールに転校。1939年に卒業し、プリンストン大学に入学。この頃より哲学に関心を持つようになる。1943年に学士号を取得して半期繰り上げ卒業後、アメリカ陸軍に兵士として入隊。第二次世界大戦中は歩兵としてニューギニア、フィリピンを転戦、降伏後の日本を占領軍の一員として訪れて、広島の原爆投下の惨状を目の当たりにする。この経験からすっかり軍隊嫌いとなり、士官への昇任を辞退し、1946年に兵士として陸軍を除隊する。

その後間もなく母校プリンストン大学の哲学部博士課程に進学(道徳哲学専攻)。1949年ブラウン大学卒業生の六つ年下のマーガレット・フォックスと結婚する。ロールズとマーガレットは本の索引作成という共通の趣味を持っており、一緒に最初の休日はニーチェに関する書籍の索引を作成して過ごした。ロールズはこの時、自身の後の著作である『正義論』の索引も作成している。

1950年に「倫理の知の諸根拠に関する研究」で博士号を取得し、1952年までプリンストン大学で教鞭をとる。1952年から53年、フルブライト・フェローシップによりオックスフォード大学へ留学。当時オックスフォードにいたアイザイア・バーリンの影響を受ける。フェローシップ終了後にアメリカへ帰国、1953年コーネル大学で助教授を務める。196062年マサチューセッツ工科大学で終身在職権付きの教授職を得る。1962年よりハーバード大学に教授として移り、1991年、名誉教授。1995年に最初の発作を起こして以降、歩行障害があったが、最善の著作となるThe Law of Peoples(『諸民衆の法』)を完成させた。2002年に他界した。

『正義論』[編集]

『正義論』[1]A Theory of Justice、1971年刊)は、人間が守るべき「正義」の根拠を探り、その正当性を論じたロールズの主著の一つ。この著で彼が展開した「正義」概念は、倫理学政治哲学といった学問領域を越えて同時代の人々にきわめて広く大きな影響を与えることになった。それまで功利主義以外に有力な理論的基盤を持ち得なかった規範倫理学の範型となる理論を提示し、この書を基点にしてその後の政治哲学の論争が展開したという点で、20世紀の倫理学政治哲学を代表する著作の一つということができよう。

本書は3部構成である。

  • 第1部では、正義を論じる理由を明示した上で、非個人的な観点から望ましく実行可能な正義の原理を探究し、最終的に彼の考える「正義の二原理」を提出する。
  • 第2部では、彼の正義論を現実の社会的諸制度・諸問題へ適用し、その実行可能性を明らかにしていく。
  • 第3部では、彼の正義概念は人間的な思考感情と調和しており、「正しさ」と「善さ」とは矛盾するものでないことを説明することを通じて、理論的に導出された正義論が現実の人間的基盤を有している様相を明らかにしていく。

ここでは第1部の彼の論述の要旨を示す。

この書でロールズは、それまで倫理学を主に支配してきた功利主義に代わる理論として、民主主義を支える倫理的価値判断の源泉としての正義を中心に据えた理論を展開することを目指している。

彼は正義を「相互利益を求める共同の冒険的企て」である社会の「諸制度がまずもって発揮すべき効能」だと定義した。そして社会活動によって生じる利益は分配される必要があるが、その際もっとも妥当で適切な分配の仕方を導く社会的取り決めが社会正義の諸原理になるとした。

ここで彼は社会契約説を範にとってこの正義の原理を導出していく。まず正義の根拠を、自由かつ合理的な人々が、彼が「原初状態」と名付けた状態におかれる際に合意するであろう諸原理に求めた。この原初状態とは、集団の中の構成員が彼の言う「無知のヴェール」に覆われた-すなわち自分と他者の能力や立場に関する知識は全く持っていない-状態である。

このような状態で人は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく合理的に選択するであろうと推測され、また誰しも同じ判断を下すことが期待される。そして人は、最悪の状態に陥ることを最大限回避しようとするはずであり(マキシミン・ルール)、その結果次の二つの正義に関する原理が導き出されるとした。

第一原理
各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みといっても他の人びとの諸自由の同様に広範な制度枠組みと両立可能なものでなければならない。

 

第二原理 
社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない
  ーー(a) そうした不平等が各人の利益になると無理なく予期しうること、かつ
    (b) 全員に開かれている地位や職務に付帯すること

第一原理は自由に関する原理である。彼は他者の自由を侵害しない限りにおいて自由は許容されるべきだと説き、基本的自由の権利 - 良心の自由信教の自由言論の自由集会の自由などを含む - はあらゆる人に平等に分配されねばならないとした。ただここにおける自由とはいわゆる消極的自由を指示している。第二原理の(a)は、格差原理とも呼ばれるものである。彼は社会的格差の存在そのものは是認しつつも、そこに一定の制度的枠組みを設けることが必要と考えこの原理を設定した。自由以外の社会的な基本財をどのように分配するかを示すための原理である。(b)は機会均等原理と呼ばれる。同じ条件下で生じた不平等は許容されるというものである。

この正義の二原理は、「原初状態」や「無知のヴェール」といった概念を用いた思考実験から導出されている。しかし、この原理が普通の人間の正義感覚と比較検討してもなお正当性を失わないことという「反照的均衡」という彼の方法論が妥当であること根拠として、この正義の二原理に実際的妥当性を付与している。

 
 
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ジョン・ロールズ-社会正義の探究者 (中公新書 2674) Paperback Shinsho – December 21, 2021

 
 
 

 
 

正義論

2022年04月18日 12時56分49秒 | 社会・文化・政治・経済
正義論 改訂版 by [ジョン・ロールズ, 川本隆史, 福間聡, 神島裕子]
 
ジョン・ロールズ  (著), 川本隆史 (翻訳), 福間聡 (翻訳), 神島裕子 (翻訳)
 
正義とはなにか――
ロック、ルソー、カントに代表される社会契約の伝統的理論を受け継ぎ、功利主義の「最大多数の最大幸福」に取って代わる、著書が構想した“公正としての正義”とは…
「政治哲学の巨人」ロールズの古典的名著。

「個人のかけがえなさと自由が認められること、社会が誰にとっても暮らしやすいものであること」
 

出版社からのコメント

ロールズの『正義論』は、いま注目のサンデル「ハーバード白熱教室」の必読図書であり、『これからの「正義」の話をしよう』の中でもたびたび言及されている20世紀の名著です。1971年米国で初版が刊行されるや、「まともな社会」を希求する英語圏の一般読者の心をつかみ、その後世界の30を超える言語へと翻訳されました。
 社会制度を評価するための「アルキメデスの点」を見出そうとするロールズは、全員が平等な自由が分かちもって社会生活をスタートすべきこと、そして「最も恵まれない人びと」の暮らし向きを最大限改善すべきことを主張します。そうした彼の正義観(公正としての正義)は、混迷する現代社会の矛盾を照らし出し、その改革の指針を提供するものと言えるでしょう。

本書は、1971年に刊行された『正義論』(旧邦訳は同書のドイツ語訳にあたって作成された修正リストをもとに1979年、紀伊國屋書店から刊行、現在品切れ中)の改訂版(1999年刊)を新たに訳出したものです。
三部九章87節の構成は初版と変わりませんが、初版刊行後ロールズに寄せられた批判、指摘をもとに「自由(の優先権)」「基本財」の説明などに訂正が施されました。改訂版翻訳にあたっては、多くの〔訳注〕をつけ読者の「読みやすさ」を考慮するとともに、原注の引用文献の翻訳版刊行情報を充実させ、また420項目の事項索引、280名の人名索引をつけ、ロールズ研究の便を図っています。

内容(「BOOK」データベースより)

ロック、ルソー、カントに代表される社会契約の伝統的理論を受け継ぎ、功利主義の「最大多数の最大幸福」に取って代わる、著書が構想した“公正としての正義”とは…20世紀の名著、待望の新訳。
 
 
 
分厚く、1文1文が長い。端的に述べるとどういうことなのかとさらに頭の中でまとめるのが大変。

細かく分類分析されているが、正義って言葉では語ることができるのか?教えることはできるのか?示すことはできるのか?

「恥」に並んで教えることが難しいシリーズに感じてしまう。本としての存在がどれだけ、人間を制御できるのだろうか、みんなヒーローであり、みんなヒールなのかもしれない。このコロナ禍でさえも、人類がそれぞれの正義感で生きていると思わざるを得ない。

正義の基準が左右にブレないことを願うばかりである。
 
 

現代のリベラリズムの原点にして頂点であろう本書。
さまざまな解説を読んでいてもなかなかしっくりこないという人は、また新しい解説に手を出すよりも、本書を買うべきだと思う。さまざまな解説書を読んできた人なら、あぁそういうことだったのかと何度も腑に落ちる経験をするはずである。ところどころで出てくるロールズのキーワードが一つの体系のなかで語られていく。

リベラリズムの代表的論者である井上達夫は、リベラリズムの中心概念は「正義」である、と語っているが、本書での原理も「正義」である。正義論を読みこの言葉の意味、また正義の構想という言葉を理解したことが大きかったかなと思う。

本書の最初の方で「正義」と「正義の諸構想」の違いについて語られている。
正義というのは、その概念としては権利と義務を平等に分配することまた社会的連帯連携によって得られた便益を適切に分配すること、これが社会的な意味における正義の定義である。じゃあ正義の構想とは何か。正義の構想とはその正義の概念を解釈したもの。だから正義の構想はその解釈の数に応じてたくさんある。
じゃあロールズが提示した正義の構想とは一体何か。それこそ公正としての正義であった。公正とはじゃあどういう意味か。公正というのは平等な条件、要するに原初状態のこと
。原初状態と言うのはみんなが無知のベールに覆われているのでみんな社会の事についても知らないし自分が社会の中でどういうポジションにいるのか、また自分がどういう能力を持って生まれてきているのかも知らない。能力っていうのは、例えば知性もそうだし体力のこともいえる。
また他にも知らないことがある。それは自分の善の構想、善の構想それ自体の構造は知っているけどじゃあ自分がどんな目的を持っているのかは知らない、まだ選択していない。こういったことを知らない無知のベールに覆われた状態を原初状態と言う。
そのような善の構想の構造はよくしっているが目的自体は知らない人格をロールズは道徳的人格と名付ける。
もっというと、自分の善の構想は知らないが、自分がこれから選ぶ目的に対して合理的でかつ、正義の感覚を持っている人間のことをロールズは道徳的人格と呼んでいる。
 
つまり無知のベールに覆われた人間は道徳的人格として存在することになる。この道徳的人格による社会契約をロールズは想定している。正義の感覚とは何か、諸原理がどのようなものであれ各個人はそれを理解しそれらに基づいて行為するのに必須の能力のことである。
じゃあこの社会契約によって導き出される原理は何なのか。効用原理はあり得るのか。ロールズはありえないと言う。なぜなら社会全体は幸福になりますよあなたは不幸不幸かもしれないけどそんな原理に道徳的人格はノーと言うだろう。
じゃあ道徳的人格によって導き出される原理とは何かそれが正義の原理である。おおざっぱな2つの原理で言えば1基本的な権利と義務を平等に割り当てることを要求する2社会的経済的な不平等が正義にかなうのはそれらの不平等な結果として全員の便益を補正する場合に限られる。この2つの原理に人々は社会契約するだろう。

以上が正義論の大枠である。道徳的人格がどのようにして正義の2原理を導き出すのかもちろん論証されている。全部書く訳にもいかないので興味のある方はぜひ。

本書を読む価値はリベラリズムを知ることにもあるがその周辺との論争を知ることにもある。そこでここではリベラルーコミュニタリアン論争にも触れておく。

リベラルーコミュニタリアン論争にとって、とても面白いのは、公正としての正義の論理がとても民主的なプロセスだとロールズが主張していることである。
というのも人間誰しもこの無知のベールを覆うことができれば、この思考プロセスを得ることができれば、誰しも合理的で正義の感覚を持った道徳的人格になれると言うことである、ということは誰しもこの人間になることができるのであれば誰もがこの原理に賛成すると言うことである。
以上のような論理で、ロールズの言った原理は民主的だとロールズは主張するのである。また自らによって決めたルールによって自らを縛ることになるので自律的だともいう。
これを批判したのがサンデル。そんな民主的なプロセスを認められるわけがない。
なぜなら私たちが本来行う民主主義と言うものは負荷のある自己による民主主義であるからである。負荷ある自己とは環境の中で経験をして出来上がった自己のことである。
つまりそこには環境の要素そして文脈的に経験した自己と言うものがそこには存在している。その利害関係を持った人々による民主主義を想定しなければ何も始まらないのではないか。そう主張したのがサンデルであった。
確かにサンデルは自由の価値や平等の価値を尊重する。ただそれは環境の中で経験をした負荷ある自己によって認められた善であって、決して善に勝るものとして正義があるんだという主張から導き出された価値ではないということである。これこそサンデルの主張であった。

ロールズは学者として、とても広い射程をもって本書を著した。その射程はところどころ私たちの思考を助けるが(私は直感主義に触れているところが面白かった)、射程の広さは読者に混乱を与える。なので、ロールズは序章辺りに丁寧にも、最初はこの章、この章、この章の最初をよんで繋げ本書を捉えてくれと書いてくれてある。
ぜひ、専門家だけでなく、学生も本書を手にとって欲しいある必要に迫られ『正義論』を読むこととなり、高い本ですが購入いたしました。読書途中ですがどうしてもひとこと言いたくなったので書きます。訳がレベルに達していません。
これでは集中して読むのにかなりの困難を伴います。訳者達に名文は望むべくもないでしょうが、せめて普通の日本文で翻訳して欲しいと思います。
例えば、「深刻な類いの不正義を排除してくれる。」という文章が出てきますが、このような文章が書けてしまう感性が信じられません。とてもプロの仕事とは言えません。翻訳本も日本語の独立した作品である、そういう覚悟がまったく感じられない仕事になっています。出版社も猛省してもらいたいと思います。最後まで読むのがつらい。。。
 
 

「正義」について考察したロールズの名著です。
800ページ近い分量があり、なおかつ1ページごとに
情報が濃密に詰まっていますから、
全体の内容を整理して梗概を書く事はとても出来ません。
ですので道徳について論じた第三部の中から
印象に残った部分を摘記いたします。

7章の67節「自尊、卓越および恥辱」の中で
自尊心を財産として解釈した所は慧眼であると思いました。

自尊心は、物事に対する取り組み方を積極的なものにし
努力の積み重ねや勇気ある行動を誘発します。
それが結果的にその人の能力を向上させたり功績を生み出し
様々な形で利益をもたらしてくれるので
ロールズはこれを立派な財産であると規定するのです。

逆に自尊心が弱く自己肯定感の低い人は、無気力な姿勢になりやすく
行動する機会を逸してしまい、
結果的に人生の色々な局面で不利益を蒙ってしまいます。

そして人間が自尊心を身につけるためには、
自分の人格を尊重してくれ、行動に承認を
与えてくれる周囲の人たちの存在が不可欠です。

周囲に理解を示してくれる人が少なければ
自信が身につかず、自尊心も弱くなってしまいます。
ここに「自尊心」という財産の不平等な分配が発生してしまうわけです。

社会正義を追求し、人々が幸福に暮らせるような理論を構築するには
金銭的な部分だけでなく人間関係や社会での立場といった
さまざまな側面から分析を行わなければなりません。

この論文の中で出てくる「正義」という言葉は非常に深い意味が
こめられているので、理解するには丁寧な読みこみが必要です。

ロールズは「正義」とは何なのか、どういうことが「正義」であり、
また「正義」から外れてしまうのか、何度も何度も検証を繰り返し
精細に「正義の定義づけ」を行っていきます。
読者はロールズとともに正義との知的格闘を繰り広げることで
ロールズの考察の壮大さと精妙さに驚き
また時には反発を覚えながら
読者自身が思い描いていた、あいまいな正義像の再考を迫られることになるのです

何が正しいか、そして正しいことは何なのかは
時代や場所によって千変万化します。
安易に妥協することなく「正義」に対して絶え間なく問いかけを続けること
それこそが今日の「正義論」読者に求められる課題ではないでしょうか。
 
 

独特の論旨展開、西洋近代の価値を前提とした立論はリーダブルであるにしても、評者の方が言われるように本書の欠陥ではある。
しかしながら、格差原理により展開される極めて具体的且つ徹底した公正さの実現の主張は、やはり傾聴に値するものであり、とりわけ実質的なカウンターパワーを喪失した資本主義社会を生きるに値する社会に変えうる殆ど唯一の理念であることは確実であると思う。
今こそ切実に考えるべきは、サンデルではなくロールズであろう。優れた翻訳である本書を機縁として、多くの方が閉塞した現実にどう向き合うべきか考えて戴ければと思う。

 
 
 

ソ連兵へ差し出された娘たち

2022年04月18日 12時46分47秒 | 社会・文化・政治・経済

平井 美帆  (著)

文芸評論家・斎藤美奈子氏激賞!
第19回開高健ノンフィクション賞受賞作

1945年夏――。日本の敗戦は満州開拓団にとって、地獄の日々の始まりだった。
崩壊した「満州国」に取り残された黒川開拓団(岐阜県送出)は、日本への引揚船が出るまで入植地の陶頼昭に留まることを決断し、集団難民生活に入った。
しかし、暴徒化した現地民による襲撃は日ごとに激しさを増していく。
団幹部らは駅に進駐していたソ連軍司令部に助けを求めたが、今度は下っ端のソ連兵が入れ替わるようにやってきては“女漁り”や略奪を繰り返すようになる。
頭を悩ました団長たちが取った手段とは……。

《選考委員、全会一致の大絶賛!》
作品は、共同体の「自己防衛」のために女性たちを「人柱」に捧げる「隠された暴力」の柔らかなシステムを浮かび上がらせている点で、極めて現代的な意義を有していると言える。
――姜尚中氏(東京大学名誉教授)

本書は、変わることのできなかった日本人の問題として悲しいことに全く色褪せていないのである。
――田中優子氏(法政大学名誉教授)

犠牲者の女性たちが著者の想いと心の聴力に気づいて、真実の言葉を発してくれたのだ。
われわれはその言葉に真摯に耳を澄まし、社会を変えていかねばならない。
――藤沢周氏(芥川賞作家)

この凄惨な史実をほぼすべて実名で記した平井の覚悟と勇気は本物だ。
隠された史実の掘り起こしだけではない。ジェンダー後進国であるこの国への果敢な挑発であり問題提起でもある。
――森達也氏(映画監督・作家)

ディテールの迫力が凄まじい。当時の触感や恐怖がそのまま立ち上がってくるような、生々しい感覚を見事に描き出した文章に圧倒された。
――茂木健一郎氏(脳科学者)

《推薦》
今日の「性暴力」にまっすぐつながる過去の「性接待」。その事実に、あなたは打ちのめされ、そしてきっと覚醒する。
――斎藤美奈子氏(文芸評論家)

【著者略歴】
平井美帆(ひらい みほ)
1971年大阪府吹田市生まれ。ノンフィクション作家。
1989年に高校卒業と同時に渡米し、南カリフォルニア大学に入学。同大学で舞台芸術と国際関係学を学び、1993年卒業。
その後、一時東京で演劇活動に携わるも1997年に再び渡米し、執筆活動を始める。2002年に東京に拠点を移す。
著書に『中国残留孤児 70年の孤独』(集英社インターナショナル・2015)、『獄に消えた狂気 滋賀・長浜「2園児」刺殺事件』(新潮社・2011)、『イレーナ・センドラー ホロコーストの子ども達の母』(汐文社・2008)など。

 

 
近年の報道で明らかになった満州での日本人による性接待。
ザックリとその内容を書くと、敗戦後満州に取り残された日本人集団(黒川開拓団)が暴徒化した現地民やロシア人から身を守るため、団の方針により日本人女性が性接待を行ったというものだ。

私も新聞報道でここまでは知ってはいた。新聞報道を読んだ時には衝撃を受けた記憶がある。

「私は新聞やニュースをチェックするからこの事件は知っていますよ」
そんな人に言いたい。実はそれだけでは無い。この事件の裏には重要な事実が隠されているのだ。

まず、性接待に出された女性が団での序列の下位から選ばれている。有力者の関係者は免除または性接待の頻度が少ない(尊厳の問題であり回数では無い事は分かっている)。

年齢が若く、未婚の女性のみ、性接待に出されている。

性接待に出された女性に対して、日本人から差別的な発言がされたり、移民団から謝罪がいまだになされていない。また性接待を歴史的に美化・正当化するような動きがあることだ。

家に力の無い(今風に言えば親ガチャに外れた)、若くて未婚の女性が犠牲にされる。戦後80年近く経っても、この国の価値観が変わっていない。
満州での性接待事件は本質的には続いているのではないか。

事件の裏側にある事実を是非ともこの本で読んで欲しい。マスコミ報道だけでこの事件の裏側は到底伝えられてはいない。
内容から決して読むのが楽しい本では無いが、多くの人にこの本が読まれる事を望みます。
 
男性が最も見たくない角度から戦争のことを語っている本だと思う。絶句せざるを得ない。いつも戦争の犠牲になるのは、社会的立場の弱い人、差別されてきた人。そしてその被害者がまた何重にも踏みにじられる。その事は知っているつもりだった。しかしこの本を読んであまりの現実の苦しさ、悲しさに心が打ちひしがれる。何も知らなかった。10代から20代の若い女性が一体何をされたか。周りはそれをどう見てみぬふりをしてきたか。そして、私自身もそうだが、日本は、世界は、この悲しみに向き合ってきていないのだと知る。女性や子どもを犠牲にし続けてきた。そして、今もその女性蔑視を引きずっている現実。その本質は何も変わっていない。こうした悲しみに向き合わず、悼むことなく、どのような”明るい”未来がつくれるのだろうかと感じた。あらゆる党派性を抜きにして心静かにこの本を読んでみてもらいたい。人種とか国とか関係なく自分のあらゆるアイデンティティも一旦置いてこの本を読んでみて欲しいと感じる。自分も何回も読み直したい本になった。心がえぐられる本だ。著者の最後の言葉が胸に刺さるのでぜひ本編を読んでもらいたい。

本の途中にあった次の文も心に残った。被害に遭ったある女性は語る「同じく犠牲になった人 こういう悲しい立場に 民族の違いなど考えない」
 
 
 
戦争とは…改めて戦争は人間を人間ではなくするんだということを考えさせられる一冊です。簡単に核共有とか言ってほしくない。
 
 

「おまえはロモーズ(ソ連兵)が好きやったで」
開拓団を守るためだとソ連兵に差し出され、中国人にも酷い目にあわされた当時十代だった女性に、その後、遺族会の会長が放った言葉が、一番苛烈で胸に突き刺さった。
戦争とは残酷なもので、日本兵もまた中国人女性を強姦したり朝鮮人慰安婦を性のはけ口にしたのだろう。戦争とは、いつも弱い立場の人をもっとも苦しめるのだと思いしらされる。
開拓団自体が時代の犠牲者だとはわかるのだが、そのなかでまた序列があり、保護者の無いいさらに弱い者がいっそう傷つけるられるのだ。
先述の言葉を吐いた会長はどんな思いでそう言ったのか、それを聞いて笑った男性はどんなふうに思っているのか。この点、もう少し突っ込んで欲しかった。貴重な作品だとは思うが、そこが物足りなくて、星ひとつ減らした。
前置きにも、「敗戦後の満州で亡くなった女たちに捧げる」とあるように、生きて帰ることなく異国に散った人々すべてに名があり物語があったことをあらためて噛みしめた。
アサヒという衛生兵と行動をともにしていた娼婦と思われる女性も、その後どう生きたのか気になる。そういう女性たちの物語も知りたい。
 
 

亡母が中国大連からの引揚者だったので、満州には関心があった。それでも、満州と引揚者、戦中、戦後の「歴史」をどこまで自分で知ろうとしたか…。お恥ずかしいレベルである。本書で触れられていたことは、知ってはいたが、その背景、なぜそういうことが起きてしまったのか…。
著者は多角的にかつ、存命の人の証言、資料を頼り、取材相手との信頼関係を築きながら、これだけの書にまとめた能力は称賛したい。戦前の日本地図は、朝鮮半島、台湾、日本本土は赤く、満州はそれより薄いピンク色に塗られていた。
そうした事実の先にあったことを本書を読んで知ってほしい。
無垢な娘たちを「差し出した」人びと、それを受け入れたソ連兵たち…。その行為に至る前にはもっとひどい略奪、強姦、虐殺もあった。命があっただけよかったろう…という心無い声が、彼女たちの同胞の間からも上がっていたという事実。
そういう救いようのない事実に光を当てた立派な仕事である。
何年か前、ここに登場する人たちがカメラの前で証言したNHK・Eテレの番組をYoutubeで見たが、その番組(NHKの取材者)が彼女らに心無い対応をしていた、ということも著者は明かしている。
当該番組で、ことのあらましを知ったつもりでいたが、それに先立って著者が取材をしていたことを指摘しておく。図書館で借りて読んだが、文庫化されるくらいには買い求めたいと思っている。
 
満州開拓団の女性が語ったノンフィクションです。

戦後の満州で何があったか?を知ることができます。

今まさにロシアがウクライナを侵攻しているこのタイミングで、

戦争の愚かさを再認識しました。
 
 

満州への移民政策により、開拓団となり海を渡った人たち。日本が負けたとなると我先に逃げる日本軍。
兵隊が大衆を捨てたまま日本に日本に逃げ帰り、戦後はアメリカと裏取引をして総理大臣までなった奴もいる。この本にある出来事は以前NHKで見たことがある。世話になったのにも関わらず、故郷に帰ると彼女達をのけ者扱いの村民たち。まさに日本人丸出しの状況となる。
話は飛ぶが「情けない日本人」は現在のアメリカ属国親米政治家を見ればわかる。これを選ぶ単細胞、同調圧力、世間体第一の日本国民もダメ。
しかし何よりマスゴミと言われる、欧米から送られてくるニュース(欧米に都合の良いニュースを流すだけ)を、そのまま流す、翻訳会社(新聞、TVと言われている?)が多いからだろう。慰安婦問題がどうのこうのという前に、自分自身の国の出来事を国民に知らせ、反省するべき
 

アンナハーレトンが言う「凡庸の悪」を表したと言うべき事件。差し出した人達は、「自分は汚れから守った」と思っているようだが、実際は「汚れを守る為に自らが汚れた」と見えてしまう。差し出しをした人は「自分は汚れていない!」と逃げて自らが目を向けられない事実が自らが汚れた存在だと認めている。
 

利根輪太郎の競輪人間学 気持ちの強さ

2022年04月18日 03時28分21秒 | 未来予測研究会の掲示板

選手たちの力が拮抗している。
では、勝敗を決めるものは何か?
思うに、最終的には<気持ちの強さ>に尽きる。
それは、勝負に対する、拘りであり<執念>である。
飽くなき<闘争心>とも言えるだろう。
プロである以上、力はあくまでも横一線である。
つまり、その日のヒーローとなるチャンスは誰にでも訪れるものだ。
だが、問われるのは、そのチャンスを生かせるかどうかである。
若き日の村上義弘選手(73期)に注目したい。
彼が小学校時代は、中野浩一や滝沢正光が全盛期であった。
当時(23歳)、身近に松本整(45期)山本真矢(65期)伊藤保文(71期)らの存在があった。
さらに、市田桂寿浩(76期)、内林久徳(62期)らも近畿ブロックである。
松本は25勝で14位であったが、身近に居る彼等はいずれも競輪学校成績では1位での卒業である。
村上は、完全燃焼、練習でも手を抜かないタイプ。
「グランプリメンバーになりたい。諦めないで挑戦すればチャンスはある」と執念を燃やし続けてきたのだ。
その気持ちの強さが、その後の活躍の原動力となったのであろう。