創作欄 芳子の青春 26

2016年08月25日 10時41分23秒 | 創作欄
2012年7 月13日 (金曜日)

「朝の散歩の後は、私はお風呂に入っているの。どうぞ芳子さんも汗を流してください」
紀子は朝食の支度をしながら芳子に入浴を勧めた。
「何もかも、本当にありがとうございます」芳子は好意に甘えた。
紀子は一期一会の実践者であった。
一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざである。
『あなたとこうして出会っている この時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切 に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』
無私の心の発露である。
あるいは、「可愛い子には旅をさせろ」ということわざがある。
子供がかわいいなら、甘やかさないで世間に出して苦労をさせたほうがよいということであり、そろそろ突き放して自立させよと親に諭したのである。
広島への旅で、世間知らずの自分が少しは成長できるだろうか、寝台列車のベットに横たわり芳子は想ってみた。
芳野教授は、百聞は一見にしかずを分かりやすく説明していた。
「100冊の書物を読むことよりも1回の旅行に勝るものはない」
芳子は広島駅に降り立った時に、芳野教授の言葉を実感した。
戦後、18年、広島が信じがたいほど蘇っているように見えた。
原爆の痕跡を留めているものはどこにあるのだろうか?
芳子は早朝の駅前でどちらへ向くべきかに迷っていた。
そして、紀子と偶然に広島駅前で出会い、自宅にまで招かれていた。
湯船に浸かりながら、人の温かみ感謝しながら「広島へ来てよかった」と芳子は思った。
紀子は左のこめかみから頬にかけて10㎝ほどの火傷を負っていた。
火傷は左の腕や胸、足にも負っていた。
歯茎から血が出たり、髪の毛抜けた時期もあったが、その後、体に変調はないことは幸運であった。
風呂から上がった紀子は胸のケロイドを芳子に見せた。
被爆体験証言者としの紀子の姿は鮮烈であった。
原爆投下の当日、投下直後の広島において、実際に自分が見たこと、経験したこと、被害のありさまを、「原爆の生き証人」である被爆者が肉声で語る証言には、圧倒的な迫力と重みがあり、核兵器の使用が人類に何をもたらしたかという事実を聞く人の心に強く訴える力があった。
2012年7 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 25
「あなたは、先ほどの寝台列車で到着をしたのですね。お疲れでしょう。家(うち)へ寄って休んで行きませんか?」
被曝「語り部」の佐々木紀子は、旅行者を度々自宅に招いていたので、芳子にも声をかけた。
「私がお宅へ伺ってもいいのでしょうか?」
芳子は思わぬ誘いを受けて瞳を大きく見開きながら微笑んだ。
「遠慮なくどうぞ、少し歩きますが」
紀子は朝の散歩を兼ねた清掃を終えるところであり、塵取りと竹箒を手にしながら歩き出した。
南区的場2丁目の段原小学校の傍に、佐々木紀子の自宅があった。
平屋で竹垣に囲まれた家であった。
庭は100坪ほどであっただろうか、木戸を開けると左に小さなお稲荷さんがあった。
ひょうたん型の池もがあり、傍らに百合の花が咲いていた。
ピンク色の百合には華やかさがあり、芳子が一番好きな花であった。
桜の木が庭の隅に2本見えた。玄関の脇のクチナシの花は枯れかけていたが、まだ強い香を放っていた。
芳子の実家の玄関の脇にもクチナシの花があった。
石灯篭の向こう側に夾竹桃も咲いていた。
濡れ縁の上の軒先で風鈴の音が軽やかに鳴っていた。
「芳子さん、小さな家ですが、どうぞあがってください」紀子は頬笑みかけた。
ドアを開けると玄関の正面の壁に原爆ドームの油絵が掲げられていた。
芳子がそれに目を注ぐと紀子は笑顔となった。
「この絵は主人が趣味で描いたものです。主人は転勤で今、岡山へ行っています。
ですから、私1人です。息子は結婚して今は倉敷に住んでいます」
居間は、和室の6畳であった。
6畳の洋間、6畳の寝室、4畳半の息子が住んでいた部屋4間の取りであった。
紀子はお湯を沸かし、日本茶を出した。
茶菓子にようかんを添えた。
「広島は初めてですね」
「そうです」
道すがら芳子は群馬県の沼田市出身であることや現在、東京の中野区に住んでいて早稲田大学の教授の秘書をしていることを告げていた。
「あなたは昭和16年生まれなのね。娘を原爆で失っているので、若い女性を見る度に娘が生きていたらと思うのね」紀子は眼を潤ませた。
幸せな子になってほしいと「幸子」と名付けたのは夫であった。
紀子は芳子を洋間に案内して、娘の幸子の写真を見せた。
出窓の白いレースの置物の上に小さな額があり、16歳であった幸子の微笑んでいる写真があった。
勤労奉仕へ行く前の朝、父親の茂がカメラに収めた写真であった。
その当時の一般的な服装であるかすり模様のモンペ姿であった。
勤労奉仕へ行く前の朝、父親の茂がカメラに収めた写真であった。
その当時の一般的な服装であるかすり模様のモンペ姿であった。
「芳子さんほど美しくはないけれど、幸子は綺麗でしょ」
「幸子さんは綺麗な娘さんだったのですね」
16歳で人生を閉ざするは、何と理不尽なのだ。
芳子にも辛い過去があったが、生きていることの幸運を思った。
庭から見えた段原小学校は明治30年の創立である。
昭和20年4月 学童は集団疎開をした。
比婆郡山内西村・山内東村・口南村に分散して職員15名と児童339名が疎開をした。
20年8月6日の原子爆弾投下により校舎は倒壊し焼失した。
犠牲者は職員3名、児童18名であった。
33年に創立60周年を迎え式典、並びに講堂落成式が挙行された。
28年に鉄筋校舎9教室が落成したので今年で10年目だった。
被曝「語り部」の紀子は、歴史の証言者として昭和20年の学校と学童たちについても調べていた。

2012年7 月 9日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 24
芳野教授から、平和記念公園への道順を教わっていたが、広島駅前で掃除をしている人に声をかけた。
「ご苦労さまです」と芳子は背後から声をかけた。
腰を屈めてゴミを拾う女性は、60代と思われた。
頭を手拭いで覆っていた。
振り向いたその人の顔にはケロイドの痕が残っていた。
芳子の様子を見ながら、「お早うございます。旅行ですね」と相手は微笑みかけた。
芳子は肯きながら、その人を心の優しい人だと感じた。
「平和記念公園へ行きたいのですが」
「バスなら吉島方面行きに乗って、平和記念公園前で降りてください。市内電車なら、紙屋町経由広島港行きに乗って、中電前で降りてください。宮島行なら原爆ドーム前で降りてください」
芳子はこの人は単なる清掃をしている人ではなく、旅行案内の仕事にも従事している人ではないかと思った。
後で知ったのであるが、その人は被曝体験を語る「語り部」の1人であった。
被曝「語り部」の佐々木紀子は38歳の時に、広島駅のそばで被爆した。
爆心地から500メートルで勤労奉仕作業をして娘は被曝した。
娘の幸子の背中はズルズルに焼けただれ、やっと自宅どりついた。
当時は薬も包帯、ガーゼもなく、シーツや浴衣を裂いて、ジュグジュグと体液が出てくる傷をふく。
それくらいしか出来なかった。
そして傷が化膿し、そこにハエがたかり、卵を産みつけ、ウジとなり、体中が白くなるくらい這い廻る。
娘の幸子は痛い、痛いと呻いていたが、その声もだんだん小さくなり、結局、虚しきも死でしまった。
その亡くなった幸子を戸板に寝かせ、廃材を組んだ上に乗せ焼いた。
紀子の火傷は、その日8月6日の午後から赤く水ぶくれが始まった。
一方、夫の仕事場の銀行は灰燼に帰した。
自宅は幸い火の手からは救われたものの、崩壊寸前だった、
水道は壊滅、食べ物を売る店もない、生活基盤が全てない状態だった。
そこで夫の父の両親の住む東京に非難することに決心した。
東京には、自宅にいた10歳の息子とともに8月11日乞食一家に等しい姿で広島を脱出をした。
その後、紀子は東京でその年の11月末まで火傷に生死の境をさまよったが、幸いにも12月になり回復した。
あの日、紀子は市内電車の車掌として広島駅から広島港へ向かうはずであった。

2012年7 月 6日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 23
広島に興味をもった芳子は、何時かは広島へ行こうと思った。
1962年(昭和37年)6月に、山陽本線は広島駅まで電化が完成された。
急行「宮島」は東京駅 - 広島駅間(山陽本線経由に変更)運転となる。
それまでの、急行「安芸」は、東京駅 - 広島駅間は呉線経由であった。
そして1963年(昭和38年)熊本行きの「みずほ」はブルートレイン化した。
運転区間は東京~熊本・大分間となった.
大阪までなら、2等料金は1980円であった。
家賃を月に6000円を払っている芳子は、広島行きは経済的にとても無理だと思った。
ところが、芳野教授が旅費を出してくれることとなった。
「私は学会もあるので、広島へは帰れないが、大学は夏休みです。是非、広島を見てきなさい。何かを感じることがあるでしょう。平和の原点となる被爆地広島ですからね」
芳子は芳野教授の好意に甘える気持ちとなった。
熊本行き寝台特急「みずほ」は東京駅を18時20分に発車した。
寝台列車で芳子は時々目を覚ましたので、寝不足であった。
初めは、大垣駅、そして、京都駅、大阪駅、神戸駅、岡山駅、到着するたびに車内放送に耳を傾けていた。
夏なので、午前4時ころから外は白み出していた。
芳子の席は3段ベッドの1番下であったので、上で眠る乗客の気配にも時折目を覚ました。
誰かの寝ごとや鼾も聞こえてきた。
「これが、寝台列車の旅なのね」
芳子は手枕をしながら、左右の上のベッドの気配に耳を傾けた。
真上のベッドには30代と想われる女性と60代であろうか白髪頭の女性が寝ていた。
母親と想われるその女性が何度かトイレに行った。
「すいませね。起こしてしまって」
梯子に手をかけながら女性は芳子に頭を下げた。
「気になりませんよ」
芳子は微笑んで首をふった。
豆電球が灯る車内が明るんできていた。
広島駅まで892.1㌔、翌朝、午前6時28分、ブルートレイン「みずほ」は定刻どおり広島駅に到着した。
2012年7 月 5日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 22
東京・中野区中央、芳子が芳野教授の世話で住んだのは、中野区のほぼ中央部に位置する中央5丁目であった。
いわゆる、木賃ベルト地帯の一角でもあり、一戸建ての住宅や木造・モルタルのアパートも多く見られた。
昭和38年の当時も一人暮らしをしている若年層の多い町であった。
幹が太く葉が茂った大きな桜の木を見上げては、芳子の気持ちをほっとさせた。
その4本の桜が隅に植えてある敷地内に、2棟の平屋のアパートが南向きに建っていた
6畳間の部屋の脇の板の間に小さな台所が付いていた。
家賃は6000円であった。
トイレは共同、風呂がないので、芳子は神田川に近い銭湯へ行っていた。
芳子がアパートへ越して来た日に、玄関で親し気に挨拶をした真田雪子が銭湯へ案内をしてくれた。
「私は、広島出身なの。体内被曝をしたけれど、何でもなくてこうしていられるのはとても幸せ」
「そうですか」
芳子は芳野教授の奥さんとお子さん、そして両親が広島に投下され原子爆弾で亡くなっている話を聞いていたので、改めて雪子の顔を見直した。
体内被曝とはどのようなことなのか?と想ってみた。
芳子は昭和16年生まれで、雪子は昭和20年生まれであったが、体が大きい雪子は同年代のように見えた。
雪子は地元の信用金庫に勤めていた。
地域内を中野通りと山手通りが縦貫しており、山手通り沿いに雪子が勤めている信用金庫
があった。
銭湯の帰りには、中野通り沿いの小さな食堂へ寄ってシロップのかき氷を食べた。
雪子は浴衣姿で、赤い鼻緒の下駄を履いていた。
芳子は雪子と親しくなれたことを心から喜んだ。
「黒い雨、知っている?」
雪子はスプーンを口に運びながら聞く。
「知らないわ」
「私の従姉が黒い雨を浴びて、小学校6年生の時、白血病で亡くなっているの」
目をテーブルに伏せた雪子の目が潤んできた。
芳子は何も知らないので、相手の悲しみを受けとめようがなかった。
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<参考>
黒い雨とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
『黒い雨』は、井伏鱒二の小説である。
新潮社の雑誌「新潮」で1965年1月号より同年9月号まで連載され、1966年に新潮社より刊行された。
連載当初は『姪の結婚』という題名であったが、連載途中で『黒い雨』に改題された。
1966年に第19回野間文芸賞を受賞した。
2012年6 月23日 (土曜日)
創作欄 芳子の青春 21
「アメリカの原爆投下は、人体実験だったんです」
芳子は芳野教授の言葉に唖然とした。
戦後18年目の終戦記念日の日であった。
天皇陛下の「終戦詔勅」に以下の昭和天皇の公式見解がある。
「敵は残虐なる爆弾を使って無辜の国民を大量に殺した。このままでは日本国民だけでなく、人類の滅亡に向かう。だから日本は降伏する」
アメリカはウラン型とプルトニウム型の原爆を日本国土に投下したが、その隠された理由は人体実験であった。
芳野教授は故郷の実家でる広島市内に妻と4歳の娘を疎開させていた。
そして父母とともに4人を原爆で失っていた。
戦後の東京は完全に廃墟と化していた。
その渦中で芳野は深い喪失感と絶望から生き地獄に突き落とされ、呆然自若となった。
それまでの全ての価値観が顛倒してしまった。
言い知れぬ絶望から立ち上がれたのは、信仰に導かれたからであった。
「芳子さんも信仰を持つべきです」
芳野教授は、書棚から聖書を取り出すと芳子に渡した。
大学は休みであったが、日本機械学会が開かれるため芳野教授は講演抄録をまとめていた。
芳子は教授秘書として事務面での補佐をしていた。
--------------
<参考>
アメリカ軍の人体実験だった広島・長崎の原爆投下
「後悔に1分たりとも時間を費やすな」は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。
難しい決断だったかと聞かれ「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと
鳴らした。
第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。

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2016年08月25日 10時25分05秒 | 創作欄
2012年7 月27日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 32
広島から戻った芳子は、大学で勉強することを決意した。
芳子は中学を卒業してから群馬県沼田の地元郵便局に勤めながら、定時制高校に通った。
そして19歳の時には、夜間の通学路で強姦という忌まわしい体験もした。
さらに、東京に出てきて間もなく、無実の窃盗の罪で服役もした。
人生のつまずきのなかで、気持ちはややもすると後ろ向きとなっていた。
だが、人生の師とも言うべき芳野教授と邂逅した。
「捨てる神あれば、拾う神あり」
世の中はうまく出来ていて、見捨てる人がいれば助けてくれる人もいる。
「悪いことばかりではないよ」という意味だ。
「時々、原爆で失った娘のことを思うことがあります。どうにもならないことですが、芳子さんを見ていると、娘のことを思うのです」
秋空が暮れかかっていた。
銀杏の葉はすっかり黄ばみ、風が強く吹くと夕陽に照らされていた黄金色の葉は激しく舞いながら地面に落下していた。
芳野教授はパイプの煙を吹かしながら、窓の外に目を向けていた。
「芳子さん、大学へ進学しなさい」
「私がですか?」
芳野教授の進言に芳子は戸惑った。
「うちの大学でもいいし、他の大学でもいいですよ。私が支援しましょう」
芳子はその申し出に深く感動し決意をした。
では、大学で何を学ぶかである。
芳子は神田川沿いの銭湯の湯に浸かりながら、何を大学で学ぶべきについて思いを巡らせた。
2012年7 月26日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 31
昭和20年の4月、芳野教授は、妻子を実家の広島に疎開させた。
昭和20年3月10日未明に都民が経験した「東京大空襲」は実に悲惨で、10万人以上の都民が1夜にして命を失った。
犠牲者は生きたまま火あぶりに会い、あえぎ苦しみ亡くなっていった。
この想像を絶する地獄絵が世界の人々にどのように正確に伝えているのだろうか?
これは広島、長崎の惨事と並び、人類史上最大の虐殺だったと表現してもおおげさではない。
猛火の中で逃げ場を失いあえぎ苦しみ死んだ人々の悔しさしと怒りは、どのようなものであったのだろうか?

アメリカ軍はB29と呼ばれた爆撃機により、 無差別焼夷弾の空爆を行った。
東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年( 昭和20年)3月10日の「東京大空襲」はその規模によって想像を絶していた。
この結果、芳野は妻子を東京から広島へ疎開させることにした。
当時、なぜか広島は一度も空爆を受けていなかった。
このため広島は安全地帯だという風評もあった。
では、なぜ、広島に原爆が投下されたのか?
1942(昭和17)年8月、「マンハッタン計画」と名付けられたアメリカを中心とする極秘の原爆製造計画が始まった。
軍と科学者と産業界を総動員して進められた巨大軍事開発事業であった。
1944年9月にはこの新兵器を日本に対して使用することを決めた。
1945(昭和20)年春から、アメリカは投下目標都市の検討を始めた。
投下目標は、原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8km)以上の市街地を持つ都市の中から選び、空襲を禁止した。
そして、数10万以上の人口が住む大規模都市であることも条件とした。
7月25日には目標都市の広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに対する投下命令を下した。
広島を第1目標とする命令を出したのは、8月2日だった。
それは目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたためだ。

都市の大きさや山に囲まれた地形が、原爆の破壊力を探るのに適していた。
広島はまだ空襲を1度も受けておらず、原爆の威力を確認しやすかった。
また、広島には軍隊、軍事施設、軍需工場が集中しており、それらがまだ破壊されずに残っていた。
8月6日、広島の天気は晴れいたので広島の運命は決まった。
芳野はこれらの事実を知ってから、怒りに身が震えた。
「芳子さんは、広島へ一度行ってきなさい」と芳野は芳子の背中を押した。
「戦後18年、戦争は風化しつつあります。あなた方の若い世代が戦争の悲惨さを知ることによって、平和の尊さは次の世代にも引き継がれると思います」
芳子は平和記念公園で芳野教授の言葉を思い起こしていた。
18年前には平和記念公園のある場所に、芳野教授の実家があったのだ。
広島の実相を触れる機会を芳野教授は芳子にもたらした。
2012年7 月25日 (水曜日)
創作欄 芳子の青春 30
広島の平和記念公園は、世界へ向かって平和の尊さを発信しているように芳子には想われた。
そして、生き証人である紀子は、原子爆弾がもたらした戦争の悲惨さと残酷さ、その理不尽さを体現していた。
原爆死没者慰霊碑の前で芳子は思わず祈った。
慰霊碑は平和記念公園の敷地内の、広島平和記念資料館と原爆ドームを結ぶ直線上に設置されていた。
原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、コンクリート製の屋根の部分が、はにわの家型をしていた。
これは犠牲者の霊を雨露から守る趣旨だという。
中央の石室(石棺)には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者すべての氏名を記帳した名簿が納められている。
石室前面には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれていた。
この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したものだ。
平和への深い祈りと広く人類全体の誓いが、そこに刻まれていた。
過ちとは、原爆を投下した過ちであり、同時に戦争そのものの過ちである。
碑文の意味するところは、「全ての人間が再び核戦争をしない」ことを誓うためのものである。
その意味で、『過ち』は深い内容であった。
紀子は碑文を巡り論争があったことを芳子に説明した。
「芳子さんは、どのように思いますか?」
紀子に問われていたが、芳子には答えようがなかった。
芳子の父は戦死していた。
でも、誰の責任なのだろうか?
戦争は起こしてはならないものだ。
分かりきっているが、戦争、紛争は止まない。
紀子の説明によると碑文論争は責任論にまで及んのだ。
当然、原爆を投下したのはアメリカの責任である。
だが、責任を明確にしても、過ちはどうにもならないのだから、二度とあってはならない『過ち』へ「全ての人間の誓い」が碑文に凝縮されているのではないだろうか。
「私が語り部となったのは、『過ち』を訴えるためなの」 芳子は紀子の思いを深く胸におさめた。

昭和38年、戦争は人々の心のなかから徐々に風化しつつあった。
1956年(昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し戦後復興の終了を宣言した。
それから、7年が経過していた。
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<参考>
21世紀の時代は、20世紀の続きであり、負の遺産を引きづっているまま、どうにもならない状況下にある。
人類の最大の問題は、核兵器を開発していまったことだ。
今後、核戦争が起らない保障は、どこにもない。
1960年代のキューバ危機。
そして冷戦。
それらを回避できたのは奇跡であり、これ以上ない人類の幸運である。
では、どうすべきか?
人類が地球規模の危機を、真剣に受け止めて、これを回避するほかない。
少なくとも、人類が絶滅する日がやがて訪れるとしても、それを自然の摂理に委ねたいものだ。
今後、テロなどで核兵器を使用する「悪魔的な狂気の人間」をどうするかが、人類の命題。
2012年7 月24日 (火曜日)
創作欄 芳子の青春 29
紀子は芳子に色々説明した。
「原爆ドーム」は、原爆被災前の広島県産業奨励館である。
広島県の特産品の展示や催し物が開かれていたところであった。
原爆の爆心地は厳密に言えば、原爆ドームの直上で爆発したのではなく、この建物の東南約160m離れている現在の島外科病院の約580m上空で爆発したとされている。
島外科に密接して西側の道端にこの場所が爆心地であった旨の説明標識があった。
広島県産業奨励館は原爆の被災により、建物中央正面部分はかろうじて骨格骨組みが残されたが、 建物左右両側はほぼ完全に破壊されてしまった。
元安川に沿って南の方向に行くと近距離から原爆ドームを見ることができた。
建物は瓦礫と化してが飛び散り、無残に破壊された壁面から原爆の持つ恐ろしい破壊力を十分に推測することができた。
紀子は作家で詩人の原 民喜の詩碑に芳子を案内した。
その詩碑は広島市平和記念公園内原爆ドーム東側に立っていた。
その詩碑には「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻」が刻まれていた。
原 民喜は1905年、広島県広島市幟町に生まれた。
1945年1月、郷里の広島に疎開、8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆、幸い便所にいたため一命はとりとめるが家は倒壊し、二晩野宿した。
それ以後被爆との因果関係は不明であるが体調が思わしくない状態が続いた
原爆投下の惨状をメモした手帳を基に描いた「夏の花」(1947年)は、1948年、第一回水上滝太郎賞を受賞している。
そして1951年、慢性的な体調不良や厭世観を苦に、国鉄中央線の吉祥寺駅 -西荻窪駅間で鉄道自殺した。
「原 民喜の体調が思わしくなくなったのは、被爆の影響だと私は思っています」紀子はきっぱりとした口調で言った。
元安橋を渡って間もなく歩くと北側に「原爆の子の像」が見えた。
三脚のドーム型の台座の上に少女の像が立っている。
この像を建てるに至ったきっかけは、佐々木禎子さんという少女の死が関わっていることを紀子は説明した。
禎子さんは昭和18年生まれであり、、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により2歳で被爆した。
同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子さんは不調を訴えることなく元気に成長した。
1954年8月の検査では異常なかった。
だが11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。
病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明。
長くても1年の命と診断され、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。
被爆から10年もたってから、白血病で12歳の短い一生を終えたのである。
禎子さんは、鶴を千羽折ると病気が治る、と信じ闘病期間中包装紙などで鶴を折り続けたと言われている。
像の少女が捧げ持っているのは折り続けたという折り鶴を形どったものである。
禎子さんの死を知った一青年と禎子さんの同級生が、原爆で亡くなった全ての子供達のために慰霊碑を作る計画を立て全国に呼びかけ、
海外からの支援も受けて、昭和33年(1958年)にこの像が完成した。
折り鶴をかかげ持つ少女像は、平和への祈りを捧げているように芳子には映じた。
像台座の下に置かれている石碑には『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』と刻まれていた。
原 民喜の生家の幟町にある広島市立幟町中学校に禎子さんが在籍していた。
ここには折り鶴の碑ある。
紀子は芳子にこれらの経緯を説明した。
紀子に出会わなければ、知りえないことばかりであり、芳子は紀子に改めて感謝した。
「広島へ来て、本当に良かったです。ご親切は一生忘れません。広島で見聞きしたことを必ず伝えたいと思います」
「芳子さんのような方に会えて私も良かったです」紀子は涙を浮かべた。
被爆者の多くは偏見にさらされたなかで、被災者であることを隠して生きてきた。
原爆被災者であることから、結婚が破断した例もあった。
原爆症というものが伝染し たり遺伝したりするものだといった誤った認識が昭和20〜40年代あった。
進学・就職・結婚・市民生活上での差別行為が、2重に被爆者たちを苦悩と絶望の淵に突き落としていた。
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<参考>
1963年、東京地方裁判所が「原爆投下は当時の国際法に違反する」旨の判決を下した。
他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や放射能によってもたらされた難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあある。
生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。
これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続くものとされると主張している。
広島大学原爆放射線医科学研究所研究グループの長期調査結果報告において、被爆二世の白血病発症率が高い、特に両親ともに被爆者の場合に白血病発症率が高いことが50年に渡る統計結果より明らかにされた。これにより、まだ一部しか解明されたとしかいえないが、医学的に少なくとも被爆二世への遺伝的影響の否定はできないことが明らかにされた
2012年7 月23日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 28
広島市は、江戸時代、中国・四国地方第一の城下町であった。
明治維新後は広島県の県庁所在地となる。
広島市は海、川、山が近く風光明媚であり、学校も整い県民の教育意識も高まっていた地方都市となる。
また、商店街も整然としており商業都市として栄えたが、大きな民家の庭には大樹も茂っていた。
そして二つの川に挟まれた美しい三角州の都市であった。
一方、陸軍の諸施設が集中していき、やがて学都・軍都二つの顔が鮮明になった。
1920年代から発展しはじめた重工業も1930年代後半には軍需工業化してきた。
被爆直前には、広島湾一帯は、呉の海軍とあわせて軍事的性格を強めていた。
被爆前の広島は、太田川(本川)の本流が、市の中心部で本川と元安川にわかれ、そこにできた三角州の先端が中島地区であった。
現在、平和記念公園ができ、住んでいる人は居ないが、被爆前、ここには中島本町、材木町、天神町、元柳町、木挽町、中島新町など町があった。
被爆当時、爆心地である中島地区には約1,300世帯、約4,400人が暮らしてた。
原爆ドームはヒロシマの象徴である。
紀子に案内されて、芳子は旧中島地区にやってきた。
その日は日曜日であったので、多くの人が川で泳いでいた。
子どもばかりではなく、大人の人も水遊びを楽しんでいるような光景に映じた。
廃墟と化した原爆ドームと川で泳ぐ人たちのまるごと平和を満喫しているような歓声や水飛沫、その対比に芳子は戸惑いを覚えた。
「私も子どもころは、あのように泳いでいたのよ」
紀子はケロイドが残る顔に微笑みを浮かべた。
被爆建物は言わぬ証言者である。
だが、多くの建物は戦後18年が経過し、すでに多くが撤去されていた。
原爆を思い出される建物が存在することを嫌う市民も多くいたのだ。
だが、被爆体験の風化を食い止めたいと紀子は、被曝体験の語り部となった。
被曝の体験は、被爆直後から、文学をはじめ美術、映画、音楽、演劇など、幅広いジャンルで数多くの作品を生み出した。
紀子は自分の使命を自覚してからは、全国から広島を訪れる小・中・高校生、あるいは旅行者たちに体験を語り続けてきた。
「芳子さんは、心や優しい人なので、広島のことをを是非、みんなに伝えてね」
原爆資料館を案内しながら、紀子は芳子の手を確りと握りしめた。
2012年7 月20日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 27
被曝「語り部」の佐々木紀子は、旅行者を度々自宅に招いていた。
そして、「これを読んでください」と原民喜の「夏の花」を本棚から取り出した。
「短い文章ですから、短時間で読めます」
詩や短歌が好きである芳子は、作家で詩人の原民喜の名前を知ってはいたが「夏の花」は読んでいなかった。
原民喜は広島市の中心部の幡町の生家で原子爆弾で被爆した。
紀子が被爆したのは広島駅の近くの市電の駅舎の中であった、
爆心地と広島駅のほぼ真ん中で被爆して、原民喜は一命をとりとめたのだからほぼ奇跡と言える。
作家であり詩人の感覚から、民喜は手帳にその惨状を書きとめた。
8月6日の朝、便所の中にいたため一命を拾つたと記している。
「この地域では大概の家がぺしやんこに倒壊したらしいのに、この家は二階も墜ちず床もしつかりしてゐた。余程しつかりした普請だつたのだらう、四十年前、神経質な父が建てさせたものであつた。(中略)」
「今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである」
「河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊し、走り廻つてゐる。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちやん」と声は全身全霊を引裂くやうに迸り、「ウウ、ウウ」と苦痛に追ひまくられる喘ぎが弱々しくそれに絡んでゐる」
民喜は手帳に2日間の野宿で見たもの、聞いたものを克明に記していた。
「火傷した姪たちはひどく泣喚くし、女中は頻りに水をくれと訴へる。いい加減、みんなほとほと弱つてゐるところへ、長兄が戻つて来た。彼は昨日は嫂の疎開先である廿日市町の方へ寄り、今日は八幡村の方へ交渉して荷馬車を傭つて来たのである。そこでその馬車に乗つて私達はここを引上げることになつた」
初出:「「三田文学」1947(昭和22)年6月号
芳子は読み終えて、涙を浮かべながら大きなため息をついた。
紀子はあえて感想を聞かなかった。
紀子は「夏の花」を何度も読み返し、被曝「語り部」としての自分の役割に背中を押される思いがした。
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<参考>
http://www.youtube.com/watch?v=0J_dULWzxfI

http://www.youtube.com/watch?v=xy9hg4FIses&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=hYDLVtL7TVc&feature=relmfu

創作欄 続・芳子の青春 4)

2016年08月25日 10時12分53秒 | 創作欄
2012年9 月 8日 (土曜日)

芳子は人から美しいと賞賛されていた。
戦死した父の遺影をみて、芳子は父親がいわゆる希に見る美男子と想われた。
そして、母親も人から綺麗な人だと言われてきた。
芳子は両親のそれぞれ良いところを受け継いでいた。
だが、それはもって生まれたものであり、才能ではない。
アパートの隣には、東京・新宿歌舞伎町のナイトクラブで働くホステスの佐々木淑子が居た。
淑子は色白で典型的な秋田美人であった。
秋田県を含む日本海側の女性は肌が白いので美人に見えるという説がある。
淑子は仙北市角館の出身であった。
角館には武家屋敷等の建造物が数多く残されており、年間約200万人が訪れる東北でも有数の観光地として知られ、「みちのくの小京都」とも呼ばれている。
淑子とは神田川に近い銭湯で度々、顔を合わせていた。
「芳子さん、学校で何を勉強しているの?」と問われた。
「社会学です」と芳子は答えながら、淑子の漆黒の大きな瞳を見詰めた。
「社会学? 芳子さんは意外と難しそうな勉強をしていなのね。文学でも学んでいるのかな、と想っていたの」
微笑を浮かべた淑子の浴衣姿は、大正ロマンを想わせた
芳子は卒論に「明治・大正の社会風俗と女性」を取り上げようとしていた。
近代女性の系譜を辿る意義を芳子は感じていた。
かつては一部高等子弟にだけ許された教育。
いわゆるエリートの男性中心の集団が社会を形成しを日本のあらゆる方面で指導的役割を担ってきた。
だが徐々に一般庶民へも教育は拡大した。
また、《青鞜社》は明治44年(1911年)、当時の男尊女卑の象徴でもある、家父長制度から女性を解放するという思想であった。
女性の近代的自我の確立を目指し、平塚雷鳥の呼び掛けによって賛同した女流文学者たちが集まり、平塚雷鳥を中心にして女性だけによる文学的思想を持つ文芸結社となった。
文芸機関誌『青鞜』の発刊第1巻第1号に、平塚雷鳥が著した「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」が創刊の辞として発表されて有名になった。
そして、明治から大正となると個人の自由や自我の拡大も叫ばれる。
進取の気風と称して明治の文明開化以来の西洋先進文化の摂取が尊ばれてきた。
新しい教育の影響も受け、伝統的な枠組にとらわれないモダニズム(近代化推進)の感覚をもった青年男女らの新風俗が、近代的様相を帯びつつある都市を闊歩し脚光を浴びるようになった。
「私、教養がないけれど、大正ロマンはいいなと想うの」淑子は芳子を羨むように見詰めた。
「コーヒー、ご馳走するので、私の部屋に来てね」
淑子は親しみを込めて誘った。
芳子は黙って肯いた。
2012年9 月 6日 (木曜日)
創作欄 続・芳子の青春 3)
再び桜の季節が巡ってきた。
23歳で早稲田大学の二部に入学した芳子にとって、これまでの大学3年間は長かったようで、短かかったとも思われた。
昼休み芳子は芳野教授に誘われ、戸山公園へ行った。
芳子にとっては、桜は故郷の沼田城址公園の桜と重なった。
芳子は不本意にも刑務所へ入って依頼、母親とも徹とも沼田高校の恩師とも連絡を絶っていた。
母親には一度だけ、「元気にやっています」とだけ記した葉書を書いている。
故郷との断絶、芳子の心は頑なになっていた。
「先生は再婚なさらないのですか?」
噴水の前に来た時に、芳子は唐突に問いかけた。
芳野教授は無言で芳子の瞳を見詰めた。
「失礼なことをうかがい、申し訳ありませんでした」
芳子は自分の思慮のなさを恥、目を伏せた。
突然、風が渦を巻き桜の花びらが夥しく舞い散る。
芳野教授は花びらが散るのを原爆で死んだ娘と重ね合わせて見詰めていた。
「もしも、娘が生きて居たら・・」思えば涙が込み上げてきた。
芳子は目を伏せていたので、芳野教授の涙に気がついていない。
「再婚は考えていませんが、養女になる人が居ればいいと思っています」
それは芳子への問いかけだった。
だが、芳野は思惑を断ち切るように「芳子さん、専門分野をもちなさい。10年続ければ専門家になります。20年間続ければ大家です」と諭すように言った。
芳子は社会学を学びながら、サークル活動では街に出て聞き取り調査をグループで実践していた。
「机上の空論に終わらないのが、社会学」先輩たちは後輩に街に出て、社会の実相に触れることを奨励していた。
2012年9 月 5日 (水曜日)
創作欄 続・芳子の青春 2)
夜半の雨はジェット機の轟音のような遠雷をともない激しさを増していた。
芳子は東京・中野区中央のアパートの部屋で勉強をしていた。
1964年(昭和39年)に23歳になっていたが、奨学金を得て早稲田大学戸山キャンパスの第二文学部の社会科で学んでいた。
第二学部は1949年に早稲田大学が新制大学として再出発した時、各学部に夜間で学ぼうとする人たちに門戸を開き設置された。
その精神と歴史を忠実に守り伝えているのが第二文学部であった。
“どうしても早稲田で学びたい”という強い意欲をもった学生が集うため、学部は、もっとも早稲田らしさの残る学部といわれていた。
作家、俳優、映画監督、タレント、ジャーナリスト、シンガーソングライター、アナウンサーなど各分野に多彩な人材を輩出した。
講義は、第一文学部との合併科目が設置されている5限および6限と7限に行われるため、開講時間は、5限=16時20分〜17時50分、6限=18時〜19時30分、7限=19時40〜21時10分。
当時の学部長はフランス文学者である新庄嘉章教授、アンドレ・ジッドなどを研究、数多くのフランス文学の翻訳を行っていた。
芳子は学友の一人として大川直樹と親しくなった。
直樹は留年して7年目であった。
芳子は千葉まで帰る直樹と大久保駅まで一緒に歩いて帰ることが多かった。
通称居酒屋講義に参加する学生もいたが、芳子は酒が飲めないし、居酒屋の喧騒に馴染めなかったので、寄り道はしない。
直樹は年中「金がない」とぼやいていた。
それでいてアルバイをしない。
「まあ、物臭と妹は言うが、俺はのんびりしたいんだ」
「なぜ、卒業しないのですか?」
芳子は不躾だと思ったが聞いてみた。
「働きたくないこともあるが、大学の雰囲気に何時までも馴染んでいたい」
芳子は可笑しさが込み上げてきた。
芳子は本を閉じて、駅で別れた直樹のことを想ってみた。
不思議な感じがする男であった。
「芳子さん、俺が映画監督になったら、主演女優に起用してあげよう」
「映画監督志望なのですか?」
「まあ、今のところは、そのうち化けることもある」「化ける?」「そう、人間は時に化ける」
直樹は幼児のような表情をした。
「子どもに好かれるので、児童映画をやりたいな」
人を警戒させない雰囲気があり、お地蔵さんのような円満な表情を浮かべた。
2012年9 月 1日 (土曜日)
創作欄 続・芳子の青春 1)
芳子は広島から帰ってから、大学の図書館へ足を運ぶようになった。
あるいは、早稲田通りにある古本屋へ足を向けることもあった。
「なぜ、日本は戦争をしたのだろうか?」
そして、原爆の投下へ至った経緯を知りたいと思った。
同時に、未だアメリカの軍政下にある沖縄についても関心を深めていった。
アメリカに対する理解も深めていきたいと考えていた。
「パパは何でも知っている」 は人気テレビ番組の一つだった。 
芳子は父が戦死しているので、父親を知るらない。それだけに、テレビで見た父親像に憧れを抱いた。テレビ映画で知ったアメリカは、生活がとても豊かで魅惑的な憧れの国のようにも映じていた。
そのようなテレビの世界を嘲るように、事態は大きく転換した。
第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・フィッツジェラルド "ジャック" ケネディが、1963年11月22日、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。
その衝撃的な映像が日本のテレビでも放映され、芳子は驚愕を覚えた。
「アメリカは、どのような国なのだろう?」
銃を規制できないアメリカ。
ある意味でそれは宿命的であり、アメリカには深い闇が横たわっていて、暗殺の謎は深まるばかりであった。
芳子は文学もいいが、社会学を学びたいと考えはじめていた。
社会は、政治、経済、科学技術、文化など様々な面で世界との結びつきがある。
人間社会においては様々な利害が重なり複雑に絡み合っている。
「多くの問題を解くカギは社会学にあるのではないだろうか?」
芳子は大学の食堂で出会った大学院生の梅村早苗から、共産党への入党を勧められた。
「共産党が、日本の社会を大きく変えるのよ」確信に満ちているように早苗が語る。
いつも微笑みを絶やさない早苗は、いわゆる「好い人」と思われた。
1963年、早稲田大学には社会科学部はまだなかった。
社会科学系専門分野は当時、政治経済学部、法学部、商学部といった学部に分科された形で教育が行われていた。
早苗は政治経済学部の大学院生だった。
芳子は早苗の話を聞きながら、実社会で学ぶべきか大学で学ぶべきかを考え始めた。
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<参考>
パパは何でも知っている(原題:Father Knows Best)は1949年4月25日から1954年3月25日までアメリカのNBCラジオで、同年10月3日から1960年9月17日までNBC(テレビ)とCBSで全203話が放送され、人気を博したロバート・ヤング主演のテレビドラマ。
シチュエーション・コメディ。

日本では1958年8月3日から1964年3月29日まで日本テレビ系列で日本語吹替版で放映された。
アメリカ中西部の架空の街、スプリングフィールドのメープル通り南607番に住む中流家庭、アンダーソン一家(ゼネラル保険会社の部長で営業マンのパパと賢明なママ、3人の子供達:ベティ、バド、キャシー)に巻き起こる事柄を描いた、1話:25分のホームドラマ。

創作欄 続「芳子の青春」 8)

2016年08月25日 10時10分00秒 | 創作欄
2012年10 月 4日 (木曜日)

芳子は「家族社会学」をテーマに大学院の論文を書こうと決めていた。
そのことは、昭和43年(1968年)に沖縄へ行ったことに起因する。
人はある時期、ある事情に起因して転身することがある。
社会学の立場で、芳子は沖縄に心を動かされた。
「沖縄の男逸女労」
これは何だろう?
図書館で見つけた書籍に目を留めた。
男が遊んでいて女がいそいそと働いている。
働き蜂と正反対の現象と言うべきであとうか?
沖縄の男逸女労の真相は?
芳子は調べてみることにした。
「戦後沖縄女性哀史」を図書館で読んだ後のことである。
当然、男が働かないので、一家の生活は困難を極める。
だが、逞しき女性たちが一家を支える。
明治27年に、沖縄を視察した内務書記官一木喜徳郎氏は、その『取調書』
の中に沖縄の男逸女労の真相を闡明した。
注:せんめい【闡明】
明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。
内務書記官一木喜徳郎氏は、その『取調書』から以下引用

市街地で生活の困難なのは、一は男が懶惰なるに由るのである。
沖縄婦人の勤勉なるは、実に驚く可きもので、旅館に反布を齋す者、市場に雑貨を市ふ者、店舗に座して商品を鬻ぐ者、頭に重大な物品を戴いて往来を通行する者、多くは皆女子である。

道路修繕のため多数の女の頭に簀(ばけ)を戴いて、土砂を運搬するは屡々見るところである。
男子にして日傘を携えて緩歩する者が道路に群れを成すは、先ず旅行者の目を驚かす珍現象の一である。
首里、那覇等の沖縄人は、女子の養を受けるために、妻を娶るものの如く、男子は結婚の年齢に達すると、

自分と同年又は年長の妻を娶る者が多い。
年少の婦女を娶る時は、家政を挙げて之に委任することが出来ないからだ。
男子は結婚に際し、営業資本として三四十円を新婚の妻に交付し、女子はこの資本を受けて専ら営業に従事し、偶々余分の利益があると、之れを良人に授けて遊興の資をなすを以て女子の働きとし、互に相誇るの状があるといふことだ。

故に商業の如き梢高尚な営業は主として女子の担任する所で、男子の労働する者は車力・木工等の類を多しとする。上流社会の女子に至つては、全く之に異なり、深窓の下に起臥して、外出することが至って稀で、教育も無く、手芸も無く、其の如何にして、日を費すかは殆ど想像の及ばざる所である。

だからその男子の遊惰放逸なること、中流以下の士民と別に異なることなくすべて遊芸の如きも男子に、之を能くする者が多くて、女子には殆ど稀である。首里、那覇に住居してゐる男子の柔弱なること、此の如きに至った原因は、今は之を詳にしないが、士族は多く旧藩庁に奉職して、俸給を受くるを以て畢生の目的となすが故に、一朝幸いにして、此の目的を達することが出来たら、女子は坐ながらにして其の生活を立つることができる。そしてそれまでの間は女子が絣を織ったり、其の他の営業に従事したりして、良人を養うのは恰度貯金を為して、他日の計を為すと同一の利益がある。
2012年9 月12日 (水曜日)
創作欄 続・芳子の青春 7)
東京の歯科大学生である宮里奈菜に案内されて芳子が昭和43年(1968年)に訪れた沖縄は、昭和20年(1945年)のアメリカ軍による沖縄占領から、アメリカ合衆国による沖縄統治が続いていた。
沖縄を占領したアメリカ軍は演習地や補給用地、倉庫群などの用地として、次々に集落と農地を強制的に接収した。
特に現在の宜野湾市の伊佐浜の田園地帯と伊江島では集落ごと破壊された。
大規模な土地接収が行われたのである。
住民はこれらの様子を「銃剣とブルドーザーによる土地接収」として例え、怒りを募らせていた。
アメリカ軍の強権の前に沖縄県民はなすすべがなかったのだ。
日本であるのに、パスポートなしには沖縄へ行けない状態だった。
芳子が沖縄を訪問した昭和43年に嘉手納飛行場でB-52爆撃機の墜落事故が起こった。
嘉手納飛行場は、沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町にまたがるアメリカ空軍の空軍基地であり、その場所は歯科大学生の宮里奈菜の自宅にも近い地域であった。
幸いに死者は出なかった。
また、昭和41年(1966年)5月19日、 沖縄の嘉手納基地を飛び立ったKC-135空中給油機が嘉手納町とコザ市(現・沖縄市)の境にある道路に墜落し、たまたまこの道路を走っていた本土から仕事で来ていた会社員の運転する車を巻き込んで大破し会社員1名が死亡した。
飛行機の乗員10名も全員死亡した。
「アメリカには、沖縄から1日も早く出て行ってほしいんだ」
夕食時に泡盛を飲んでいた宮里奈菜の歯科医師である父親は、怒りを燃やし体を震わせ、こめかみの青筋を立てながら叫ぶように怒りをぶつけた。
沖縄県民の怒りを芳子は垣間見る思いがして、気持ちが言い知れぬほど切なくなった。
沖縄県民の置かれている現実は「あまりのも理不尽だ」だと芳子は認識を新たにした。
2012年9 月11日 (火曜日)
創作欄 続・芳子の青春 6)
芳子は義父の芳野源三郎の背中を追うように学者への道を選択し、大学院へ進んだ。
同時にクリスチャンにもなった。
信仰は社会学の立場からも納得できた。
人は大いなるものの意志によって、生かされていると想われた。
聖書を寝る前に毎日、30分読むことが習慣となった。
そして、日曜日には義父とともに教会へ行った。
集った人たちとともに讃美歌を歌うと心の高揚を覚えた。
義父は良く響き渡るバリトンの音声で讃美歌を歌った。
芳子は自分の声がソプラノの音域であったことを知る。
「芳子は顔も美しいが、歌声も美しいね」
義父は感嘆したように言うが、芳子にはそれが明確には自覚できなかった。
芳子は教会で沖縄から東京の歯科大学へ進学した宮里奈菜と知り合う。
宮里奈菜は中野区の方南町に住んでいた。
「私に沖縄に姉がいるのですが、芳子さんには東京のお姉になってください」
奈菜は新宿の大久保駅に近い喫茶店でコーヒーを飲みながら言う。
「私がお姉さん?」
芳子は恥じらいの表情を浮かべた。
「私と姉は9歳違いですので、子どものことから姉に甘えてきたんです。それで甘え癖で、寂しい時は誰かに甘えたい気持ちになるんです」
19歳の宮里奈菜は、遠い沖縄から一人で東京へ出て来たのだからホームシックになるどろう、と思うと芳子は情が動いた。
昭和43年、沖縄はまだ日本本土に復帰していなかった。
宮里奈菜を身近な存在として知り会ったことで、芳子は沖縄をテーマにして大学院の研究論文を作成しようと決意した。
2012年9 月10日 (月曜日)
創作欄 続・芳子の青春 5)
宿命に泣く女性たちが居た。
宿命を乗り越え、使命を見出すことはできないだろうか?
芳子はアパートの住人たちの不幸も見聞きしてきた。
信用金庫に勤務していた真田雪子は、顧客の定期預金の払戻金など約200万円を横領し、逮捕された。
ちなみに昭和40年の公務員初任給は21600円であった。
顧客から満期となった定期預金の払戻金や普通預金の入金額、預かった通帳から無断で預金を引き出すなどしていた。
自分で横領した金を使ったわけではない。
競輪好きの交際相手の男に貢いだのだ。
「直ぐに返すから、貸しくれ」と頼まれ、初めは自分の預金を下ろし貸していた。
その預金が底をついてから、勤務先の信用金庫の金を横領しはじめた。
競輪で大当たりしたと金が戻ってきたこともあったが、それは2度きりで後は流用するばかりとなった。
また、歌舞伎町のナイトクラブに勤めていた隣室に住む佐々木淑子は、ヤクザな男に食い物にされ身を売っていた。
その挙句は梅毒になり、発熱、リンパ節の腫れ、のどの痛み、局所的脱毛、頭痛、体重減少、筋肉痛、倦怠感などの症状で入院した。
芳子は都立大久保病院に見舞い行った。
「男は身勝手ね、私がこんな病になったのに、見舞いにも来ないの」
大正ロマンに憧れると言っていた淑子の美しい顔は病的に頬がこけて侘しい気であった。
東京の就職先を世話してくれた沼田高校の恩師の辻村玲子は、「お手伝いの仕事に留まらず、自分がやりたいことを見つけなさい。自立した女性の生き方が必要な時代になります」と上京する時に励ましてくれた。
芳子は辻村先生の助言を肝に銘じて励みに頑張ってきた。
「正しい生き方とは?」
「幸福とは?」
「社会学を学び、社会に貢献するには?」
大学卒業を控えて、考え続けていた。
「努力は裏切りません」
芳子は芳野教授の言葉を糧に、勉学に励んだ。
そして、大きな転機が訪れた。
芳子は芳野源三郎教授の養女となったのだ。
芳野教授の奥さんとお子さん、そして両親が広島に投下され原子爆弾で亡くなっている。
養子縁組のために芳子の母が上京してきた。
芳子の母は国立沼田病院の準看護婦であった。
芳野教授の兄の健二は医者で国立沼田病院に勤務していた時期があり、姪は沼田女子高等学校を出ていた。 

偶然であった。
「先生は、内科の芳野健二先生の弟さんですか?」
芳子の母は芳野教授と面談し驚いた。
微笑んで芳野教授はうなずいた。
芳野内科医は東京帝国大学医学部卒業の医師として、沼田病院ではとても人望があった。
芳野健二は昭和42年現在59歳、東京の国立病院の院長となっていた。
「あの内科医の芳野先生の弟さんなら信頼できる」芳子の母は心を開いた。
56歳の芳野教授は縁なしの眼鏡をかけ白髪で風格が漂っていて、娘を託すのに相応しい人物に映じた。
また、芳野内科医にも感じたような人を包み込むような包容力を有し、温厚な性格と想われた。
クリスチャンであることを娘の芳子から聞いていた。
母の承諾が得られ、小金井芳子は芳野芳子となった。

取手ハーモニーカルチャーセンター

2016年08月24日 12時26分02秒 | 医科・歯科・介護
抜群の音響で気持ちよくカラオケ!

【カラオケボックスとは違う楽しさ!】

ニューメディア館ハーモニーにようこそ。カラオケで明るく笑顔で、いつまでも若々しく!

取手市白山の「ハーモニー」は歌って踊って笑顔で楽しく過ごせるカラオケ広場。

高品質のライブダムとジョイサウンドがワンフロアに置かれているのは、

日本では唯一ココだけだそうです。

最新曲からローカル歌手の歌まで曲数も豊富。

1階はみんなで歌うスタジオ。皆さん和気あいあいと歌を楽しんでいます。

友達や家族だけで歌いたい方は2階3階のスタジオへどうぞ。

年中無休で4名様から貸切りOKとなっています。

どのフロアも、ソフトドリンク飲み放題・お茶菓子付(予約すると軽食付)

昼・夜とも5時間歌って踊って、笑顔で過ごせます。

思いきり歌って5時間500円(ソフトドリンク飲み放題)~

予約で軽食がつけられます(1,000円)
【カラオケ教室】モチベーションを高める為にはプロのレッスンで歌を楽しむことをおすすめします。
●多目的貸ホールとして習い事などサークルでの利用も可。

〈1階〉みんなで歌うカラオケ広場

1,000円(最大5時間)

ソフトドリンク飲み放題お茶菓子付
※予約をすると軽食付き
〈2階3階〉友達や家族で貸し切り

500円ソフトドリンク飲み放題

1,000円ソフトドリンク飲み放題+軽食つき

カラオケ教室
無料体験レッスン随時受付中!
初心者からレベルに合わせて歌手・作曲家などの先生から歌を習ってみませんか?
愛田健二、御園政和、高野智恵子、森チエ子、藤田みつ子、松永敦子 他の先生が丁寧に指導します。
詳しいスケジュールはこちらのPDFからご確認ください。

取手ハーモニーカルチャーセンター
住所 取手市白山4-9-1 白山ビル
TEL 0297-63-5111  090-4168-8260(携帯)
営業時間 12:00〜17:00
17:00〜22:00(予約制)
定休日 月曜日(予約のみ営業)
備考 個室あり (名) 子連れOK 駐車場あり

医薬品安全対策情報(DSU)差替えのお知らせ 

2016年08月24日 11時57分01秒 | 医科・歯科・介護
□■ PMDAメディナビ ■□
━━━━━━━━━━━━━
医薬品安全対策情報(DSU)差替えのお知らせ (2016/08/23 配信)
━━━━━━━━━━━━━

昨日(2016/8/22)、「医薬品安全対策情報(DSU)掲載のお知らせ」にて
配信しましたDSUについて、日本製薬団体連合会から差替えの連絡がございましたため
再送させていただきます。
なお、昨日掲載されましたDSUの14ページの「レミフェンタニル塩酸塩」についての記載が削除となっております。

2016年8月 No.252 医薬品安全対策情報(DSU)(差替え版)
http://www.pmda.go.jp/files/000213679.pdf

昨日配信されましたメール、添付ファイルにつきましては、
恐れ入りますが破棄していただけますようお願い申し上げます。

※登録時に添付ファイルの配信を希望された皆様には、ファイルが添付されて配信されます。

----------------------------
今までに掲載された医薬品安全対策情報(DSU)はこちらから
http://www.pmda.go.jp/safety/info-services/drugs/calling-attention/dsu/0001.html



□■ PMDAメディナビ ■□
━━━━━━━━━━━━━
医薬品安全対策情報(DSU)掲載のお知らせ (2016/08/22 配信)
━━━━━━━━━━━━━

DSUは、最近約1ヶ月の間に行われた使用上の注意の改訂情報を
まとめてお知らせするものです。
掲載情報のうち、厚生労働省からの使用上の注意の改訂指示があったものについては、
既にPMDAメディナビ「使用上の注意改訂指示(医薬品)発出のお知らせ」で配信済みです。

2016年8月 No.252 医薬品安全対策情報(DSU)
http://www.pmda.go.jp/files/000213679.pdf

(掲載医薬品)
【重要】
オランザピン
アゾセミド
イマチニブメシル酸塩
ダサチニブ水和物
ニロチニブ塩酸塩水和物
ボスチニブ水和物
シタフロキサシン水和物

【その他】
セボフルラン
アゾセミド
ロサルタンカリウム・ヒドロクロロチアジド(今般、用法・用量変更承認がなされたジェネリック製品)
アドレナリン(注射剤0.15mg・0.3mg)
エストラジオール・酢酸ノルエチステロン
レボノルゲストレル(経口剤)
ビタミンA
レチノールパルミチン酸エステル
シロリムス
プランルカスト水和物(今般、効能・効果追加承認がなされたジェネリック製品)
クリンダマイシンリン酸エステル(注射剤)(ニプロ製品)
リンコマイシン塩酸塩水和物(注射剤)(ニプロ製品)
シタフロキサシン水和物
エトラビリン
ジドブジン
ジドブジン・ラミブジン
ダルナビルエタノール付加物
ホスアンプレナビルカルシウム水和物
リルピビリン塩酸塩
リルピビリン塩酸塩・テノホビルジソプロキシルフマル酸塩・エムトリシタビン
ポリエチレングリコール処理人免疫グロブリン
乾燥濃縮人血液凝固第XIII因子
レミフェンタニル塩酸塩(小児の用法・用量を有する製剤)

※登録時に添付ファイルの配信を希望された皆様には、ファイルが添付されて配信されます。
----------------------------
今までに掲載された医薬品安全対策情報(DSU)はこちらから
http://www.pmda.go.jp/safety/info-services/drugs/calling-attention/dsu/0001.html
===============================
PMDA(医薬品医療機器総合機構) 安全第一部 リスクコミュニケーション推進課
・医薬品医療機器総合機構ホームページ
http://www.pmda.go.jp
・本サービスの登録内容の変更、削除方法等に関する情報
http://www.pmda.go.jp/safety/info-services/medi-navi/0001.html
===============================


□■ PMDAメディナビ ■□
━━━━━━━━━━━━━
 医薬品リスク管理計画(RMP)掲載のお知らせ (2016/08/22 配信)
━━━━━━━━━━━━━

RMP提出品目一覧
http://www.pmda.go.jp/safety/info-services/drugs/items-information/rmp/0001.html


販売名:カイプロリス点滴静注用10mg、カイプロリス点滴静注用40mg
一般名:カルフィルゾミブ
製造販売業者:小野薬品工業株式会社

※前週分の新規RMP掲載情報についてとりまとめてお知らせしております。

医療従事者の皆様におかれましては、RMPをご覧頂き、
市販後の安全対策への更なるご協力をお願い申し上げます。

医薬品リスク管理計画の目的や詳細については下記URLよりご覧ください。
http://www.pmda.go.jp/safety/info-services/drugs/items-information/rmp/0002.html

自身の人生を豊かに彩る

2016年08月24日 06時39分07秒 | 社会・文化・政治・経済
★“先送り傾向”を打開する方法の一つ。
「まず始めてみる」
始めることで、目標に着実に近づく手応えが得られ、達成への好循環が生まれる。
★意志の力が十分に養成されていれば全てに克てる-詩人・ダンテ
★青年のような求道心。
ひたむきな気概を失い、惰性に陥りやすいが、常に未来に向かって、前進したいものだ。
★信念の道を遇直に歩み通す。
★自身の人生を豊かに彩る。
元気であれば、躍動感がみなぎっていくものだ。























青春の取手

2016年08月24日 05時38分15秒 | 創作欄
利根川 取手 夕陽傾く
灯ろう流し 浴衣姿15の君 着流し16の僕
川風揺れる ジャズ演奏
リズム取る ポニーテール
青春包む ロウソク星灯り
足元照らす ロウソク星灯り

利根川 取手 夕陽傾く
打ち上げ花火 浴衣姿15の君 着流し16の僕
川風揺れる 花火饗宴
空見上げる ポニーテール
青春とどろく 大輪の花彩る
胸の高鳴り 大輪の花彩る

宇宙の無限性に思いをはせるとき

2016年08月23日 11時12分48秒 | 社会・文化・政治・経済
★現代人は、あまりにも自己中心的になってしまった。
他の世界と離れて自分たちで存在できると信じ込んでしまった。
★「宇宙的なもの」と切り離され、“閉ざされた人生”になっている。
★人間の歴史は、宇宙との関係を離れて論じることはできない。
★「宇宙の探究」は「平和の探究」「人間の探究」と重なる。
★「人間は、宇宙と深い結び付きがある。
古来、人間は自然に恐れ恐れを抱き、また崇拝してきた。
★宇宙への探究は、人類の心を大空のごとく広げる。
また人類に一体感をもたらしてきた。
★宇宙を離れて人間はない。
★宇宙の無限性に思いをはせるとき、人間は「自己中心性」や「独善」などのエゴイズムを克服できるはず。

人生の勝負は途中で決まらない

2016年08月23日 10時37分10秒 | 社会・文化・政治・経済
★練習は裏切らない。
「こんなにやったんだからという自信が試合の成果につながった」
★メダルの価値は、頂点を目指そうとした勇気、自分に負けなかった鍛練の日々の中に詰まっている。
★人生の勝負は途中で決まらない。
栄光は、粘り抜いた逆転劇によって勝ち取るものだ。
★日々、積極的に人と関わる。
★生き生きと対話を広げる。
★生命尊厳の心
生命を育む力。
生命を尊ぶ心。
★歴史を変える民衆運動の根幹には女性の力があった。
人をいかに「励ます」ことができるか。
★確固たる人生の根本思想と哲学もつ。
人間教育の力が問われる。
★諦めやすく、弱い自分を変えることだ。













生前葬をやりたい ?!

2016年08月23日 05時07分54秒 | 創作欄
2012年3 月 7日 (水曜日)

60歳になった父が突然、生前葬をやりたいと言い出した。
生前葬になど出席するほど、多くの人は暇ではない。
だから、死んだことにするのだ。
当然、棺桶の中は空である。
以下は実際にあった話をベースに創作してみた。
歯科界、歯科業界も含めてバブルの時代、誰もが狂奔していた。
歯科器材を売っていたある歯科商社も建設・建築業、不動産業にも進出した。
だが、突然バブルが弾けたのだ。
振り出した手形が暴力団に流れた。
どのように借金を穴埋めするのか?
「死んで、金を作れ!」
押しかけてきた暴力団は迫った。
相手は保険金を目当てにしたのだが、経営者はその保険金を既に解約していた。
それほど金に窮していたのだ。
「では、葬儀をやれ!」
「葬儀?!」
経営者は相手の意図が理解できずに目を丸くした。
結局、青山斎場で盛大な葬儀が営まれた。
暴力団が、全ての段取りを整えた。
当然、棺桶の中は空であったが、その経営者の行方は未だ分からない。
これは、ある経営者の従弟の歯科技工士から聞いた話である・・・
-------------------------------------------
<参考>
○ 生前葬
生があるうちに縁のある人やお世話になった人を招いてお別れと礼を述べるために行う人が多い。
また、本来出席できないはずの自分の葬儀に喪主として参加することができるため、思い通りのやり方で行うことができる。
そのため多くは、無宗教であったり、音楽やスライドなどを多用した明るい葬儀であったり、一般の葬儀とは異なるイベント的な葬儀となる。
形式はカラオケ大会から立食パーティー、また、自費出版の自分史を配るなど、様々。
しかし、本人が本当に亡くなった後も、遺族により再び葬儀が行われることもままある。
日本では交際範囲の広い知識人が、自らの社会的活動の終止を告知する機会として開催することが多い。
生前葬を行った主な有名人
児玉誉士夫
右翼運動家。1960年に生前葬を行った。1984年死去。
水の江瀧子
女優。1993年に生前葬を行い、以降芸能界を引退しメディアに露出せず隠居生活を送っていた。2009年死去。
養老孟司
解剖学者。2004年11月に山口県防府市の多々良学園講堂ホールで行った。

創作欄 美登里の青春 続編 9

2016年08月23日 05時05分41秒 | 創作欄
2012年3 月 2日 (金曜日)

その宗教の話は、美登里の心に綿が水を吸うように浸み込んできた。
多くの参加者が、何の飾りもなく自分の過去を語っていた。
そして、信心をしたことで、「宿命を転換できた」と言っていた。
美登里を会合に誘った敏子も赤裸々に過去を語った。
敏子は教育大学を出て、小学校の教師となったばかりの年の夏休みの臨海学校で、生徒の水死事故に遭遇した。
亡くなった1年生の男子生徒の担任の女性教師は42歳、泳げなかったので深みはまった生徒を目撃したのに、自ら助けに行けなかったのだ。
生徒を引率してきた教師たちは、それぞれのクラスの生徒を監視していた。
敏子は1年目の新米教師であるのに、5年生のクラスを担当していた。
行くへ不明となった生徒の担任の女性教師は、取り乱して初めに敏子に助けを求めに飛んで来た。
ところが、敏子も泳げなかったのだ。
結局、50㍍くらい離れたところに居た男性の教師に助けを求めた。
さらに緊急の事態を知って、6人の男性教師たちが海へ向かった。
海で遊んでいた生徒たち全員が岸に集められた。
緊急事態に20代と思われる海の監視員も2人駆けつけてきた。
だが、行方不明となった生徒は、みんなが必死に探したにも関わらず何時までも見つけられなかった。
そして、虚しくも海に沈んでいたことが約1時間後に発見され、蘇生術を施されたが息を吹き返すことはなかった。
救急車で房総の市民病院に運ばれ生徒の死が確認された。
責任を感じた担任の女性教師は2日後、自宅の部屋で首を吊って自殺をした。
「若い自分が泳げなかった。教師失格ね」
生徒の水死で敏子自身も非常に責任を感じていた。
その年の秋に、敏子は同じ大学出身の先輩である男性教師に導かれて信心を始めたのだった。
「私はこの信心で、宿命を転換することができまいた」
敏子の体験を聞いたみんなが「良かった」と肯いていた。
明るく快活に見えた敏子には、悲惨な過去の体験があったことに美登里は心が動かされた。
「私にも宿命は必ずあるはず、それを断ち切ることができるのなら、信心をするほかないかもしれない。私も敏子さんのような凛とした女性になりたい」
その日、美登里の心は大きく傾き信心をする決意をした。
「美登里さん、私たちと一緒に幸福になりましょね」
会合に参加した全員から祝福された。
「良かったね」
「本当の幸せをつかもうね」
「宿命を転換できるからね」
誰彼無しに声をかけられて、美登里は肯きながら感極まって泣いた。
2012年3 月 2日 (金曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 10
美登里が徹に初めて会ったのは、19歳になって1か月が過ぎた夏の日であった。
美登里は九段会館の屋上のビア―ガーデンで、夏だけアルバイをしていた。
昼間は叔父の美術専門の古本店で働いていたが、少しの小遣いになればとアルバイトを始めた。
神保町の昼時、餃子屋で美登里は偶然にも高校の同級生の澤村美穂と出会った。
美穂は九段の女子大学へ進学していた。
アルバイトは美穂に誘われたのだ。
美穂と一緒にアルバイトをしていた大学の同期生が盲腸となり、緊急入院をした。
店長が美穂に、「困ったな!店はこれからますます忙しくなる。誰か代わりはいないかね。探してほしい」と頼んだのだった。
人生の途上、出会いは奇なものだ。
美登里が美穂に誘われてアルバイをしていなければ、区役所に勤めている徹と出会うことはなかっただろう。
徹は区役所の同僚たちと九段会館の屋上のビア―ガーデンにやってきた。
彼らにとって九段会館の屋上は、例年の夏の夜の楽しみの場であった。
その日は九段会館の屋上に、とても強い風が吹き抜けていた。
テーブルに置いた箸が吹き飛ばされた。
「何度も悪いね。箸また吹き飛んじゃった」
美登里に笑顔で声をかけたのが徹だった。
爽やかに微笑むその人は誰かに似ていた。
長身で少し猫背である。
東北訛りがあった。
髪はきちんと整えられていたが、どこか崩れた感じもした。
「君の笑顔は、素敵だね。接客業に合っているね」
その声は明るく、そのトーンは耳をくすぐるような感じでソフトであった。
実はその時、徹は14歳で自殺してしまった自分の妹の面影を、目の前の女性に重ねて見ていた。
美登里が想えば徹の顔立ちは大好きな父に似ていたのだ。
「もしかして、この人と親しくなるかもしれない」
美登里はそんな予感がした。
つまり、運命的な出会いを感じたのだった。
このような思いこみは恋の始まりである。
2012年3 月 3日 (土曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 10
昭和50年代はまだ、演歌がテレビで幅を利かせていた。
また、オーディション番組『スター誕生!』やほかの歌謡番組から新しいスターも誕生していた。
当時デビューした山口百恵・森昌子・桜田淳子が「花の中三トリオ」と呼ばれていた。
美登里も同年代であった。
美登里は、1980年月10月5日、日本武道館で開かれた山口百恵のファイナルコンサートに行った。
山口百恵は21歳であり、22歳の誕生日の約3か月前の引退であった。
ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残した。
そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。
歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩みながら去っていった。
中学生の頃からスターの百恵に憧れ、自分自身の想いを投影していた美登里は、19歳から続いていた妻子ある徹との別れを決意した。
「今が分かれる潮時ね、このままでは、ずるずると不安定で先の見えない関係を続けてしまう。まだ、私は若いにだからやり直せるはず」
言葉では言えそうにないので、想いを手紙にしたためた。
<美登里の手紙>
徹さんへ 
冷静になってこの手紙を書きたのだけれど、涙が溢れてきてペンは止まります。
涙でにじんだ文字を見ては、便箋を破ることの繰り返しなの。
直接、別れの言葉を伝えた方がいいのかしら、と思ったのだけれど、それができない。
先日のように言葉の行き違いで、私は傷つきたくないし。徹さんの暗い顔を見たくない。
「しばらく時間をほしい」と徹さんは、あの日、新宿・大久保のホテルを出た時、言ったのだけれど、私たちの3年の歳月にあとどれだけの時間が必要なの?
徹さんが、「二人は波長が合ってしまうんだ」と言っていたことを、私は否定はしません。
「このままで、いいじゃないか」と徹さんは言ったのだけれど、私は何時までも“影のままで居たくはない”
実はこの間、古本屋で立原道造の本だと思って買った本が、立原正秋の本だったの。
題名が「雪のなか」という本で、「わかれ」の章を読んだら私たちの将来の二人の関係を想わせる内容なの。
徹さんは、何時か私に飽きるかもしれない。
そして、徹さんの方から別れ話を切り出すかもしれない。
その時の私は惨めになってしまう。
徹さんには、一度も言ったことがないのだけれど、私は信仰をしているの。
その教えの中に、「自分の幸福を他人の犠牲の上に築いてはいけない」とあるの。
そのことを真剣に考えてほしい。
そして徹さんに私の立場を分かってほしいと思っています。
一番いけないのは、ずるずると関係を続けることなの、徹さんもそう思いませんか?
私は、分かれることを決意したの。
私の気持ちを解ってほしい。
これ以上、書けません。
また、涙が溢れてきたの。
美登里より




創作欄 美登里の青春 続編 5

2016年08月23日 05時02分14秒 | 医科・歯科・介護
2012年2 月27日 (月曜日)

人生の途上、何が起こるか分からない。
叔母が東京大学病院に入院した。
本人には「胃潰瘍だ」と告げていたが、スキル性胃がんであった。
胃がんの中で、特別な進み方をする悪性度の高いがんであり、余命は半年~1年と診断されていた。
叔父は美登里に涙を浮かべてそれを告げた。
医師の診断書を手にした叔父の手が小刻みに震えていた。
美登里はその診断書を叔父から手渡されたので読んだ。
美登里も思わず涙を浮かべた。
冬の陽射しは、長い影を落としていた。
徹と訪れたことがある三四郎池の木立が叔母が入院している病棟から見えた。
小太りの叔母は45歳であったが、年より若く見えた。
叔母は24歳の時に子宮筋腫となり、子どもを産めない身となっていた。
叔母は負い目から夫に、「愛人を作ってもいい」と言っていた。
叔母は薄々感じていたが、叔父には愛人が実際に居たのである。
だが、その愛人に若い男との関係ができて、現在は叔父は寂しい身となっていた。
「美登里ちゃん、あの人は何もできない人なのよ。お願い、私が退院するまで、叔父さんの面倒をみてほしいのだけれど、どうかしら」
叔母は美登里の手を握り締めた。
手には福与かな温もりがあった。
美登里は叔母に懇願されて、東京・文京区駒込の叔父の家へ行った。
八百屋お七の墓がある円乗寺の裏に叔父の家があった。
その夜、美登里は風呂に入った。
脱衣場は風呂場にはないので、廊下で着替えてた。
美登里は襖の間に人の気配を感じた。
叔父が美登里の襖の僅かな間から、美登里の裸体を覗き見ていたのだ。
美登里は多少は不愉快であったが、馬鹿な叔父の行為に一歩引いて冷笑を浮かべた。
大好きな父親によく似ていた叔父に、好感を抱いていたので気持ちは許せたのだ。
そして、美登里はその夜、夕食の時に叔父から聞かされた八百屋お七のことを思った。
お七は天和2年(1683年)の天和の大火で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎)と恋仲となった。
翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。
愛する男に会いたいために、放火をする16歳の女の子の浅知恵である。
だが、その激しい情念に美登里は気持ちが突き動かされた。
2012年2 月28日 (火曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 6
叔父の家は昭和10年代に建てられた古い木造屋で、東京大空襲でも運が良く焼失をまぬがれた。
叔父は働いていた古本の美術専店の主人に子ども居なかったことから、養子に迎え入れられた。
義母は52歳の時に突然、クモ膜下出血で亡くなってしまった。
主人の19歳の姪が山梨県甲府から家事手伝いにやってきた。
叔父は29歳の時に、21歳となった主人の姪と結婚した。
70歳で亡くなった義父は東京都文京区本駒込の吉祥寺に眠っている。
寺の境内には江戸時代の農政家・二宮尊徳の墓碑があった。
また、山門には漢学研究の中心であった「旃檀林」の額が掲げられている。
「旃檀林」は駒澤大学の前身のひとつで、仏教の研究と漢学の振興とそれらの人材供給を目的とした学寮だった。
毎月の9日は義父の月命日であり、叔父は墓前に花を添えていた。
だから、その春の9日は美登里にとっても忘れられない日となった。
叔父の家に家事手伝いに来てから3日目の夜中である。
体に異変を感じて目覚めたら、叔父が美登里の布団に入り込んでいたのだ。
驚愕して身を跳ねのけたが、叔父に抑え込まれた。
荒い叔父の息遣いが酒臭かった。
「叔父さん、何するの!」と美登里は叫んだ。
「美登里、男、知っているんだろう?」
叔父は唇を寄せてきた。
美登里はその唇を避けながら、「嫌、ダメ」と叫んだ。
叔父の体から突然、力が抜けた。
「お前は、処女か?!」
美登里は肯いて、声を上げて泣きだした。
「悪かった。許してくれ、俺は魔が差したんだ」
叔父は乱れた浴衣を整えると、畳の上へ両手を突き土下座をした。
叔父は何度も畳に額を擦り付けて謝罪した。
美登里は泣きながら、両手で顔を覆っていた。
豆電球の灯りさえ、美登里には明るく映じた。
美登里は人と争った経験がほとんどない。
温厚な父は子どもころ美登里に言っていた。
「美登里も怒ることはあるよね。でも、ゆっくり10数えてごらん。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、それでも怒りが収まらなければ、怒っていい。でもね、怒ると損をするよ」
美登里は眠れないまま、ゆっくり10数を数えた。
そして美登里は、叔父の行為を許すことにした。
「夢の中の出来事」のように想えばいいと自身に言い聞かせた。
----------------------------------------------
<参考>
作家・島崎藤村は、姪のこま子との近親相姦に苦しんだ。
文学史上最大の告白小説とされる「新生」。
こま子は19歳の春、産後の病で妻を失った藤村宅に移り住んで3人の子育てや家事を手伝うことになった。
だが、藤村とただならぬ関係となり妊娠。
藤村は悩み抜いた 末、翌年には逃げるように渡仏した。


2012年2 月29日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 7
6月9日は、美登里の誕生日であリ20歳となった。
「私も大人になったのね」 美登里は19歳の1年を振り返った。
不本意にも“愛してしまった”妻子ある徹との出会い。
叔母の死、母親との再会。
そして、何よりも大きな変化は信仰に導かれたことだった。
叔母の死がなければ、信仰はしなかっただろう。
元気な叔母が、46歳の誕生日を迎える10日前に逝った。
スキル性の胃癌で余命6か月から1年と医師から言われていたのに、5か月で逝ってしまった。
3か月で一旦は東京大学付属病院を退院した。
叔母は元気な大きな声で話す人であったが、信じられないほどか細い声になっていた。
そして小太りであったが、10㌔も痩せて頬骨が出て年より老けて見えた。
白髪も増えていた。
その叔母がある日、「富士山が見たい」と言った。
山梨県甲府で生まれ19歳までその地で育った叔母は、山梨県側から見た富士山を仰いできた。
「静岡側から富士山を見てみたい」
叔母が懇願するように言うので、叔父が西伊豆へ1日、自動車に乗せて連れて行った。
車椅子に乗った叔母が見た静岡側の富士山は、叔母を甚く感嘆させた。
「富士山は、何処から見ても素敵ね」
叔母は微笑みながら溢れる涙を流した。
車の窓越しに見る伊豆の山桜が満開であった。
万感想うこともあったのだろう桜を見て叔母は涙を流した。
叔母が再び入院したのは死の7日前であった。
すでに叔母の意識はなくなっていた。
意識がなる前日、美登里が病室に入ると、起き上がろうした。
何度も叔母は試みたが、「もう、ダメなのね」と言って、布団に両手を投げ出すようにした。
美登里はその細った手を握りしめた。
肉太であった叔母の手は、皺が目立ち太い血管が浮き出ていた。
「美登里が泊ってくれると元気だ出るわ」
叔母が言うので、美登里はベットの脇の簡易ベットで付添い寝を何度かした。
だが、意識が亡くなった叔母は、眠り続けるばかりで、付添婦が何度も痰の吸引をしていた。
酸素マスクも付けていた。
叔母の死の3日前、その付添婦が、「臭いな。寝られない」とイライラしたように言った。
そして、面倒臭そうに叔母の下の世話をした。
付添婦は叔母と同年代に見えた。
そして叔母の日の前日、付添婦は叔母の酸素を勝手に止めた。
病室に入ってきた看護婦(当時)がそれを見咎めた。
「あはた!何をするの!」看護婦は付添婦を睨み据えた。
そして、美登里を廊下に呼び出して、「あの人を辞めさせなさい。私の立場からは言えないの」
怒りが収まらない様子であった。
「怒る時には、10数をゆっくり数えるんだ。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10とね。それでも怒りたければ怒る。でも怒ると損をするよ」 そのように父に諭されていた。
美登里は想った。
人間は、死期が迫っても、誰かと必ず出会う。
「出会いも、まさに宿命。良い人にも出会う。悪い人にも出会う。それも定めではないのか?」

2012年2 月29日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 8
叔母の葬儀は、東京・文京区本駒込の吉祥寺で執り行われた。
叔母の父母と兄弟、姉妹たち6人が、山梨県からやってきた。
叔母は6番目に生まれた娘であった。
「こんなに、若くして亡くなるなんて・・・」と死に顔を見てみんなが泣いていた。
美登里は、父と1年ぶり会ったが、父の背後に居る人を見て目を見張った。
息が詰まり、声も出なかった。
52歳となった母親が美登里の前に姿を見せたのだ。
美登里が10歳の時に母親に若い男ができて、悶着の末に家を出て行ってしまった母親とは9年ぶりの再会であったが、とても複雑な想いがした。
父親は行く場所がなくなり困り果た末に、仕方なく自分の許へ戻ってきた妻を許し受け入れたのだ。
狭い田舎の土地であり、母親のことは暫く噂も立っていた。
気まずい思いをしたはずの母親が厚顔にも、父の許に戻って来るとは、どう考えても美登里には理解できないことであった。
美登里は知らなかったが、母親は温泉芸者であった。
美登里の父の幸吉は、勤めている農協の旅行で美登里の母の五月と出会った。
どのような経緯があったのか、五月は幸吉の押しかけ女房となった。
実は五月には連れ子の男の子がいたが、2歳の時に近所の川に落ちて死んでしまった。
村人たちは、幼子から目を離した母親の軽率さに非難の目を向けていた。
だが、勝気な五月は、相手を見返すように振舞っていた。
「まったく厚顔無恥、何処の馬の骨か分からん女だ」
村人たちは烙印を押すように五月を蔑んだ。
父の幸吉は5人兄弟、姉妹の家族の二男で、実家の農家を長男が受け継いだ。
幸吉の母は48歳の時に結核で亡くなっている。
そして、幸吉の父親は52歳で脳出血で逝った。
和服の喪服を着ている美登里の母親は、52歳になったが、葬儀の中でも浮いたような存在に映じた。
豊かにアップに結った髪型で厚化粧であり、どこから見ても平凡な家庭の主婦のようには想われない。
何処か水商売の女のような雰囲気を漂わせているのだ。
「美登里、その髪型素敵だよ!綺麗な女になったね。私似じゃないね。やっぱり性格もそうだけど、お前さんは、お父さん似だね」
葬儀が終わると母親の五月が美登里の前にやってきて、美登里の手を取った。
母親には、娘を棄てて家を突然出て行った時の謝罪の言葉は最後までなかった。

創作欄 美登里の青春 7

2016年08月23日 03時16分28秒 | 創作欄
2012年2 月21日 (火曜日)
創作欄 美登里の青春 7
松戸の裁判所での初公判の光景は、美登里にとって衝撃的であった。
傍聴人は男性が2人、女性は美登里を含めて3人、地元の千葉の新聞社など報道関係者が2人であった。
表面の扉が開き裁判長らが入廷して、全員が起立した。
そして、右側の扉が開き、手錠、腰縄の姿で刑務官に先導されて峰子がうな垂れて入廷してきた。
席に着く前に、峰子の手錠、腰縄が外された。
峰子はうつむいたままで、一度も傍聴席に目を向けることはなかった。
美登里は濃紺の地味なスーツ姿であり、化粧もしていなかった。
初めに検事が詳細に罪状を述べた。
それから国選弁護人が医師の診断書に基づき峰子の弁護をした。
峰子は犯行半年前から地元松戸市内病院の精神科に通院していた。
さらに、東京・四谷に住んでいた時には、信濃町の大学病院の精神科にも通院していた。
弁護士は、犯行時に峰子が心神喪失状態であったと主張した。
裁判官3人が顔を見合せながら言葉を交わしていた。
そして、裁判官が、「次回公判は3月24日、火曜日、午前11時、それでいいですか」と弁護人に尋ねた。
弁護人は、手帳を確認してから、「結構です」と答えた。
裁判所を出て、美登里は前回と同様に本とチョコ―レートとバナナを差し入れるために、拘置所の所定の店へ行った。
その店で美登里は、暴力団員の三郎に再会した。
「親分の裁判が、午後1時にあるんだ」と三郎が言う。
美登里は罪状が何だろうと思った。
拘置所へ行くと三郎が「ねいさん」と呼ぶも米谷明美が居た。
「2週続けて、拘置所に来るなんて、あんた、偉いね」と明美は微笑んだ。
明美はこの日は和服姿ではなく、豊か胸が大きく開いた花柄模様のワンピース姿であり、妖艶な感じがした。
明美は39歳であり、19歳の息子が居る母親の姿とは思われない。
明美は和服姿の時は髪をアップにしていたが、この日は長く髪は下ろしていたので、若く見える。
美登里は、後楽園スタジアムでのボクシングの試合の観戦に誘われ、チケットまでもらったのに、その試合に行かなかったことを明美に謝罪した。
「いいよ。気にしなくとも。息子は判定で試合に負けた。あの子は性格が優しいから、ボクシングに向いてないかもしれない。攻めきれなかった」
美登里は、どのように言うべき分からずうなずいた。
美登里はその日、休むわけにいかず、午後から病院の勤務に向かい、その日は午後8時まで残業をした。
2012年2 月22日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 1
「人はなぜ、狂うのか?」
美登里は考えを巡らせたが、答えが見つかる分けではなかった。
「心も風邪をひく」そのように想ってみた。
中学生のころ、夜中にうなされて目を覚ましたら、父が枕もとに座っていたのだ。
頭に手をやると冷蔵庫で冷やした手拭いが額に乗っている。
「39度もあった熱が、37度に下がったよ」と父親が微笑んだ。
「何も覚えていない」
心がとても優しい父親は寝ずにずっと枕もとに座って、1人娘である美登里を看病していたのだ。
嬉しさが広がり、美登里は深い眠りについた。
母親は美登里が小学生の頃、美登里の担任の教師と深い関係となり、噂が広がったことから狭い土地に居られず家を出た。
妻子が居た教師は学校を辞め、千葉の勝浦の実家へ帰った。
母親は2年後、家に戻ってきたが再び姿を消すように居なくなる。
美登里は子ども心に、母親が何か精神を病んでいるようにも見えた。
母親は化粧も濃く相変わらず派手な姿であったが、深く憎んでいたその姿が美登里にはとても哀れに想われたのだ。
美登里は性格が父親似で穏やかであり、ほとんど人と喧嘩をした記憶がない。
高校卒業後の進路をどうするか?
地元で働くか都会へ出るか迷っていたが、会社勤めに何か抵抗があった。
組織に馴染めないと思われたのであるが、結局、美登里は高校を卒業すると、東京へ出ることにした。
父親の弟が、東京の神保町で美術専門の古本屋を営んでいたので、美術に興味があった美登里は叔父の勧めるままに、その店で働くことにした。
19歳の時、美登里は区役所で働いていた徹と出会ったのである。
九段会館の屋上のビアホールで夏だけアルバイトをしていた。
徹は客として区役所の同僚ち3人とビールを飲みに来ていた。
ある夜、美登里は帰りの電車の中で偶然、徹と隣合わせに座っていたのだ。
美登里の視線を感じた徹が、本から目を美登里に転じた。
「ああ、偶然だね。君は九段会館で働いていたよね?」
「ハイ」
美登里は相手の爽やかな笑顔に戸惑い、恥じらいで頬を赤らめた。
それまで男性と交際した経験がなかったのだ。
「ここで、偶然会ったのも何かの縁。今度の日曜日、上野の二科展へ行かない? 僕の友だちが作品を出展しているのだ」
「二科展ですか?」
想わぬ誘いであった。
「行こうよ。今度の日曜日午後1時、東京都美術館の入り口で待ち合わせよう。待っているからね」
下北沢駅で電車が停車したので徹は立ちあがった。
人波に押し流されるように徹は降りて行く。
2012年2 月22日 (水曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 2
宗教とは、何であるのか?
美登里は、ある日突然、同じアパートに住むその人の訪問を受けた。
何時もその人は爽やかな親しみを込めた笑顔で、元気な張りのある明るい声で挨拶をしていた。
美登里はどのような人なのか、と気にもしていた。
「私は、佐々木敏子です。よろしお願いします」と丁寧に頭を下げるので、美登里も挨拶を返した。
その人とは、毎日のように顔を合わせていたが、訪問を受けるとは思っていなかったので、戸惑いを隠せなかった。
「お部屋にあがらせていただいて、いいかしら?」
その申し出に、嫌とも言えない雰囲気であった。
部屋は幸い片付いていた。
「部屋を綺麗にしているのね」相手は部屋を見回して、笑顔を見せた。
美登里はお茶でも出そうかと台所へ向かおうとしたが、その気配を感じて相手は、「突然で、迷惑でしょ。構わないでください」と制するように言う。
美登里は1枚しかない座布団を出した。
相手はその座布団に座りながら、「お仕事は、どうですか?」と聞く。
「まあまあです」としか答えようがなかった。
「あなたは、幸せですか?」真顔で聞かれたので戸惑いを覚えた。
沈黙するしかない。
美登里は、自分が幸せかどうかを真剣に考えてたことがなかった。
「幸せとは、何だろう?」沈黙しながら、美登里は頭を巡らせた。
気押されるような沈黙の時間が流れた。
相手は美登里をじっと見つめていたのだ。
「私たちと一緒に、美登里さん幸せになりませんか?」
佐々木敏子は結論を言えば、宗教の勧誘のために訪問してきたのだ。
「明日の日曜日、どうでしょうか? 時間があればお誘いします。私たちの集まりに出ませんか?」
美登里は、徹から「二科展へ行かないか」と誘われていた。
「明日は、用事があります」と断った。
「残念ね。それではまた、お誘いするわ。是非、集まりに来てくださいね」
その時の敏子はあっさりした性格のように想われた。
そして、小冊子を2冊置いて行く。
小冊子を開くと聖書の言葉が随所に記されていた。
2012年2 月23日 (木曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 3
人の才能は、千差万別である。
運動能力であったり、学問の分野であったり、芸術の分野であったり。
美登里は、自分にはどのような能力があるのだろうかと想ってみた。
父親は地元の農業高校を出て農協の職員となった。
母親は? 美登里は母についてどういう経歴なのかほとんど知らない。
イメージとしては、厚化粧で派手な服装で、地元でも浮き上がっているような異質な雰囲気をもった女性であった。
だが、声は優しい響きで甘い感じがした。
体はやせ形の父とは対照的に豊満である。
歌が上手であり、よく歌ってくれた子守唄は今でも美登里の記憶に残っていた。
美登里は美術に興味があったが、絵が描けるわけではなかった。
美登里が勤める美術専門の古本店には、美術愛好家や美術専門家などが来店していたが、特別な出会いがあったわけではない。
美登里は午後1時に東京都美術館の前で待ち合わせをしたので、15分前に着いた。
すでに多くの人たちが来ていた。
二科会はその趣旨によると「新しい価値の創造」に向かって不断の発展を期す会である。
つまり、常に新傾向の作家を吸収し、多くの誇るべき芸術家を輩出してきたのだ。
絵画部、彫刻部、デザイン部、写真部からなる。
概要によると、「春には造形上の実験的創造にいどんで春期展を行い、秋には熟成度の高い制作発表の場とする二科展を開催しようとするものであります」とある。
美登里が、徹と行ったのは秋期展だった。
徹は美登里より、5分後にやってきた。
スニーカーを履き、上下ジーンズ姿である。
「晴れてよかったね」と徹は笑顔で言う。
美登里は徹の歯並びがいいことに気づく。
夜半から降っていた秋雨は午前10時ごろ上がり、青空が広がってきてきた。
上野公園の銀杏は、鮮やかな黄色に染まっていた。
2人は初めに徹の友人の作品が展示されている彫刻展を見た。
裸体像のなかに、バレリーナ―の彫刻がった。
「これだ」と徹は立ち止まった。
その彫刻は等身大と思われた。
つま先立ちであるから、細く長い足が強調されていた。
乳房はお椀のように丸く突き出ている。
手は大きく広げられていて躍動感を感じさせた。
「いいんじない」と徹は美登里を振り返った。
美登里は頬えみ肯いた。
2012年2 月25日 (土曜日)
創作欄 美登里の青春 続編 4
徹は二科展をじっくり見たわけではない。
60点ほどの彫刻展を見てから絵画展を見た。
それからデザイン展と写真展は流すような足取りで見て回った。
東京都美術館を出ると秋の日差しはまだ高かった。
「不忍池でボートに乗ろうか?」と徹が言う。
「ボートですか?」美登里はボートに乗った経験がなかった。
東叡山寛永寺弁天堂方面へ向かう。
細い参道の両側には、露天商の店が並んでいた。
「何か食べる?」と問いかけながら徹は店を覗く。
西洋人の観光客と思われる若い男女が笑いあいながら綿菓子を食べていた。
小学生の頃、美登里は夏祭りで父と綿菓子を食べたことを思い出した。
徹は美登利を振り返り、「綿菓子も懐かしい味がしそうだね」と微笑む。
夏には大きな緑の葉の間に鮮やかなピンクの花さかせる池の蓮は枯れかけていた。
ボート場には、ローボート、サイクルボート、スワンボートがあった。
「どれに乗る?」と徹は振り返った。
一番、ボートらしいローボートを美登里は選んだ。
美登里はこの日、緑色のジーパンを履いていた。
ボートが転覆することないと思ったが、まさかの時を思ってスカートでなくてよかったとボートが池を滑り出すと思った。
徹がロールを器用に漕ぐので、大きな水しぶきは飛び散らない。
ピンク色のスワンボートとすれ違った。
高校生らしい男女が横に並んで足で笑い合いながらボートを漕いでいた。
美登里は県立の女子高校だったので、男性と交際する機会がなかった。
「楽しそうだね」徹は微笑んだ。
美登里は振り返りながら肯いた。
「タバコ吸っていいかな?」
美登里は黙って肯いた。
「実は大学の卒論は、森鴎外だった。小説『雁』読んだことある?」
「ありません」
美登里は青森県人なので太宰治が好きであった。
それから同じ東北人として宮沢賢治の本も読んでいた。
高校生の時、短歌もやっていたので石川啄木にも惹かれていた。
そして、東北人として最も身近に感じたのが寺山修司だった。
美登里にとって羨ましいほどの多彩な人であった。
「僕の職業は寺山修司です」
「そんなことが言えるんだ」 美登里はかっこいい男だと惚れ込んだ。
徹は暫く、思いを巡らせているように沈黙しながらタバコを吸っていた。
「小説の雁のなかに、この不忍池が出てくる。話は遠い明治の昔のことだけどね」
徹はタバコの煙を池の岸の方へ吹き出した。
タバコの煙が輪になって池に漂った。
ボートを降りると徹は、無縁坂へ美登里を案内した。
「ここが三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の岩崎邸だった。この坂の左側に、昔は小説の中に出てくるような格子戸の古風な民家が並んでいたんだ」
徹が学生時代にはそれらの家々がまだ残されていた。
高い煉瓦造りの塀を背にして、徹は手振り身振りで説明した。
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<小説の雁の概要>
1880年(明治13年)高利貸しの妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも、結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
女性のはかない心理描写を描いた作品である。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
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<参考>
寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日~1983年5月4日)は、日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。

信じ切る

2016年08月23日 02時43分39秒 | 医科・歯科・介護
★不可能を可能にする。
★個人の能力を超える。
★日常と非日常が交錯する。
★一発、逆転。
★何かに賭ける。
★何かに徹する。
★自然の脅威に遭遇する。
★想わぬ事故に遭う。
★何かに感動する。
★挫折する。
★立ち直る。
★運命を感じる。
★自然治癒力。
★復元力。
★肯定する。
★否定する。
★立ち止まる。
★前進する。
★後悔する。
★学び成長する。
★幸福・平和
★生きる喜び。
★感謝の気持ち。
★慈悲。
★信じ切る。