映画 ボルサリーノ

2022年09月24日 22時53分04秒 | 社会・文化・政治・経済

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解説

「気狂いピエロ」「暗くなるまでこの恋を」のジャン=ポール・ベルモンドと「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンというフランスを代表する2大スターが初共演し、話題を集めたギャング映画。

1930年代のマルセイユ。3カ月の刑期を終えて出所したシフレディは、自分の女であるローラをめぐってカペラという男と殴り合いになるが、そのケンカ沙汰をきっかけに2人の間には奇妙な友情が芽生える。ギャングとしての野望を達成するため、シフレディとカペラは街の大物ギャングたちを翻弄し、マルセイユを手中に収めていくが……。

1970年初公開。2014年、44年ぶりにデジタルリマスター版で再上映。

9月22日、午前6時30分から、CSテレビのムービープラスで観た。

これで、観たのは2回目である。

ストーリー

一九三〇年のマルセイユ。ギャングとチャールストンが入り乱れるこの街へ、三ヵ月のケチな刑を終えたシフレディ(アラン・ドロン)が出所して来た。

彼はさっそく、手下と共に自分を密告した男のバーを襲い放火した。

次に、なじみの女“天使のローラ”(カトリーヌ・ルーヴェル)に会いに行った彼は、その女のことでカペラ(ジャン・ポール・ベルモンド)と派手な殴り合いを始めたが、同時にダウンし、その時以来、二人の間には奇妙な友情が成立した。

やがて二人は、ボッカスという親分に認められたが、失敗つづきのありさまであった。

その後、ボッカスの黒幕であるリナルディ弁護士(ミシェル・ブーケ)の頼みで、魚市場を支配しているエスカルゲルに力を貸すようになった。

当時、マルセイユを本当に支配していたのは、マレロとポリという、二大親分であった。

マレロとリナルディとのつながりを知ったシフレディは、大胆な野望を実現化するチャンスを狙っていた。

カペラはこれには反対だったが、ポリの情婦ジネットに惚れたため承知した。そして、二人はポリの資金源である食肉倉庫を襲撃したが失敗し、ひとまず田舎へひきあげ、反撃の日を待った。

二人のまわりに無頼の仲間と武器が集まってきた。

行動が開始された。まずポリの暗殺、つぎにリナルディ、と二人のまわりには、次第に血の匂いがたちこめるようになった。そして、残る大親分マレノ一味との間の、日毎の殺し合いの末、相手の本拠に乗り込んだ二人は、ついにマレノを倒した。

こうしてマルセイユはシフレディとカペラの手中におさまった。シフレディは豪壮な邸宅を立て、パーティを開き、得意の絶頂にいたが、カペラは違っていた。彼は今こそ、このマルセイユを去らねばならないと思っていた。両雄は並び立たないと……。

そして、カペラがカジノを一歩出た時、何者かの銃弾が彼の命を奪っていた。

キャスト

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ジャン=ポール・ベルモンドとアラン・ドロンが初めて共演したギャング映画。
1930年代のマルセイユ、二人は一人の女を取り合い、殴り合いの大立ち回りを演じたあと、仲良くなる。
当時のマルセイユは、二人の大物ギャングが牛耳っていたが、のし上がるため・・・。
いい帽子をかぶっている。

 とにかく音楽が軽快で楽しい。銃撃戦すら残酷じゃないし、暗黒街の愉快な二人が友情のようなものを育んでいく姿。

 途中はだれてきてしまい、最後にまたズドンと重さを味わえる・・・まぁ、どちらかが死ぬんだろうと想像できるけど。めずらしくアラン・ドロンが死なない。

2大スター共演で2倍美味しいかというと、そうは上手くいかない
本作はその見本になってしまった
残念で仕方ない
ドロンもベルモンドもキャラを活かした脚本で、衣装も決まっているのだが、はっきり言ってどっちつかずになってしまった
狙った方向性は分かるのだが、二人の友情物語も中途半端
第一補完関係になるキャラ同士でもない
結局、危うい関係性が全編に漂ってしまう
それが終盤に活きるのは確かだが
狙ったものでは有るまい

脚本も捻りがなく、折角のボルサリーノという洒落た題名も活かすシーンもなく終わってしまう
テーマ音楽は誰しも感じ聞いたことあると思う名曲で、それだけは評価できる

本作は2大スターの格好良さを堪能できれば、それだけで満足すべきなのだろう

ヨーロッパ産ギャング映画。
ギャング映画の見どころはやっぱりカッコイイ男の生き様。それを最大限に引き出してる2人(ビジュアル的に)。
ギャング映画にも関わらず独特なコミカルさがあってとても好印象。序盤の喧嘩シーンもそうだが、個人的にはその前の何度もコートを着たり掛けたりするローラがツボ。
銃撃戦も割と見応えがあって食肉工場での撃ち合いはめちゃめちゃカッコよかった。

ラストシーンのコイントスもかなりベタな演出だけどカッコイイ。バディものの良さを詰め込んだ良作。

題の通り、チンピラだった2人がマルセイユのボスにまで成り上がるが...という話です。

ストーリーが単純な分、とにかくドロン、ベルモンドという、当時の2大スターの格好良さに目がいってしまう。
ドロンの話す時の間のとりかた、細部にまでキザな仕草。
ベルモンドの明るくてチャラいが、女と友の為には体を張る、ただのチャラ男じゃないところ。
そして、2人のスーツとハットの見事な着こなし。

これらをいくつか真似すれば、モテ度がアップするかも(笑)

貧しい出のためか、ボス2人を倒してのしあがりたい、野心の強いロッコ(ドロン)と、ボスになるよりも楽しく暮らせればいい、楽天家のフランソワ(ベルモンド)。
結局女のためにフランソワも行動を供にするのだが、もともとトップに立つ事にこだわりの無いフランソワは、いずれどちらが本物のトップか、ロッコがこだ続編は、個人的にはあまり好きになれないのです。


人生をよりよく生きる技術

2022年09月24日 21時46分24秒 | 社会・文化・政治・経済

アンドレ モーロワ (著), 中山 真彦 (翻訳)

◆早合点だけが誤りのもとではない。先入観がまたそうである

 ◆大きな仕事をする人は、ときどき世間から引っこんで暮らす術を心得ている 

◆長たるものは、部局が狭い派閥意識に閉じこもり他の部局といがみ合うのを許してはならない 

◆精神の欠点は、容姿の欠点と同様、年とともに大きくなる〔以上本文より〕
考える技術から人を指揮する技術まで、鋭く的を射るアフォリズムの連射で伝授する成功への人生哲学。

内容(「BOOK」データベースより)

考える技術から人を指揮する技術まで、鋭く的を射るアフォリズムの連射で伝授する成功への人生哲学。

著者について

【アンドレ・モーロワ】
1885年フランス(エルブフ)生まれ。哲学者アランのもとで学び、大きな影響を受けた。小説家・伝記作家として活躍。主著に『オランピオまたはビクトル・ユゴーの生涯』『プロメテまたはバルザックの生涯』など。1967年没。

【中山真彦】
1934年生まれ。東京大学文学部フランス文学科卒。現在、東京女子大学教授。主な訳書に『愛の原型』(カズナーヴ)『訴える女たち』等。
 
 
 
『幸福論』で有名な哲学者アランに学び深い影響を受け、織物工場の経営を手伝ったりイギリス軍の
通訳官になったりと酸いも甘いも経験した伝記作家によるアフォリズム集である。
解説の言葉を借りれば、
「テーブルの上に上手に跳びのる猫の思考法」で、「重大な国家的危機を目前にして、国民生活の隙間を
事前に埋めたいと念ずる知性人の血と肉からしぼり出された智慧」を呈示するものである。
穏健で柔軟な
エスプリがふんだんに散りばめられた豪華絢爛で甘辛い菓子のごとき、人生観や恋愛論や帝王学の書である。

「いま目の前にある世界だけではなく、遠くはなれた国々や、古い昔のできごと、さらにはいまだ目に見えぬ未来についての仮定までもが、私の夢想の素材となるのである。いわば私の頭は一つの内部の世界であり、そこに外部の広大な世界が、時空の制約をこえて映しだされるのだ。
宇宙のこの小さな模型を、哲学者たちは
しばしば小宇宙と呼び、それに対し、われわれがその中に生きている巨大な世界、われわれがそれを理解し作り変えることを望む巨大な世界を、大宇宙と呼んだのであった。
…われわれが思考と呼ぶものは、人間がさまざまな表象や映像を組み合わせながら、自分の行為が現実の事物の中でどのような結果を生むかを、見ぬいたり予測したりしようとする、その努力のことである。…人間の思考が正しく導かれ…さだめた目的に向かって航海し、
めざす港にぴたりと到達するということが、できないであろうか?それを考えるのが、われわれの課題である。」
(「世界と思考」より、9〜12頁)

「文や公式の価値を知るのに、それが実際に良い結果を生むか悪い結果をまねくかを待つというのでは、まことに危険きわまりない。ゆえに…こういった表象を…大事をとりながらたくみにあやつるための安全な方法を、賢者といわれる人びとが探し求めたのは自然なことであった。…それがのちに論理学と呼ばれるようになる。…論理は、
新しいものを創りだすことはできない。…そこに何か新しいものを加えようとすれば、体験や直観…によるほかはない。
…『…理性はいよいよ自分の力を確信して、無限の地平が…前に開けていると思いこむ。軽やかな鳩は、空を
切って飛んで行き…、空気の抵抗を受けて…真空の中だったらもっとよく飛べるのに、と思うかもしれない……。』
…論理学は、確かに人間の精神を柔軟にした。精神に、それまでにはなかった敏捷さをもあたえた。だがいっぽうでは、
真実らしい外見を持つ推論を行なえば、それですべてが得られると信じる、危険な習慣をも人びとにあたえたのである。」
(「論理と推論」より、20〜3頁)

「衝撃によってわれわれの関心はあるひとりの人の上にひきつけられるが、その際不在が愛の誕生にとって好都合な働きをする。
…というのは…不在である恋人は、愛の妖精と化して、われわれはそれにあらゆる美点をまとわせる
ことができるからだ。そういった心の動き…は結晶作用と呼(ばれる)。…恋愛とは主観的なものであり、われわれは
現実の人間を愛するのではなく、われわれが創造した人間を愛するのだ…。(ただし)相手が本当に讃美に値する場合
には、このことは当てはまらない。真のダイヤモンドには、結晶作用は生じないのである。…私が思うには、男でも
女でもすぐれた人は、あるときは愛情から、あるときは善意から、思わせ振りという…絶対的な武器を放棄するもの
である。『あなたに私の愛を告白すれば、私はもうあなたの思うがまま…です』といえるなら、それは偉大なこと
だ。相手がそのような信頼に値しないというのであれば、そのときは毒をもって毒を制する仕方…も必要であろう。」
(「愛の誕生」より、61〜6頁、()は引用者による)

「人間は、もともと野心をいだき、傲慢な存在であるから、自分がなぜ他人に指図されなければならないかを、みずからその必要を感じるまでは決して理解しない。
異常な事件に遭遇してはじめて、指揮を取ってくれる人がいなけれ
ば、自分が…餌食になると悟り、自分の生命と安泰を愛するのと同じほど、服従をも愛するようになるのである。」
(ルイ十四世の警句より、152頁)

「指揮をとるものの頭は、簡明であることが必要である。あまりに複雑な考え方や計画には、行動はうまくついていけない。…
長たるものが持つべきは、経験から得て行動によって確かめられた、いくつかのごく簡明な考え方である。そして、このしっ
かりした骨組の中に、ある一定の行動のために必要とされる明確な知識をはめこむことだ。
長たるものの頭は、包容力を持た
ねばならぬ。他人の頭を使うことを心得ていなければならない。…ただし耳を傾ける相手は、確かな情報を持ち、正確な報告
をなしうる幾人かの人間だけでよい。みずから沈黙するのもいいことだが、おしゃべりを黙らせるのも同じくらい有益である。

…指導者は伝統と習慣をつねに念頭におく。指導者の目には、ものは存在しているというだけで、すでに大きな価値を持つ。
彼が未来を建設するために用いる素材のうち、そのもっともがっしりしたいくつかのものは、過去によってさしだされている。彼はそれを仕立て直したり、つくり変えたりはするが、それを押しのけるようなことはしない。
…われわれの行動の結果は、いつもたやすく予測できるとはかぎらない。…賢明な指導者は、昔、魔法使の弟子
が、呪文をつかって魔法のほうきを動かしたのはいいが、それを止めるのに往生したという話を忘れはしない。」
(「指導者の知性」より、174〜7頁)

「指導者は、厳しくしても、部下にしたわれることができる。
いやつねに、甘いいいかげんな指導者よりも、厳しい指導者の方が慕われるとさえいえる。厳しさを押しとおすための最良の方法は、これはしっかりしていると思える人間のみを採用することだ。
自分の人格や精神が非難されているのではないことが明らかであれば、叱責を受けてもらくにたえることができる。
胸の中にあることを、すぐに、そしてはっきりといってしまうのは、賢明なやり方である。
厳しい叱り方でも、すぐその場で叱ってしまった方が、恨みがましい不満な気持ちをいつまでも見せるのより、はるかに相手を傷つけなくてすむ。

…およそ最高の地位につくものは、労働者であれ兵士であれ水夫であれ、現場で働く人間のすべてが、自分の直属の配下から、公正なそして名誉を重んじる態度で処遇されるように、よく監督しなければならない。
…直属の補佐役たちの権威を弱めてはならぬのと同時に、その権威が乱用されるのを許してはならないのである。
…人間万事そうであるが、やはりこの場合も…平衡をとらなければならない。
…人から愛される秘訣は、人を愛することだ。そして自分の仕事をだれよりもよく心得ることである。
人は、うまく指図さえすれば、その指図を受け入れるものだ。指図されるのを望むものだ、とさえいえる。」
(「指揮をする技術」より、182〜4頁)

「可能性を判断する感覚を持つということは、ただ単に、かくかくの行動は不可能だと見てとることができるといった、消極的な能力のみをいうのではない。
それはまた、勇気を持つ人間にとっては、一見きわめて困難と思える行動も、実際には可能になると知っていることをいう。
すぐれた政治家は…『この国はまどろんでいる。私が目を覚まさせてやろう。制度は人間がつくるものだ。
必要とあらば私がそれをつくり変えよう』と考えるのである。…真の政治家は、必要とあらば、公的な演説の中で各党派の主張に対し丁寧な敬意を表することもあらば、神殿を守る人びとに対しては礼拝の文句を唱えてその怒りをやわらげたりもする。」
(「統治する技術」より、188〜9頁)
 
 

フランスという国には偏見がある。

ドイツ人やイギリス人に比べる
と、フランス人はラテン系でノリが軽く、いい加減そうに見える。
新しもの好きで、社交界など万事エレガントで華やかだが、所詮表面的で重厚さに欠ける。
文化的には絵画、文学、料理、服飾などで世界をリードするが、要は国民が享楽的なせいなのだ。
その国民には忍耐力がなく、戦がとにかく弱い。国際競争力のある見るべき企業も少ない。
そのくせ、自己愛、自国愛が強いので他国を見下す傲慢さがある。
要すれば、日本とは全く対局にある国だ、といったものである。

そんな国の「人生論」にはどんなことが書かれているのか。本書に興味がそそられたのは、その点である。

本書の構成は、①考える技術、②愛する技術、③働く技術、④人を指揮する技術、⑤年をとる技術、の5部からなる。デカルト、パスカルらフランスの偉人たち(この国には我々の知る偉人が実に多い!)の豊かな事跡や含蓄ある言葉を引合いに出しながら、真摯に、丁寧に、そして克明に、「人生をよりよく生きる」為に必要な考え方、そして為すべきことが指南されている。

原著は1939年、ナチスがポーランドに侵攻した年に出版されている。
暗い、不安な時代だったと推測される。
「人を指揮する技術」の中でフランスの偉大な軍人の言動を紹介していたり、本書の最後の部分が『君たちは困難な時代に人生の始まりを迎えている・・・』で始まる
「ある何人かの青年に寄せる手紙」であったりするのは、大戦の予感とそこに赴くであろう若者に読ませたい、という著者の思いがあるように思う。

結論として、まことに面白いことだが、時代や文化の違いを超越して、本書には現代の日本で十分に通用する処世術が書かれている。
侮る勿かれ、フランス人も勤勉で、規律を重んじ、真面目に物事に取り組む民族なのだ。我が偏見は晴れた。

しかし、ひとつだけ。男女の愛について章を設けて論ずるのは、流石フランス人だと感心した。
人生論と銘打った日本人の著作で、真正面から男女の「愛」を語った作品を寡聞にして知らない。
仮にあっても読むこちら側が恥ずかしくなる。本書でもそれを感じた。
しかし本書の記述には品位がある。愛に関して著者はこう言っているのだ。

『愛する技術の最後の秘訣はモーツァルトの中にある。あの澄み切った調べ、魅惑のハーモニーに耳を傾けよう。
もし、それに比べて自分の恋の音楽がもやもや聞こえたり、不協和音だと思えたら、それはその人がまだ愛する技術を知らないからだ。』

(フランスの音楽家ではないが)モーツァルトを聴こう。
 
 
 
最近、良く見かける、経済的に成功した日本人が著した人生指南書には、結局のところ、「どうしたらお金持ちになれるのか?」という今の日本人の好奇心を満たすべく、上手に書かれたものが多いように思われます。
そしてその著者は、その本の印税でまたさらに裕福になり、そしてその本を読んだ大部分の人たちは、きっとそれほど裕福には成れないまま…近頃の日本には、このような格差ゲームが蔓延していて、気をつけないと、心がすさみ、落ち込んでしまったりする人も多いのではないでしょうか?
この本の中には、お金とか成功の秘訣はありません。
あるのは、きちんとした生活のできる人に、幸福感はおとずれるということだけです。
たぶん本当は、子供の頃に親から仕込まれなければならないであろう、生活の仕方の基礎の基礎が、愛情深い文章で綴られています。
だらしのない親に、いい加減な育てられ方をした私にとっては、この本は親みたいなものです。
日本人の今の親世代で、本書の内容のような生き方や考え方をしている人って、まずいないと思うんです。
ですので、生きづらさを感じている若い人たちには、本当にお薦めです。

 

 


最も深い革命は精神的なものである

2022年09月24日 21時31分37秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽自分がけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。
人を幸福のした分、自分も幸福になるし、だれ一人でも不幸な人がいるかぎり、自分の幸福も完全ではない。

▽最も深い革命は精神的なものである。
精神的革命は人間を変革し、こんどはその人間が世界を変革する。

真の革命はただ一人の人間革命である。
より正確にいえば、ただ一人の人間も、-それが英雄であれ聖者であれ、-大衆に一つの手本を提供することができるし、その手本の模倣は地球をくるがえすであろう―フランスの作家・アンドレ・モロワ


信心とは何か?

2022年09月24日 20時17分53秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

仏教では、信とは心を清浄にする精神の作用をいう。

仏道を修める第一歩にこの「信」を自信の生命の内奥に置き、心を清浄にして教えを疑わず、その教えに向かうことである。

一般に信というと、なにかある対象を信ずることと理解されるが、仏教では信は究極の真理である法そのものが自己のうえに現れ出たものであって、これが信心の本質である。

ひとたび、「信心」という希望の太陽を心に昇らせた人は、どんなに苦難に負けない心の軸が確立されるだろう。

つまり、信とは自分の無限の可能性を信じることなのだ。

神頼みのような他力本願ではない。

あくまで、自分自身の実社会における絶えることのない挑戦が「信心」なのである。

自分で自分の可能性を諦めない限り、必ず道は開変える―そのことを確信することが、信心の本質とも言えるだろう。

どんな状況にも一歩の退かない決意こそ、信心の源泉。


「今」のこの時を悔いなく生きていく

2022年09月24日 20時15分50秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽「病」であったとしても、必ず「死」につながるとは限りない。
反対に「病」の有無に限らず、誰もが最後は「死」に直面する。
限られた「生」を自覚するからこそ「今」のこの時を悔いなく生きていく。
「生死」を超えて、揺るぎない境地を築いていく―この大切さを自覚する必要がある。
基本的には「生命力」が大切である。
その意味で、確かな「生命観」「生死観」が必要だ。
「病」は「体の問題」とともに、不安など「心の問題」である。
「体」と「心」は常につながっているのだ。

▽「終末期医療」は、がんなどの疾患に対する積極的な治療が困難な状況で、肉体的・精神的な苦痛などを緩和することに焦点を置き、充実した時を送るためのものだ。
「終末期医療」において「緩和ケア」を続けることで、積極的な治療をしなくても苦痛を緩和し「今」という時間を大切に生きていくことができる。


CSテレビ用のリモコンが再び故障

2022年09月24日 19時17分51秒 | 日記・断片

CSテレビを観ていたら、急に操作ができなくなる。
雷が鳴り、画像がみれて、阪神と広島の野球中継が観られなくなる。
リセットしてみたが、画像が復帰しない。
さらに、リモコンの操作ができなくなる。
どうやら、リモコンが故障したようなのだ。
これで、2台目もダメになる。
翌日、家人がミスターマックスにリモコン買いに行く。
しかし、在庫が無いと言われた。
このままでは、BSテレビも観られない。
そこで、家人は戸頭にあるケーズデンキまで行く。
幸い在庫があったのだ。
「私に、任せるばかりで、あんたは何もしないね」と家人に嫌味を言われた。
当方は、バイクの免許も自動車の免許もないので、戸頭のケーズデンキまで行くとしたら自転車だ。
だが、台風15号の影響で雨が降っていたので、自転車は御免である。

新たに買ったリモコン

故障した1台目と2台目のリモコン


猫を飼うことを諦めた

2022年09月24日 12時22分18秒 | 日記・断片

当方は、<猫好き人間>である。
だが、家人は<猫大嫌い人間>なのだ。
生後間もないらしい子猫が我家の庭の方で泣いてた。
無慈悲にも、誰かが捨てていったようだ。
か細い泣き声がガラス越しに聞こえていたので、外へ出て見たら、足元に寄ってきてまとわり付くるので、思わず手で掴にあげる。
そのまま、子猫を掴んで居間へ持っていく。
すると家人は「ああ~気持ち悪い!ヤメテ!直ぐ捨ててきて」と悲鳴を上げ顔をしかめるのだ。
それ以来、猫を飼うことを諦めた。

 

動画リンク
 
 
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取手・井野天満神社に集まる猫たち
動画リンク
 
 
 
 
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人間のための宗教

2022年09月24日 11時52分25秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽私たちはどう生きるべきか。
本来、その生きる軸となるべきものが宗教であるはずだ。
目的や手段を間違えた宗教は、いつか深刻な事態を引き起こす―ジャーナリスト・田原総一郎さん

▽人間あっての宗教。
<宗教のための人間>から、<人間のための宗教>への大転換点が、実に仏教の発祥であった。
「人間あっての宗教」でなく、「宗教あっての人間」となれば、人間が宗教の手段になってしまい、やがては生活や人生、家族を破綻させかねない。

▽人間がものを考える際の基本は理性である。
だから理性をなくしてはいけない。
理性があり、さらに信仰がある。
この二つはなんら矛盾していない。
理性を最大限働かせる中に、信仰を位置付ける。

▽人生とは一体何なのか。
そこを追及して、「生きる意味」を見いだしていくのが宗教だと思う。

▽人間の幸福は、あくまで自身の強い生命力で獲得できるものであり、その生命力引出すのが信仰である。
人間の内面を強くする信仰の在り方が鍵となっていく。

▽一人をどこまでも尊重し、大切に励まし、苦難や逆境にひるむことなく励まし立ち向かっていく。
この時代の危機をどのように転換していくかだ。