智慧の本質

2022年09月21日 10時02分18秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽青年時代は<鍛えの時>である。
悩みや苦難との戦いの連続ともいえる。
苦しい局面に立たされたとしても、勇気を湧きたたせ、前進の一歩を踏み出していくのだ。

▽心(生命)を鍛錬すれば、自身の可能性を引き出せると実感し、何事にも積極的になる。

▽単に知識と知性があればいいということではない。
人のためにとの<慈悲>と、それに基づく<行動>があって、はじめて価値や幸福は生まれる。

▽智慧の本質は、学問的な知識や知性にあるのではない。
生命尊厳の思想―この人間観、生命観に基づいたとき、社会における変革の急所も見えてくるだろう。
また、あらゆる学問を、真に<人間のため>の方向へと位置づけていくこともできるだろう。

▽反対に、生命の尊厳を傷つけ、人々を不幸に陥れる、悪しき思想を放置することはできない。
悪を放置しては、正義の拡大は実現しない。


何かに挑戦

2022年09月21日 09時28分55秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽生きるとは学ぶことだ。
学ぶとは生きることだ。
「自分には未来がない」と思ったら、まず何かを学ぶことだ。
学べば、未来が見えてくるはず。

▽苦闘の中でなお、至高の生命哲学を学ぶ。
不動の自分を築くために。

▽学ぶことで、人は蘇生していくものだ。

▽事故を防ぐ要諦とは?
しっかりと基本を守ることだ。
基本を怠る油断、そこには慢心がある。

▽人生で大切なことは、何かに挑戦することだ。

▽障害があろうがなかろうが、人生の尊さには何も関係ない。
できる部分とできない部分がある。
できる部分を全部どう生かしていくかだ。


日本大学 古田 重二良第四代理事長

2022年09月21日 09時13分33秒 | 新聞を読もう

古田 重二良(ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年)6月23日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の教育者。昭和時代戦後期の日本大学第四代理事長を歴任し、日大のマンモス化を達成した[2]。

私立大学の経営者(教育者)として昭和戦後期の高等教育機関が少なかったころに、マスプロ教育のシステムを導入して大学進学率上昇に貢献し、理系学部を重視した政策をとった。

また戦後期に財界から期待されてサラリーマン育成機関となった日大のビジネス教育の推進、日本の大学経営における手法を確立した。大学闘争では最大規模となる日大紛争を招いた当事者。

学校法人秋田短期大学(現・学校法人ノースアジア大学)初代理事長。

経歴
柔道学生から職員に
秋田県秋田市生まれ。教職を志し秋田師範学校に入学したものの校長の排斥運動を行ったことから退学、柔道部の先輩を頼り、日本大学専門部法律科へと進学し、学生時代には柔道部主将として学業より柔道の方に身が入っていたという。

1926年(大正15年)日本大学高等専攻科法律学科を卒業すると、日本大学高等工学校(現在の理工学部)職員と兼務する形式で柔道師範として就職する。

1945年(昭和20年)に日本大学本部の事務長に就任し、千葉県津田沼町へ疎開していた理工学部(当時は工学部・高等工学校)など日大全体の戦後復興に尽力した。

理事長から会頭に就任
1949年(昭和24年)12月に理事長に就任して会頭・総長だった呉文炳を補佐しつつ、教育と経営は一体であり私立大学は自ら財政基盤を強固めにして、自主的な経営を行う事によって私学に置ける学問の自由や研究の成果は期待できないと考えて財政基盤の強化と研究の充実に力を振るった。

1951年(昭和26年)2月に理事長を退くものの、同年5月には理事会長として復帰。更に1956年(昭和31年)の企画委員会総会では委員長の古田が「今日の内外の情勢と大学のあり方」というテーマで以下の様に発言している。

皆様が承知の通り大学の使命重要度は増加してきた。社会は月進歩月歩の古語があるが、今日の社会進歩のスピードが早く、世界各国の距離間隔はせばまり一国の状況は他の国々にも大きな影響を与える。各国は一日と安心せず、研究が盛んに続行して止むことなく研究と教育の最高の場が大学である。大学の使命が世界的重要度があるのは当然である。世界各国とも大学のあり方に対する関心が高くて異常なものである。

1958年(昭和33年)6月に呉の後を受けて会頭に就任すると共に、永田菊四郎総長と二人三脚で世界的総合大学を目指し、新体制のもと学内外の情勢の変化に積極的に対応して、同年9月に世界的なを目指すための日本大学改善方策案を掲示した。

日本大学は日本精神にもとづいて・道統をたっとび憲章に従い自主創造の気風をやしない文化の進展を図り世界の平和と人類の福祉に寄与することを目的とする。

日本大学は広く知識を世界にもとめて深達な学術を研究して心身ともに健全な文化人を育成する事を使命とする

この改善案は、

原則として創意工夫して最小限の経費から最大限の効果をあげる。
教育内容の拡充強化を図る。
総論で世界的総合大学を目指して整備計画案の政策への対応
として組織の拡大・マスプロ教育を目指し、学習機能・研究機能・就職機能・校友会の強化、広報の合理化、教育は建学の精神である伝統的精神を方針とした。当時高まりつつあった学生運動に対しては学生の政治活動を制限し、教授陣の強化のため海外・国内留学制度を強化、研究出版助成制度の創設と組織改革を行った。

大学院や短期大学部の再検討、女子教育や夜間教育の充実も挙げられていた。各学部・学科の校舎や医学部病院など施設設備を強化するために「3ヵ年計画」を作成し、教育・研究内容の改善や教職員の待遇改善と教授陣の強化を図った。

だが、この「3ヵ年計画」は不景気による資金調達の困難から設備更新や不動産取得が難しくなり新たに「5ヵ年計画」を作らざるを得なかった。更に、大学全体の教育充実と学生教職員の福利施設の拡充、育英制度の導入と学生会館・国際会館の建設、組織の近代化・合理化と産学協同の推進が謳われた。

この改善案をめぐって商経学部第二部(現・日本大学経済学部)自治会で共産党の活動家などの反対派を中心に古田の改善案反対デモが起きる(日大改善案闘争)。

10月23日、商経学部二部自治会学生大会の時に勤務評定反対闘争(教育労働運動)に参加した自治委員の不当処分撤回と、日大改善案・警察官職務執行法改正案反対のストを決行。24日に全学授業を放棄し、ピケットを張り学内デモを起こした。

日大当局は25日に臨時休校を発令。反対派による高木学部長との会見を27日に日大側に要求したが、日大当局側は学部長との会見の要求に応じなかった。日大当局は28日、29日の教授会で、スト決行の責任者7名を退学処分にする旨を発表する。

11月22日、不当処分を不服に思った反対学生が学内抗議集会を日大職員に要求するも、職員は学生に暴行を加えて抑止した。

警職法改正案反対中央集会に参加してデモをしていた他大学の学生も、大学キャンパス内で巻き込まれ暴行を受けた。日大当局側は事態を重く受け、高木学部長名で機動隊2000名を学内に導入し、大量の退学者・処分者を出して日大改善案闘争は終結した。これにより古田体制とその後の日大の学内体制が確立された。

日大の帝王
日大のトップとして先ず行ったのが個々の学部の独立採算制の導入と附属校・準附属校の増設である。

既に旧制大学時代(日大は1920年代から既に大学令に基づく大学だった)に一時期は高等文官試験合格者数がトップになり多数の合格者を輩出していた司法の日大として規模的にも大規模なものになっていたが、戦時中に大阪府にあった専門学校と大阪中学校を分離し、さらに終戦直後に4つあった附属校のうち3つを別法人として独立(現在の特別附属校)するなど、規模を縮小していた上に、戦災とそれに伴う疎開で福島県から静岡県に至る各地に学部が分散し全体的な統制に欠いていた。

このため教養部や各専門学部に大きな権限を与えつつ独立採算での運営を行わせ、更に日大本体のみならず各学部にもそれぞれ附属学校を持つことを認めた。

一方で大学本体としては1952年(昭和27年)に日本相撲協会から両国国技館を買収して改装の上で日大講堂とし、1959年(昭和34年)10月6日に創立70周年記念式典を同地で挙行した。

式典には昭和天皇と香淳皇后の臨席があり、岸信介首相を始め文部大臣、各大臣、日本大学の総長、日本大学の校友、日本大学の学生ら約5000人が参列した式典で厳粛のうちに盛大に執り行われた。

更に神武景気からの経済成長を見越す格好で学部の新増設にも着手、既に文学部と旧高等師範部を包括する格好で文理学部が新設され、1952年に東京獣医畜産大学を農学部に吸収して農獣医学部へと改組し、1957年には経済学部商業学科を商学部に分離した。

特に戦後の教育改革を前提の産業界の要請を受けて学校制度の中に職業教育の課程の理工系教育が重視されたことから理工系学部の新増設にも熱心に取り組み、福島県に移転していた専門部工科を第二工学部→工学部とする一方で従前の工学部は理科系の学科を増設して理工学部に改組、さらに理工学部の経営工学科を母体に1965年(昭和40年)に第一工学部→生産工学部を設置し、同学部ではいち早くインターンシップを取り入れ産学連携の一環としても重要な意義があった。その他にも以下の学部・学科が古田時代に新増設されている。

日本大学法学部 - 経営法学科・管理行政学科
日本大学経済学部 - 産業経営学科
日本大学芸術学部 - 放送学科
日本大学短期大学部 - 放送学科・栄養学科・建築学科・機械学科
日本大学通信教育部 - 商学部商業学科
こと1960年(昭和35年)から3ヵ年計画を・大学進学者が増加する1963年(昭和38年)から5ヵ年計画を立て、教育や研究の整備教職員の資質向上のため教職員研修会を開催して優秀な教員の確保を行った。

湯川秀樹を理工学部教授として招聘し、湯川の指導下でノーベル賞(ノーベル物理学賞)レベルを目指して国公立大学・私立大学を問わず、一番学会に権威のある教員を少なくても1学科1人を配置し、あらゆる分野で世界的な研究者を50人程度配置するのを目標とした。

古田自身、戦後の国際社会科学技術の日進月歩する競争社会で大学の研究重要度は、原子力支配の世界において日本の大学は理系学部の教育研究が少ないとの問題意識を抱き、日大内部の理系の学部比率を上げ、国内の大学を相手にするのではなく世界の大学を相手にする世界的総合大学の確立を目標にした。

現在の日本大学も、文系と理系の割合は米国などの海外にある大学に近いものがあり、日本の大学の中で学部と学科の多様さ予算規模は他大学に比べて優れている点が特徴的である。

更に戦後の第一次ベビーブーム(団塊の世代)による大学生人口の増加を見越して大学の入学定員を増やす一方で、地方の私立高校を日大統一テストの受験による選考で系列下に置く準附属校の制度を発足させ、ベビーブームが終わった後の学生の確保にも着手した。

1957年(昭和32年)に32億円であった日本大学の収入は、10年後の1968年(昭和43年)には10倍の300億円となっていた。

日大闘争
「日大闘争」も参照
一方でこうした拡大政策は、日大病院などの事業収入はありながらも高いコストとして跳ね上がり、学費は年ごとに値上げされる状態が続いた。

また日大改善案闘争以降、学生の政治運動は著しく制限され、建学の精神と学風と伝統から日大自治会は私学連に加盟したものの、左翼・学生運動・安保運動の全学連には加盟しない状態が続いた。

大学新聞の『日本大学新聞』は大学当局により事前に内容がチェックされ、日大学部祭でのイベントは学部から事前に許可が下りないと実行できなかった。

安保闘争では古田会頭と永田総長は不参加を呼びかけ、闘争に参加した学生に対して処分を下している。

1968年(昭和43年)に22億円の使途不明金が発覚したことから、それまでの学生の不満が一挙に爆発し、劣悪な教育環境やマスプロ教育の改善、学生の政治活動の自由化や体育会系などの右翼学生による暴力反対など、大学全体を巻き込む事態にまで発展した。

学生は「打倒古田」「古田を倒せ」とプラカードをもって叫び、日大紛争で警察官が死亡した責任で永田菊四郎総長は辞職。

秋田明大率いる日本大学全学共闘会議の標的とされ、両国日大講堂(旧両国国技館)における「大衆団交」の大学当事者として日大全共闘から糾弾を受けた古田も会頭辞任に追い込まれた。

後任総長は教職員の公選によって歯学部長の鈴木勝が日大総長となった。

日大理事長には新たに高梨公之が理事長となるが、古田は新たに日大会長となり、かねてから親交があった佐藤栄作からも唆されて結果的に闘争学生を警察力で鎮圧する。

闘争の最中、古田は駿河台日本大学病院にて日大全共闘の学生に分からないように偽名で「古田二郎」の名義で入院加療していたものの、1970年(昭和45年)に肺ガンで死去した。

日大紛争の学生の反乱や自身の会頭としての経営が正しかったのかを悔やみながら死去した。

学外での活動
1953年に秋田短期大学(現・秋田栄養短期大学)が開学された際には、請われて初代理事長を務めている[4]。

旧制大学時代からの日本大学と政財界とのパイプをフルに活用して、1962年には「『東西』冷戦下において日本大学建学の精神の基に『世界調和と人類繁栄』の構築」を目的として財団法人日本会を創設。佐藤栄作を総裁に古田自身は会長になった。その他にも日本私立大学連盟では常務理事・私立学校審議会では会長をそれぞれ務め、大学設置審議会委員や日本柔道高段者会会長も歴任した。

人物
人物評
日大で同級生だった池田正之輔衆議院議員は、古田を評し「秋田犬のように噛み付いたら離れない人並みはずれて執念深い性格の持ち主である」と発言している[1]。日本私学振興財団初代理事長の永沢邦男は、「戦後の私学人のなかで、日大の古田さんくらい金を集めることが上手で、私学のためこの人ほど金を使った人はいない」と語った[5]。

日大トップとしての功罪
古田には日本大学の歴史に対する功罪両面がある。

戦後教育の民主化と戦後復興から経済成長による国民生活向上で、大学は大衆化して高等教育の進学率が上昇した(勤勉であるインテリ層やエリート層が進学するエリート教育機関であった高校、大学は昭和30年代には高等学校の進学率が50%であり、大学進学率が10%で高校及び大学の進学率が低い中卒・高卒の学歴が主流の低学歴社会であった。

昭和40年代には高校進学率が70%であり、大学進学率が20%であり、昭和50年代には高校進学率が90%であり、大学進学率が37%となっている)、それに対応する形で高度経済成長に適応した高等教育が必要となり、国(文部省)は教育政策でアメリカの科学技術・文化を取り入れた。

これに影響されて、首都圏の大学では比較的一般人が目指せるものとして、エリート期からマス段階(大衆化)に移行しつつあった。特に日大では、欧米の大衆化した教育文化に影響され進学率上昇や少子化社会への移行を踏まえたマスプロ教育が導入された(※1970年代に既に少子化は始まっていた)。

古田は、大学の進学率が低かった頃に、成熟した欧米諸国にある大規模校のように、日大を日本一のマンモス校へと成長させた。

戦前・戦後期のエリート層しか進むことのできなかった高等教育機関ではなく比較的一般人が目指せるものとした。また前述した学部・学科の新増設なども産業界の教育に対する要請に応える要素が大きい。

その一方で日大闘争により問題のある設備と教育内容、体育会系の右翼学生が度々起こす暴力事件など、マスプロ教育の負の側面を露呈した。

学部自体の独立採算制は学部あって日大無しと言われるほどの独立性を高める一方で、学部間の確執や対立を引き起こすマイナス面も招き、政財界ばかりか芸能・マスコミ・スポーツ界にわたる日大閥を巻き込む格好での大規模化により巨額の金が学内で動くようになり、それに伴う利権争いや派閥争いが激化することとなった。

ただ、アカデミズムより法人としての利益を優先する姿勢に対しては日大内部でも評価と批判が相半ばするところがあり、日本大学通信教育部では総合科目の「日本大学を学ぶその120年の歴史」で古田重二良が中興の祖として教えられている。

文明観・総合大学院構想
古田は、科学の進歩による物質文明の弊害世界諸文化の流入による思想的混沌・資本主義と共産主義との2大イデオロギーの対立の解決のためには精神的・宗教的・思想的な面の研究も行う必要があると考えて原子力研究所と精神文化研究所と総合科学研究所に物心一如の総合的研究の総合大学院で日大の独自性を持ち出す高度な研究を目指した。
原子力研究所は1957年に開設を見、精神文化研究は1962年に日本会を自ら創設することで実現したものの、総合科学研究所に関しては日大闘争によって古田の生前に実現することは出来ず、瀬在幸安総長時代の2005年に大学院総合科学研究科が開設されたものの2015年に廃止されている。


日大紛争とは

2022年09月21日 09時01分35秒 | 事件・事故

日大紛争は、1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学における大学紛争である。学生運動の立場からは日大闘争と呼ばれる。

概説
理工学部教授が裏口入学斡旋で受領した謝礼を脱税していたことに加え、1968年に莫大な使途不明金が明るみに出たことで、日大生の怒りが爆発したことに端を発する、大規模な大学紛争である。

秋田明大を議長とする日大全共闘は、教職員組合や父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた。

その後、日大の学内に警視庁機動隊が投入され、警察官1名が殉職したほか、双方に多くの負傷者を出した。

1968年9月には、学生側が古田重二良会頭を筆頭とする日本大学当局に経理の全面公開や全理事の退陣を一時約束させたものの当時の吉田内閣によって覆され、運動は退潮していった。

開始時期の早さやバリケード・ストライキの長期的維持、万単位の学生を動員して理事者との文字通りの「大衆団交」を実現したことなど、東大紛争と並んで全国の大学紛争に大きな影響を与えた。

東大紛争と比べて要求項目が明確であり、当初は大学民主化の色彩が濃かった。

背景
1960年代後半に日本では18歳人口の急増と大学進学率の向上により大学生の数が急伸し、大学教育の性格は大衆化しつつあった。

日大は、極めて強い保守思想の持ち主である古田の経営のもと、その潮流に乗って急速に膨張した。1968年(昭和43年)には学生・教職員総数15万を数える日本最大の大学となり、全国大学生総数の約1割を占めるまでに至った。

一方で、学習環境や福利厚生、教職員数はこれに追いついておらず、教育条件の劣悪さに学生の不満が高まっていた。

講義は500人から2000人程度の学生を入れた大教室で教員がマイクで話す形式(いわゆるマスプロ方式)が中心であり、教員の質も低く、それにも関わらず授業料はしばしば値上げされた。その時の日大の学費は、当時の日本の大学の中でも特に高額であった。

一部では環境改善を求める自治運動や学園の民主化、自治会の全学連加盟などを求める運動も行われたが、大学当局は「学生の指導を徹底強化する」「学内における政治運動は禁止する」と方針を打ち立て、これを抑圧した。

また、当時の古田重二良会頭は日大柔道部出身であることから、大学当局は、日大学内の運動部や応援団の体育会系学生を優遇して、学内の学生活動を監視・弾圧する実行部隊として利用した。

経過
使途不明金の発覚

旧・日本大学本部
1968年1月26日、日大理工学部教授(教務部長兼評議員)Oが裏口入学で3000万円を得ていたことが新聞報道された。

さらに同年4月14日、国税局が日大の11学部と2高校への監査[注釈 4]で昭和38年から昭和42年までの5年間で合計約20億円の使途不明金があったことを発表し、5月5日には日大の使途不明金と源泉脱税は合計34億円にのぼると公表された。

これにより、入学金・授業料・寄付金などの約一割を大学本部へ「総合費」として納付し収入を隠匿するという、学部の独立採算制を利用した金の流れのみならず、日大のずさんな管理体制が白日の下に晒された。

使途不明金の実際の使い道は、

教職員への非課税手当(給与規定にないヤミ給与)
本部役員への献納金
学生対策費(学生運動を妨害するための体育会、応援団の予算)
組合対策費(教職員組合へのスト破り)
社交渉外費(古田重二良を会長とした日本会の他、後援会を通じた政財界への献金)
などであった。

全共闘の結成
巨大な日大では、各学部が散らばって学生を分断していたが、大学の不祥事に対して最初に声を上げたのは世田谷区の文理学部と神田三崎町の経済学部の日大生たちであった。

4月23日、文理学部学生会執行部が教授会に対して公開質問状を出した。しかし、返答は「教授会は経理に直接の権能を有しないので具体的にのべられない」とにべもないものであり、その後有志学生らが討論資料やビラを作成して全学生の団結と行動を呼びかけた。

秋田明大を委員長とする経済学部学生会は、5月18日に使途不明金問題についての学生委員会の開催を教授会に請願したが、ここでも学部として声明を出すまでの間は不許可とされた。これを受けて秋田らは無届での活動を始め、5月21日から数百人を集めて経済学部本館地下ホールで抗議集会を開いた。

5月23日、大学当局は本館入り口で他学部生を排除したり、学生会執行部と指導委員長の話し合いと引き換えに無届け集会を即時解散させようとしたが、学生側はこれを拒否し、秋田は通告文を焼き捨てた。その後、退出しようとする学生らを体育会系学生が妨害し、大学職員がシャッターを下ろして閉じ込めようとした。怒った学生たちはデモを始め、経済学部に隣接する法学部にも波及した。5月25日、経済学部は「学部の秩序を乱した」として秋田ら16人を自宅謹慎処分とした。

同日、経済学部の処分に抗議する集会が右翼学生の暴行を受けながらも3学部で開始され、経済学部で行われた抗議集会に法・文の学生が合流し、3000人規模の大集団となった。5月24日には、教職員組合も「全理事退陣要求書」を提出した。

多くが大学当局の御用団体となっている大学公認の学生会や自治会に代わる、全学共闘会議を求める機運が広がり、5月27日にはこれまでの経・法・文のほか、芸・商・理・農・歯などの各学部有志たちが経済学部校舎前での抗議集会に参加し、秋田明大を議長とする「日本大学全学共闘会議(日大全共闘)」を結成した。当面の要求は、

古田重二良会頭以下全理事退陣
経理全面公開
使途不明金に関し大学と学生の話し合い
とされた[9]。翌5月28日から30日にかけ、無届集会と闘争委員会設立が各学部で行われた[9]。

大学当局の抑圧と機動隊出動
5月31日、日大全共闘は理事との大衆団交を申し込んだが、大学当局は「全学共闘会議は非合法団体であり、大学としては認められない」と拒絶され、各学部で抗議集会が開かれた[注釈 7]。この日の午後、集会に参加した学生が体育会系学生らに暴行され、数名が搬送された。

6月4日に行われた集会では各学部の学生1万余人が集結。

右翼や体育会系を集めていた大学当局も、そのあまりの数に暴力による排除を断念し、大学本部で全共闘指導部が学生部長との談判を行うが、平行線のまま全共闘代表は11日に大衆団交を行うことを要求して引きあげた。

6月6日、古田重二良会頭らは「使途不明金は絶対にない」「この難局をのりこえ、学園の発展につくす」として退陣を拒否し、集会の完全自由化や検閲撤廃も否定した。

日大全共闘が大衆団交を行うとした6月11日、大学当局側は校舎をロックアウトし、暴力集団が集会に参加した学生に対して校舎の上から物を投げつけた。

建物内部に入った学生には木刀や陸上競技の砲丸などの凶器が振るわれ、一部には日本刀を持ち出す者もおり、40人が入院するなど多くの学生が負傷した。

その日の午後、大学構内に機動隊が現れた。これを見た全共闘支持学生らは自分たちを暴行する集団を機動隊が排除するものと思い歓迎したが、大学当局の要請を受けて出動した機動隊は体育会系学生らを放置したまま集会を規制し、抵抗した学生6人を公務執行妨害で逮捕した。

この出来事で大学当局と警察に対する決定的な不信感を植え付けられた学生らは、穏健な抗議集会では限界があるという認識を抱くようになる。

スト突入
同日夕、法学部生約300人がストライキ権確立を宣言して三号館を占拠してバリケードを構築したのを皮切りに、日大全共闘は無期限ストに突入した。公認の学生会は日大全共闘の扱いを巡って学部間で対立して機能不全に陥り、6月13日に中央委員会が学生会連合の解散を宣言した。

日大のバリケードは、右翼の襲撃に備えて「学園闘争史上最強」と呼ばれるまでに強化されていった。

大学当局は、経理公開や大学近代化をうたう大学改革案を発表し、夏休みを繰り上げたり父兄やOBに働きかけるなどして、大衆団交要求を拒絶しながら沈静化を図ろうとしたが、7月10日に国税局が「日大職員2012人が3年間で総額19億3000万円が課税を逃れたヤミ給与の支払いを受け、個人のヤミ給与の最高額は1億5000万円」とする新たな調査結果を発表した。日大の古田重二良会頭は記者会見で反省する素振りを見せず、世間を呆れさせた。

同月、強い批判を受けた大学当局は予備折衝を申し入れたが、「右翼団体より、大衆団交の名称だけは用いるなと、本学に申し入れがある」として古田重二良会頭は「全学集会」の名称にすることを頑なに求めた。

日大全共闘側はこれに激怒し、法学部1号館大講堂で「大衆団交」を8月4日に行う約束を呑ませた。しかし、直後に行われた届出デモでは警察の規制を受けて負傷者と逮捕者を出し、学生らは「当局は団交に応じるふりをしていながら、一方で機動隊の出動要請を出したのか?」と不満を更につのらせた。

日大の古田重二良会頭は、乗っていたタクシーを学生に取り囲まれた事件を理由に、安全の保証がされていないとして大衆団交の無期延期を通達した。大衆団交が行われるはずだった8月4日、日大の法学部本陣に数千人の学生が集まり抗議集会を開き、

全理事の総退陣
検閲制度の廃止
検閲の全面公開
集会の自由を認めよ
不当処分白紙撤回
のスローガンを決議した。

警察官殉職と取締強化
学生らが掲げた「我々の授業料は、父や母の汗の結晶である」という言葉は大人たちに好評で、はじめの1ヶ月間程は市井でもカンパに応じる者が多く、世論は概して学生側に同情的であった。

規制にあたった警察側でも、日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情する雰囲気があり、大学進学率[注釈 12]が2割に満たなかった当時においてエリートに属する学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいた。

一方、日大全共闘はストライキ維持のために夏休み期間中の自主登校を学生らに呼びかけた。バリケードの中では当初厳格な規律が確立されていたが、籠城が長期化するにつれて次第に弛緩していき、また8月頃から中核派などのセクトの影響も見られるようになり、学生の間で意識の乖離が進んだ。

夏休み明けを控えた8月24日、大学当局は「学生諸君の集会、出版物配布の自由、処分撤回、経理の公開などを中心とする主要な要求は認める」として妥協案を出した。これに対して日大全共闘はあくまで大衆団交の実現を要求した。

1968年9月4日未明、東京地方裁判所の仮執行処分に基づき機動隊などによる強制排除が行われた際、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊の巡査部長が、学生が校舎4階から落とした約16kgのコンクリート片を頭部に受けて重傷を負い、29日に死亡した[注釈 。

これは、警察にとって学園紛争で初の死者、公安事件としては戦後3人目の犠牲者であった。

警視庁公安部・村上健警視正は「警視庁はこれまで学生側にも言い分があると思っていたが、もうこれからは手加減しない」と記者会見で憤りをあらわにした。学生に対する怒りは、検挙よりも解散を重視していた警察の方針を徹底的な取締へ転換させた。

この機動隊による強制排除は、学園正常化に成功した国際基督教大学や芝浦工業大学の前例に倣ったものと見られるが、大学当局が改善案を提起していながら事前の話し合いや予告もなく警察の手を借りたことは却って反発を生み、日大全共闘は他大学の各セクトによる「外人部隊」の協力を得て機動隊退去後の経済学部・法学部校舎を再占拠した。その後も機動隊出動と学生の事前退避・再占拠が繰り返され、9月12日には神保町近辺で大規模な衝突が起こった。

これらの衝突で被害を受けた付近の商店や住民は学生らに対する態度を硬化させ、日大全共闘を批判するメディアが増え始めた[21]。

「大衆団交」の開催と挫折、運動の終息
その後も日大全共闘による大衆団交の要求、大学当局の妥協案提示、日大全共闘の拒絶が続いたが、9月29日に日大の理事学部長会議はついに翌9月30日に「全学集会」を行うことを決定した。

9月30日当日、日本大学当局の主催の形式が取られた「全学集会」は、床にヒビが入るほどの大入りの両国講堂で開催された。当初2時間の学生らはヘルメットやゲバ棒の持ち込みを禁じられたが、日大側が2時間までとしていた集会は12時間にも及んだ。

全学集会では、全共闘は全理事から本集会が「大衆団交」であることを認めさせたほか、過去の大衆団交実施の違約・仮処分申請・機動隊導入に対する自己批判や集会・出版の許可制撤廃、本部体育会の解散、学生会館の自主管理、全理事の総退陣、闘争での処分者を出さないことなどを記した確約書に理事たちを署名させたうえ、10月3日に大衆団交を再度行うことを約束させ、ほとんどの要求を通した[注釈 17]。ただし、日大の理事の総退陣は理事会でこの後決定するとされた。

この時、日大の古田重二良会頭は途中疲労により倒れ、秋田は団交終了後放心状態であったという。

しかし翌10月1日に、佐藤栄作首相が大学問題閣僚懇談会で「日大の大衆団交は常識を逸脱している」 「法秩序の破壊すら進んでいる。いまや、この処理は政治問題として取り上げる段階に来た」と発言した。更に、先述の警察官の死亡により、日大全共闘に対する世間の風当たりは強くなっていた。

10月2日に開かれた日大の理事会で、古田重二良会頭ら日大首脳部は約束させられていた10月3日の大衆団交を撤回した[23][24]。

10月7日、日大評議会から全員一致での日大の理事総退陣が勧告されたものの、10月9日の理事会で出された退陣決議は一部理事の反対により全員一致とならず、新理事が選出されるまで現理事がとどまるという付帯条項がつけられた[23]。

秋田ら日大全共闘は10月3日に抗議集会を開くが、2000人弱しか集まらず、学生たちの失望感と挫折感は明らかであった[23]。

10月5日には秋田ら全共闘系学生に公務執行妨害と都公安条例違反で逮捕状が出され、潜伏を余儀なくされた。10月21日の国際反戦デーの頃にはセクトの侵食が進み、日大は反権力の一拠点となっていた[23]。

この頃には一般学生らは進級・卒業、そして就職に対する危機感を持ち始めており[注釈 18]、10月15日に企業の人事担当者から紛争が長期化する日大からは採用しない旨を言い渡されて就職内定者の間で動揺が広がった。

11月10日には父兄会が開催され、紛争の元凶として批判された末に発言を認められた全共闘派の涙ながらの訴えに、事態を解決できない理事の総退陣要求には同意したものの、子弟の就職を心配する父兄はあくまで授業の早期再開を求めた[23]。

11月8日には芸術学部のバリケードへの攻撃に参加した空手部主将が逆に全共闘に拘束され、両手を潰して全身を滅多打ちにするなどの凄惨なリンチが加えられた。

11月18日には事件の現場検証として機動隊が導入され、芸術学部闘争委員会は大量逮捕により事実上壊滅した。

日大全共闘は11月30日に大学当局に再び大衆団交を要求したが、拒絶されて行き詰まり、学外勢力との連帯に活路を見出そうとした。

11月22日には「東大=日大闘争勝利全国学生総決起大会」が開かれ、両大全共闘による共同文書が出され、田村正敏書記長は「東大は日本帝国主義の高級官僚の養成、日大はサラリーマンの養成機関であった。われわれはこのような現体制を打破せねばならない」と演説した。

この流れはセクトや活動家・左翼評論家から歓迎されたが、日大全共闘を「民主化闘争」として支持してきた人々の共感を失うこととなり、学内でも離反の動きが加速した。そのような中で、東大での民青との内ゲバに参加するなど、日大全共闘は更に急進化していく。

全共闘系学生が次々と逮捕されていく中、11月24日から経済学部で他県の日大施設を利用して4年生(短大2年生)に卒業単位を取らせるために集中講義を行う「疎開授業」が開始された。法学部や商学部もこれに続き、全共闘はボイコットを呼びかけたが、卒業延期を恐れた一般学生らは授業再開に応じた。

孤立した全共闘系学生たちは去っていった一般学生を軽蔑したが、機動隊にバリケード封鎖を解除された校舎を再奪還できる力はなく、1969年2月までに構内の拠点を失い、警察や体育会系学生の警備のもとで同月に実施された入試にも手出しができなかった[29]。

3月12日に潜行中であった秋田が逮捕され、警官死亡に関して逮捕状を出された者は全員が逮捕されたが、裁判では「現場にいたとの証明がない」として全員の無罪が確定し、未解決事件となっている。

日大全共闘はその後も少数の学生で活動を続けたが、1970年代初頭には自然消滅した。

その後
学生・機動隊双方に多数の負傷者を出したため[注釈 20]、その責任をとって日大の永田菊四郎総長は辞職した。その直後に日大関係者による日大の総長選挙が行われ、歯学部長鈴木勝が総長となった。

また、高梨公之が新たに日大の理事長となった。なお、古田は“会長”となったが、紛争収束後の1970年(昭和45年)に日大付属病院で死去する。

病院では日大全共闘を避けるため偽名を名乗っていた。

古田派の中心人物として知られた石松新太郎・日大理工学部助教授は1981年に愛人の子に鉄パイプで撲殺された。

なお、1970年2月25日には、京王線武蔵野台駅付近の踏切で体育系学生集団ともみあいになった全共闘側の学生が、特急電車と接触して死亡する事件が起きている。その後付近にいた他の全共闘学生らは凶器準備集合罪などで逮捕されたが、体育会学生らは参考人聴取に留まった。

1968年、日大紛争の端緒となったヤミ給与問題で東京国税庁が調査に入ると、別途、不正経理を行っていた経済学部会計課長が発覚を恐れて2000万円以上の現金を持って逃亡した。

1968年、その会計課長は警察に逮捕されたが、その使途不明額は1億5000万円以上にのぼり、多くが金融ブローカーのほか応援団関係者、校友会関係者など日大関係者に流れていたことが判明している。

60年後の2021年には、経済学部生でのちに理事長となる田中英壽による大学私物化事件が起きている。


血の中傷

2022年09月21日 06時51分48秒 | 社会・文化・政治・経済

血の中傷 英語: Blood libel, Blood accusation、ヘブライ語:עלילת דם)とは、ユダヤ教徒がキリスト教徒の子どもを拉致誘拐し、その生き血を祝祭の儀式のために用いているとする告発、非難であり、儀式殺人ともいう。

井戸に毒を流すこと(Well poisoning)や聖体冒涜(host desecration)などと並んで反ユダヤ主義の歴史において主要な題目となり、ユダヤ人に対する迫害、追放、虐殺の口実となった。

典型的な血の中傷においては、キリスト教徒の血は、過越祭で食べられる酵母の入っていないパン「マッツァー」に使われるとされる。中世ヨーロッパにおいては何千の噂を除く150例の儀式殺人事件でユダヤ人が逮捕され処刑された。

なお、「血の中傷」が有害で誤った告発を意味することもあるが、この使用法についてユダヤ人グループから抗議がなされている。

名称の由来
過越しのパン(マッツァー)の中にキリスト教徒の子供の血を混ぜるという噂が、「血の中傷」という言葉のそもそもの由来である。

だが、この噂が広範囲に流布されるに及んで、ユダヤ人に対する中傷一般を指す概念として用いられるようになった。

血の中傷はユダヤ人差別の象徴として、彼らに対する憎悪を一層掻き立てる機能を果たした。

特に過越祭の期間にその機運が高まったが、それは過越祭そのものが他の祭に比べて民族主義色が濃く、ユダヤ教の起源、習慣、信仰といったアイデンティティをより具体的に表現していたことも関係している。

ユダヤ教には殺人についての厳格な禁止事項があった。

また古来より、肉食には細心の注意を払っており、タルムードでは人肉食についての警告を発してもいる。にもかかわらず、ユダヤ教徒は特別な儀式において祭具に滴らせるキリスト教徒の血を必要とし、そのために密かにキリスト教徒の子供たちを殺害し、その遺体から血を絞り出しているといった噂が公然と囁かれていた。

ユダヤ人によるキリスト教徒殺害という観念はイエスの受難を連想させ、その再現とさえ見なされていた。その種の噂は以前からあり、単純にキリスト教徒に対するユダヤ教徒の復讐であると説明されていたが、その後、反ユダヤ主義者にとって都合の良い別の説が定着するようになる。

それが上述の、過越のパンにキリスト教徒の子供の血を混ぜるというものであった。

さらには、過越の晩餐に供されるワインにも血が注がれているといったと尾ひれが付くようになり、年を追う毎に、過越し祭が繰り返される度に話が膨らんでいった。

血の中傷にまつわる流言は、中世以降の800年間におよそ200のバリエーションが数えられているが、そのいずれもが核心部分にはほとんど手が付けられていなかった。

よって、世代を通じて固定観念が形成されるようになり、血の中傷についてのおおよそのストーリーが完成するに至った。

それによると、過越祭の数日前になると突然、キリスト教徒の子供が行方不明になる。
祭が終わった頃になると子供の遺体がユダヤ人の家の近辺で発見される。
その遺体には血を抜き取られた形跡がある。
つまり亡くなった子供はユダヤ人の過越しの生贄として犠牲になったという話の流れである。

当時のキリスト教徒は、自分たちのことをユダヤ人よりも啓蒙され、より文明的であると考えていた。

よって、キリスト教社会では穢れた職業として禁忌されていた金融業にユダヤ人が携わっているのならば、儀式においても人肉を食したり血をすすったりするような野蛮な信仰、習慣を保持しているに違いないと当然視していた。

血の中傷は、当初はイギリスとフランス国内でのみ、まことしやかに囁かれていたが、この両国を中心に各国へと伝えられ、やがてはヨーロッパ全土を席巻するに至った。

歴史
血の中傷の起源は古代にまで遡ることができる。

それがキリスト教社会固有の潮流としてヨーロッパ地方の各地で爆発的に拡散したのは中世末期のことである。

古代
フラウィウス・ヨセフス(ヨセフ・ベン・マタティアフ)は『アピオーンへの反論』でのユダヤ人を擁護する記述の中で、反ユダヤ主義信奉者がユダヤ人の誹謗中傷をヘレニズム世界の各地に蔓延らせていたと述べている。

ヨセフスが紹介した中傷は次のような話であった。

アンティオコス4世エピファネスがエルサレムの第二神殿の中に入った際、収監されていた一人のギリシア人男性の姿を見付け、彼が何者で、そこで何をしているのかを尋ねた。

するとその男は、ユダヤ地方を訪問中に捕らえられて囚人として神殿に連行されたのだが、そこで食料をたらふく食べさせられていると答える。アンティオコスはさらに質問し、その言葉の意味を質したところ、彼は答えた。「ユダヤ人の律法では、国外から訪れるギリシア人を捕らえて丸1年かけて十分に太らせた後、生贄として神に捧げ、その肉を食べながら全ギリシア人を呪い殺すべく誓いを立てるよう定められている」と。
ヨセフスがユダヤ人に対する中傷への反証のために持ち出したこの屈辱的な逸話は、自らもユダヤ人であったヨセフスがあえて書物に記録したことにより、ヘレニズム期からローマ時代にかけて、この種のデマが流布していたことの信憑性を高めている。

中世
十字軍の時代には、イギリス、ドイツ、フランスなどでユダヤ人による儀式殺人(meurtre rituel)が告発された。

イギリス
ノリッチのウィリアム:最初の血の中傷

ユダヤ人に儀式殺人で殺害されたといわれたノリッチのウィリアムの磔刑。

ノーフォークロッドンホーリー・トリニティ教会
血の中傷が最初に発生したのは、1144年、イギリス東部の町ノリッチにおいてである。

ユダヤ人が儀式のために少年ウィリアムを殺したという儀式殺人を告発したケンブリッジの修道僧シーアボルドはキリスト教の洗礼を受けたばかりの改宗ユダヤ人だった。

ウィリアムという名の少年の遺体が森の中で発見された。

その遺体は腐敗こそしていなかったものの、暴力が加えられた痕跡が残されていた。

事件の調査に当たったトマス修道士は、聞き込みによってユダヤ人の関係を仄めかすいくつかの証言を集めた。

ユダヤ人富豪の屋敷で働く家政婦によると、彼女は屋敷内でその幼児が縛られているのを目撃したという。また、キリスト教徒のひとりは、遺体を森の中へと運ぶユダヤ人の集団と遭遇したと報告した。

さらには、トマスの友人のユダヤ人キリスト教改宗者も、ユダヤ人が毎年フランスのナルボンヌに集まり、その年の過越の生贄をどの町から調達するのかを協議していると告白した。

当時の資料に基づいた歴史家の推論によれば、すべての証言はユダヤ人キリスト教改宗者がトマスに吹聴したものと見られている。

このユダヤ人に関連して別の歴史家は、彼の偽証は当時一般的に語られていた中傷の一つになったに過ぎず、その背景ではもっと悲惨な事件が多数起きていたと述べている。ユダヤ人名士が一文無しの騎士に殺害される事件も起こった。

当地の権力者等はこの事件に一切絡んでいなかったが、彼が確立した血の中傷は作者を離れて独り歩きし、その後に誕生する何百というバリエーションのプロトタイプとして世代を通じて語り継がれた。

リンカン
1255年、イングランドのリンカンにて、貧困層の子供が森の中で行方不明になった。

遺体は井戸の中から発見されたが、容疑者として真っ先に疑われたのはユダヤ人であった。

尋問の末、彼らの中の一人が罪を自白したものの、その自白は減刑には結び付かなかった。

彼は馬の尾に結び付けられて市内を引き回された挙句、その他17名のユダヤ人と共に処刑された。

それから200年後の時代の詩人ジェフリー・チョーサーは、『カンタベリー物語』の逸話「女子修道院長の話」の中で、リンカンでの血の中傷を取り上げている。

フランス
1171年にはフランス中部の町ブロワでも血の中傷が発生したが、いくつかの点で特殊な事例であった。

遺体の発見や幼児の行方不明といった伏線がない状況で発生した。

ユダヤ人とキリスト教徒の使用人がすれ違った際、加工された皮の包みをユダヤ人が落としたことが火元になったと見られている。

使用人はその皮が子供の遺体から剥ぎ取られたものと疑って、すぐさま主人に報告した。

その主人は以前にユダヤ人の富豪ともめた経緯があって、復讐の機会を窺っており、その報告を好機と見たのである。その他の事例とは違って、この件にはブロワの権力者も積極的に絡んでいた。

それは当地におけるユダヤ人がらみの裁判を円滑に進めることを目論んでいたからである。

この事件では、ユダヤ人38人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式殺人を行ったと告発され、焚刑に処された。

ブロワにおける惨殺によって大変な衝撃を受けた同時代のユダヤ人たちは、その日を心に刻み込むためにシバンの20日を断食日に制定した。

その制定は、今日ではラベィヌー・タム(ラビ・ヤアコブ・ベン・メイール)の一連の業績の一つに帰されている。

また、当時行われた断食については、ゲダルヤの断食よりも大規模なものであったと伝えられている。

ボン出身のラビ、エフライム・ベン・ヤアコブは自著"ספר הזכירה"(追悼の書)において、ブロワのユダヤ人の受難を次のように描写している。

「女性や子供をも含めた共同体の全住民が賛美歌アレィヌーを口ずさみながら積み上げられた薪の上に載せられた。厳かな低音の声で祈りは続いたのだが、最後には悲鳴と絶叫に変わっていた。そして全員で声を合わせて『アレィヌー・レシャベァフ』と祈った後、火の中で燃え尽きた。」

1191年、ブレ=シュール=セーヌで儀式殺人で告発されたユダヤ人約100人が焚刑に処された。

1288年のフランスのトロワでの異端審問裁判にて、13名のユダヤ人が儀式に使う血を採取するために子供を殺した廉で、火刑に処せられている。

ドイツ
1147年、ドイツのヴュルツブルクでユダヤ人数名が儀式殺人で告発され、何名かが殺害された。

1150年、ケルンで、改宗ユダヤ人の男の子が教会で聖餅(ホスチア)を拝領すると、大急ぎで家に帰って、聖餅を土に埋めた。

僧侶が穴を掘り返すと、子供の遺体を発見した。すると光が下り、子供は天に上ったという話があった。

1235年、ドイツのプルダーにて、キリスト教徒の粉引きの息子5人が森の中で惨殺されるという事件が起きた。

すると瞬く間に、その町の32名のユダヤ人が復讐心から子供たちを殺したというデマが広まった。事件当時のプルダーには、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位:1220年 - 1250年)も滞在していた。

皇帝は改宗ユダヤ人による諮問委員会に儀式殺人の究明を命じた。

委員会は、ユダヤ教で人間の血を儀式で使用する根拠はどこにもなく、それどころか、ユダヤ教では人間の血をなにかに使用することは禁止されているとの報告がなされた。

フリードリヒは彼らの言葉を信じ、血の中傷が単なるデマであるとする勅旨を公布し、そのデマを広げた責任者たちを厳罰に処した。

1236年7月、フリードリヒ2世は金印勅書でユダヤ人を「皇帝奴隷」として血の中傷から守った。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、ドイツのユダヤ人が皇帝の国庫(カイザリッへ・カンマー)に属すると宣言した最初の皇帝となった。

1247年にはローマ教皇インノケンティウス4世も血の中傷の問題の対処に乗り出し、各地の大司教、及び司教宛に次のような手紙を送っている。

権力の要職にある者たちがユダヤ人の土地を略奪するためにドイツ全土にて蛮行を働いていると彼らは抗議しているが、我々はその抗議を全面的に受け入れる。

これらの蛮行に加担した者たちは、キリスト教の教義がユダヤ教の旧約聖書の上に立脚していることを忘れた愚か者である。旧約聖書にはこのように書かれている。

『殺すなかれ』と。あなたたちはユダヤ人が過越祭において子供を殺してその死体を食べていると訴えているが、彼らは過越祭の期間中、死体に触れることさえも許されていないのである。

あなたたちは殺人事件で容疑者が不明の場合、いつでもユダヤ人にその罪を被せている。

しかも十分な捜査は行われず、目撃証言もなければ裁判も開かれず、あまつさえ抗弁や自白さえもまいまま、ただユダヤ人を迫害したいが一心に愚かな蛮行を繰り返している。

ローマ教皇庁の慈悲によってユダヤ人に土地の所有権が与えられていることに不満を抱いている者は、彼らに対して監禁や尋問といった様々な虐待を加えた挙句、極刑に処している。

なればこそ、敬愛すべき兄弟であるあなたたちに忠告する。初心に立ち返り、法に背かないよう自戒しなさい。

また、ユダヤ人に非がある場合以外は、彼らに対するいかなる迫害をも許してはならない。
この文面はインノケンティウス4世に続く歴代の教皇によって、繰り返し引用されていた。


トレントのシモン

『トレントのシモンの物語』(ハルトマン・シェーデル 1493年)の挿絵
1475年、イタリアのトレントで、ユダヤ人の家の井戸の中からシモンという名の少年の遺体が発見された。おそらく、キリスト教徒の殺害者が安易に罪を逃れようとして遺体を投げ込んだものと見られる。

地域のユダヤ人たちはそのように推定したものの、当局に対して立証する手立てが何もないために動揺した。

さっそく、ユダヤ人の家の中から子供の泣き声がするのを聞いたと証言するキリスト教徒が現れた。

尋問は凄惨を極めたため、家族の者は事件への関与を認ざるを得ず、当局の調査内容に沿った事件の詳細を供述した。

首謀者とされたユダヤ人は水磔、他の者たちは白熱したやっとこで肉を割かれた後、火刑に処せられた。

この事件では13名の命が奪われ、残されたトレントのユダヤ人たちも町から追放されてしまった。

その後、ローマのユダヤ人たちの請願が通じ、教皇庁は事件の再調査を命じた。

すると密告者が現れ、彼は身の危険を案じながらも、ユダヤ人に対して行われた裁判が公正な訴訟手続きを踏まないまま、尋問による自白のみを頼りに進められたことを暴露した。

この調査結果を受けて教皇庁は事件の究明委員会を設置したが、最終的に採択された決議は玉虫色のものであった。

つまり、インノケンティウス4世の禁止令を改めて批准する一方、トレントでの訴状手続きが適正であり、これ以上委員会が干渉する理由はないと結論付けた。

後代になると、シモンの伝記が複数執筆されたが、いずれの内容にも様々な奇跡譚がちりばめられていた。その奇跡のおかげで彼は1588年、教皇シクストゥス5世によって列聖されている。

ただし、1965年になるとパウルス6世によって列聖は無効とされた。トレントの教会には現在、次のような碑文が彫られている。「かつてこの場所では、人類史上の黒い一頁として記載されている耐え難い出来事があった。」

イスラエルの歴史家でバル・イラン大学の教授アリエル・トアフは、教皇庁の依頼に応じて当件の調査にあたり、その結果を著書"פסח של דם"(血の過越)にまとめたが、同書では、シモン殺害は戒律を破ることさえも厭わないユダヤ人急進派による行為であると結論付けている。

それによると、当時集められた証言を検証したところ、公判記録に残っている血と砂糖を取引していたとされるヴェネツィア出身の商人の実在が裏付けられるなど、証言には十分な信憑性があるとしている。

しかし、彼の著作はイスラエルでは酷評に晒され、非科学的で査読に堪えない書物を大衆に公表したとして、学者としての姿勢もろとも糾弾された。

彼に対する反論の主なものは、過去に十分検証され尽くした資料を強引に解釈する、その方法論に向けられている。

また、500年以上も時を経た今日に至っては、過去の証言だけではいくら検証し直しても、尋問を否定するに値する情報を見出すことは不可能であり、仮にその証言に信憑性があると判断するのなら、中世ヨーロッパの魔女裁判において、サタンとの情交の嫌疑で火炙りにされた何千人もの女性の自白さえも認めざるを得なくなってしまうと述べている。

スペイン
1491年、すなわちユダヤ人のスペイン追放の前年、ラ・グアルディアにおいて多数のユダヤ人が、儀式において子供を惨殺した上、遺体から心臓を取り出したという嫌疑で告発された。

しかし、子供が行方不明になったという報告はなく、死体が見つかったという記録さえも残されていない。にもかかわらず、告発されたユダヤ人たちは極刑に処された。

現在では、殺されたという子供自体がそもそも実在していなかったと見られているが、この話を広めた者たちは、子供が犠牲になった瞬間に地震が起こり、太陽が暗闇に覆われたなど、あたかもこの事件がキリストの受難の再現であるかのごとく吹聴していたのである。

また、遺体が見つからないことに関しては、天に召されたからだと言って納得させていた。

一部の歴史家たちは、この事件が不測の事態から生じたのか、あるいはスペイン追放を控えた時勢を鑑みれば、土地を接収するために取られた計略の一環だったか、その真偽についての解明を進めている。

ラ・グアルディア発祥のこの物語は後代に戯曲化され、スペイン文学史において数百年の間、歌い継がれた。

スロバキア
1494年、スロバキア西部のティルナウ(トルナバ)で発生した儀式殺人事件では、ユダヤ人はキリスト教徒の血を儀式や薬として使っていると告発された[15]。

近現代
18世紀以降もポーランド、ロシア、ダマスカス、ハンガリー、ギリシャ、チェコなどでユダヤ人への血の中傷事件が起こったが、これは東欧ではユダヤ人による儀式殺人の中世の伝説が深く根をおろしていたためであった[16]。

ポーランド
17世紀になるとポーランドにも血の中傷が波及し、西ヨーロッパと同様の現象が起きた。

18世紀から19世紀の初頭にかけて、ポーランドとロシアにおいて血の中傷が波状的に流行し、殺人事件をも含む様々な虐待行為が惹き起こされるようになった。ポズナン、ザスロウ、ジトーミル、ベリジュといったゲットーのある地域では特に酸鼻を極めた。

1736年、ポズナンにおける血の中傷で4人のユダヤ人指導者が虐殺された。
1747年、ザスロウで過酷な拷問の末に4人が命を落とした。
1753年、ジトーミルで12人のユダヤ人が生きたまま切り刻まれた後、火炙りにされた。
1823年、ベリジュにて多数のユダヤ人が牢獄に監禁され、その後数年間も拷問を受けた。
1944年-1946年のポーランドにおける反ユダヤ運動にて、1000-2000人のユダヤ人(記録されたケースは237件)が殺害され、特にキェルツェで行われた「キェルツェ・ポグロム」(en:Kielce pogrom)や「クラクフ・ポグロム」(en:Kraków pogrom)は血の中傷と云われている。
1946年、ポーランドのキエルツェにて、ユダヤ人が儀式のためにキリスト教徒の子供の血を利用しているという噂が広がり、ポグロムを惹き起こした。

事の発端は、2日間の行方不明の末に発見された9歳の少年が、地元警察での事情聴取の際、ユダヤ人の議会施設に監禁されていたと供述したことにあった。彼はそこでユダヤ人がキリスト教徒の子供を殺害するのを目撃したという。そこで警察は、狂信的なユダヤ人が過越のパンに混ぜる血を採取する目的で殺害したと推理し、捜査のために当該の施設に向かった。すると、噂を聞いて激怒した地元民たちが暴徒と化して警察の後を追って来た。当時現場に居合わせた目撃者によれば、暴徒らはユダヤ人が所有する武器が押収されるのを見ると、家屋に向かって投石を始めたが、やがては警察官や軍人までもがその行為に加わり、ついにはポグロムへと発展してしまったという。この騒動によって約200名いたユダヤ人住民のうち、42名が命を落とし、80名もの負傷者が出たが、彼らは皆、ホロコーストの生き残りであった。また、暴徒からも2名の死者が出ている。ソビエト政府とポーランドの右派は、このポグロムにはユダヤ人と暴徒の双方に責任があるとして告訴した。暴徒から数名が法廷に立たされたが、警察官や軍人は含まれていなかった。それから60年を経た2006年の追悼式典にて、ポーランド政府はこの事件に関して公式に謝罪し、「キエルツェでの悲劇はユダヤ人だけでなく、ポーランド人に対しても耐え難い屈辱を与えた」と述べている。
ロシア
19世紀のロシアでは、儀式的殺人の廉で告発されたユダヤ人の裁判が複数回執り行われたが、1件の例を除いたすべての件で無罪が確定している。

にもかかわらず、時の皇帝ニコライ1世は1817年における布告で、「ユダヤ人の中にはキリスト教徒の血を必要としている者が多数いる」と公式に述べた。

特殊な例としては、1852年から翌年にかけて、サラトフで多数のユダヤ人が血の中傷によって告発され、2名のユダヤ人が15年もの間、牢獄で拷問を受けていたというケースもある。

ただし、1855年には血の中傷に関する調査委員会が設置されており、いずれもがデマでしかなかったことが立証されている。

イズミールとコンスタンティノープル
1872年から1874年にかけてのオスマン支配下のイズミールとコンスタンティノープルで広まった血の中傷は、当地のユダヤ人に様々な悲劇をもたらしたが、その多くはギリシア人によるものであった。

ダマスコ
1840年にダマスコで起きた血の中傷にまつわる事件は、世界中のユダヤ人社会に凄まじい衝撃を与えた。

この時期はムハンマド・アリーによるフランス傀儡政権がダマスコを統治しており、イギリスとオーストリアを後ろ盾にしていたオスマン帝国との交戦中でもあった。

血の中傷の背景には、1840年2月5日にトマソという名前のイタリア人修道士と付き人のイスラム教徒が、ユダヤ人街の市場を訪れたのを最後に行方不明になるという事件があった。

ダマスコのフランス領事ラティ・メントンは反ユダヤ主義者として知られていたが、彼はこの機会を逃さず、すぐさまユダヤ人が関与しているとして告発した。

一方、フランスの首相アドルフ・ティエールは政府主催の代表者会議をダマスコで開催し、エドモンド・ジェームズ・ロスチャイルドとの話し合いの中で次のように述べている。

「もし中世のユダヤ人たちの儀式的殺人への関与が自明であるなら、今日のダマスコの薄汚いユダヤ人が彼らと同じことを行わない理由とは何なのか?」
すると、あるユダヤ人に疑惑の目が向けられたので、さっそく取調べが始まった。

厳しい尋問によって自白せざるを得なくなった彼は、苦し紛れにユダヤ人共同体の7人の有力者の名前を挙げた。

彼らはすぐさま逮捕され、尋問の挙句に数人が命を落とし、残された者たちは観念して自白した。

この事件の首謀者とされたのはハイム・ファルヒという実業家で、ユダヤ人によるパレスチナ開拓や教育をはじめとした、公共施設に多額の献金を行っていた人物である。

彼は様々な尋問を受けたものの、幸い嫌疑不十分で釈放された。

同じく容疑者としてダマスコの著名なラビ、ヤアコブ・アンテビも拷問を受けたが、後に名誉を回復している。

この間、ユダヤ人街から豚のものと見られる骨が発見された。ところが当局によって修道士の骨として公表され、教会内で厳かに埋葬された。

これを受けて、ユダヤ人が貯蔵していると噂される血のありかの捜査が始まったが、当局はユダヤ人からの自白を引き出すため、3歳から10歳までの彼らの子供たち60名を誘拐するなど手段を選ばなかった。

ダマスコでの事件は、噂となって世界中のユダヤ人の耳に届いていたものの、当初はわずかな援助しか差し伸べられなかった。

ところがこの誘拐事件によって関心が高まり、子供たちの救出へ向けての各方面からの働きかけが増加した。

これは多分に民族、及び宗教闘争の要素を孕んでいた。この過程においてモーシェ・ハイム・モンテフィオールの努力が実り、オスマン皇帝アブデュルメジト1世によって、帝国内の事件でないにもかかわらず、血の中傷の流布を厳禁する布告がイスラム教徒に出されたりもした。

中でも目立った活動をしたのはドイツの詩人でパリ在住のユダヤ人キリスト教改宗者ハインリヒ・ハイネであった。

彼は血の中傷への反論を声高に叫び、その迷信に内包された反ユダヤ主義者のコンセンサスを明らかにした。

また、イギリス政府も罪なき被害者の救出活動に全力を注いだ。ダマスコでの血の中傷がユダヤ民族史上の一つのターニングポイントとなったことは間違いないであろう。

この事件を通じて、中東のユダヤ人とヨーロッパのユダヤ人との間の溝が埋められたのである。

一方、ロスチャイルド家のメンバーはオーストリア領事の協力を得て、事件の詳細を文書にまとめ、それを新聞を通じて世界中に配布した。すると思惑通り、国際世論から激しい非難の声が上がった。

そのため、アドルフ・クレミューを団長とするフランスのユダヤ人使節団がエジプトに赴き、事件の仲裁に乗り出すようムハンマド・アリーに働きかけた。

こうして、2ヶ月にも及んだ監禁生活から子供たちが解放されたことにより、事件そのものの一応の決着を見た。また、この事件の責任を問われたダマスコの知事は処刑されている。

1986年、シリアの国防相ムスタファ・タラスは、公表した書籍の中でダマスコでの血の中傷に触れ、儀式用の血の採取を目的としたユダヤ人による修道士の殺害は実際にあったことだと述べている。

イスラエルの劇作家アロン・ヒルはこの事件をモチーフにした小説"מות הנזיר"(修道士の死)を2004年に発表した。

ハンガリー王国
1882年、ハンガリーのティツァ・エズラという村で、キリスト教徒の少女エステル・ソリモシが行方不明になった。すると当地の反ユダヤ主義の議員たちの扇動によって血の中傷が焚き付けられ、すぐさま地域のユダヤ人が告発された。

法廷に立たされたユダヤ人は15人に上ったが、その中には屠殺人のシェロモー・シェヴァイツも含まれていた。このときは裁判所も教会も事件にあまり関心を示さなかったが、続いて公務員ヨセフ・シャープの2人の子供が誘拐され、教会の近くで監禁されるという事件が発生した。

すると、この両事件によっていわば洗脳状態に陥った住民たちから、あたかもエステルの殺害現場を目撃したかのような証言が相次いだ。

そのほとんどが、シナゴーグの中でシュヴァイツがエステルの喉を引き裂く様子をドアの鍵穴を通して見た、というものであった。

マウリッツ・シャープという名のユダヤ人の若者は、傷口から滴り落ちる血をどのようにしてシュヴァイツが器の中に注ぎ込んでいたのかといった細部にまで言及している。

また、犯人はシュヴァイツだけでなく、告発された残りの14人の他、自分の父親も事件に関与しており、彼らはエステルが暴れないよう押さえつけていたと証言した。

さらには教会関係者の指示通り、地域のユダヤ人有力者の姿も現場で目撃したと供述した。

シュヴァイツが抗弁の際、人間の首を切断した場合、傷口からは猛烈な勢いで血は噴出するので、一方の手で首を切断し、もう片方の手で血を受け止めるのは不可能であると主張したときは、これらの疑問に抵触しないよう証言し直している。

事件を担当した弁護士、兼作家のカーロイ・エトベスは現場検証のために複数の裁判官をシナゴーグへ派遣したが、現場からは若者の供述を裏付けるものは何も出てこなかった。それどころか、シナゴーグのドアには鍵穴さえもなかったのである。

この裁判は反ユダヤ主義者による暴動を惹き起こし、ついにはパラシュブルク(現ブラチスラバ)をはじめとした各都市でポグロムが発生するに至った。ハンガリー政府は戒厳令を敷くと共にユダヤ人居住区のある地域に軍隊を派遣した。

首相ティサ・カールマーンは要職者に対して、公権力の立場にいる限りは決して無実のユダヤ人に危害を加えることを許してはならないと警告した。

後日、ティサ川からエステルの遺体が引き上げられたが、その遺体に暴力が加えられた痕跡がないのは明白であった。

ところが、彼女の母親は教会からの圧力を受けて、その遺体が自分の娘であることを否定したのである。また、遺体を引き上げた漁師たちは当局によって拷問を受け、公判の際、その遺体がユダヤ人によって引き渡された別人のものであると証言した。

それによると、ユダヤ人が地域の病院から密かに遺体を搬出し、行方不明時にエステルが着ていた衣服を着せてから漁師たちに引き渡したというのである。

つまり、ユダヤ人の依頼に従ってその遺体を川に投げ捨て、数日後に自分たちで引き上げたという自作自演説を主張したのである。とはいえ、遺体が消失したという記録はどこの病院にも残されていなかった。

遺体はブダペストに搬送され、政府が派遣した病理学者の手で解剖されたが、調査の結果、エステルが死亡時に妊娠していたことが判明した。おそらく、愛人の子を妊娠したものの、その相手に逃げられてしまい、将来を悲観した挙句に入水自殺したものと見られている。

エトベスの熱心な弁護により、告発されたユダヤ人全員の無実を訴える抗告がなされたが、ブダペスト高裁において棄却された。

エトベスはこの事件の詳細を記録し、全3巻の書籍にまとめて発表した。

また、彼が下院議員でハンガリー民主党の党首だった時には、ユダヤ人の権利を守るために彼の承認の下、自発的に訴訟費が支払われている。その後、彼は政党から除籍され、議員資格も剥奪された。

そして各方面からの迫害に耐えながら不遇な生涯を送った。しかし今日のハンガリーでは、彼は国民的な英雄として尊敬されている。

一方、偽証したマウリッツ・シャープは事件後にオランダに移住したが、そこでユダヤ教の信仰を取り戻し、事件に関する自伝的書物を発表した。アルノルト・ツヴァイクは1918年、戯曲"Ritualmord in Ungarn"(ハンガリーの人柱)を補完するため、マウリッツの自伝を基にして小説「サマエルの使命」を執筆している。

チェコ
プラハのラビ(ユダヤ教指導者)イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレルによるユダヤ教のゴーレム伝承の創生にあたって血の中傷が原動力となった[17]。

1899年、チェコのポルナーにて、19歳の少女アネズカ・フルゾワが殺害された。

この事件は過越祭の期間中に起きたため、すぐさまユダヤ人の知的障害児レオポルド・ヒルズナーが告訴された。

しかし彼を犯人と断定する証拠にはいくつもの問題があった。ヒルズナーの裁判には政治的、かつ反ユダヤ的な思惑が絡んでいることは明らかであった。そのため、トマーシュ・マサリクがヒルズナーを救うべく仲裁に乗り出したが、力添えにはなれなかった。

ヒルズナーには死刑が宣告されたものの、彼の支援者が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に圧力をかけたため、終身刑に減刑された。その17年後の1918年、皇帝カール1世によって恩赦が出されている。

ギリシア・ケルキラ島
19世紀末、ギリシアのケルキラ島にはおよそ5000人のユダヤ人が定住していた。

彼らの共同体はイタリア出身者とギリシア本土出身者に分かれていたが、共に経済的に成功しており、キリスト教徒とも表面上は友好的な関係を築いていた。

ところが1891年、ユダヤ人の家の中庭にあった袋の中から首を切断された少女の遺体が発見されたことにより、潜在的に秘められていた反ユダヤ感情が爆発した。

殺された少女はユダヤ人の仕立て屋の娘であった。しかしキリスト教徒は、その遺体が仕立て屋に養子に出されていたキリスト教徒の娘のものだと主張して譲らなかった。このため、腹に据えかねた多くの住民がユダヤ人を裁くために大通りに集まる騒ぎに発展した。

そこで、ラビの訴えもあって地元の司教が仲裁に当たったところ、かろうじてポグロムの発生を食い止めることができた。

ただし、この事件によってユダヤ人の多くが同島での生活を諦めざるを得ず、富裕層を中心におよそ3000人がイタリアのトリエステやエジプトのアレクサンドリアといった他国のユダヤ人居住区に移住した。

ウクライナ
1911年、ウクライナのキエフにて、儀式のために少年を殺害した嫌疑でメナヘム・メンデル・ベイリースが告訴された。

この裁判は帝政ロシアの末期という時勢もあって、リベラル派と保守派との政争にも利用された。ベイリーズの支援には大勢の学生が参加し、彼に有利な世論を形成した。

裁判が続けられた2年間、彼は拘置所での生活を余儀なくされたが、最終的には陪審員による無罪判決を勝ち取っている。

ナチス・ドイツ
ヨーロッパにおける血の中傷を再燃させたのは、ナチス・ドイツであった。それはアドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』の記述において如実に見て取れる。第三帝国期には実際に血の中傷絡みの訴訟が起こされている。

アラブ世界
20世紀になると血の中傷はアラブ世界にまで浸透したが、その背景には中東戦争があった。

例えばエジプトではユダヤ人の人身御供の習慣に関する書物が多数出回っていた。

また、第2次インティファーダの期間、同国のテレビでは、パレスティナ問題に絡んで血の中傷を煽り立てる番組が盛んに放送されており、中にはアリエル・シャロンがアラブ人の子供の血を飲んだと訴える番組もあった。

堪りかねたムバラク大統領は急進的なテレビ番組を非難する声明を発表したが、彼はその声明において「すべてのユダヤ人がそのようなことを行っているのではない」という旨の発言を行っている。これはすなわち、一部のユダヤ人は血を飲んでいると公式に述べたも同然であった。

またエジプトと同様、第二次レバノン紛争時にはヒズボラも独自のテレビ網を通じて、血の中傷を視聴者に吹き込んでいた。

日本
アメリカの反ユダヤ主義者en:James Wickstromによる、ユダヤ人の手によりマクドナルドに人肉が混入されているという血の中傷が、日本語に翻訳されて電子掲示板やTwitterなどのソーシャル・ネットワーキング・サービスを通じて流布されている。

その他の代表的な中傷
ホスチアの中傷
ユダヤ人は血の中傷だけでなく、それ以外の様々な中傷にも耐えてきたが、その一つに、ユダヤ人がキリスト教のミサで用いられるホスチア(薄焼きのパン)を冒涜するというものがある。

ホスチアはキリスト教徒によってイエスの体(聖体)の象徴と見なされており、敬虔なキリスト教徒は、ホスチアを刺すとそこから血が滴り出るという話を信じている。

1290年、パリに住むユダヤ人夫妻に関する中傷が広まった。それによると、この夫妻がとある教会の秘密の部屋で、床が血で溢れかえるまでホスチアを刺していたというのである。

異端審問にかけられた2人は火刑に処せられている。同様の事件は1556年にポーランドのソハシェブでも起きており、3人のユダヤ人に死刑が宣告されている。

1298年の夏、ドイツでもホスチアにまつわる中傷から惨劇が起きている。

フランケン地方のレッティゲン(Röttingen)という町のあるユダヤ人の家屋から赤子の泣き声が聞こえたが、これがホスチアの呻き声として噂されたのである。

すると「リントフライシュ王」König Rintfleisch(※ドイツ語で「牛肉」を意味するRindfleischとは異なる)と名乗る騎士(屠殺人という説もある)は、“天から、聖体に対する冒涜の容疑でユダヤ人を絶滅させる使命を受けた” と宣言した。彼の指揮の下に煽動された群衆が暴徒と化し、4月20日レッティゲン在住のユダヤ人56名を惨殺した。

群集はその勢いのまま各地を巡行し、フランケン地方の2大中心都市ヴュルツブルク(7月24日)、ニュルンベルク(8月1日)ほか、バイエルン地方、シュヴァーベン地方などで146もの町を破壊した。今日では、この一連の暴動によって、およそ2万人ものユダヤ人が虐殺されたと見積もられている。(de:Rintfleisch-Pogrom)

ペストにまつわる中傷
1347年から1350年にかけてヨーロッパで猛威を振るったペストは、全人口の3分の1から半数にあたる約2500万人の命を奪ったとされている。

この間の1348年から1350年にかけて、井戸に毒を投げ込むユダヤ人についての噂が広まり、血の中傷やホスチアの中傷をも上回る惨劇が起きている。

ユダヤ人は律法の規定もあって、日常的に衛生面や食料には注意を払っていた。それゆえ、ペストによって深刻な被害を受けることがなかったのであるが、キリスト教社会ではまだ衛生面とペストの因果関係が認識されていなかったため、両者の被害の差が歴然となっていた。

すると、ヨーロッパの各地で、ユダヤ人が世界からキリスト教徒を抹殺するため井戸に毒を投げ込んでいるという噂が立ち、それに殺気立った群集がユダヤ人の集落を襲撃するようになった。

放火や略奪を伴った暴動はフランスやスペインの沿岸地域からスイス、ドイツといった内陸地へと波及し、およそ300のユダヤ人の町が破滅に追いやられた。

シオン賢者の議定書
近現代において生み出された反ユダヤ的な中傷のなかでも有名なのが『シオン賢者の議定書』である。同書は20世紀の初頭、実際に開催された秘密会議の議事録という触れ込みで出回った偽書で、ユダヤ人が世界支配を目論んだ国際的な秘密結社の運営を担っているという内容である。

おそらくロシア人の反ユダヤ主義者によってでっち上げたものと見られ、既存のフランス語の著作物にユダヤ人を誹謗する記述が織り交ぜられている。

著作者らはさらに、同書をスイスのバーゼルで行われた第1回シオニスト会議に結び付けるため、テオドール・ヘルツルやアハド・ハアムの名前を持ち出している。

『シオン賢者の議定書』が徹頭徹尾でたらめであることはシオニズムに否定的だった者にも十分理解されていた。また、世界支配のための秘密会議などかつて一度も開かれなかったことや、ユダヤ人が「シオン賢者」(原文では「シオンの長老」)なる者を指導者に立てていないことも調べればすぐにわかることであった。

にもかかわらず、反ユダヤ主義者は同書をプロパガンダの強力な武器として利用し、数十ヶ国語に翻訳して世界中にばら撒いたのである。

ユダヤ人は当初、反証の余地が十分にあったことから『シオン賢者の議定書』の存在を重要視せず、自ずから欺瞞を露呈するだろうと考えていた。

ところが、同書が世界的に流通されて多くの読者を獲得し、あまつさえナチスのプロパガンダに流用されているのを見るに及んで、公開裁判の場において真実を明らかにする手に打って出た。

その裁判は1934年、スイスのベルンで開催され、第1回世界シオニスト会議の参加者や世界シオニスト機構の議長ハイム・ヴァイツマンなど専門家に対する質疑を経た後、同書が単なる剽窃物で稚拙な贋作に過ぎないと判断されて結審したのである。

血の中傷の真相
歴史家たちは、中世において血の中傷が拡散するに至ったいくつかの要因を挙げているが、その中でも興味深い、対極的な2つの説を紹介する。

養育問題
マグダレーナ・シュルツは、中世の貧困層では児童の待遇が劣悪だった点、特にユダヤ人の家庭での親子関係とキリスト教徒の家庭でのそれは雲泥の差があったと指摘している。

また、ユダヤ人の社会では婚姻外交渉によって生まれた子供が殺害されるケースはなかったとしている。

シュルツによると、血の中傷とは育児放棄、あるいは児童虐待による子供の死についての弁明であり、家族が負った罪悪感が発露されたものだとしている。

この説明に最も該当する例はプルダーにおける粉引きの子供5人が殺された事件で、そのとき起きた血の中傷は、子供たちを家庭内で放置して死なせたことによる良心の呵責から両親を解放したであろうと述べている。

殉教
十字軍の時代、多くのユダヤ人がキリスト教への改宗を迫られたが、アシュケナジムの社会では改宗を拒み、子供を殺した上で自殺するユダヤ人が大勢いたという。

その理由はキリスト教徒になることに対する抵抗感だけでなく、キリスト教徒によって殺されることに対する屈辱感にもあった。

ヘブライ大学教授イスラエル・ヤアコブ・ユバルは、当時のキリスト教社会ではアシュケナジムによる殉教はよく知られていたため、ユダヤ人は簡単に子供を殺すという先入観を招き、ひいては血の中傷に信憑性を持たせてしまったと主張している。

つまり、自分の子供を殺せるのなら、他人の子供など容易に殺せるだろうと思われてしまったのである。

過酷な情勢の中でユダヤ人が自らの手で血の中傷を完成させたとするユバルの説は、イスラエルでは厳しい非難に遭い、中世史の研究者によるアカデミーにおいては記憶に残る論争を巻き起こした。

詩人で文献学者のエズラ・フライシャーはユバルの見解について、「語られていないことこそ語られるべきであった。語られてしまったことは書かれないべきであった。書かれていないことこそ書かれるべきであった。
書かれてしまったことは忘れられるべきである」と評している。
その他の研究者にとってもユバルの説は、十字軍の後にも長期間、血の中傷が発生していたという現実を踏まえれば、その正当性に疑義を挟まざるを得ない代物でしかなかった。

だがユバルにとっては、その後の血の中傷の実在性こそ、殉教に象徴される堅固な文化をアシュケナジムのユダヤ人が育んでいたことの証左になるとしている。

アメリカ・ツーソン銃撃事件
2011年1月8日にアメリカ合衆国アリゾナ州ツーソンで起きたユダヤ教徒のガブリエル・ギフォーズ下院議員らに対する銃撃事件(ツーソン銃撃事件)に関連して、2008年の米大統領選挙で元副大統領候補であった共和党のサラ・ペイリン前アラスカ州知事が2010年の下院議員中間選挙の際に「再装弾(リロード)せよ!」とツイッターで発言したり、選挙戦対抗馬を表すターゲットマップとしてギフォーズを含む民主党候補をライフルの的でFacebookに表現していたことがこの事件に繋がったのではないかとして非難された。
これに対してペイリンが、ビデオメッセージで自分に対する非難を「血の中傷」という表現を使って反論したことで、ユダヤ人団体の反発を買うなど、さらなる物議を醸した。


血の中傷 反ユダヤ主義 「最も長い歴史を持つ嫌悪」

2022年09月21日 06時46分16秒 | 社会・文化・政治・経済

「最も長い歴史を持つ嫌悪」と呼ばれる反ユダヤ主義は、2000年以上もの間、さまざまな形態で続いています。

国家社会主義者(ナチス)による人種的反ユダヤ主義は、ユダヤ人に対する嫌悪を極端なジェノサイドにまで発展させました。

一方、ホロコーストは言葉や考え方( 固定観念、悪意のある風刺画、徐々に広がる嫌悪)と共に始まりました。

キリスト紀元の最初の1000年間で、ヨーロッパのキリスト教徒(カトリック)階層のリーダーたちは、 すべてのユダヤ人はキリストの処刑の責任を負い、ローマ人による神殿の破壊とユダヤ人が分散しているのは、過去の宗教上の罪と、ユダヤ人が自分たちの信仰を放棄してキリスト教信仰を受け入れなかったことに対する罰であるという教義を発展させ、固定化させました。

10世紀と11世紀には、ユダヤ人に関するこれらの教義は固定観念化され、一部は一体化されました。

これは、 ローマ・カトリック教とギリシャ東方正教の分裂(1054年)から生まれた教会階層に対する脅威、ムスリムによる波状的な征服、ミレニアム・フィーバーの終焉、北ヨーロッパの異数の少数民族グループの改宗の成功、十字軍の軍隊精神的な熱意といった理由のためでした。

自分たちの信条と文化を保持する方法を模索したユダヤ人は、キリスト教徒が大部分のヨーロッパ大陸で唯一の少数派宗教の支持者になりました。

一部の国ではユダヤ人が受け入れられるときもありましたが、信仰が自己アイデンティティの基本形態として捉えられ、それが公的および私的な生活に強い影響を与えるようになると、ユダヤ人は自らを孤立感の増すアウトサイダーとして認識しました。

ユダヤ人はキリストが神の子であるというキリスト教の信条を共有しなかったため、多くのキリスト教徒はこのイエスの神性を受け入れない拒絶を、傲慢と見なしました。

数世紀にわたって教会は、イエスがローマ政府によって迫害されたのは、当局が彼をローマ支配に対する政治的脅威と見なしたからだという、現在のほとんどの歴史家の見解ではなく、イエスの死はユダヤ人のせいであると教えてきました。 アウトサイダーとしてユダヤ人は暴力的な固定観念の標的にされ、ユダヤ人とその所有物は暴力の対象となりました。

この時代のユダヤ人に関する作り話の中には、ユダヤ人がキリスト教徒の子どもの血を儀式的目的で使用したという「血の中傷」がありました。

その他の作り話には、ユダヤ人がキリスト教に改宗できなかったのは、反キリストへの貢献、およびヨーロッパ(キリスト教)の文明化に対する生来の不忠の表れであるというものがありました。 反対に、ユダヤ人個人の改宗は不誠実で物質主義的な動機として捉えられました。

この教義は、嫌悪の上部構造が形成される基礎となりました。 神学的反ユダヤ主義は、中世にそのピークに到達しました。

歴史的に見て反ユダヤ主義の最も一般的な発露のひとつに、現在「ポグロム」と呼ばれるものがありました。これはユダヤ人に対する集団的な暴力や殺戮であり、しばしば政府当局によって助長されてきました。

ポグロムは、血の中傷というデマが引き金となることがよくありました。 この絶望的な時代に、ユダヤ人はさまざまな自然災害のスケープゴートにさせられました。

たとえば、14世紀にヨーロッパに広まり数百万人が亡くなった疫病である「黒死病」は、ユダヤ人の冒とく的で悪魔のような振る舞いに対する神の天罰であり、ユダヤ人によって運ばれたものだと一部の聖職者は教え、一部の教区民はそれを信じました。


映画 「バビ・ヤール」9月24日公開 ウクライナでのホロコースト

2022年09月21日 06時32分34秒 | 社会・文化・政治・経済

ウクライナでのホロコーストを全編アーカイブで描く セルゲイ・ロズニツァ「バビ・ヤール」9月24日公開

2022年8月8日 07:00

ポスター画像
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ドンバス」「国葬」のセルゲイ・ロズニツァ監督の新作「バビ・ヤール」が9月24日から公開される。

ポスターと予告編が披露された。

ロズニツァ監督はドキュメンタリーとフィクションの両方を手がける監督で、日本では2020年に「国葬」(19)、「粛清裁判」(18)、「アウステルリッツ」(16)の3作のドキュメンタリーが日本初公開され注目を集めた。

そして、今年の5月にロシアによるウクライナ侵略戦争が勃発しことを契機に、2014年からウクライナ東部ドンバス地方で親ロ派武装勢力とウクライナ軍との間で行われている情報戦争の実相を描いたフィクション「ドンバス」(18)も緊急公開。都内1館の公開から全国50館で拡大上映された。

2021年、カンヌ国際映画祭ルイユ・ドール審査員特別賞を受賞した「バビ・ヤール」は、1941年9月、独ソ戦争の最中、混乱するキエフ(キーウ)近郊で9月29日と30日の2日間で3万3771名のユダヤ人が射殺され、ホロコーストにおいて1件で最も多くの犠牲者を出した“バビ・ヤール大虐殺”への過程とその後についてを、全編アーカイブ映像で描いた作品。

1941年6月、独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻したナチス・ドイツ軍。占領下のウクライナ各地に傀儡政権をつくりながら支配地域を拡大し、9月19日についにキエフを占領する。

9月24日、統治体制の変化で混乱するキエフで多くの市民を巻き込む大規模な爆発が起きた。これは NKVD(ソ連秘密警察)がキエフから撤退する直前に仕掛けた爆弾を遠隔操作で爆破したのだが疑いの目はユダヤ人に向けられた。

翌日、当局はキエフに住むユダヤ人の殲滅を決定し、全ユダヤ人に出頭を命じた。

1941年9月29日から30日にかけて、アインザッツグルッペ(移動虐殺部隊)Cのゾンダーコマンド4aは、警察南連隊とウクライナ補助警察の支援を受け、地元住民の抵抗もなく、キエフ北西部のバビ・ヤール渓谷で 3万3771名のユダヤ人を射殺した。

現在のロシア=ウクライナ戦争で、ロシア側が主張する“ネオナチとの戦い”の意味について理解が深まる一作だ。

さらに、今年の12月初旬には、1980年代後半から91年のソ連崩壊まで、超大国ソ連を相手に粘り強く戦い、祖国リトアニアを独立に導いた初代リトアニア元首で音楽家、“現代の英雄”ヴィータウタス・ランズベルギス氏が30年前の熾烈な文化的抵抗と政治的闘争を語る4時間に及ぶ超大作ドキュメンタリー2021年に発表されたロズニツァの新作「Mr. Landsbergis」(原題)の劇場公開も予定されている。「バビ・ヤール」は9月24日からシアター・イメージフォーラム他全国公開。

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