月に1回くらいの日程で取手駅東口の大師通りの亀寿司へ行く。
家人は、友人との付き合いで月に2回ほど。
お好みのネタを握ってもらうのだが、以前のように食べられなくなった。
それでも、ビールを飲み地元取手の酒造の金門や君万代の日本酒を飲む。
当方は無口で飲むが、家人は同席するお客との対話が弾む。
家人は、対話に人との長けている。
これまで野球観戦などで、初対面の人達との会話が弾んでいる。
それも、才能と言うべきであろうか。
▽いかなる苦悩もやがては大きな実りとなるはずだ。
▽未来の創造の為に今、何かを準備せねば―フランスの哲学者ベルグソン
▽自分で希望を生み、挑戦を続ける人には、前進の息吹がみなぎっている。
▽若さは生命の力、生命の勢いで決まる。
充実の一日一日を刻もう。
▽生きる力とは?
人が生きていくには、
困難にうまく対処し乗り切る力だ。
具体的には「他者と付き合う力」「自分の感情を管理する力」「目標を達成する力」である。
古来より日本人に愛されてきたヒガンバナ
ヒガンバナの球根には、リコリス属(ヒガンバナ属)の植物に見られる、強い毒性のある「リコリン」という物質が含まれており、人間が誤食すると死に至る場合もあるそうです。
この毒性が、モグラやネズミを田畑に寄せ付けない効果を持つそうで、先人たちがあぜ道にヒガンバナを植えたと聞きます。
土手や田んぼのあぜ道、墓地などに見られ、葉もなく、枝も節もない花茎が地面からスーッと伸び、その先端に赤く華やかな花を咲かせます。
特徴的な花ですが、この彼岸花、実は毒があるといわれています。
昔は、日本では土葬。
そこで、墓にも彼岸花を植えた。
少子化と高齢化が低成長の影響である。
生産年齢人口が減少して、生産量が減り、経済の活性化が失われている。
だが、少子高齢化の流れを変えることは相当難しい。
いずれにしても、子育て・教育環境を整備していくことが重要だ。
さらに、低成長の要因は、正規雇用と非正規雇用の格差が大きいことが問題だ。
非正規雇用では、将来の職と所得の安定がなくなるため、「自己への投資」が割に合わない。
その結果、生産性が低下し、成長も低迷している。
確かな知見に基づかない煽情的な論調に終始する。
本質を理解していない。
極めて信憑性の乏しい中傷や虚偽の情報。
客観的な基準が不可欠だ。
憶測や誤解や無認識に基づく批判は、いつの世も、つきものだ。
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例えば
杉田水脈議員の時代錯誤な非常識発言に、ネットが大炎上。
杉田議員は雑誌『新調45』の2018年8月号に、『「LGBT」支援の度が過ぎる』という文章を寄稿。
その中で、
「LGBT(性的少数者)のカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」
LGBTをめぐる寄稿や企画が批判されている月刊誌「新潮45」について、発行元の新潮社は、休刊を決めたと発表した。
「陶冶とうや」とは「持って生まれた才能などを理想的な姿にまで練り上げること」
陶冶
寛容によって、寛容する人自身がどれほど品性を陶冶されるかを学びました。
(出典:有島武郎『或る女』)
陶冶を知らない―ここに近代文明が忘失してきた盲点があるのではないか。
近代の産業文明は、利便性や効率、快適さなど追及を旗印に、数百年をまっしぐらに走り抜いてきた。
その結果、空前の富を蓄積されてきた。
しかし、その代償として、環境の破壊など負の遺産をも蓄積してきた。
生命力の衰弱という、人間の内面世界の劣化現象を引き起こしていまった。
利便や快適さを追うあまり、困難を避け、できるだけ易きにつこうとする安易さから「陶冶」が二の次、三の次されてきたのが、近代、特に20世紀である。
内面性の陶冶を怠ったことへの「しっぺ返し」を、最も痛切な形で受けているのが、旧社会主義である。
「内面的訓練の過程を与えずして、単にわれわれの精神を解放するような種類のものは、ことごとく有害である」ゲーテは指摘した。
「内面的訓練の過程」とは、すなわち、内面性の陶冶である。
物質主義、拝金主義、倫理の崩壊を危惧しなけばならない。
農作業や手仕事などは、少しの手抜きも許されない。
つまり要領やごまかしの通用しない世界であるということだ。
21世紀文明の構築のための要件は「自律」「共生」「陶冶」である。
自律とは
自分で自分の行ないを規制すること。
外部からの力にしばられないで、自分の立てた規範に従って行動すること。
「共生」とは
社会ではふつう、お互いが利益を得ているような関係をイメージして「共生」という言葉を使っている。
しかし正しい生物学の用語では、そのような関係はより厳密に「相利」と表現する。
生物学における「共生」とはもっと広く、文字通り「共に生きている」関係をあらわす言葉なのである。
▽学ぶの語源は「まねぶ=真似る」
能を大成させた世阿弥は、芸事を上達させていくために、「真似すること」の重要性を説いた。
スポーツ、芸術などあらゆる分野で道を極めていく上では、知識を増やすだけでなく、手本となるものを忠実に模倣するなで、実践することが不可欠だ。
実践が伴ってこそ、真に「学ぶ」ことができる。
▽学んだ「知識」にとどまらず、「行動」へと昇華させていくことだ。
学び実践したことが、現実の生活の上で生きていく。