1977年7月にインドのマトゥラー博物館が入手した,足だけを残す仏の台座に,この像が阿弥陀Amitābhaであることを示す文字があった。台座が奉献された時代はフビシュカHuviṣka王の28年(2世紀後半)と記されている。《無量寿経》が中国で翻訳されたのは252年であるが,それより前に安世高や支婁迦讖(しるかせん)(いずれも2世紀)が同系の経を翻訳したという伝承がある。
クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まったとみられ,クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され,また神や王の姿には光線や焰がそえられており,〈無量の光〉を属性とする仏の信仰を生みだす背景は十分にあった。
またオリエント(イランを含む)のメシア思想も無視しえない。阿弥陀仏は衆生を救済する仏として,従来の自力仏教の伝統のなかに他力仏教という新しい要素をもたらした。自力仏教においては阿弥陀仏は観想の対象としての意味をもち,修行者の成仏の意志を励ますものとなった。密教では絶対者の顕現の一つとしてそのパンテオンに組みいれられた。三身trikāya説では報身とされる。観音,勢至を脇侍とする。
[定方 晟]
日本における阿弥陀信仰
阿弥陀信仰は中央アジアを経て,中国に伝わった。中国でこの信仰が高まるのは4世紀後半から5世紀以後である。日本へは7世紀のはじめに伝わった。人々をひきつけたのは《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》であり,これらは阿弥陀仏とその浄土を語り,阿弥陀仏の救済が衆生の極楽浄土への往生で実現されることをのべている。奈良時代以前の阿弥陀信仰は弥勒信仰と混在した形であり,追善的性格が濃厚であった。
奈良時代の後期に浄土変相図がつくられ,阿弥陀仏と浄土への観想に関心が寄せられたが,往生を願う中心に死者だけでなく,自己を据えるようになってきた。阿弥陀仏とともに,その西方の浄土が日本人の心にしみついたのは平安時代からである。
阿弥陀信仰の本格的展開のきっかけをなしたのは比叡山の不断念仏であり,源信の《往生要集》であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂,迎接堂が建てられ,聖衆来迎図が描かれ,迎講,往生講,阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが,官人,武士,農民,沙弥など各層に及び,奴婢,屠児など卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。
〈往生伝〉はこれら信仰者の往生の証の書であるが,10世紀末から約2世紀の間に,慶滋保胤の《日本往生極楽記》以下7種類も著された。鎌倉時代になると,阿弥陀信仰は質的に飛躍した。本願,往生,名号などに関する教学が深まり,いわば念仏宗ともいうべき新宗派,すなわち法然の浄土宗,親鸞の浄土真宗,一遍の時宗が成立した。
日本での阿弥陀信仰の特色は,阿弥陀仏の〈来迎引接〉と,行者の〈極楽往生〉に特別の関心が寄せられていたこと,阿弥陀仏の〈本願〉への絶対的な帰信がみられたこと,念仏が自身の〈滅罪〉と死者への〈追善〉に最適と考えられたことである。阿弥陀仏への帰依を本旨とした宗派(浄土宗,西山系の浄土宗,浄土真宗,融通念仏宗など)の信者は,今日,全仏教徒の約5分の2を占め,阿弥陀仏を本尊とする寺院は全寺院の半数近くに達している。
[伊藤 唯真]
図像
阿弥陀如来は浄土教信仰の主尊であり,したがって浄土教美術の中心的尊像である。薬師如来像とは異なり手に持物はないが,さまざまな印相(いんそう)(手の形)で表現され,印相の違いにより与願・施無畏印,転法輪印(説法印),定印,来迎印の像の4種に大別できる。
与願・施無畏印の像は,左手は下げて右手は掌を外に向けて上げる。転法輪印の像は,両手を胸前にあげ,左手は大指(親指)と中指をつけて掌を内に向け,右手は大指と頭指(人指し指)をつけて掌を外に向ける。これは阿弥陀如来が説法する姿を写すもので,阿弥陀浄土図,観経変相図などの画像に表される。
与願・施無畏印と転法輪印は釈迦如来像にも表されており,阿弥陀特有の印相ではないが,阿弥陀には比較的古い時代から用いられたと推測される。定印の像は,腹の前で両手掌を上に向けて両手指を交差し,左右の頭指を立てて背中合せにし,その上に左右の大指を置く。
《両界曼荼羅》のうち胎蔵界の無量寿如来と金剛界の阿弥陀如来に表されており,平安時代の阿弥陀堂本尊(彫像)はこの印相の像である。来迎印は,両手とも大指と頭指とを合わせたまま右手は上げ左手は下げ,掌はいずれも外に向ける。往生者を迎える姿として表現されている。
作例
西北インドのガンダーラ地方において仏教の造像活動が活発になる1~2世紀ころ,北西インドでは大乗仏教がかなり広まり,阿弥陀信仰が行われていても不思議でない状況であったとされているが,その時代に造られた阿弥陀像と断定できる完全な作例はまだ報告されていない。
西域ではトゥルファン地方に大乗仏教が伝えられたが,西域の特色を示す阿弥陀像は発見されていない。注目すべきはトゥルファン東部のトユク(吐峪溝)から発見された中国唐代の大歴6年(771)の銘をもつ阿弥陀浄土図断片(絹絵)である。8世紀のトゥルファン地方では,仏教東漸の方向とは逆に唐代美術の影響が西方に及んだことをこの断片は示している。
中国においてもこの頃から阿弥陀如来を表現することが盛んになった。竜門石窟では6世紀に阿弥陀像が造られているが,著名な作例としてはアメリカのボストン美術館蔵の隋の開皇13年(593)銘を持つ《青銅阿弥陀如来像》がある。また,敦煌石窟では初唐時代から阿弥陀浄土図や観経変相図が数多く描かれた。彫像は左右に観世音菩薩,勢至菩薩を脇侍にした三尊形式の像で,与願・施無畏印が多い。朝鮮においても6世紀には阿弥陀如来像が造られたと考えられている。
辛卯銘《金銅三尊仏》は517年,癸酉銘《全氏阿弥陀仏三尊石像》(ソウル,国立中央博物館)は673年の造像と推定され,ともに右手は施無畏印である。左手は,前者が与願印に似るが無名指,小指を曲げ,後者は掌を上にして胸前に添える。7世紀末ころの作と推定されている慶尚北道の軍威三尊石窟本尊も脇侍の表現によって阿弥陀如来と考えられる。
日本には7世紀中ごろに阿弥陀如来像が登場した。現存する作例は7世紀末ころのものばかりだが,東京国立博物館蔵法隆寺献納宝物中の小金銅仏のうち〈山田殿像〉と言われる金銅阿弥陀三尊像や法隆寺蔵《橘夫人厨子》の本尊は与願・施無畏印で,同寺金堂壁画(6号壁)の《阿弥陀浄土図》や同寺蔵の厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像の中の阿弥陀像は転法輪印の像であり,その当時の中国と朝鮮における阿弥陀像と同形式の古様を伝えている。
さらに奈良の当麻(たいま)寺には観経変相図があり《当麻曼荼羅》と呼ばれている。平安時代前期に入ると阿弥陀は,密教の両界曼荼羅図の中に定印の座像として表現されることはあるが,単独で造像されることはなかった。平安中・後期に浄土教が盛んになって各地に阿弥陀堂が建立されると,その本尊に定印の阿弥陀如来座像が造られた。定印の阿弥陀像には常行三昧など観法修行の本尊としての性格が認められることが指摘されている。浄土教信仰は,やがて阿弥陀如来が往生者を極楽から迎えに来る姿,すなわち来迎印の阿弥陀像を表現する。
《阿弥陀聖衆来迎図》がその代表例で,さまざまな形式に表現された。特殊な例としては,説法印の阿弥陀如来が山の背後から巨大な上半身を現す《山越阿弥陀図》,後方を振り返る姿の《見返り阿弥陀像》(京都禅林寺)などが造られた。鎌倉時代以降は,当麻寺の《当麻曼荼羅》や長野善光寺の本尊阿弥陀三尊像(秘仏)が盛んに模作された。後者は〈善光寺式阿弥陀三尊〉と呼ばれている。
なお,九品阿弥陀の印相について,上品・中品・下品の各上生の印を定印とし,同じく中生印を説法印に,下生印を来迎印に当てて九種の印を組み合わせたものが,《仏像図彙》(江戸時代)などに見られ,現在も一般の概説書等に取り上げられているが,これらを説く儀軌はなく,しかも近世以前にはそれに基づいて造像されたものは存在しないことから,この九品印は近世に考案されたものと推定され,阿弥陀の印相としては説明すべきではないとの提言がなされている。
[関口 正之]
[索引語]
極楽浄土 弥陀 無量寿経 Amitābha 無量光 Amitāyus 無量寿 フビシュカ Huviṣka 三身 trikāya 阿弥陀信仰 阿弥陀如来 印相 与願・施無畏印 転法輪印 説法印 定印 来迎印 阿弥陀堂 見返り阿弥陀像 九品阿弥陀
極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。弥陀とも略称される。『無量寿経』によれば、過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて、長期間の修行を果たし、現在では阿弥陀仏となり、極楽浄土の主となって、その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという。
四十八の誓願のうち第十八願は阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できるというもので、後世の中国、日本では称名念仏の根拠とされた。この仏はサンスクリット文献ではAmitābha(無量光)、Amitāyus(無量寿)として現れるが、阿弥陀はおそらくこの前半部amita(無限)の方言であろう(他にも説がある)。
阿弥陀仏は大乗仏教の仏としてクシャーナ時代の初期(一~二世紀)に登場したらしいが、その起源に関してイラン思想の影響がいわれている。
一九七七年七月にインドのマトゥラー博物館が入手した、足だけを残す仏の台座に、この像が阿弥陀であることを示す文字があった。台座が奉献された時代はフビシュカ王の二八年(二世紀後半)と記されている。
『無量寿経』が中国で翻訳されたのは二五二年であるが、それより前に安世高や支婁迦讖(いずれも二世紀)が同系の経を翻訳したという伝承がある。クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まったとみられ、クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され、また神や王の姿には光線や焔がそえられており、「無量の光」を属性とする仏の信仰を生みだす背景は十分にあった。
またオリエント(イランを含む)のメシア思想も無視しえない。阿弥陀仏は衆生を救済する仏として、従来の自力仏教の伝統のなかに他力仏教という新しい要素をもたらした。
自力仏教においては阿弥陀仏は観想の対象としての意味をもち、修行者の成仏の意志を励ますものとなった。密教では絶対者の顕現の一つとしてそのパンテオンに組みいれられた。三身説では報身される。観音、勢至を脇侍とする。
[定方 晟]
日本における阿弥陀信仰
阿弥陀信仰は中央アジアを経て、中国に伝わった。中国でこの信仰が高まるのは四世紀後半から五世紀以後である。日本へは七世紀のはじめに伝わった。人びとをひきつけたのは『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』であり、これらは阿弥陀仏とその浄土を語り、阿弥陀仏の救済が衆生の極楽浄土への往生で実現されることをのべている。奈良時代以前の阿弥陀信仰は弥勒信仰と混在した形であり、追善的性格が濃厚であった。奈良時代の後期に浄土変相図がつくられ、阿弥陀仏と浄土への観相に関心が寄せられたが、往生を願う中心に死者だけでなく、自己を据えるようになってきた。阿弥陀仏とともに、その西方の浄土が日本人の心にしみついたのは平安時代からである。
阿弥陀信仰の本格的展開のきっかけをなしたのは比叡山の不断念仏であり、源信の『往生要集』であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂、迎接堂が建てられ、聖衆来迎図が描かれ、迎講、往生講、阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが、官人、武士、農民、沙弥など各層に及び、奴婢、屠児など卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。「往生伝」はこれら信仰者の往生の証の書であるが、一〇世紀末から約二世紀の間に、慶滋保胤の『日本往生極楽記』以下七種類も著された。鎌倉時代になると、阿弥陀信仰は質的に飛躍した。本願、往生、名号などに関する教学が深まり、いわば念仏宗ともいうべき新宗派、すなわち法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗が成立した。日本での阿弥陀信仰の特色は、阿弥陀仏の「来迎引接」と、行者の「極楽往生」に特別の関心が寄せられていたこと、阿弥陀仏の「本願」への絶対的な帰信がみられたこと、念仏が自身の「滅罪」と死者への「追善」に最適と考えられたことである。阿弥陀仏への帰依を本旨とした宗派(浄土宗、西山系の浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗など)の信者は、今日、全仏教徒の約五分の二を占め、阿弥陀仏を本尊とする寺院は全寺院の半数近くに達している。
[伊藤 唯真]
図像
阿弥陀如来は浄土教信仰の主尊であり、したがって浄土教美術の中心的尊像である。薬師如来像とは異なり手に持物はないが、さまざまな印相(手の形)で表現されており、印相の違いによって与願・施無畏印、転法輪印(説法印)、定印、来迎印の像の四種に大別できる。
与願・施無畏印の像は、左手は下げて右手は掌を外に向けて上げる。転法輪印の像は、両手を胸前にあげ、左手は大指(親指)と中指をつけて掌を内に向け、右手は大指と頭指(人指し指)をつけて掌を外に向ける。これは阿弥陀如来が説法する姿を写すもので、阿弥陀浄土図、観経変相図などの画像に表される。与願・施無畏印と転法輪印は釈迦如来像にも表されており、阿弥陀特有の印相ではないが、阿弥陀には比較的古い時代から用いられたと推測される。定印の像は、腹の前で両手掌を上に向けて両手指を交差し、左右の頭指を立てて背中合せにし、その上に左右の大指を置く。『両界曼荼羅』のうち胎蔵界の無量寿如来と金剛界の阿弥陀如来に表されており、平安時代の阿弥陀堂本尊(彫像)はこの印相の像である。来迎印は、両手とも大指と頭指とを合わせたまま右手は上げ左手は下げ、掌はいずれも外に向ける。往生者を迎える姿として表現されている。
日本には七世紀中ごろに阿弥陀如来像が登場した。現存する作例は七世紀末ころのものばかりだが、東京国立博物館蔵法隆寺献納宝物中の小金銅仏のうち「山田殿像」と言われる金銅阿弥陀三尊像や法隆寺蔵『橘夫人厨子』の本尊は与願・施無畏印で、同寺金堂壁画(六号壁)の『阿弥陀浄土図』や同寺蔵の厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像の中の阿弥陀像は転法輪印の像であり、その当時の中国と朝鮮における阿弥陀像と同形式の古様を伝えている。さらに奈良の当麻寺には観経変相図があり『当麻曼荼羅』と呼ばれている。平安時代前期に入ると阿弥陀は、密教の両界曼荼羅図の中に定印の座像として表現されることはあるが、単独で造像されることはなかった。平安中・後期に浄土教が盛んになって各地に阿弥陀堂が建立されると、その本尊に定印の阿弥陀如来座像が造られた。定印の阿弥陀像には常行三昧など観法修行の本尊としての性格が認められることが指摘されている。浄土教信仰は、やがて阿弥陀如来が往生者を極楽から迎えに来る姿、すなわち来迎印の阿弥陀像を表現する。『阿弥陀聖衆来迎図』がその代表例で、さまざまな形式に表現された。特殊な例としては、説法印の阿弥陀如来が山の背後から巨大な上半身を現す『山越阿弥陀図』、後方を振り返る姿の『見返り阿弥陀像』(京都禅林寺)などが造られた。鎌倉時代以降は、当麻寺の『当麻曼荼羅』や長野善光寺の本尊阿弥陀三尊像(秘仏)が盛んに模作された。後者は「善光寺式阿弥陀三尊」と呼ばれている。なお、九品阿弥陀の印相について、上品・中品・下品の各上生の印を定印とし、同じく中生印を説法印に、下生印を来迎印に当てて九種の印を組み合わせたものが、『仏像図彙』(江戸時代)などに見られ、現在も一般の概説書等に取り上げられているが、これらを説く儀軌はなく、しかも近世以前にはそれに基づいて造像されたものは存在しないことから、この九品印は近世に考案されたものと推定され、阿弥陀の印相としては説明すべきではないとの提言がなされている。