読谷村のガマ
ガマというのは沖縄の自然洞窟のこと。かつては風葬の場所とされていましたが、その多くは沖縄戦の際に舞台となりました。
今回ご紹介しますシムクガマは、沖縄本島の中部・読谷村(よみたんそん)にあります。座喜味城跡や残波岬、やちむんの里など、落ち着いた観光スポットが多く集まるエリア。
上陸したアメリカ兵によって投降を呼びかけられます。すぐ近くのチビチリガマでは、米軍=鬼畜と信じていました。敵の手にかかるくらいならと、お互いに命を奪い合う集団自決という凄惨な決断をとってしまいます。その結果、避難していた139名のうち、82名がこの世を去ってしまいました。
しかし、こちらのシムクガマではなんとアメリカ兵の投降に応じます。そのため、1,000人もの人が捕虜として生き残りました。
すぐ近くのガマで、なぜこれほどまで異なった選択を取ることになったのでしょうか。
米軍を鬼畜とする考えは、ここにいた人々も同じ。なぜこのシムクガマの人々は投降に応じたのでしょうか。
そこには、このガマに避難していた比嘉平治さんと比嘉平三さんという2人の人物が関わってきます。
それぞれ当時72歳、63歳というこの二人の老人は、もともとハワイ移民であり海外経験がありました。英語を話すことができ、「アメリカ人は命を奪わない」と自決に迫る避難者を説得。この2人の尽力によって1,000人もの人の命が救われたのでした。
明暗が分かれた2つのガマの運命。ここから学ぶことはいったい何でしょうか。
英語を話せたというのは非常に重要なスキルであったのですが、それ以上に重要だったのは「鬼畜米英」といった戦時下における洗脳に抗う心、敵国の兵も人間であるという理解、そして奮い立つ人々を止める説得力なのかもしれません。
75年前、米軍が沖縄本島で最初に上陸した沖縄県読谷村に、明暗が分かれた二つのガマ(自然壕=ごう)がある。
約千人が助かったシムクガマと、83人が集団自決したチビチリガマ。
シムクガマの生存者は自分たちが死んでもおかしくなかったと振り返り、チビチリガマで祖父母を亡くした遺族は住民らを死に追いやった戦時教育の恐ろしさを語る。
本島西海岸の読谷村。ビーチから約1・5キロ、波平地区の住宅街の一角にシムクガマはある。草木をかき分けて進むとガマが大きな口を開けていた。入り口の石碑には「救命洞窟之碑」「ハワイ帰りの故比嘉平治氏、比嘉平三氏によって救われた」と刻まれている。「私が生きているのは2人のおかげ」。近くに住む知花治雄さん(86)は語る。平三さんは祖父、平治さんはその叔父に当たる。
当時11歳の知花さんは祖父母と母、兄の5人で避難していた。米軍が上陸した1945年4月1日。夕方、炊き出しのためにガマを出た男性が銃を構えて向かってくる米兵を見つけた。「アメリカーが来た」。米兵の姿にガマ内は混乱する。竹やりで応戦しようとする警防団を、平治さんがいさめた。平三さんはガマには日本兵がいないことを説明した。「米兵は住民を殺さない」。2人で住民らを説得し、投降した。
◆ ◆
シムクガマから約800メートル北西に、チビチリガマはある。地獄絵図さながらの惨状-。
生存者の証言をまとめた読谷村史には、そう記されている。
4月1日、上陸した米兵に竹やりで突撃し2人が重傷を負った。
「自決」を口にした住民が着物や布団に火を放つ。周りが消し止め事なきを得たが、翌2日、再び米兵が姿を見せると極限状態のガマでは毒薬で命を絶ったり、自ら親や子を手にかけたり。約140人のうち83人が集団自決で亡くなった。約6割は18歳以下の子どもだ。
「米兵に捕まれば殺されると聞いていた住民たちは追い込まれ、愛する家族で殺し合った」。
遺族会会長の与那覇徳雄さん(65)=同村渡慶次=は語る。与那覇さんは母方の祖父母ら5人を失った。母は結婚し県北部に疎開していたため助かった。「母は祖父母らに見送られて逃げた。戻ったときには誰もいなくなっていた」
生き残ってしまったことに絶望した母が2度、入水自殺を試みたことは後に知った。
西日本新聞 75年前、米軍が沖縄本島で最初に上陸した沖縄県読谷村に、明暗が分かれた二つのガマ(自然壕=ごう)がある。
約千人が助かったシムクガマと、83人が集団自決したチビチリガマ。
シムクガマの生存者は自分たちが死んでもおかしくなかったと振り返り、チビチリガマで祖父母を亡くした遺族は住民らを死に追いやった戦時教育の恐ろしさを語る。
近くに住む知花治雄さん(86)は語る。平三さんは祖父、平治さんはその叔父に当たる。
当時11歳の知花さんは祖父母と母、兄の5人で避難していた。米軍が上陸した1945年4月1日。
夕方、炊き出しのためにガマを出た男性が銃を構えて向かってくる米兵を見つけた。「アメリカーが来た」。米兵の姿にガマ内は混乱する。竹やりで応戦しようとする警防団を、平治さんがいさめた。平三さんはガマには日本兵がいないことを説明した。「米兵は降伏した住民を殺さない」。2人で住民らを説得し、投降した。
そのれは、米国を知り世界を肌で感じてきたハワイ帰りの兄弟二人であった。
◆ ◆
シムクガマから約800メートル北西に、チビチリガマはある。地獄絵図さながらの惨状-。生存者の証言をまとめた読谷村史には、そう記されている。
4月1日、上陸した米兵に竹やりで突撃し2人が重傷を負った。「自決」を口にした住民が着物や布団に火を放つ。周りが消し止め事なきを得たが、翌2日、再び米兵が姿を見せると極限状態のガマでは毒薬で命を絶ったり、自ら親や子を手にかけたり。約140人のうち83人が集団自決で亡くなった。約6割は18歳以下の子どもだ。
「米兵に捕まれば殺されると聞いていた住民たちは追い込まれ、愛する家族で殺し合った」。
遺族会会長の与那覇徳雄さん(65)=同村渡慶次=は語る。
与那覇さんは母方の祖父母ら5人を失った。母は結婚し県北部に疎開していたため助かった。「母は祖父母らに見送られて逃げた。戻ったときには誰もいなくなっていた」
生き残ってしまったことに絶望した母が2度、入水自殺を試みたことは後に知った。
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二つのガマは、なぜ対照的な結末を迎えたのか。
村史編集に携わった元村立歴史民俗資料館長の小橋川清弘さんは、戦前の間違った教育により、住民にも命がけで国を守れという考えがたたき込まれていたと指摘。その上で「シムクガマでは生きようという強い意志をもったリーダーがいた。チビチリガマには軍部の影響を受けた元兵士や元従軍看護婦がおり、その判断を信じた住民たちが自決を選んだ」と語る。
知花さんには忘れられない光景がある。シムクガマを出て収容所に向かう途中、海を埋め尽くす米艦に特攻する日本軍の戦闘機を見た住民らが、万歳を繰り返した。「アメリカーに捕まっても頭の中は『お国のため』だ。チビチリガマもシムクガマも一緒。生きるも死ぬも紙一重だ」
(那覇駐在・高田佳典)