2012年7 月13日 (金曜日)
「朝の散歩の後は、私はお風呂に入っているの。どうぞ芳子さんも汗を流してください」
紀子は朝食の支度をしながら芳子に入浴を勧めた。
「何もかも、本当にありがとうございます」芳子は好意に甘えた。
紀子は一期一会の実践者であった。
一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざである。
『あなたとこうして出会っている この時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切 に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』
無私の心の発露である。
あるいは、「可愛い子には旅をさせろ」ということわざがある。
子供がかわいいなら、甘やかさないで世間に出して苦労をさせたほうがよいということであり、そろそろ突き放して自立させよと親に諭したのである。
広島への旅で、世間知らずの自分が少しは成長できるだろうか、寝台列車のベットに横たわり芳子は想ってみた。
芳野教授は、百聞は一見にしかずを分かりやすく説明していた。
「100冊の書物を読むことよりも1回の旅行に勝るものはない」
芳子は広島駅に降り立った時に、芳野教授の言葉を実感した。
戦後、18年、広島が信じがたいほど蘇っているように見えた。
原爆の痕跡を留めているものはどこにあるのだろうか?
芳子は早朝の駅前でどちらへ向くべきかに迷っていた。
そして、紀子と偶然に広島駅前で出会い、自宅にまで招かれていた。
湯船に浸かりながら、人の温かみ感謝しながら「広島へ来てよかった」と芳子は思った。
紀子は左のこめかみから頬にかけて10㎝ほどの火傷を負っていた。
火傷は左の腕や胸、足にも負っていた。
歯茎から血が出たり、髪の毛抜けた時期もあったが、その後、体に変調はないことは幸運であった。
風呂から上がった紀子は胸のケロイドを芳子に見せた。
被爆体験証言者としの紀子の姿は鮮烈であった。
原爆投下の当日、投下直後の広島において、実際に自分が見たこと、経験したこと、被害のありさまを、「原爆の生き証人」である被爆者が肉声で語る証言には、圧倒的な迫力と重みがあり、核兵器の使用が人類に何をもたらしたかという事実を聞く人の心に強く訴える力があった。
2012年7 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 25
「あなたは、先ほどの寝台列車で到着をしたのですね。お疲れでしょう。家(うち)へ寄って休んで行きませんか?」
被曝「語り部」の佐々木紀子は、旅行者を度々自宅に招いていたので、芳子にも声をかけた。
「私がお宅へ伺ってもいいのでしょうか?」
芳子は思わぬ誘いを受けて瞳を大きく見開きながら微笑んだ。
「遠慮なくどうぞ、少し歩きますが」
紀子は朝の散歩を兼ねた清掃を終えるところであり、塵取りと竹箒を手にしながら歩き出した。
南区的場2丁目の段原小学校の傍に、佐々木紀子の自宅があった。
平屋で竹垣に囲まれた家であった。
庭は100坪ほどであっただろうか、木戸を開けると左に小さなお稲荷さんがあった。
ひょうたん型の池もがあり、傍らに百合の花が咲いていた。
ピンク色の百合には華やかさがあり、芳子が一番好きな花であった。
桜の木が庭の隅に2本見えた。玄関の脇のクチナシの花は枯れかけていたが、まだ強い香を放っていた。
芳子の実家の玄関の脇にもクチナシの花があった。
石灯篭の向こう側に夾竹桃も咲いていた。
濡れ縁の上の軒先で風鈴の音が軽やかに鳴っていた。
「芳子さん、小さな家ですが、どうぞあがってください」紀子は頬笑みかけた。
ドアを開けると玄関の正面の壁に原爆ドームの油絵が掲げられていた。
芳子がそれに目を注ぐと紀子は笑顔となった。
「この絵は主人が趣味で描いたものです。主人は転勤で今、岡山へ行っています。
ですから、私1人です。息子は結婚して今は倉敷に住んでいます」
居間は、和室の6畳であった。
6畳の洋間、6畳の寝室、4畳半の息子が住んでいた部屋4間の取りであった。
紀子はお湯を沸かし、日本茶を出した。
茶菓子にようかんを添えた。
「広島は初めてですね」
「そうです」
道すがら芳子は群馬県の沼田市出身であることや現在、東京の中野区に住んでいて早稲田大学の教授の秘書をしていることを告げていた。
「あなたは昭和16年生まれなのね。娘を原爆で失っているので、若い女性を見る度に娘が生きていたらと思うのね」紀子は眼を潤ませた。
幸せな子になってほしいと「幸子」と名付けたのは夫であった。
紀子は芳子を洋間に案内して、娘の幸子の写真を見せた。
出窓の白いレースの置物の上に小さな額があり、16歳であった幸子の微笑んでいる写真があった。
勤労奉仕へ行く前の朝、父親の茂がカメラに収めた写真であった。
その当時の一般的な服装であるかすり模様のモンペ姿であった。
勤労奉仕へ行く前の朝、父親の茂がカメラに収めた写真であった。
その当時の一般的な服装であるかすり模様のモンペ姿であった。
「芳子さんほど美しくはないけれど、幸子は綺麗でしょ」
「幸子さんは綺麗な娘さんだったのですね」
16歳で人生を閉ざするは、何と理不尽なのだ。
芳子にも辛い過去があったが、生きていることの幸運を思った。
庭から見えた段原小学校は明治30年の創立である。
昭和20年4月 学童は集団疎開をした。
比婆郡山内西村・山内東村・口南村に分散して職員15名と児童339名が疎開をした。
20年8月6日の原子爆弾投下により校舎は倒壊し焼失した。
犠牲者は職員3名、児童18名であった。
33年に創立60周年を迎え式典、並びに講堂落成式が挙行された。
28年に鉄筋校舎9教室が落成したので今年で10年目だった。
被曝「語り部」の紀子は、歴史の証言者として昭和20年の学校と学童たちについても調べていた。
2012年7 月 9日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 24
芳野教授から、平和記念公園への道順を教わっていたが、広島駅前で掃除をしている人に声をかけた。
「ご苦労さまです」と芳子は背後から声をかけた。
腰を屈めてゴミを拾う女性は、60代と思われた。
頭を手拭いで覆っていた。
振り向いたその人の顔にはケロイドの痕が残っていた。
芳子の様子を見ながら、「お早うございます。旅行ですね」と相手は微笑みかけた。
芳子は肯きながら、その人を心の優しい人だと感じた。
「平和記念公園へ行きたいのですが」
「バスなら吉島方面行きに乗って、平和記念公園前で降りてください。市内電車なら、紙屋町経由広島港行きに乗って、中電前で降りてください。宮島行なら原爆ドーム前で降りてください」
芳子はこの人は単なる清掃をしている人ではなく、旅行案内の仕事にも従事している人ではないかと思った。
後で知ったのであるが、その人は被曝体験を語る「語り部」の1人であった。
被曝「語り部」の佐々木紀子は38歳の時に、広島駅のそばで被爆した。
爆心地から500メートルで勤労奉仕作業をして娘は被曝した。
娘の幸子の背中はズルズルに焼けただれ、やっと自宅どりついた。
当時は薬も包帯、ガーゼもなく、シーツや浴衣を裂いて、ジュグジュグと体液が出てくる傷をふく。
それくらいしか出来なかった。
そして傷が化膿し、そこにハエがたかり、卵を産みつけ、ウジとなり、体中が白くなるくらい這い廻る。
娘の幸子は痛い、痛いと呻いていたが、その声もだんだん小さくなり、結局、虚しきも死でしまった。
その亡くなった幸子を戸板に寝かせ、廃材を組んだ上に乗せ焼いた。
紀子の火傷は、その日8月6日の午後から赤く水ぶくれが始まった。
一方、夫の仕事場の銀行は灰燼に帰した。
自宅は幸い火の手からは救われたものの、崩壊寸前だった、
水道は壊滅、食べ物を売る店もない、生活基盤が全てない状態だった。
そこで夫の父の両親の住む東京に非難することに決心した。
東京には、自宅にいた10歳の息子とともに8月11日乞食一家に等しい姿で広島を脱出をした。
その後、紀子は東京でその年の11月末まで火傷に生死の境をさまよったが、幸いにも12月になり回復した。
あの日、紀子は市内電車の車掌として広島駅から広島港へ向かうはずであった。
2012年7 月 6日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 23
広島に興味をもった芳子は、何時かは広島へ行こうと思った。
1962年(昭和37年)6月に、山陽本線は広島駅まで電化が完成された。
急行「宮島」は東京駅 - 広島駅間(山陽本線経由に変更)運転となる。
それまでの、急行「安芸」は、東京駅 - 広島駅間は呉線経由であった。
そして1963年(昭和38年)熊本行きの「みずほ」はブルートレイン化した。
運転区間は東京~熊本・大分間となった.
大阪までなら、2等料金は1980円であった。
家賃を月に6000円を払っている芳子は、広島行きは経済的にとても無理だと思った。
ところが、芳野教授が旅費を出してくれることとなった。
「私は学会もあるので、広島へは帰れないが、大学は夏休みです。是非、広島を見てきなさい。何かを感じることがあるでしょう。平和の原点となる被爆地広島ですからね」
芳子は芳野教授の好意に甘える気持ちとなった。
熊本行き寝台特急「みずほ」は東京駅を18時20分に発車した。
寝台列車で芳子は時々目を覚ましたので、寝不足であった。
初めは、大垣駅、そして、京都駅、大阪駅、神戸駅、岡山駅、到着するたびに車内放送に耳を傾けていた。
夏なので、午前4時ころから外は白み出していた。
芳子の席は3段ベッドの1番下であったので、上で眠る乗客の気配にも時折目を覚ました。
誰かの寝ごとや鼾も聞こえてきた。
「これが、寝台列車の旅なのね」
芳子は手枕をしながら、左右の上のベッドの気配に耳を傾けた。
真上のベッドには30代と想われる女性と60代であろうか白髪頭の女性が寝ていた。
母親と想われるその女性が何度かトイレに行った。
「すいませね。起こしてしまって」
梯子に手をかけながら女性は芳子に頭を下げた。
「気になりませんよ」
芳子は微笑んで首をふった。
豆電球が灯る車内が明るんできていた。
広島駅まで892.1㌔、翌朝、午前6時28分、ブルートレイン「みずほ」は定刻どおり広島駅に到着した。
2012年7 月 5日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 22
東京・中野区中央、芳子が芳野教授の世話で住んだのは、中野区のほぼ中央部に位置する中央5丁目であった。
いわゆる、木賃ベルト地帯の一角でもあり、一戸建ての住宅や木造・モルタルのアパートも多く見られた。
昭和38年の当時も一人暮らしをしている若年層の多い町であった。
幹が太く葉が茂った大きな桜の木を見上げては、芳子の気持ちをほっとさせた。
その4本の桜が隅に植えてある敷地内に、2棟の平屋のアパートが南向きに建っていた
6畳間の部屋の脇の板の間に小さな台所が付いていた。
家賃は6000円であった。
トイレは共同、風呂がないので、芳子は神田川に近い銭湯へ行っていた。
芳子がアパートへ越して来た日に、玄関で親し気に挨拶をした真田雪子が銭湯へ案内をしてくれた。
「私は、広島出身なの。体内被曝をしたけれど、何でもなくてこうしていられるのはとても幸せ」
「そうですか」
芳子は芳野教授の奥さんとお子さん、そして両親が広島に投下され原子爆弾で亡くなっている話を聞いていたので、改めて雪子の顔を見直した。
体内被曝とはどのようなことなのか?と想ってみた。
芳子は昭和16年生まれで、雪子は昭和20年生まれであったが、体が大きい雪子は同年代のように見えた。
雪子は地元の信用金庫に勤めていた。
地域内を中野通りと山手通りが縦貫しており、山手通り沿いに雪子が勤めている信用金庫
があった。
銭湯の帰りには、中野通り沿いの小さな食堂へ寄ってシロップのかき氷を食べた。
雪子は浴衣姿で、赤い鼻緒の下駄を履いていた。
芳子は雪子と親しくなれたことを心から喜んだ。
「黒い雨、知っている?」
雪子はスプーンを口に運びながら聞く。
「知らないわ」
「私の従姉が黒い雨を浴びて、小学校6年生の時、白血病で亡くなっているの」
目をテーブルに伏せた雪子の目が潤んできた。
芳子は何も知らないので、相手の悲しみを受けとめようがなかった。
----------------------------
<参考>
黒い雨とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
『黒い雨』は、井伏鱒二の小説である。
新潮社の雑誌「新潮」で1965年1月号より同年9月号まで連載され、1966年に新潮社より刊行された。
連載当初は『姪の結婚』という題名であったが、連載途中で『黒い雨』に改題された。
1966年に第19回野間文芸賞を受賞した。
2012年6 月23日 (土曜日)
創作欄 芳子の青春 21
「アメリカの原爆投下は、人体実験だったんです」
芳子は芳野教授の言葉に唖然とした。
戦後18年目の終戦記念日の日であった。
天皇陛下の「終戦詔勅」に以下の昭和天皇の公式見解がある。
「敵は残虐なる爆弾を使って無辜の国民を大量に殺した。このままでは日本国民だけでなく、人類の滅亡に向かう。だから日本は降伏する」
アメリカはウラン型とプルトニウム型の原爆を日本国土に投下したが、その隠された理由は人体実験であった。
芳野教授は故郷の実家でる広島市内に妻と4歳の娘を疎開させていた。
そして父母とともに4人を原爆で失っていた。
戦後の東京は完全に廃墟と化していた。
その渦中で芳野は深い喪失感と絶望から生き地獄に突き落とされ、呆然自若となった。
それまでの全ての価値観が顛倒してしまった。
言い知れぬ絶望から立ち上がれたのは、信仰に導かれたからであった。
「芳子さんも信仰を持つべきです」
芳野教授は、書棚から聖書を取り出すと芳子に渡した。
大学は休みであったが、日本機械学会が開かれるため芳野教授は講演抄録をまとめていた。
芳子は教授秘書として事務面での補佐をしていた。
--------------
<参考>
アメリカ軍の人体実験だった広島・長崎の原爆投下
「後悔に1分たりとも時間を費やすな」は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。
難しい決断だったかと聞かれ「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと
鳴らした。
第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。
「朝の散歩の後は、私はお風呂に入っているの。どうぞ芳子さんも汗を流してください」
紀子は朝食の支度をしながら芳子に入浴を勧めた。
「何もかも、本当にありがとうございます」芳子は好意に甘えた。
紀子は一期一会の実践者であった。
一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざである。
『あなたとこうして出会っている この時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切 に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』
無私の心の発露である。
あるいは、「可愛い子には旅をさせろ」ということわざがある。
子供がかわいいなら、甘やかさないで世間に出して苦労をさせたほうがよいということであり、そろそろ突き放して自立させよと親に諭したのである。
広島への旅で、世間知らずの自分が少しは成長できるだろうか、寝台列車のベットに横たわり芳子は想ってみた。
芳野教授は、百聞は一見にしかずを分かりやすく説明していた。
「100冊の書物を読むことよりも1回の旅行に勝るものはない」
芳子は広島駅に降り立った時に、芳野教授の言葉を実感した。
戦後、18年、広島が信じがたいほど蘇っているように見えた。
原爆の痕跡を留めているものはどこにあるのだろうか?
芳子は早朝の駅前でどちらへ向くべきかに迷っていた。
そして、紀子と偶然に広島駅前で出会い、自宅にまで招かれていた。
湯船に浸かりながら、人の温かみ感謝しながら「広島へ来てよかった」と芳子は思った。
紀子は左のこめかみから頬にかけて10㎝ほどの火傷を負っていた。
火傷は左の腕や胸、足にも負っていた。
歯茎から血が出たり、髪の毛抜けた時期もあったが、その後、体に変調はないことは幸運であった。
風呂から上がった紀子は胸のケロイドを芳子に見せた。
被爆体験証言者としの紀子の姿は鮮烈であった。
原爆投下の当日、投下直後の広島において、実際に自分が見たこと、経験したこと、被害のありさまを、「原爆の生き証人」である被爆者が肉声で語る証言には、圧倒的な迫力と重みがあり、核兵器の使用が人類に何をもたらしたかという事実を聞く人の心に強く訴える力があった。
2012年7 月12日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 25
「あなたは、先ほどの寝台列車で到着をしたのですね。お疲れでしょう。家(うち)へ寄って休んで行きませんか?」
被曝「語り部」の佐々木紀子は、旅行者を度々自宅に招いていたので、芳子にも声をかけた。
「私がお宅へ伺ってもいいのでしょうか?」
芳子は思わぬ誘いを受けて瞳を大きく見開きながら微笑んだ。
「遠慮なくどうぞ、少し歩きますが」
紀子は朝の散歩を兼ねた清掃を終えるところであり、塵取りと竹箒を手にしながら歩き出した。
南区的場2丁目の段原小学校の傍に、佐々木紀子の自宅があった。
平屋で竹垣に囲まれた家であった。
庭は100坪ほどであっただろうか、木戸を開けると左に小さなお稲荷さんがあった。
ひょうたん型の池もがあり、傍らに百合の花が咲いていた。
ピンク色の百合には華やかさがあり、芳子が一番好きな花であった。
桜の木が庭の隅に2本見えた。玄関の脇のクチナシの花は枯れかけていたが、まだ強い香を放っていた。
芳子の実家の玄関の脇にもクチナシの花があった。
石灯篭の向こう側に夾竹桃も咲いていた。
濡れ縁の上の軒先で風鈴の音が軽やかに鳴っていた。
「芳子さん、小さな家ですが、どうぞあがってください」紀子は頬笑みかけた。
ドアを開けると玄関の正面の壁に原爆ドームの油絵が掲げられていた。
芳子がそれに目を注ぐと紀子は笑顔となった。
「この絵は主人が趣味で描いたものです。主人は転勤で今、岡山へ行っています。
ですから、私1人です。息子は結婚して今は倉敷に住んでいます」
居間は、和室の6畳であった。
6畳の洋間、6畳の寝室、4畳半の息子が住んでいた部屋4間の取りであった。
紀子はお湯を沸かし、日本茶を出した。
茶菓子にようかんを添えた。
「広島は初めてですね」
「そうです」
道すがら芳子は群馬県の沼田市出身であることや現在、東京の中野区に住んでいて早稲田大学の教授の秘書をしていることを告げていた。
「あなたは昭和16年生まれなのね。娘を原爆で失っているので、若い女性を見る度に娘が生きていたらと思うのね」紀子は眼を潤ませた。
幸せな子になってほしいと「幸子」と名付けたのは夫であった。
紀子は芳子を洋間に案内して、娘の幸子の写真を見せた。
出窓の白いレースの置物の上に小さな額があり、16歳であった幸子の微笑んでいる写真があった。
勤労奉仕へ行く前の朝、父親の茂がカメラに収めた写真であった。
その当時の一般的な服装であるかすり模様のモンペ姿であった。
勤労奉仕へ行く前の朝、父親の茂がカメラに収めた写真であった。
その当時の一般的な服装であるかすり模様のモンペ姿であった。
「芳子さんほど美しくはないけれど、幸子は綺麗でしょ」
「幸子さんは綺麗な娘さんだったのですね」
16歳で人生を閉ざするは、何と理不尽なのだ。
芳子にも辛い過去があったが、生きていることの幸運を思った。
庭から見えた段原小学校は明治30年の創立である。
昭和20年4月 学童は集団疎開をした。
比婆郡山内西村・山内東村・口南村に分散して職員15名と児童339名が疎開をした。
20年8月6日の原子爆弾投下により校舎は倒壊し焼失した。
犠牲者は職員3名、児童18名であった。
33年に創立60周年を迎え式典、並びに講堂落成式が挙行された。
28年に鉄筋校舎9教室が落成したので今年で10年目だった。
被曝「語り部」の紀子は、歴史の証言者として昭和20年の学校と学童たちについても調べていた。
2012年7 月 9日 (月曜日)
創作欄 芳子の青春 24
芳野教授から、平和記念公園への道順を教わっていたが、広島駅前で掃除をしている人に声をかけた。
「ご苦労さまです」と芳子は背後から声をかけた。
腰を屈めてゴミを拾う女性は、60代と思われた。
頭を手拭いで覆っていた。
振り向いたその人の顔にはケロイドの痕が残っていた。
芳子の様子を見ながら、「お早うございます。旅行ですね」と相手は微笑みかけた。
芳子は肯きながら、その人を心の優しい人だと感じた。
「平和記念公園へ行きたいのですが」
「バスなら吉島方面行きに乗って、平和記念公園前で降りてください。市内電車なら、紙屋町経由広島港行きに乗って、中電前で降りてください。宮島行なら原爆ドーム前で降りてください」
芳子はこの人は単なる清掃をしている人ではなく、旅行案内の仕事にも従事している人ではないかと思った。
後で知ったのであるが、その人は被曝体験を語る「語り部」の1人であった。
被曝「語り部」の佐々木紀子は38歳の時に、広島駅のそばで被爆した。
爆心地から500メートルで勤労奉仕作業をして娘は被曝した。
娘の幸子の背中はズルズルに焼けただれ、やっと自宅どりついた。
当時は薬も包帯、ガーゼもなく、シーツや浴衣を裂いて、ジュグジュグと体液が出てくる傷をふく。
それくらいしか出来なかった。
そして傷が化膿し、そこにハエがたかり、卵を産みつけ、ウジとなり、体中が白くなるくらい這い廻る。
娘の幸子は痛い、痛いと呻いていたが、その声もだんだん小さくなり、結局、虚しきも死でしまった。
その亡くなった幸子を戸板に寝かせ、廃材を組んだ上に乗せ焼いた。
紀子の火傷は、その日8月6日の午後から赤く水ぶくれが始まった。
一方、夫の仕事場の銀行は灰燼に帰した。
自宅は幸い火の手からは救われたものの、崩壊寸前だった、
水道は壊滅、食べ物を売る店もない、生活基盤が全てない状態だった。
そこで夫の父の両親の住む東京に非難することに決心した。
東京には、自宅にいた10歳の息子とともに8月11日乞食一家に等しい姿で広島を脱出をした。
その後、紀子は東京でその年の11月末まで火傷に生死の境をさまよったが、幸いにも12月になり回復した。
あの日、紀子は市内電車の車掌として広島駅から広島港へ向かうはずであった。
2012年7 月 6日 (金曜日)
創作欄 芳子の青春 23
広島に興味をもった芳子は、何時かは広島へ行こうと思った。
1962年(昭和37年)6月に、山陽本線は広島駅まで電化が完成された。
急行「宮島」は東京駅 - 広島駅間(山陽本線経由に変更)運転となる。
それまでの、急行「安芸」は、東京駅 - 広島駅間は呉線経由であった。
そして1963年(昭和38年)熊本行きの「みずほ」はブルートレイン化した。
運転区間は東京~熊本・大分間となった.
大阪までなら、2等料金は1980円であった。
家賃を月に6000円を払っている芳子は、広島行きは経済的にとても無理だと思った。
ところが、芳野教授が旅費を出してくれることとなった。
「私は学会もあるので、広島へは帰れないが、大学は夏休みです。是非、広島を見てきなさい。何かを感じることがあるでしょう。平和の原点となる被爆地広島ですからね」
芳子は芳野教授の好意に甘える気持ちとなった。
熊本行き寝台特急「みずほ」は東京駅を18時20分に発車した。
寝台列車で芳子は時々目を覚ましたので、寝不足であった。
初めは、大垣駅、そして、京都駅、大阪駅、神戸駅、岡山駅、到着するたびに車内放送に耳を傾けていた。
夏なので、午前4時ころから外は白み出していた。
芳子の席は3段ベッドの1番下であったので、上で眠る乗客の気配にも時折目を覚ました。
誰かの寝ごとや鼾も聞こえてきた。
「これが、寝台列車の旅なのね」
芳子は手枕をしながら、左右の上のベッドの気配に耳を傾けた。
真上のベッドには30代と想われる女性と60代であろうか白髪頭の女性が寝ていた。
母親と想われるその女性が何度かトイレに行った。
「すいませね。起こしてしまって」
梯子に手をかけながら女性は芳子に頭を下げた。
「気になりませんよ」
芳子は微笑んで首をふった。
豆電球が灯る車内が明るんできていた。
広島駅まで892.1㌔、翌朝、午前6時28分、ブルートレイン「みずほ」は定刻どおり広島駅に到着した。
2012年7 月 5日 (木曜日)
創作欄 芳子の青春 22
東京・中野区中央、芳子が芳野教授の世話で住んだのは、中野区のほぼ中央部に位置する中央5丁目であった。
いわゆる、木賃ベルト地帯の一角でもあり、一戸建ての住宅や木造・モルタルのアパートも多く見られた。
昭和38年の当時も一人暮らしをしている若年層の多い町であった。
幹が太く葉が茂った大きな桜の木を見上げては、芳子の気持ちをほっとさせた。
その4本の桜が隅に植えてある敷地内に、2棟の平屋のアパートが南向きに建っていた
6畳間の部屋の脇の板の間に小さな台所が付いていた。
家賃は6000円であった。
トイレは共同、風呂がないので、芳子は神田川に近い銭湯へ行っていた。
芳子がアパートへ越して来た日に、玄関で親し気に挨拶をした真田雪子が銭湯へ案内をしてくれた。
「私は、広島出身なの。体内被曝をしたけれど、何でもなくてこうしていられるのはとても幸せ」
「そうですか」
芳子は芳野教授の奥さんとお子さん、そして両親が広島に投下され原子爆弾で亡くなっている話を聞いていたので、改めて雪子の顔を見直した。
体内被曝とはどのようなことなのか?と想ってみた。
芳子は昭和16年生まれで、雪子は昭和20年生まれであったが、体が大きい雪子は同年代のように見えた。
雪子は地元の信用金庫に勤めていた。
地域内を中野通りと山手通りが縦貫しており、山手通り沿いに雪子が勤めている信用金庫
があった。
銭湯の帰りには、中野通り沿いの小さな食堂へ寄ってシロップのかき氷を食べた。
雪子は浴衣姿で、赤い鼻緒の下駄を履いていた。
芳子は雪子と親しくなれたことを心から喜んだ。
「黒い雨、知っている?」
雪子はスプーンを口に運びながら聞く。
「知らないわ」
「私の従姉が黒い雨を浴びて、小学校6年生の時、白血病で亡くなっているの」
目をテーブルに伏せた雪子の目が潤んできた。
芳子は何も知らないので、相手の悲しみを受けとめようがなかった。
----------------------------
<参考>
黒い雨とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
『黒い雨』は、井伏鱒二の小説である。
新潮社の雑誌「新潮」で1965年1月号より同年9月号まで連載され、1966年に新潮社より刊行された。
連載当初は『姪の結婚』という題名であったが、連載途中で『黒い雨』に改題された。
1966年に第19回野間文芸賞を受賞した。
2012年6 月23日 (土曜日)
創作欄 芳子の青春 21
「アメリカの原爆投下は、人体実験だったんです」
芳子は芳野教授の言葉に唖然とした。
戦後18年目の終戦記念日の日であった。
天皇陛下の「終戦詔勅」に以下の昭和天皇の公式見解がある。
「敵は残虐なる爆弾を使って無辜の国民を大量に殺した。このままでは日本国民だけでなく、人類の滅亡に向かう。だから日本は降伏する」
アメリカはウラン型とプルトニウム型の原爆を日本国土に投下したが、その隠された理由は人体実験であった。
芳野教授は故郷の実家でる広島市内に妻と4歳の娘を疎開させていた。
そして父母とともに4人を原爆で失っていた。
戦後の東京は完全に廃墟と化していた。
その渦中で芳野は深い喪失感と絶望から生き地獄に突き落とされ、呆然自若となった。
それまでの全ての価値観が顛倒してしまった。
言い知れぬ絶望から立ち上がれたのは、信仰に導かれたからであった。
「芳子さんも信仰を持つべきです」
芳野教授は、書棚から聖書を取り出すと芳子に渡した。
大学は休みであったが、日本機械学会が開かれるため芳野教授は講演抄録をまとめていた。
芳子は教授秘書として事務面での補佐をしていた。
--------------
<参考>
アメリカ軍の人体実験だった広島・長崎の原爆投下
「後悔に1分たりとも時間を費やすな」は米大統領だったトルーマンの言葉だ。
実際、戦後何百回もたずねられた「原爆投下」について少しも後悔の念を見せなかった。
難しい決断だったかと聞かれ「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと
鳴らした。
第33代米国大統領、ハリー・S.トルーマンの逸話である。